2018年1月10日水曜日

「この女がです」


吉田戦車『伝染るんです』は漫画史に残る名作四コマ漫画だが、中でもぼくは「この女が」の話がいちばん好きだ。

著作権とかがアレなので画像は貼らないけど、

交通事故が起こり、サラリーマンとよぼよぼのおばあさんがもめている

警官が仲裁に入り、事情を尋ねる

サラリーマンがおばあさんを指さし、「こっちが青信号だったのに、この女が飛び出してきたんです!」

警官「この女が、ですか……」
サラリーマン「この女がです!」

(吉田戦車『伝染るんです』2巻より)

という四コマだ。
「この女」と言われたおばあさんの、はにかんだような当惑した顔も含めてめちゃくちゃおもしろかった。
たったの四コマ。日常的な舞台とシンプルな台詞で、これだけの不条理な世界をつくれるなんてすごい、と感動した。

この話、なぜおもしろいんだろう。うまく説明できない。
笑いにはいくつかのパターンがあるけど、これはどれにもあてはまらないような気がする。

ふつうは、間違ったことをしたときに笑いが生まれる。
サラリーマンがおばあさんを指して「この少女」と言ったら、これは明らかに間違いだ。間違った発言だからこれなら一応ギャグとして成立する(もっともそれで笑うのは五歳児までだだろうけど)。
でもサラリーマンがおばあさんを「この女」というのは、決して間違いではない。おばあさんは女だということは誰だって知っている。

老婆を「この女」と呼ぶのは間違いではないが一般的ではない。 ふつうは、喧嘩をしていたら「このババア」「このばあさん」「このおばさん」だろう。
「この人」なら自然だ。ぼくが見知らぬおばあさんと喧嘩になり、それを当人の前で第三者に説明するとしたら「この人」と言うと思う。
「この男」などうだろう。見知らぬおじいさんを指さして「この男」。これは常識の範囲に収まる気がする。少なくともおばあさんを「この女」と呼ぶときに感じたほどの違和感はない。

おばあさんを「この人」と呼ぶのは違和感がない。若い女性を「この女」と呼ぶのも自然だ。おじいさんを「この男」と呼ぶことにも、それほど抵抗はない。なのにおばあさんを「この女」と呼ぶときにだけ奇妙な感覚にとらわれる。
ということは。
「女」には年齢制限がある、ということになる。
百歳になってもおばあさんは女だが、それは生物学的な話であって、言葉としての「女」の定義からは外れるということだ。

『大辞泉』によると、「女」には
・人間の性別で、子を産む機能のあるほう。女性。女子。⇔男。
・成熟した女性。子供を産むことができるまでに成長した女性。一人前の女性。
という意味がある。
一項目は生物学的な定義だ。「一般的に子どもを産む機能があることが多い側の性」という意味だろう。我々は子宮を摘出した人を男とは思わない(そういう人に配慮して「女」という言葉を定義づけるのって難しいなあ)。
生物学的の意味で言うならばおばあさんは間違いなく女だ。

問題はふたつめ。こちらが、我々がふだん使う言葉としての「女」だ。
おばあさんは、間違いなく成熟している。熟しすぎているといってもいい。一人前だ。
この定義で言うなれば、百歳のおばあさんも女だということになる。
だが、この辞書の編纂者が把握していなかったのか、それともわかっていてあえて配慮して書かなかったのか、この定義は不正確だ。
我々がふだん使う「女」は「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」なのだ。
だから我々は生殖機能を失ったことが明白なおばあさんを「この女」と呼ぶことに違和感をおぼえる。

これは女だけの話ではないと思う。おそらく男も同じだ。
だが、男のほうは「子どもをつくる」という行為においては女よりもずっと寿命が長い。九十代で父親になった人の例もある。そういったケースは例外だろうが、女性でいうところの閉経のような明確なイベントが男にはないため、いつまでたっても「子どもをつくる可能性のある側」でいられる。
だからおじいさんを「この男」と呼ぶことにはあまり抵抗を感じないのではないだろうか。

我々はふだん「女」の定義なんて気にしない。疑う余地もないと思っている。ぼくも今まで気にしたこともなかった。
だけど、暗黙のうちに「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」という定義を共有している。

その不明瞭だけど強固な共有認識と辞書的な定義のずれを鮮やかに切り取って、たったの四コマでギャグとして成立させているのはすごい。



2018年1月9日火曜日

「レゴクリエイター ダイナソー」は大傑作だ


レゴ クリエイター ダイナソー 31058


これ買ったんだけど、めっちゃ楽しい。
レゴと恐竜が好きな娘のために買ったんだけど、何よりぼくが楽しい。
これ、子どものときに欲しかったなー。たぶん死ぬほど遊んだだろうな。

Amazonで買ったんだけど、2,000円以下だったから、しょぼいかもしれないなーと思いながら購入した。レゴで2,000円未満ってかなり安い部類だからね。

でも期待をはるかに上回る出来だった。
何がすごいって、四種類もの恐竜が作れること。

トリケラトプス

ティラノサウルス(レゴフィグはついておりません)

プテラノドン

ブラキオサウルス

全部可動域が広い。ティラノサウルスだったら、あごが開閉するのはもちろん、前足、後ろ足、爪、尻尾がそれぞれ自在に動く。本物のティラノサウルスと同じくらい広範囲に動く。本物のティラノサウルス見たことないけど。
あとちゃんと二本足で直立するのもいい。二本足で立たせるバランスにするのってかなり難しいと思うんだけど、そのへんもクリアしている。ティラノサウルスの指が二本だったりとか、ちゃんと恐竜の生態にあわせている。

かなり造形が細かいのに、四歳児の娘でもつくれる(ただバラすのはできない)。
"シンプルさ"と"奥深さ"というレゴの魅力が存分に発揮された傑作だ。子どもの頃からいろんなレゴシリーズを楽しんできたけど、ぼくの中ではまちがいなくナンバーワンだ。

このレゴクリエイターシリーズって他にもいろんな種類が出ていて、どれも一箱でいろんな作品が楽しめる。
全部そろえたくなってきた……。半年にひとつずつくらいのペースでそろえていったとして、はたしていつまで娘がお父さんと一緒にレゴで遊んでくれるだろうか……。


2018年1月8日月曜日

駐車場なんてあったっけ


駐車場を借りる必要が生じたとき「このへんに駐車場なんかあったっけな?」と思っていたら自宅の真ん前に「レンタル駐車場」のでっかい看板があって驚いた。

その道は何百回と通っていたのに今までその看板は認識していなかった。「興味のないものは見ていても認識しない」ということを思い知った。

氷漬けの落語


上方落語に『くっしゃみ講釈』という噺がある。


講釈師に恨みのある男が、講釈をじゃまするために胡椒をいぶしてくしゃみを起こさせる、と計画する。ところが元来忘れっぽいため八百屋で胡椒粉を買うことをすぐに忘れてしまう。そこで、のぞきからくりの演目『八百屋お七』の登場人物である「小姓(こしょう)の吉三」とひっかけて覚えようとする。ところが八百屋についたもののなかなか思いだせず、てんやわんや。胡椒がなかったので唐辛子を買って講釈場に乗りこみ、唐辛子をいぶして講釈のじゃまをすることに成功する。講釈師から「なにか故障がおありか(文句がおありか)」と問われ、「胡椒がなかったから唐辛子にした」と答える――。


というストーリーなのだが、まあ今聴くとわっかりにくい。
講談やのぞきからくりといった装置にもなじみがないし、八百屋で胡椒粉を買う人も今はまずいないだろうし、文句があるかという意味で「故障がおありか」という言い回しも今は使われない。
ぼくは小学生のときにカセットテープで桂枝雀の『くっしゃみ講釈』を聴いたことがあるが、当然のことながら途中でついていけなくなった。その後、解説書を読んでようやく理解できるようになった。

『くっしゃみ講釈』は筋自体はよくできた噺だし、笑いどころも多いし、噺家の見せ場も多い。きっと、長い時間をかけてちょっとずつ改変されて洗練されて今の噺になったんだと思う。
なのに、数十年前に今の形に落ち着いて、そこで止まってしまった。
こないだ寄席に行ったら『くっしゃみ講釈』がかかっていたが、やはりこの形だった。
前半の講談師にデートをじゃまされるくだりではかなり笑いが起きていたのに、中盤の八百屋で『八百屋お七』を一席打つあたりでは客席に退屈が広がり、サゲを言っても笑いが起きなかった。それはそうだろう、十分に噺の内容を知っている人にしか理解できないのだから。

『くっしゃみ講釈』は落語らしいドタバタもありながら、筋としては一本芯が通っていてよくできている。せっかくのいい噺が時代のせいで伝わらなくなってしまうのはもったいないな、と思う。

いくらでも改良の余地はあると思う。

もちろん、変えている人もいる。
『地獄八景亡者戯』という超大作落語は、元々「閻魔大王」と「大黄(漢方薬)」をかけた地口オチだったが、大黄という薬の名前が伝わらなくなったので、今はこのパターンで話す落語家は、たぶんいない。
いろんな噺家が、いろんな噺をちょっとずつ自分なりにアレンジしている。でも、そのほとんどが定着していない。だから2018年に披露されている『くっしゃみ講釈』でも、粗忽者が八百屋の店先で『八百屋お七』を唄い、講談師が「故障がおありか(文句がおありか)」と口にする。
すべてを新しくしろとは言わない。昔の人の暮らしを想像するのが落語の醍醐味のひとつだからだ。だから舞台が講釈場なのをパワポを使ったコンペ会場に変えろとは思わない。たぶんそっちのほうが早く古びるだろうし。
でも笑いどころが伝わらなくなっているのは、落語として致命的だと思う。笑いどころは「今のはこういう意味で、だからこれがおもしろいんですよ」と説明できないからだ(できるけどやったら笑えなくなる)。

古典落語って、どんどん改変していくものだと思うんだけど、その変化のスピードがどんどん遅くなっているように思う。昔のほうが改変されてたんじゃないだろうか。
変化のスピードが衰えたのは、しっかりと記録が残るようになったからじゃないだろうか。口承で受け継がれていた噺の内容が文字にして残るようになり、音声としても記録としても残るようになった。その結果、記録されたものが聖典になってしまい、改変が許されない雰囲気になっているんじゃないかと門外漢が勝手に想像する。

埋もれかけていた旧い噺を正確に記録したのは桂米朝らの功績だけど、その結果、古典落語は「古典」という氷漬けにされてしまったんじゃないだろうか。


2018年1月6日土曜日

年賀状2題


年賀状って昔はけっこう好きだったんです。11月くらいからネタを考えて、友人を笑わせようと渾身のボケを込めた年賀状を書いていた。
三十枚くらい書いていたと思う。

さすがに最近はそんなことをやる気力もなくなって、市販の年賀はがきに一言を添えるだけの年賀状を出している。
親戚も含めて十五枚ほどしか出していない。

めんどくさいな、と思う。
十二月二十日くらいから取りかかり、めんどくさいめんどくさいと思いながら書く。
だいたいみんなこんなもんだろう。

年賀状の付き合いしかない人も数人いる。
一年間に一度も会わなかったし翌年もたぶん会わないだろう。特に書くこともない。「今年こそ飲みましょう」なんて思ってもみないことを描く。
向こうからも送られてくるのでこっちからやめるのは気が引ける。たぶん向こうも同じように思ってるのだろう。やめるきっかけがないまま何年も続いている。

こんなの無駄だなと思ってたけど、いやそうでもないかなと思いなおした。

一年に一度も会わない人だからこそ年賀状のやりとりが必要なのだ。
会わない人とはメールもLINEもしない。「子どもが生まれました」なんて報告も、ふだん会わない人には「こんなことわざわざ報告されても困るかな……」と躊躇してしまう。
電話番号もメールアドレスも知っているから、連絡をとろうと思えばいつでもとれる。でもとらない。そしてたぶん永遠に途絶えてしまう。

だから会わない人のためにこそ年賀状はあるのかな、と思う。
もういっそ、十年ぐらい会ってなくてメールもしてなくて年賀状も出していない人に年賀状を出してやりたいな。
でも住所を知らないから出せないんだけど。



年賀状の枚数って年々減ってるわけじゃない。
もちろんメールとかLINEとかのせいってのもあると思うんだけど、そのうちのひとつに「住所がわからない」って要因もあると思うんだよね。

この人に年賀状出そうかな。でも住所知らないしな。でも訊くほどじゃないしな。訊いたら向こうも年賀状を出さざるをえなくなるし申し訳ないな。

みたいなことがある。
だからさ、年賀状がほしい人は郵便局に氏名・住所・メールアドレス・電話番号・LINE IDを登録しておく。
そうすると、住所がわからなくても「名前とメールアドレス」とか「名前と電話番号」とか「名前とLINE ID」とかでも年賀状を出せるようになる。

ってシステムにしたら年賀状の枚数はある程度増えると思うんですけどね。
どうでしょう郵便局さん。