2018年2月3日土曜日
大相撲にはストーリーがない
相撲は神事だってことにされてるけど、そうはいってもあれスポーツだよねえ。
相撲をスポーツだと思う原因は、競技の内容そのものより、それに付随している「数字」だ。
今場所はここまで七勝負けなし、対戦相手である前頭三枚目の〇〇とは過去十四回対戦して十勝四敗、今日勝てば三年前の春場所以来となる全勝での中日勝ち越し。
相撲にはやたらと記録がつきまとう。記録で語られる競技は、やっぱり神事ではなくスポーツだ。
プロレスのほうがよほど神事っぽい。
プロレスのことはよく知らないけれど、プロレスを語る人はみんな「記録」ではなく「ストーリー」で語っている。
「このレスラーは通算〇勝〇敗で勝率〇割〇分〇厘だ」みたいな語られかたは聞いたことがない。
そうやってプロレスを観る人もいるだろうけど、多くのプロレスファンは「あの後楽園ホールで××に敗れた□□が雪辱を果たすための因縁のタイトルマッチ」みたいなストーリーを乗せてプロレスを観ている。
リングの上での戦いだけじゃなくて、団体を立ち上げたとか、あいつが陰でこんなことを言ったとか、そういう大小含めてさまざまなエピソードがプロレスの歴史を作っている。
これってもうほとんど神話の世界だ。
ギリシャ神話とか旧約聖書とか日本書紀とかの神話に比肩するって言ったら言いすぎですかね。言いすぎですね。
でもまあともかく、プロレスって祭事っぽい。
だから場面だけを切り出してもよく理解できない。一試合だけ観ても楽しめるだろうけど、それはレスリングであってプロレスではない。
各地方にあるお祭りをはじめて見た人には「なんだこれ。なんの意味があるんだ」とわけのわからないことだらけだと感じるけど、そこにはちゃんとストーリーがある。古すぎて誰も知らなかったりするけれど、しかしいろんな歴史に続くものとして、祭事は存在する。
大相撲は、初見でもわかる。
大相撲観戦には因縁とか境遇とか怨恨とかいったたぐいの「ストーリー」は必要ない。
もちろん個々の力士の内側には「あいつにだけは負けたくない」的な思いもあるんだろうけど、それが大っぴらに語られることはない。
大相撲を神事として扱いたいのなら、品格だとかいって格調高くするのではなく、プロレスみたいにおもいっきり俗っぽくしたらいいんじゃないだろうか。
マイクパフォーマンスを導入して、嫉妬とか私怨とか憐憫とか憎悪とか、そういう感情を存分に表に出してみる。朝青龍みたいに。
中学校では手の付けられないワルだった〇〇が、兄弟子を引退に追いこんだ××とのリベンジマッチ! 先場所卑劣な手で流血させられ「あの胸毛ゴリラ野郎」と息巻いていたが、その雪辱を果たせるか!?
みたいなストーリーで語られるようになったら、そしてそれを長年続けていたら、何十年後かには大相撲神話になるんじゃないだろうか。
ギリシャ神話だってずいぶん俗っぽいし。
2018年2月2日金曜日
適当にプリキュア
娘の保育園の参観日に行ったとき、先生が園児たちに「みんなは何になりたいかな~」と訊いた。
男の子は仮面ライダー、女の子はプリキュアが多かった。
うちの子は何と答えるんだろう。大好きなバズ・ライトイヤーだろうな。でも最近は恐竜も好きだからティラノサウルスかな? とわくわくしながら見守っていた。
娘の番になると、娘は元気いっぱいに答えた。「プリキュア!」
愕然とした。
「いやおまえプリキュア観たことないやん!」
うちの家でプリキュアを観たことはない。べつに主義主張があって観せないようにしてるわけではなく、ただ単に親が興味ないから観ないだけ。娘が「プリキュア観たい」と言ってきたら観せるかもしれないけど、言ってこないから観せたことがない。
娘は、他の女の子がみんな「プリキュアになりたい」と言っているから、周囲に合わせて「プリキュア!」と答えたのだろう。
そういえばぼくも小学生時分、同じようなことをしていた。
うちにはファミコンがなかった。クラスの男子でファミコンを持っていないのは、ぼくを入れて二、三人だけ。クラスの友人たちが「ドラクエごっこ」をはじめると、ぼくもよくわからないまま適当にあわせていた。「くらえ! ホイミ!」とか知っている呪文の名前を適当に唱えて「おまえそれ回復するやつやん」と言われていた。
そんな悲しい少年時代を思いだして(いやそんなに悲しくなかったけど)、よくわからないのに適当にプリキュアごっこをしているであろう娘のことがいじらしくなった。
周囲と話を合わせられるように一度プリキュアを観せてやったほうがいいのかな、でもハマってグッズを買ってくれとか言いだしたら嫌だしなあ。
なんて思っていたんだけど、その後四歳児同士の会話を聞いてたらどっちも自分の言いたいことだけ言いあって相手の話なんてまるで聞いてなかったので、適当にプリキュアの話をあわせてもぜんぜんバレないだろうな、と思ってどうでもいいやという気持ちになったのでした。おしまい。
2018年2月1日木曜日
【読書感想】杉浦 日向子『東京イワシ頭』
『東京イワシ頭』
杉浦 日向子
イワシの頭も信心から、ということで「手軽に幸せになるご利益のありそうなもの」をあれこれ体験してみるというルポルタージュ的エッセイ。
しかしはじめのうちは受験の絵馬とか七福神巡りとか前世占いとか、一応「信心っぽい」ことをやっていたのに、中盤からネタ切れになってきたのか「五木ひろしのディナーショー」「新車の試乗」「女子プロレス」「ストリップ」など、テーマほぼ関係なしのなんでもあり体験エッセイだ。
単行本の刊行は1996年。バブル期の余韻を引きずった東京が舞台ということで、浮かれた気分がそこはかとなく漂っている。
ぼくはその頃田舎で中学生をやっていたので東京の空気はわからないけど、でも今思い返してみると当時の世の中っていろいろと得体の知れないものが流行っていた気がするなあ。
バブルの余韻と不況&世紀末の閉塞感が混ざったような、どこか捨て鉢な気分が漂う感じ。ノストラダムスなどなオカルト的なものが広く語られていたし、オウム真理教が流行ったのもああいう時代だったからなのかもしれない。スプリチュアルなことを人前で話題にするのがはばかられるようになったのってオウム以後かもしれないなあ。
二十年前の日本人ってもっと無責任だったような気がするな。論拠も不確かなものを堂々と語っていた。記録メディアの発達やインターネットのおかげで発言がずっと残るようになったからね。
不正確な言説がは減るのはいいことなんだけど、いいかげんな言説がまかりとおっていた時代も、あれはあれでおもしろかったなと思う。オウムみたいなことにつながるからあんまりおもしろがったらあかんけど。
瞑想ダイエットの章。
江戸っ子の啖呵のような文章が楽しいね。読むより聞いたほうがいいかもしれない。ほとんど内容ねえし。
こういうライトな体験エッセイってインターネットでいくらでも無料で読めるようになっちゃったから、今お金出して読む人が減ってきてるんじゃないかと勝手に心配。まあぼくが心配するようなことじゃないし、だいたい杉浦日向子さんもう死んじゃったけど。
めちゃくちゃおもしろいわけでもない、情報に価値があるわけでもない、そういうエッセイって今は瀕死の危機かもしれない。減ってはいないんだけど、インターネットには「役に立つコンテンツ」「人を集められるコンテンツ」「金になるコンテンツ」があふれすぎていて、くだらない文章を目にする機会が少なくなっている。
おもしろい文章は金を出して買えばいい。ぼくはインターネットではつまんない人の大した情報のない文章を読みたいんだけどなあ。
と思いながら、こうしてなんの価値も情報性もない文章をつづっている。
つまんない人のつまんない文章を読めるのはインターネットだけ!
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2018年1月31日水曜日
【読書感想】こだま『ここは、おしまいの地』
『ここは、おしまいの地』
こだま
一度人生を終えた人みたいな文章だな、と思う。老成、達観、諦観。
死後の世界からふりかえって「生きてるときはこんなつらいこともあったけど今となってはもういっか」みたいな。ほんとは弥勒菩薩が書いているのかもしれない。
ぼくの中でのこだまさんのイメージは、瀬戸内晴美さんだ。瀬戸内寂聴のちょっと手前。修羅のような人生を経て、すべてを赦す境地に達しかけている人。
逆境に負けるのではなく、立ち向かうでもなく、試練としてじっと甘受する人。
成長することはいろんなことを手に入れていくことだとかつては思っていたけど、少しずつ失っていくという成長の形もあるのだな、と『ここは、おしまいの地』を読んでしみじみ思う。雪がとけてゆくような成長。
そんなことを十代の自分に言ってもまったく理解してもらえないだろうけど。
強烈な臭気を漂わせる家に引っ越すことになった顛末を書いた『春の便り』より。
どれだけ臭いんだろう。
「この家でつくった料理を食べたくない」というぐらいのにおいだから相当なものだろうが、他の家を探すとか清掃業者を呼ぶとかせずに折り合いをつけながら「くせえ家」での生活を送る姿が、なんとも「らしい」。逃げだすでも立ち向かうでも他人に頼るでもなく、諦めて受け入れる。こだまさん夫妻らしさを感じるエピソードだ。
以前、湿気のすごい部屋に住んでいたことがある。
家中びしゃびしゃになる部屋。毎朝窓ガラスにバケツいっぱいの水滴がついている部屋。服がすべて生乾きのにおいになり、窓の近くに置いていた本はすべてだめになる部屋。
やはり部屋にいるのが苦痛だった。出不精な人間だったのに、そこに住んでいるときはしょっちゅう出歩いた。
おかげで彼女はできたしバイトで稼ぐこともできたので、今思えば悪いことばかりでもなかった。肺の病気になって入院してバイト代がふっとんだので、トータルでいえばマイナスのほうが大きかったけど。
昔、どブラック企業で「ぼくが辞めたら困るしな」と思いながら五年間、薄給で一日十五時間働いていた。
辞めてみたら「なんであんな劣悪な環境で無駄にがんばってたんだろ」と思うんだけど、当時は逃げるという選択肢は考えられなかった。
(ちなみにその会社はぼくが辞めた半年後ぐらいにつぶれた。ぼくがいてもいなくてもつぶれる会社だった)
現状に納得がいかなければ改革する人は立派だけど、ぼくは常にベストな道を選びつづけられそうもないな。
しゃあない、いろいろと諦めながら滅んでいこう。
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2018年1月30日火曜日
【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』
『死にたい夜にかぎって』
爪切男
爪切男さんの濃厚な半生記。
爪切男さんのブログ(小野真弓と今年中にラウンドワンに行きたい)も読んでいるし連載『タクシー×ハンター』も読んでいるのでほとんどのエピソードは過去に読んだことがあったんだけど、それでも本で読むと改めてしみじみとおもしろい。WEB上で読むと乾いたユーモアが、本にするとしっとりとしたペーソスを帯びている。
こないだ『クレイジージャーニー』というテレビ番組で、シリア内戦を取材している桜木さんという戦場カメラマンの映像を観た。
銃弾が飛び交い、次々に人が殺されていく内戦の最前線で、兵士たちは冗談を言ってげらげら笑いながら食事をしていた。
「おい見とけよ」とへらへらしながら手榴弾を投げる兵士たち。ときどき投げそこなって味方の陣地を攻撃してしまって笑う兵士たち。
"地獄砲"という反体制派の兵器が紹介されていた。これは何が地獄かというと威力はすごいのに精度がめちゃくちゃ悪くて、ときどき味方を攻撃してしまうのだそうだ。
だから敵に当たったら"地獄砲"だけど味方に当たってうっかり殺しちゃったら"天国砲"なんだよ、と兵士たちは冗談を言っている。
建物の外に出たらスナイパーに撃たれる街。
戦争を知らないものからすると陰惨な場所でしかないんだけど、現場の兵士は、ぼくらと同じようにふざけたり笑ったりしていた。
戦争文学を読んでも、じっさいに戦地に赴いた人の体験談はからっとしている。「なんでおれたちがこんな目に……」なんて我が身の不幸を嘆いていない。学校や職場にいるときと同じように、困ったり笑ったり退屈したりしている。
人間というやつは、どんな状況に置かれても愉しみを見つけだすものらしい。
『死にたい夜にかぎって』を読んでいると、そんなふざけた軍人たちのことを思いだした。
『死にたい夜にかぎって』の筋書きだけ見ていると、爪切男さんの人生は一般的に「不幸」の部類に入るのだろう。
でも文章を読んでいると、本人はなんとも楽しそうだ。シリアで内戦をしながら冗談を口にして笑っていた兵士たちのように。
どんな状況でも楽しみを見つけられる才能。うらやましいようなうらやましくないような。
ぼくがいちばん好きなのは、同棲している彼女が断薬の副作用で首を絞めてくるようになったときのエピソード。
なんて楽しそうなんだ。人生の勝者、という言葉さえ浮かんでくる。
「もっと金を稼ぐ方法はないものか」と苦悩して周囲の人間を怒鳴りつける大金持ちよりも、同棲相手に首を絞められるたびにポイントカードにスタンプを押す人間のほうがずっと人生を楽しんでいる。ライフ・イズ・ビューティフル。
ふところが広すぎる爪切男さんには今後優しい彼女を見つけて仲良く平穏に暮らしてほしいと思うけれども、でもそうなったら過酷な環境で咲くしぶとい花のようなこの文章は失われてしまうんじゃないだろうか、とも心配になる。
今後もややこしい女たちにふりまわされる人生を送ってくれることを、愛読者としては無責任だけど少し期待している。
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