2018年4月9日月曜日

【DVD感想】東京03『自己泥酔』


『自己泥酔』

東京03

内容(Amazon プライムビデオより)
2017年5月~9月に行われた「自己泥酔」全国ツアー(全11ヶ所、全27公演)の最終公演を収録。オール新作コント、映像ネタ、音楽が一体となった、東京03ならではの完成度の高い本編公演。 社長と部下が語り合う「自慢話の話」 / 「エリアリーダー」角田は部下を庇う理想の上司になれるのか? あの事件がコントになりました「トヨモトのアレ」 / 「ステーキハウスにて」声を荒げるクレーマーが思わぬ展開に…。 同僚の結婚報告を聞くために芝居を求められた飯塚は…「小芝居」/ 病室でアキコが婚約者サトシについた「悲しい嘘」 東京で経営者として成功している豊本が後悔していることを「謝ろうとした日」、友人2人は彼を受け入れるのか…。

第19回東京03単独公演「自己泥酔」をAmazonプライムビデオで鑑賞。
特典映像がないとはいえ、2時間近い公演を324円で観られるのはいいね。そうです、Amazonのまわしものです。

単純な笑いの量でいうともっともっと笑いをとる芸人はいるけど、コントとしての完成度でみると芸人・劇団含めて文句なく東京03はトップクラスだね。しかも年々クオリティが上がっていっているのがすごい。
このライブでは音楽も効果的に使われている。脚本・演者・音楽それぞれがハイレベルで、それらが組み合わさって途方もなく上質な空間を作りあげられているんだからただただ感心するばかり。


自慢話の話

IT会社の社長が飲み会の席で、すぐに自慢をはじめる社長ばかりで嫌になる、自分は自慢話は嫌いだ、と社員たちに語る。すると社員のひとりが「それって"自慢話しない"自慢ですよね」と言いだし……。
まず「同じITベンチャーの人間が集まるパーティーで……」という一言で自然かつ的確に状況を説明してしまう鮮やかさ。違和感なくすっとコントの世界に入らせてくれる。

「おれは他の社長とちがって自慢をしない」というのも自慢といえばそのとおりなんだが、このへりくつのような主張から「社長、固まってんじゃねーか」で笑いにつなげ、ただの理屈をこねくりまわす展開にせずに「生意気な後輩キャラ」で現実的な方向に着地させる。
大笑いするものではないけどワンアイデアを膨らませて複層的なコントに仕上がっている。


主題歌『自己泥酔で歌いたい』


角田氏による主題歌。
やたらポップな音楽に乗せてどこかで聞いたような歌詞を歌いあげている……と思ったら中盤の「自分に完全泥酔」でバッサリ。

愛と未来 自由と未来 光の先へただ進め
めぐり合い それは奇跡 広い世界で ようは奇跡
会いたくて 愛を叫び 鳴らないスマホに涙流し
I miss you 思い届け 結果どうあれ みんな踊ろう
現実を見ない 希望の啓示
自分に完全泥酔してなきゃ こんなの歌えない

マキタスポーツや岡崎体育がやっている「J-POPを皮肉った歌」と同系統だけど、ここで大きな笑いは狙いにいかずにあくまであっさりと。今や「J-POPあるあるを皮肉をこめて茶化す」すらもはやありがちな手法になってしまったからね。
音楽的にも笑い的にも、あくまで「コントライブのオープニング」に収まるちょうどいいサイズ感の曲。


エリアリーダー

部下が上司に叱責されているのを見たエリアリーダー、間に割って入り「悪いのは彼に仕事を任せた私。責任はすべて私にあります」と部下をかばう。ところが部下はエリアリーダーに感謝している様子がなく……。
こうなるだろうな、という観ている側の予想通りの展開だが、ちゃんと演技力で魅せてくれる。
「本当にぼくが悪いみたいに言ってくるんすよー」
「ちゃんと憧れろー」
など、エゴ丸出しの発言をくりかえすエリアリーダー。コミカルに描かれているけど、これは本心だよね。ぼくも部下の失敗をかばったことはあるけど、やっぱり「自分がよく思われたい」からであって、部下を助けるためではないもん。


(幕間映像)えりありーだー憧れられ四十八手


様々なシチュエーションで「部下に憧れられる方法」を紹介する映像。途中からエリアリーダーが弾丸を日本刀で真っ二つにするなど天才剣士であることが判明……。


トヨモトのアレ

不倫をしていることが社内中に知れわたり、さらに不倫相手に送ったLINEの内容を全社に知られてしまった豊本が落ちこんでいる。同僚の飯塚と角田がからかったり慰めたり叱咤激励したりするが、どうも角田の様子がおかしく……。
2017年3月に週刊誌報道で不倫が発覚した豊本氏。その一件を早速コントにしたのが本作。
「会社の受付嬢と不倫をしていた」という設定になっているが、その他の設定はほとんど事実のまんま。「LINEで『お尻なめたげる』と送った」などのインパクトのある設定も現実通り、なんだそうだ。

身内ウケを狙ったコントか、と思いきやそこで終わらせずに後半は「不倫を叱るふりをしながら手口を学ぼうとする同僚」に対してツッコミを入れることで不倫の一件を知らない人にも伝わるようにしているところがさすが。
そうそう、不倫をした人に対する世間のバッシングって「自分だけいい思いをしやがって許せない」っていう嫉妬心も混ざってるよね。少なくともぼくは「ちょっとうらやましい」って思ってるよ。


(幕間映像)トヨモトの反省


豊本と飯塚の会話を、昔のFLASHアニメのような小気味いいテンポで描くアニメーション。不倫行為を反省しているのかと思いきや「どうすれば世間に許してもらえるか」ばかり考えている豊本。その空想がどんどん飛躍していき……。


ステーキハウスにて

ステーキハウスで食事中の男がワインをこぼしてしまい、あわてて拭きにきた店員もワインの入ったデキャンタをこぼしてしまう。すると客は店長に対してクリーニング代、食事代、お食事券を要求しはじめる。ところが店員があることに気づき……。
「理不尽な因縁をつけるクレーマー」だけでも十分コントとして成立しているのに(「髪の毛全引っこ抜き」は笑った)、そこで終わらせずに「素性を知られてしまったクレーマーの葛藤」を描く後半につなげているのがすばらしい。
他人の目に映る自己の姿を意識して「たちの悪いクレーマー」と思われないように見苦しくあがくあまり、「たちの悪いクレーマーな上に"ええかっこしい"な人」に転落していく姿は滑稽を通りこして悲哀すら感じる。
利己心と虚栄心の間で揺れる心情がコミカルかつ丁寧に表現されていて、東京03のいいところが詰まったコントだった。


(幕間映像)MINIMUM REACTION GIRL『MMR』


ステーキハウスに来ていた客がプロデュースしたガールズユニットの曲。無駄に完成度が高い。


小芝居

こっそり社内恋愛していた角田と女上司の豊本が結婚することに。以前から角田の相談に乗っていた飯塚だが、角田から「知らなかったことにしてほしい」と頼まれて小芝居を打つことにする。ところがその芝居に角田が感動してしまい……。
東京03の魅力は練りこまれた脚本もさることながら(特に飯塚・角田両氏の)演技力の高さにもあると思うのだが、その飯塚氏の芝居のうまさが存分に発揮された傑作。
演技力が高くないと成立しないコント、という高いハードルを設定しておきながら、そのハードルを悠々と飛びこえている。観客の想定をはるかに上回る「意外な事実を聞かされて驚く演技」を披露して観客からの拍手をかっさらっていた。「芝居がうますぎて拍手が起こる」というのはすごい事態だよね。

全体的にハッピーな笑いがくりひろげられるコント……と思いきや背筋が凍るような衝撃のラスト。後味は悪いけど、個人的にはすごく好きなコント。


(幕間映像)劇団小芝居


「リアリティのある芝居」ではなく「わかりやすさのためにリアリティを排した小芝居」をする劇団の稽古を描いたアニメーション作品。
「なんで言えば伝わることを感じとってもらわなきゃいけないんだよ!」は安っぽいコントへの痛切な皮肉だね。
いまだに多いよね。「あー、付きあってる彼女から話があるっていってこんなところに呼びだされたけどいったいなんの話だろうな-」みたいな説明台詞から入るコント。
以前にも書いたけど、コントにおけるリアリティって軽視されがちだよね。自然さがないと笑えるものも笑えなくなるんだけどな。


悲しい嘘

入院中の彼女が「他に好きな人ができたから別れて」と言いだした。彼氏が当惑しながらも問いただしてみると、悪性の腫瘍が見つかったので余命が長くないことがわかる。何があっても支えてやると誓う彼氏だが……。
これも「こうなるだろうな」という予想通りの展開。そしてもうひと展開あるわけでもなくそのまま終わってしまうので拍子抜け。
「ただの本当」「腫瘍と好きな人どっちもできたってこと?」など、一部のフレーズはおもしろかったけどね。


(幕間映像)私、嘘をつきます


『悲しい嘘』の登場人物による歌。そしてライブ物販の宣伝。

謝ろうとした日

豊本の軽率な発言により絶縁状態になっている豊本と角田。豊本は共通の知人である飯塚に頼んで、角田に謝る場を用意してもらう。だが豊本の言動には誠意が感じられず、おまけに角田は来る途中にハプニングにまきこまれてはじめから不機嫌。さらに大事にしていたTシャツやタオルを勝手に使われたことで飯塚まで怒りだし……。
よくできたコント、なんだけど、うーん、予定調和的というか……。
構成作家のオークラ氏の脚本らしいが、いつものオークラコント、って感じなんだよな……。バナナマンのコントライブでも最後のコントはだいたいこんなパターン。いざこざが描かれ、伏線が丁寧に回収され、すべての問題は解決しないけど少しだけ前向きな未来が提示され、軽いメッセージとともに叙情的なラストを迎える、というパターン。パターンというほど形式化されてるわけじゃないんだけど、でも毎回「最後はちょっといい話」だと飽きてしまう。
東京03の魅力って小ずるさ、虚栄心、妬み、僻みといった「誰しもかかえる醜い部分」の心理描写だと思うんだけど、このコントはその部分が弱い。「都会で成功している豊本に対する角田の嫉妬」はあるんだけど、それってすごくわかりやすいものだしね。「自分もそれなりにやってきたという自負」とかをもう少し掘りさげてほしかったな。

ただ、終盤で安易に「許す」と言わずに
「すぐには許せそうにないけど、そうなれるようにがんばってみるよ」
という台詞を言わせるところはすごく感心した。そうだよなあ、何年も恨んでいた相手に頭を下げられて「許すよ」と言ったらそれは嘘だもんなあ。小手先の感動狙いではない、実感のこもった台詞だ。


エンディングテーマ



後半は少し失速気味だったものの、総じて高いレベルの安定感。
腹を抱えて笑うという感じではないが、おっさんたちの無理のない演技が続くので疲れることなく観ていられる。こちらもおっさんなので「異質なもの」をずっと観るのはしんどいのよね。
118分というコントライブとしてはかなりの長さだが、音楽ありアニメーションありで退屈させない。コントの質の高さはもちろんだが、全体的なパフォーマンスとして見ても完璧といっていい出来だね。


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バカリズムライブ『類』


2018年4月8日日曜日

四歳児としりとりをするときの覚書



四歳の娘としりとりをするときに考えていること。

ボキャブラリーを増やしたい


意図的に「娘が使わなさそうな言葉」で返すようにしている。
ただし物の名前をそのまま表す言葉は、それを見ないと理解しにくいのでなるべく使わない。たとえば「アリジゴク」「すだれ」などは、それを見せて説明するのがいちばん正確なので、しりとりでは教えない。というより、それを見たことない四歳児に説明するのは不可能に近い。

四歳児でも理解できそうな概念的な言葉をよく使うようにしている。物そのものの名前ではなく、物のグループの名前とか。
昨日のしりとりでは「交代」「下着」「昔」「植物」などを言った。案の定、娘が「どういう意味?」と訊いてきたので、「代わりばんこすること」「パンツとかシャツとか、服の下に着る服」などと説明した。


同じ言葉で攻める


しりとりをしていると、「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→「パンダ」→「ダチョウ」のように流れが定型化してしまうことがよくある。
なるべく新しい単語を身につけてもらいたいので、意図的に同じ文字で攻める。「また『に』か~」と言わせる。
脊髄反射的に返せなくすることで新しい単語を必死に探すだろうし、そうすることで自分の語彙として定着するのではないかと思うので。


ヒントを与える


ほとんどの親がやっていると思うが、娘が答えに詰まったときにはヒントをあげる。
「砂漠にいる背中にこぶのある動物」など。答えたときは大げさに褒めてあげる。


動詞や形容詞は禁止しない


通常のしりとりでは用言(動詞、形容詞、形容動詞、助詞など)は禁止だが、娘とのしりとりでは禁止はしていない。「名詞だけだよ」と言ってうまく説明できる自信がないので。
禁止しているわけではないけど、ぼくは使わない。そうすると娘も意外と言わないものだ。
動詞や形容詞の語彙も増やしたいけど、語尾の文字がほとんど同じだからしりとり向きじゃないんだよねー。


恐竜の名前は勘弁してくれ


とまあいろいろ考えながらやっているのだが、恐竜がすべてを台無しにしてしまう。

娘は今恐竜にはまっていて、子どもの記憶力ってすごいからあっという間に数十種類の恐竜の名前を覚えてしまった。
しりとりをしていても「アロサウルス」「タルボサウルス」「カスモサウルス」「ケラトサウルス」「ワンナノワウルス」「ニッポノサウルス」「アンキロサウルス」「アルゼンチノサウルス」など、すぐに恐竜の名前で返してくる。
で、今書いたようにほとんどの恐竜の名前は「ス」で終わっている。
「ス」で終わらないのはミンミとかマイアサウラとかごく一部だけだ(ぼくもだいぶ恐竜の名前を覚えた)。

せめてもの抵抗としてぼくも「スイス」「スライス」「スタンス」「スペース」など "す返し" をするのだが、それすらも「ステゴサウルス」「スピノサウルス」「スティラコサウルス」「スコミムス」などではじき返されてしまう。


ほんと、恐竜の名前を次々に言われると「絶滅しろ!」と叫びたくなる。


2018年4月7日土曜日

音の発信源を特定する能力


四歳の娘とかくれんぼをしているときに気づいたんだけど、どうやら四歳児は「音の聞こえてくる方向」がわかっていない。

「もういいよー」と大声で言っているのに、ぼくのいる場所とは反対方向を探しにいく。

大人だったらそんなことはない。正確な位置までわからなくても、右から聞こえてきた音を左からだと間違うことはない(音の反射とかあればまたべつだけど)。

まあ四歳児だからな、と思っていたけど、こないだ六歳の男の子とかくれんぼをしたらやはり音の発信源を特定できておらず、見当違いの方向を探しにいっていた。

「音を聴いてその発信源を探知する」という能力は、どうやら生得的には備わってないらしい。



ぼくが小学校三年生ぐらいのときに友だちとかくれんぼをした際は、
「『もういいよー』と言うとどこにいるのかわかってしまうから、鬼は百秒たったら探しにいくこと」
というルールを採用していたと記憶している。

つまり、九歳頃には音を聴いて発信源を探す能力はある程度身についており、かつそれが当然のこととして共有されていたということになる。

個人差もあるだろうが、だいたい七歳ぐらいで「音発信源探知能力」が身につくようだ。


……遅すぎね?

生物として、生きのびる上でかなり基本的な能力じゃない?

たとえばオオカミのうなり声が聞こえてきたとき、きょろきょろあたりを見回してオオカミの位置を確認しているようじゃ、もう遅い。

現代では野生の生物に襲われる危険性はかなり低いけど、自動車やバイクという凶暴な物体が走りまわっている。
クラクションを聞いたら反対方向に逃げようとするのは本能的なものかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。学習によって後天的に身につけないといけないもののようだ。

人間、初期スペック低すぎない?


2018年4月6日金曜日

巨乳を測るニュートン氏


いわし氏(@strike_iwashi)、花泥棒氏(@hanadorobou)と酒を呑みながら話していて、
「温度の『摂氏』『華氏』って、なんであんな漢字を書くんだ?」
という話になった。


で、Wikipediaを見てみるとどうやら
摂氏は、考案者のセルシウスさんを中国語で「摂爾修斯」と表記するから、
華氏は、考案者のファーレンハイトさんを中国語で「華倫海特」と表記するから、
だそうだ。
つまり「摂氏」とは「セルシウス氏」ということらしい。

この表記はおもしろい。
人名に由来する単位は他にもたくさんある。たとえば力の大きさを表す「ニュートン(N)」。


「『10ニュートン』を『ニュー氏10度』と表記したらおもしろいのにね」

「そんなの『ニュー』を漢字で書いたらぜったいに『乳』でしょ」

「『乳氏10度』って書いたら、巨乳が重力で引っ張られる力を表す単位みたいな感じがしますね」

「あの巨乳にかかる力は乳氏88度、みたいなね」


というばか話をした数日後、中国語で「ニュートン」をどう表記するか調べたところ、「牛頓(niu-dun)」だった。
「乳」ではなかったが乳っぽさは残った。


2018年4月5日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉 美味礼賛』



『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉
美味礼賛』

桂 米朝

内容(e-honより)
第八巻は、「美味礼賛」。落語を聞いて「アッ、うまそう!」と思わず口中に唾がたまった経験はありませんか。食べものがテーマ、もしくは食べるシーンが一つの魅力になっている話を集める。最終巻につき、著者ごあいさつあり。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第八巻。

シリーズ最終巻ということで、「美味礼賛」というテーマこそあるものの、実質はいろんな噺の寄せ集め。
『鴻池の犬』『馬の田楽』なんかは、食べ物が主題じゃないしね。『鍋墨大根』『焼き塩』なんか食べるシーンすら出てこないし。『テレスコ』にいたっては食べ物かどうかすらわからないからね。


『桂米朝コレクション』シリーズ全八巻を読んだけど、これはほんとに価値のある本だね。噺を正確に収録しているのはもちろん、時代を映したマクラや米朝さんがどんな点に注意しながら演じているかというメモも残されていて、百年経っても価値を減じない(それどころか時代が立つほど価値が増す)史料になるのはまちがいない。
時代の変化とともにわかりづらくなった点を補足してくれているのもありがたい。

今は記録メディアが発達したのでDVDやYouTubeで正確に落語を残せるようになった。でも「わかりづらいけど解説をすると野暮になるのであえてそのままやる」とか「こういうやりかたもあったが今はこうしている」といった"演じなかったもの" は記録されない。

『桂米朝コレクション』は、そういう「名人の心遣い」の片鱗が見える、すばらしいシリーズだ。



饅頭こわい


若い衆が集まって、好きなものや怖いものの話をしている。中にひとり「饅頭がこわい」という男がいて、他の連中はそいつを怖がらせてやろうと饅頭を買い集めてくる……。

とても有名な噺なので説明する必要もないだろう。
ぼくが小学校のときにはじめて買ってもらった落語のカセットテープが桂米朝さんの『饅頭こわい』で、この噺と『だくだく』でぼくは落語に魅せられた。
この噺の魅力は「饅頭こわい」のくだりではなく、前半のばか話にあるとぼくは思っている。「どんぶり鉢」「おぼろ月夜」もいいし、特に「狐の恩返し」と「おやっさんが体験した怪談話」は、緊迫感のある展開とくだらない結末の落差が大きくて大好きだ。落語入門には最高の噺だね。


鹿政談


奈良の鹿は神の使いとされ、うっかり殺してしまおうものなら死罪となった時代の噺。
奈良の三条で豆腐屋を営む六兵衛という年寄りが、犬がきらず(=おから)を食べていると思い木片を投げたところ、当たりどころが悪かったのか死んでしまう。さらによく見ると犬ではなく鹿だった。
奉行所に連れていかれた六兵衛。しかしお奉行である根岸肥前守の「これは鹿ではなく犬だ」という寛大な判決によって許される……。

善男善女しか出てこないめずらしい噺。だからだろう、笑いどころは少ない。やっぱり強欲なやつや小ずるいやつが出てきたほうがおもしろい。
心優しいお奉行様の名裁き……ということなんだけど、しかしいくら正直なじいさんを助けるためとはいえ、事実をねじまげて、しかも部下たちに圧力をかけて忖度をさせているわけで、これって裁判官としてあかんのちゃうの? と法治国家に住む人間としては疑問を持ってしまう。悪法もまた法だろ、と。
『帯久』のときも思ったけど、お奉行様やりすぎじゃないですかね。

今でも奈良の鹿は天然記念物に指定されているが、昔はもっと厳しく保護されていたらしく、鹿を殺すと斬首されたり、子どもであっても生き埋めにされたり(三作石子詰め)したと言われている。
しかし鹿って農作物は食い荒らすし、発情期はけっこう荒っぽいし、昔は角も伐ってなかっただろうし、あいつらが我が物顔で歩いていたと思うと住人はたいへんだっただろうな。いや今でも我が物顔で歩いてるんだけどね。奈良公園周辺はすごいよ。「鹿飛び出し注意」の道路標識がいっぱいあるからね。


田楽喰い


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がない。そこで酒瓶を割ってしまったことにして兄貴の家にある酒を呑ませてもらう作戦を立てる。なかなか計画通りにいかないもののなんとか酒を呑ませてもらえることに。兄貴が「"ん"のつく言葉を言ったやつは、"ん"の数だけ田楽を食っていい」というゲームを発案し……。

落語における「企み」というのはだいたい成功しないものだけど、これはめずらしく(多少つまづくものの)思いどおりにいく。あれ、うまくいっちゃうのか、と拍子抜け。兄貴にばれて怒られるけど呑ませてもらえる、という展開のほうが納得がいくな。
後半の『ん』まわしゲームは、古今東西のようなパーティーゲームの元祖という感じだね。


鴻池の犬


ある商家の前に捨てられていた三匹の犬。丁稚がかわいがって育てていると、そのうちの一匹をもらいたいという人がやってくる。聞けば、誰もが知る大金持ちである鴻池善右衛門の息子がかわいがっていた犬が死んでしまったので、そっくりな犬をもらいたいとのこと。
鴻池家にもらわれた犬は身体も大きくなり、あたり一帯の犬社会を牛耳るボスになる。そこに現れた病気でひょろひょろの犬。話を聞いてみると、鴻池の犬の弟だったということがわかる……。

前半は商家の人々のやりとりが丁寧に描かれるのだが、後半はうってかわって犬社会の話になり、犬同士の会話から成る落語になるというナンセンスな展開。
犬が出てくる落語には『犬の目』『元犬』などがあるが、それらは野良犬。ペットとしての犬が出てくるのはめずらしい。江戸時代には、犬を飼うという習慣は(少なくとも庶民には)ほとんどなかったんだろう。
後半は急に漫画的になるのであまり好きじゃないけど、犬をあげたお礼が大層すぎるという理由で番頭さんが小言をいうシーンは商人のプライドが感じられて好き。


鯉舟


磯七という髪結い(出張床屋)が若旦那のお供で鯉釣りに出かける。舟の上で大騒ぎする磯七だが、見事大きな鯉を釣りあげる。しかし鯉を裁こうとどたばたしているうちに鯉が逃げてしまい……。

髪結いが出てくるめずらしい落語。床屋兼幇間(太鼓持ち)みたいな存在だったのかな。逃げた鯉が戻ってきてしゃべる、というばかばかしいサゲはけっこう好き。落語って「え? 今ので終わり?」みたいな唐突な終わり方をすることがよくあるけど、この噺みたいに「はいこれがサゲ!」ってわかりやすいほうが好き。


京の茶漬


京都ではお客が帰るときには「せっかくですからお茶漬けでも……」と声を掛ける習慣がある。辞退するのが礼儀だが、ある物好きな男が一度「京の茶漬け」を食べてみたいと思い、そのためだけにわざわざ京都の知り合いの家を訪ねる。主人は留守で、嫁さんを相手に話しこむ。帰ろうとした男に「ちょっとお茶漬けでも」と声をかける嫁さん、「さよか、えらいすんまへんなあ」と座りなおす男。
ところがご飯がほとんど残っていない。なんとかして残りご飯をかき集めてお茶漬けを出した嫁さんだが、男はなんとかしてお代わりをもらおうとして……。

落語の京都人は嫌味でせこい人物として描かれることが多いが、この噺に出てくる京都人の嫁さんはぜんぜん嫌味なところもなく、たまたまご飯が残っていないところに妙な客人が来て困惑させられてかわいそう。
子どものときに『今日の茶漬け』を聞いてもいまひとつぴんと来なかったが、これは高度な心理戦だから子どもには理解しにくいよなあ。「なんとかして『お代わりでもどうですか』と言わせようとする客」と「その意図に気づいていながらわざと気づかないふりをする嫁さん」という、なんとも繊細なせめぎあい。
大笑いする類の噺ではないが、意地悪い視点ににやにやさせられる。


近眼の煮売屋(ちかめのにうりや)


ある男がごちそうを並べて酒を呑んでいる。やってきた友人がこんなごちそうどうしたんだと尋ねると、煮売屋の近眼の親父を突きとばして盗ってきたんだと冗談で返す。ところが友人はそれを真に受けてしまい、煮売屋に行って親父を突きとばして帰ってくる……。

ずいぶんひどい噺だ。いきなり突きとばされる煮売屋、かわいそう。
総菜屋兼居酒屋のような店だそうだ。『東の旅』の『煮売屋』にも出てくるね。
きずし、このわた、イカの木の芽和え、サワラの照り焼き、焼き豆腐……。ずいぶんうまそうなもの食ってるなあ。


鍋墨大根


振り売り(移動販売)の八百屋、長屋のおかみさんにうまく値切られて安く大根を買われてしまう。悔しいので指定されたのとは別の細い大根を持っていくと「これじゃない。さっき鍋の底の墨を大根につけておいたからわかる」と言われ、その手口に感心する。
八百屋が向いていないので駕籠屋に転身。すると、ちょっと目を離したすきに乗せた客が関取に入れ替わっており、「しもた。さいぜんの客に、鍋墨塗っといたらよかった」……。

小噺のような短い噺。
駕籠の中身が入れ替わっているというくだりは、『住吉駕籠』の後半によく似ている。でも『住吉駕籠』の「こっそり二人で乗っている」というシチュエーションのほうがビジュアル的におもしろいなあ。


焼き塩


商家の女中さんのところに故郷から手紙が届くが、文字が読めないので通りかかった侍に読んでもらう。すると侍が涙を流しはじめたので、「故郷の親の容態が悪いと以前から聞いていたのでこれは悪い便りにちがいない」と女中さんも涙を流す。侍と女中がいっしょに泣いているのを見た塩売りの親父、身分違いの恋がうまくいかなかったのだろうと勘違いしてもらい泣き。しかし侍は文字が読めずに人前で恥をかいたので悔し涙を流していただけだったとわかり……。

これも小噺のような短さ。
枕の「『司』という字を魚屋に訊いたら『同という字を二枚におろして、骨付きのほうや』という答えが返ってきた」とか、字が読めない父親が子どもに字を訊かれてへりくつをこねるところのほうが本編よりおもしろいな。


小咄・たけのこ


隣家の筍が、塀のこちら側に生えてきた。それを見た侍、使いを隣にやって「ご当家のたけのこが手前どもの庭へ入ってきたので召し捕って手討ちにいたす」と伝えさせる。すると隣家の主人は「お手討ちはやむをえませんが遺骸はこちらへお下げ渡しを」と返す……。

短い噺だが大仰な言い回しがおもしろい。落語に登場する侍はいばりくさっていたり、堅物だったりするけど、こういうユーモアを解する侍ってめずらしいな。
「塀を越えて生えてきたタケノコを取って食べてもいいか」ってよく法律の教科書に出てくるよね。たしかタケノコはオッケーで柿はだめだったはず。


馬の田楽


つながれている馬の前で子どもたちが遊んでいる。ひとりの子どもが度胸試しで馬の尾の毛をまとめて引っぱったところ、驚いた馬が走って逃げてしまった。
馬方が現れ、馬がいなくなっていることに気づいてあわてて追いかける。いろんな人に馬がどこに行ったか尋ねるが誰も協力的でなく……。

まだ馬が街中にいた時代の噺。子どもたちが「馬の腹の下をくぐれるか」「馬の尾の毛を抜けるか」と度胸試しをするシーンが出てくる。
そういやぼくも小学生のころ、「走っている車にどれぐらい近づけるか」「走っている車にさわれるか」という度胸試しをしていたのを思いだした。今考えるととんでもない遊びだけど、昔から男子のばかさは変わらないんだねえ。


ためし酒


尾張屋の旦那が、近江屋の旦那に一升入るという大きな杯を見せる。近江屋の旦那が「うちの下男の権助ならその杯で五杯の酒を呑める」と言いだし、尾張屋は「いくらなんでもそんなに呑めるわけがない」と言う。有馬旅行の旅費を賭けて五升の酒が飲めるか試すことに。
連れてこられた権助は「ちょっと考えさせとくなはれ」とどこかに行ってしまうが、しばらくして戻ってきて酒を呑みはじめる。つらそうにしながらも五升を飲み干した権助。尾張屋が「さっきおまえはどこかへ行っていたが酒を呑めるようになる薬でも飲みに行っていたのか」と尋ねると……。

なんと、元はイギリスのジョークらしい。初代快楽亭ブラック(イギリス人。『美味しんぼ』に出てくる落語家のモデル)がイギリスから持ちこんだ小噺を落語に仕立て直したのだとか。輸入品とは思えないほどどこをとっても見事な落語になっている。


寄合酒


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がないのでそれぞれ一品ずつ持ち寄ろうという話になる。酒屋を騙して入れさせた酒、犬から奪いとった鯛、乾物屋が気づかないうちに持ってきた棒鱈と数の子、子どもを脅かして持ってきた鰹節、丁稚から盗んできた味噌と根深(ネギ)など、ろくでもない方法ではあるがごちそうが集まる。
ところが慣れない男たちが料理をするものだから、鯛を犬にやってしまったり、火をつけるのに失敗したり、数の子を焚いてしまったり、酒をひとりで飲み干してしまったり、鰹節でとった出汁を捨ててしまったりと失敗ばかり……。

導入は『田楽喰い』とほぼ一緒だが(『寄合酒』→『田楽喰い』という流れでひとつの噺としてかけられることもあるという)、こちらのほうがわかりやすくておもしろい。
悪知恵をはたらかしていろんな食材を集めるところ、せっかく集めた食べ物をすべて台無しにしてしまうくだりなど、笑いが途絶えることがない。
ここまで笑いどころの多い落語もそう多くないね。


ひとり酒盛


引越してきた男、手伝いにきてくれた友人に「何もしなくていい」と言いながら、あれこれと仕事をさせる。ようやく落ち着いて酒でも飲もうかとなっても、なんだかんだと言いながら自分ひとりで飲んでばかり。ついに堪忍袋の緒が切れた友人が家を飛び出していく……。

この噺は、九割ほどはひとり語りで進んでいく。落語は基本的に会話の芸だが、これはほとんど「ひとり芝居」だ。それでもうまい人がやると他の人物の姿が見える。桂米朝さんの『ひとり酒盛』を聴いたことがあるが、ちゃんと友だちの存在が感じられた。
ここまでやるのならもうぜんぶひとりの台詞にしてしまったほうがおもしろいんじゃないかなと思う(容易にできるだろう)。


禍は下


網打ち(魚捕り)に行くと言って丁稚の定吉を連れて出かけた商家の旦那。向かった先はお妾さんの家。お妾さんの家に泊まることにした旦那は、定吉に「羽織と袴を持って帰って、途中の魚屋で買った魚をお土産として渡すように」と命じる。
ところが定吉が買って帰ったのはめざしとちりめんじゃことかまぼこ。お内儀さんに「こんな魚が捕れるわけがない」と言われるが、なんとかごまかす。ところが袴の畳み方がきれいだったためにお妾さんの家に行っていたことがばれ……。

「禍(わざわい)は下より起こる」ということわざがあるそうだ。わざわいは下々のことの過失から起きる、という意味だそうだ。あんまり納得のできないことわざだな。小さい過ちは現場のミスかもしれないけど、大きなわざわいはトップの方針の過ち、というケースが多いと思うんだけど。

めざしとちりめんじゃことかまぼこを買って「網にかかった魚です」というところはわかりやすくてよくできたギャグだ。
流れも自然でおもしろいし、知っている人に見つからないように提灯の家紋を隠す、魚捕りやお妾さんの家に行くのに羽織袴を着ている、なんて昔の風俗もちりばめられていて、いい噺だ。


テレスコ


肥前(長崎)で変わった魚が捕れた。めずらしい魚なので、誰もその名前を知らない。代官所が「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出すと、仁助という漁師が現れて「これはテレスコという魚です」と言うので十両を渡した。
後日、代官がその魚を天日干しにしたところ、元の姿とは似ても似つかぬ形になった。そこで「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出したところ、また仁助がやってきて「これはステレンキョウです」と言う。
同じ魚なのに違う名前で呼ぶとは代官所をだまして金をとるため、不届き千万ということであろうと仁助は捕まえられ、死罪を宣告される。最期に女房・子供に会いたいという仁助の願いが聞き入れられ、仁助が助かるように火物断ち(火の通った食べ物を断つこと)をして神仏にお祈りしているという女房がやってくる。そこで仁助は「子どもにイカの干したのをスルメと言わすな」と言い、それを聞いた代官が干せば名前が変わることもあると気づいて仁助は無罪放免……。

ずいぶん妙なタイトルだと思ったら、なるほどこういう噺ね。『ちりとてちん』と同じような趣向だね。
元は「イカの干したのをスルメと言わすな」でサゲていたのだが、それではわかりにくいということでこの形に変わったのだそうだ。「スルメと言わすな」のほうがスマートだけど、やっぱりその後の無罪放免となるところまでやったほうが断然いいね。「スルメと言わすな」で終わったら、仁助が打ち首になるかどうかわからなくてもやもやするから。


馬の尾


魚釣りにいこうとする男が、テグスにするために馬の尾の毛を抜く。それを見ていた友人が血相を変えて「馬の尾を抜くなんてなんてことをするんだ!」と騒ぎだした。不安になった男が「馬の尾を抜くとどうなるんだ」と尋ねるが、友人はとんでもないことをしたなと騒ぐばかり。酒や肴をごちそうしてなんとか聞きだそうとするが、友人はなかなか教えてくれず……。

特に何も起こらず、しかも聴いている人には早めに結末がわかってしまう。
個人的には、最後まで真相がわからず後味の悪さを残したほうがおもしろいと思う。落語っぽくはなくなるけど。


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