2017年8月28日月曜日

"大企業"の腐敗と終焉/池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』【読書感想】


池井戸潤 『空飛ぶタイヤ』

内容(e-honより)
走行中のトレーラーのタイヤが外れて歩行者の母子を直撃した。ホープ自動車が出した「運送会社の整備不良」の結論に納得できない運送会社社長の赤松徳郎。真相を追及する赤松の前を塞ぐ大企業の論理。家族も周囲から孤立し、会社の経営も危機的状況下、絶望しかけた赤松に記者・榎本が驚愕の事実をもたらす。

一応フィクション ではあるが、現実にあった 横浜母子3人死傷事故 を下敷きにした小説。
ホープ自動車、ホープ銀行、ホープ重工、ホープ商事という企業名が出てくるが、「財閥系のグループ企業」「楕円を3つ組み合わせたマークの社章」といったわかりやすすぎるヒントが存分にちりばめられており、誰が見ても三菱グループの話であることが明らか(ちなみに池井戸潤さんは三菱銀行出身)。

ホープ自動車、ホープ銀行は徹底的に腐敗した組織として描かれている。
「一応別名にしているとはいえこんなわかりやすい形で実在の企業を悪く書いていいのかよ。訴えられるんじゃないのか……?」と思ったのだけれど、横浜母子3人死傷事故の概要を見てみると、「実際の出来事をそのまんま書いてるだけやないかか!」と感じる。
事実は小説よりも奇なりというか、現実のほうがもっと醜悪。小説では一応のハッピーエンドを迎えるが、現実には三菱自動車から責任をなすりつけられた運送会社は倒産したそうだ。



正直にいって、ぼくは「サラリーマン小説」を他の小説に比べてワンランク下に見ている。
時事ネタとかうんちくとか盛りこんで新しそうに見えるけど、結局はステレオタイプな人物造形とご都合主義的な『島耕作』的な話よね、と思っている。あんまり読んだことないから偏見ですけど。
『半沢直樹』が流行ったときも「まあわかりやすく胸がすく話だからテレビドラマには向いてるよね、と冷ややかにみていた。ドラマ観てないけど。

『空飛ぶタイヤ』も、ストーリー展開としては予定調和的だ。序盤で展開が読めるし、ある程度の数の小説を読んでいる人なら「このへんでもうひと苦難あるだろうな」「中盤でこういうことを言いだしたということはまちがいなくひっくり返されるな」といった予想をできるし、それらがことごとく的中する。ラストも「こういう感じで決着するんだろうな」と思った通りの結末を迎える。
また人物描写にしても、悪いやつは骨の髄まで悪だし、小者は首尾一貫して小者だ。個人が抱える多面性とか矛盾とかはほぼ皆無。

とはいえ、じっさいの読みごたえはというとずっしりと重たかった。実に骨太な物語だ。
息苦しくなるほどの焦燥感やめまぐるしくもスピーディーな展開で、恥ずかしながらあっというまに物語に引きこまれた。いやべつに恥じる必要ないんだけど。
悔しいけど認めざるをえない。おもしろかった、と。

むしろあえて平板なストーリー・人物描写にしたのかもしれない。登場人物も多いしそれぞれの苦悩・葛藤が同時進行で描かれるので、これで登場人物に複雑なバックボーンを与えていたらややこしくてついていけなくなる。
小説というよりシナリオ的な群像劇で、なるほど、池井戸作品が次々に映像化されるはずだ。



大企業で 働いたことがないが、こういう本を読んでいると「大企業で働くのってめんどくさいだろうなあ」と思う。「あのぶどうはすっぱいにちがいない」レベルの負け惜しみだけど。

誰もが知る大企業で働いている学生時代の友人が何人かいるが、話を聞いてると「うらやましい」と思うこともあるけど「ぼくだったら辞めちゃうな」と思うことのほうが多い。
社内の調整に多大な労力を使わないといけないとか、関係各部署の顔を立てるためだけに何も決定しない会議ばかりやっているとか、何かをはじめようと思ったらちょっとしたことでも稟議書を上げて上司やそのまた上司のハンコをもらわないといけないとか、「そんなことやってたら生産的なことやる時間ないんじゃないの?」と思うことしきり。

まあそれでも大会社は大会社として存続しているわけですから意味があることなんでしょうが、中にいたら閉塞感で息が詰まるだろうなあ。そこしか知らない人にとってはそうでもないのかな。

組織が大きくなることのメリットとして「設備投資がしやすい」「情報・ノウハウが蓄積される」「会計などの事務仕事が効率化される」などがあるが、情報化・自動化が進むにつれて「情報の蓄積」「事務仕事の効率化」に関してはスケールメリットがなくなってくると思う。

反面、"大企業病" という言葉もあるように、組織が大きくなるにつれて「組織を維持するための業務」は増えていく。人事査定とか報告会とかの何も生みださない仕事だ。

製造業などの設備投資が必要な仕事はべつにして、これから大企業はどんどん身動きがとれなくなり、組織の縮小が進んでいくのではないかとぼくは思っている。



「その後」の話を最後に。

『空飛ぶタイヤ』では、ラストにホープ自動車が立ち直ろうとする様子がほんの少しだけ描かれ、「はたして体質は改善されるのか?」という疑問を投げかける形で物語が終わる。

さて、現実の三菱自動車はというと。
2000年、2004二度のリコール隠し発覚の後、ユーザーの信頼を失い業績が低迷。グループ会社からの支援を受けて廃業の危機を脱するも、2016年にも燃費試験でみたび不正をはたらいたことが発覚。ライバルであったルノー・日産アライアンスの軍門に下ることとなり、三菱自動車という名前こそ残っているものの、事実上ブランドはほぼ消滅したといっていいだろう。

とうとう最後まで三菱自動車の体質は改善されることがなかったらしい。


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2017年8月27日日曜日

人類を進歩させてくれるメディア


テレビが世に出たとき、世の人々はどんなふうに新しいメディアは歓迎したのだろうか。
もしかすると「テレビが我々を聡明にしてくれる」と期待したのではないだろうか。
遠くの映像を一瞬にして家庭へ届けてくれる機械。それは人々の知識欲を充たしてくれるツールだったはずだ。

だがテレビ登場から数十年たった今、テレビが聡明な人間をつくることを期待する人はほとんどいない。
ためになる番組はあるし、新たな知見も得られる。その中には、読書では決して得られないような知識もある。
とはいえ低俗、不道徳、不誠実な番組はその何倍も存在する。そしていちばん厄介なのは、ぼくたちはそういう番組ばかり好んで見てしまうということだ。
さらに悪いことに、テレビ番組の作り手たちは、ぼくら俗悪な人間の大好きな俗悪な番組ばかり作りよる。
低俗な人間のために低俗な番組ばかり流しているのだから、テレビが高尚な人間を養成してくれるはずがない。
「テレビばかり見ているとバカになる」は、親から言われるまでもなく、誰しもが経験的に知っていることだ。


今から15年ほど前、インターネットにはじめて触れたとき、ぼくは「これはとんでもなく知見を広めてくれるツールだ」と感じた。
それまでは辞書をひいたり図書館に行ったりしても容易に見つけられなかった文献が、いともたやすく手に入るのだ。
すごい。もはや脳は知識の蓄積のために使わなくてもよい。必要な情報は都度インターネットにアクセスして取りだし、人間は洞察と空想のために持てる力を発揮する。人類は飛躍的に成長し、ずっと賢くなるはずだ。


それから15年、みなさんご存じの通り人類は成長していない。その思考力はどちらかというと後退しているかもしれない。

インターネット上には有意義な情報も多い。しかしその1万倍、ごみのような情報が氾濫している。テレビの比ではない。
そして困ったことに、ぼくたちはそのごみに引き寄せられてしまう。インターネットを使って賢くなりたいと思っているのに、腐臭に群がらずにはいられないハエと同じように、読んだところで1ミリアインシュタイン(賢さの単位)も賢くならないとわかっているSNSやニュースサイトやまとめサイトに今日も足を踏み入れてしまう。

そんなはずはないと足掻いて足掻いて15年かかったが、やはり認めざるを得ない。
「インターネットで賢くなる」というのは幻想だ。不可能だ。
1万人に1人ぐらいは賢くなれるかもしれないが、そういう人はインターネットがなくたってぐんぐん学べる。


インターネットがテレビに代わる『娯楽の王様』になる(またはもうなっている)ことはまちがいない。
しかし、ぼくらが俗物であるかぎり、人類を進歩させるという役割についてはまったく期待できない。


2017年8月26日土曜日

室内ゲリラ豪雨の夜


「人生における愚かな夜」のベスト3を決めるとするならば、家の中で水鉄砲を撃ちあった晩は確実にランクインするだろう。


20歳のときだった。
大学の夏休みで、実家に帰っていた。
その日は父母が墓参りでおらず、ぼくは大喜びで高校時代の友人たちを招待した。
「おれんち誰もいないから来いよ」

リビングで酒を飲んでばか話をしていると、ふと傍らにあった水鉄砲が目に留まった。
昼間川で遊んだときに使ったものだ。水鉄砲は3丁あった。猟銃タイプの、水量も水圧もあるやつ。
ぼくはこっそり水鉄砲を手に取り、洗面所に向かった。水を入れ、そっとリビングに戻ると友人の背中に向けて少量の水を放射した。
友人は「ひゃっ!」と大声を上げて驚き、それを見たぼくらはげらげらと笑った。
些細ないたずらだった。

そこから水鉄砲3丁を使っての撃ちあいになるまではあっという間だった。
はじめは遠慮しながらちょろちょろと水をかける程度だったが、酔っぱらっていることもあり、頭から服からずぶ濡れになるにつれてためらいはなくなった。室内ということも忘れて全員おもいっきり引き金を引いていた。

ぼくはビデオカメラを持ってきてこの狂った饗宴を撮影した。1人は実況役にまわり、残る3人はそれぞれ水鉄砲を持って互いに撃ちあった。
ぼくもビデオカメラを片手に家中を走りまわりながら「いいぞ、もっとやれ!」「トイレに逃げこんだぞ、追え!」と叫んで大笑いした。

たぶん、第一次世界大戦のときも こんなふうに一瞬で戦場が拡大したのだと想像する。

セルフイメージはこんなんだった

家の中で水鉄砲の撃ちあいをやったことのある人ならわかると思うが、水鉄砲戦争は野外でやるより室内のほうが7.5倍おもしろい。

まず隠れる場所が豊富にあるので戦術が立てやすい。
トイレに隠れて扉のすき間から狙い撃つ、洗面所で待機しておいて弾切れで給水にやってきた反撃不可能なやつに一方的に射撃を浴びせるなど、さまざまな作戦が可能になる。

また、家の中がびしょびしょになるのも楽しい。
相手を追いつめることに熱中するあまり、濡れたフローリングにすべってずっこける、という事態が何度も生じた。
そのたびに他の面々は大笑いしながら、死者にとどめを刺すように集中豪雨を浴びせた。

なにより背徳感が楽しい。
家の中を水びたしにするのは悪いことだ。だから楽しい。そこに理屈はない。
ビデオカメラで撮影していたおかげでそのときの映像はいまだに残っているが、誰もがほんとにいい笑顔をしている。


1時間以上は撃ちあっただろうか。
アルコールが入っている状態で走り回り大声を上げていたので、さすがに誰しも疲れきった顔をしていた。
「そろそろやめよっか」
誰からともなく言い、改めて部屋の様子を眺めた。

見事なぐらいびしょ濡れだった。
床や壁はもちろん、天井やソファにまで水がかかっていた。テレビも濡れていて、電源を入れたら一瞬ファミコンがバグったときみたいな破滅的な色彩になって「やばい、壊れた!」と焦ったが、よく拭いたら直った。
家中いたるところに銃撃戦の痕跡が残っていたが、和室だけは無事だった。日本人としての良心 がかすかに残っていたのだろう。

2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む


「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

2017年8月24日木曜日

2種類の恐怖を味わえる上質ホラー/貴志 祐介 『黒い家』【読書感想】

内容(「e-hon」より)
若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で保険金の支払い査定に忙殺されていた。ある日、顧客の家に呼び出され、期せずして子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。ほどなく死亡保険金が請求されるが、顧客の不審な態度から他殺を確信していた若槻は、独自調査に乗り出す。信じられない悪夢が待ち受けていることも知らずに…。恐怖の連続、桁外れのサスペンス。読者を未だ曾てない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編。第4回日本ホラー小説大賞大賞受賞作。

子どもの自殺を、生命保険会社の社員が殺人ではないかと疑う……という導入。
序盤は生命保険会社の内情説明が多く、貴志祐介氏は生命保険会社勤務だったらしいので「ああ、よくある職業ものミステリね」と思っていた。
いっとき流行ってたんだよね。医者とか弁護士とかが書く、業界内の話とからめたミステリが。業界の暴露話ってそれだけでけっこうおもしろいから、ミステリとしての完成度はいまいちでもエンタテインメントとしてはそこそこのものになるんだよねー。
……と思いながら読んでいたら、中盤から「ごめんなさい、これは職業関係なくサスペンスとしてめちゃくちゃおもしろいわ」と反省した。

いやもう、得体の知れないものにいつのまにか包囲されて逃げ場がなくなっていく様子が肌で感じられて、背中にじっとりと嫌な汗をかいた。
寝床で読んでいたのだけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。とにかく気持ち悪い小説。あっ、褒め言葉ね。


最後までずっと怖かったんだけど、途中から恐怖の質が変わる。
後半はアメリカホラー映画の怖さだね。これはこれで怖いんだけど、アクション映画のスリリングさ。刃物を持った殺人鬼に追いかけられたらそりゃ怖い。あたりまえだ。だけど後に引くような怖さではない。どうなったら助かるかがわかるからね。
本当におそろしいのは中盤。後半までは犯人もわからないし犯行の目的もわからないという「出口の見えない恐怖」。怪談話みたいにじんわりくる不気味さがあるね。

そういえば貴志祐介氏には『悪の経典』という作品もあって、サイコパスというテーマを扱っていることなど『黒い家』と共通する点も多い(発表は『悪の経典』のほうがずっと後)。『悪の経典』も、前半はホラーで後半はサスペンスアクションだったなあ。


ラストにとってつけたような問題提起があったのがちょっと蛇足に感じたけど、中後半はほんと申し分なしのホラーでした。後味の悪い話が好きなぼくですら、読むのがつらく感じたぐらい。

なにが怖いって、『黒い家』に出てくるヤバい人みたいなのが現実にもいるってことがいちばん怖いんだよなあ……。



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