2017年7月12日水曜日

寝食を忘れて遊べるおもちゃ


娘の4歳の誕生日に、自転車を買った。

それまでもストライダーというペダルのない自転車に乗っていたのだが、さんざん乗り回してタイヤがつるつるになってしまったので、今度はペダルのあるコマつき自転車を買うことにした。

2週間前に自転車屋に行き、娘に自転車を選ばせ、予約だけして「誕生日になったら買いにこようね」と伝えた。
それからずっと「いつ誕生日?」と訊いてきた。まだ正しい時間の概念を持っていないのだ。


そして誕生日。
新しい自転車を手に入れた娘は、狂喜乱舞していた。
ベルをちりんちりんと慣らし、カゴがあることがうれしくて意味なく葉っぱを入れ、乗ったらいつまでも走り回り、降りたら降りたでずっとペダルを回して遊んでいた。

日曜日。いつもは起こしても起きないくせに6時半に起きだして「おとうちゃん、自転車乗りにいこう!」と誘ってくる。
「朝ごはん食べたら行こっか」と言うと、「朝ごはんの前に自転車に乗る!」と言って聞かない。
じゃあちょっとだけね、ということで妻に「朝ごはんできたら電話して」と言うと、「おかあちゃん、朝ごはんつくるの遅くていいからね!」と言い残して娘は自転車にまたがった。


前日も一日中自転車に乗っていたのに、まだ飽きもせずに早朝から自転車で同じところをぐるぐる回っている(あぶないのでまだ公園の中しか走らせていない)。

その姿を見ながら、子どもってすごいなあとぼくは感心していた。

文字通り「寝食を忘れる」という状態だ。
寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、ずっと自転車を乗り回している。
こんなふうに何かに熱中することは、ぼくの人生においてまちがいなくこの先ない。
5億円拾って自分の好きなものを買いあさったとしても、半日もすれば飽きてくるだろう。

睡眠時間を削って一日中遊べるものがあるなんて幸せなことだなあ。うらやましいかぎりだ。ぼくみたいなおっさんにはそんなおもちゃはもう手に入らないよ、と大きなあくびをしたのだけれど、ふと思いいたった。

これか。

日曜の朝にたたき起こされて、眠いし腹もへったといいながら子どもが遊ぶのにつきあっている時間。

これこそが、寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、何かに打ちこんでいる時間か……。
意外と眠くてつらいものだ。



2017年7月11日火曜日

31歳が大学のサークルに入ってもよいものか



大学のとき、ジョギングサークルに入っていた。

フルマラソンの大会に出て3時間を切るぐらいで走る人もいれば、1年に数回走るだけの人もいたり、中には1年生のときは何度か走っていたけどもう5年以上も走ってません(つまり留年している)という人もいた。
大学の構内に部室があり、こたつがあったり漫画が置いてあったりするので、授業の空き時間に昼寝をしたり、夜遅くまで部室内で酒を酌みかわしたり(今はどうだか知らないけど当時は大学内は24時間出入り自由だった)、走る人も走らない人も仲良く楽しくやっていた。
ずっと入り浸っている人もいるし、いつの間にか来なくなる人もいる。来るものは拒まず、去るものは追わず、という雰囲気のサークルだった。


あるとき、31歳の男性が部室にやってきた。
「すみません、入口に新入会員募集って書いてあるんで来たんですけど……」
「はぁ……」
「ここって年齢制限とかあるんですか」
「いえ、そういうのはないと思います……」
「じゃあ入会させてください」
というようなやりとりがあって、彼はそのまま部室に居ついてしまった。
彼は、社会に出てから大学に入りなおしたのか、聴講生だったのかは忘れたが、とにかく31歳の学生だった。

はじめの数日は彼も走っていたようだったけど、やがて走らなくなり、部室で昼寝をしたり、酒盛りに参加したりするだけの存在になった。

ほどなくして、サークルのメンバーは彼を避けるようになった。

もともと10歳くらい離れているから共通の話題は少ないし、おまけに彼は自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプの人だった。
邪険にするのも悪いから話しかけられたら相手をするけど、すぐに嫌になる。

みんなが集まって楽しく話している → 彼がその場に入ってきて話に参加する → 1人去り2人去り、最後に残された優しい人(あるいは要領の悪い人)だけが話に付き合わされる

ということが日常的な風景だった。
彼が女子学生とばかり話していることも嫌われた原因だったと思う。
そこで自分が嫌われていることに気づける人だったら、はじめから31歳になって大学生のサークルに入ろうとは思わなかっただろう。

大学生のサークルに入ってきた31歳は明らかに異質だったが、彼自信はそういうところにまったく無頓着だった。自分はサークルに溶けこんでいると思っていたようで、それは飲み会の会費を徴収するときに「2年生以上はひとり3,000円ね」と言われたらぴたり3,000円を出すことからもうかがいしれた(さすがに1年生扱いしてもらえるとは思っていなかったらしい)。


サークルの雰囲気は悪くなり、彼がいるときはあからさまに部室の人口が減った。
「こんなことならはじめに『年齢制限あるんです』って言っとけばよかったな」とぼくらはため息をついた。

ある日、先輩会員(2浪していた上に大学院生だったので26歳ぐらいだった)が事情を聞き、彼との間に話し合いの場をもったらしい。
どんなやり取りがあったかは知らないけど、「他の会員が困っているから配慮してもらえないか」というようなことをわりと率直に伝えたのだと思う(遠回しに伝えて汲みとってくれる人ではなかったのでたぶんストレートに言ったのだろう)。
その日から彼は姿を見せなくなり、サークル内は元の平和を取り戻し、ぼくらは勇敢な先輩に感謝をした。



さて、彼の行為の何がまずかったのだろうか。

・ジョギングサークルなのに走らずに部室でくだを巻くだけだったこと。
これは彼にかぎった話ではない。ぼくもそういう会員だった。

・自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプだったこと。
これは決して良いことではないが、そういうタイプの人は彼の他にもいた。世の中にはそんな人は掃いて捨てるほどいる。嫌われる原因にはなるが、コミュニティを出ていってくれと言われるほどのことではない。

・31歳だったこと
これ自体がまずいわけではない。現にさっき登場した先輩は26歳だった。30歳をすぎてもときどき顔を出すOBもいた。その中にはあまり好かれていない先輩もいたが、後輩が「もう来ないでほしい」なんて言うことは当然ながらありえなかった。

つきつめて考えると、身もふたもない答えになるけど、「31歳になって大学のサークルに新規入会したこと」つまりは「空気を読めなかったこと」ということになる。
(「自分の話ばかりする」というのも空気が読めないことに起因していたのだろう)




彼は、何一つ規則をやぶってはいなかった。
「年齢制限はありません」と言われたから入会したわけだし、自分の話ばかりしてはいけないという規則もないし、「ひとり3,000円」と言われたから19歳と同じ3,000円を支払った。
どれも明文化されたルールに違反しているわけではない。

「暗黙の了解」を守らなかっただけ、いや理解していなかっただけだ。



空気が読めないメンバーをコミュニティから追放することは正しいことだったのだろうか。

倫理的に考えるなら、正しくないと思う。小学校だったら「〇〇くんと仲良くしてあげましょう」と先生から怒られるやつだ。
でも、小学1年生の輪の中に6年生が「ぼくも入れてー」と入ってきたらどうだろう。先生は「仲良くしましょう」と言うだろうか。


31歳になって大学生のサークルにずかずかと入り込んできた彼がいなくなったとき、ぼくは心底ほっとした。他の会員も同じ気持ちだっただろう。
彼が自分の話ばかりするタイプではなく、人並みにコミュニケーションをとれる人だったとしても、20歳そこらだったぼくらはやはり「31歳が入ってきた」ということでいくらかの居心地の悪さを感じただろう。

「空気を読め」と他人に強要することは、閉鎖的で傲慢な態度なのかもしれない。
しかし、やはり空気を読めない人とは一緒にやっていきたくないとも思う。


前いた会社で、「女性が多く活躍している職場です」というパートの求人を出したときに、応募の電話をかけてきた40代の男性がいた。
「今のところ女性のみが働いておりますのでやりづらいのではないかと思いますが……」と伝えると「私はそういうのを気にしませんので」と自信満々に言われた。
おまえが気にしなくても周りが気にするんだよ、と伝えるわけにもいかず「では次の選考に進んでいただく場合にのみこちらからまた連絡いたします」と言って電話を切った。
きっと彼はなぜ不採用になったのか気づくことなく、同じような求人に応募しているのだろう。

言外の意味を読み取れない人はたいへんだろうな、と思う。
しなくてもいい苦労をしつづけるんだろう。



しかし言外の意味を読み取ってばかりいても人との距離は近づかない。

ぼくが最後に「友達をつくった」のはもう何年前だろう。
仕事で会う人で、妙に馬があって「この人と遊んだらおもしろいかもしれないな」と思う人もいるけど、わざわざ誘うことはしない。
「うっとうしがられるかも」「余計な気を遣わせてしまうかも」と思うと足踏みしてしまい、まあそこまでして誘うほどでもないか、とあきらめてしまう。

この歳になって親しい友人をつくろうと思ったら、ときには空気を読まない大胆さも必要なのかもしれない。


そんな折、娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

大学生のサークルに入ってきたあの31歳男性だったら自然に「じゃあいつにします?」って言えたんだろうなあと思って少しうらやましくもあり、いややっぱりそうでもないな。


2017年7月7日金曜日

おっさん修行

保育園でときどき顔をあわす男の子(5歳くらい)に、
「おはようございます、おっさん!」
と云われた。

思わず「おっさんちゃうわ!」と言い返そうとしてしまったが、まてよぼくももう30代半ばだ。白髪も増えたし、水虫で通院中だし、どこからどう見てもおっさんだ。
ましてや5歳児から見たら、自分の7倍近くも生きている男など純度100%のおっさんでしかないだろう。
そんなおっさんが「おっさんちゃうわ!」と云うことは嘘偽りでしかなく、子どもの教育によろしくない。


なんと返したらいいんだろう。
ぱっと浮かんだのが「そやで、おっさんやで」という言葉だった。
悪くはないのだが、男の子はなんらかの反発があるものと期待して「おっさん!」という軽めの悪意を含んだ言葉を投げつけているのだから、それをあっさりいなしてしまうのは期待を無視するようで心苦しい。
それに、「おっさんですけど何か?」と居直っている感じがして、喧嘩腰であるかのように受け取られるのも本意ではない。

かといって「おっさんって言わんといてや!」というのも、本気で抵抗しているようで大人げない。

そうだ、軽口には軽口で返して「おはよう、おじいちゃん!」と言い返すのはどうだろう。
これなら、こちらが重く受け止めていないことも伝わるし、相手のユーモアをしっかりと受け止めて大人の余裕も見せた上で、冗談で返すことのできるおもしろいおっさんだと思ってもらえるんじゃないだろうか……。


ということを思案していたのが時間にして数秒。

「おっさん!」という言葉を投げつけられて数秒間硬直しているぼくを見て、深くショックを受けたと思われてしまったのだろう、男の子の隣にいたお母さんから「すみません、すみません」と平身低頭で謝られてしまった。
「あっ、いや……」と口ごもるぼくを後にして、男の子はお母さんに「そんなこと言わんの!」と怒られながら連れていかれてしまった。

後に残ったのは、「おっさんであることを受け入れられずに何も言い返せなかったおっさん」ただひとり。

まだまだおっさんとしての修行が足りん。

うまく返せなかったことを悔やむおっさん


2017年7月6日木曜日

オイスターソース炒めには気を付けろ/土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』【読書感想エッセイ】

土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』

内容紹介(e-honより)
食事はすべてのはじまり。大切なことは、一日一日、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる暮らしのリズムをつくること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。合理的な米の扱いと炊き方、具だくさんの味噌汁。

 テレビでもおなじみの料理研究家である土井義春さんのエッセイ、というか提言。

 ほとんどタイトルがすべてを言いあわわしている。
 一般に食事は一汁三菜がいいと言われているけど、土井さんは「ふだんからそんなにごちそうを食べる必要はない。具だくさんの一汁を作ればごはんのおかずになるし栄養もとれるし作る人の負担も少ない」と書いている。
 一汁三菜がだめと言ってるわけではなく「しんどい思いをして作ったり、レトルトや出来合いの総菜で無理に一汁三菜にするぐらいだったら一汁一菜でいいと思うよ」ぐらいのかる~い提案だ。

 この本には土井先生のつくった「一汁」の写真が載っているのだが、それがほんとにきれいじゃない。率直にいうと汚い。
 ぐちゃぐちゃの汁物で、トマト、ピーマン、きゅうり、ハム、小魚、でろでろの卵、その他よくわからない具材が混然一体となっている。料理研究家としてこの写真を載せるのは勇気が要っただろうなあ。

 しかしプロとして他人に指導する立場にある土井先生がこういう写真を載せることにこそ意味があるわけで、「プロですら家ではこんな適当なものを食べているんだから我々はまったく気張る必要がないんだ」と勇気を与えてくれる。

勇気をくれる、美しくない料理の写真



 ぼくが一人暮らしをしていたときは、一応自炊はしていたけど一汁一菜どころか、一汁だけまたは一菜だけだった。
 一人分のごはんをつくるのは難しい。いろんな食材を買っても腐らせてしまうし、たくさんつくっても食べきれない。少量のおかずを何種類もつくる、なんてよほどの料理好きじゃないとやってられない。
 それでも腹はふくらませなくちゃいけない。栄養をとらないといけない。
 肉や野菜を切って、全部まとめて調理するだけ。調理といったって「塩こしょうで炒める」「醤油で炒める」「味噌で煮る」「醤油で煮る」「カレーにする」の5種類ぐらいしか選択肢はなかった。
 炒め物のときはどんぶりによそったご飯に乗っける。食器が1つで済むので、洗い物が少なくて楽だった。

 料理とも呼べないようなものだったが、まあこれでも独身男にしてはやってるほうだろうと自分に言い訳をしていた。
 結婚してからも料理をしていたが成長はしなかった。一汁一菜になったぐらいで、味付けは例によって5種類のローテーションでやりくりしていた。
 すると子どもができたタイミングで妻から「あなたの料理はおいしくないわけじゃないけど味付けが適当だからわたしがやる」というせいいっぱい気を遣った戦力外通告をいただき、今ではほとんど料理をする機会がなくなった。

 それじゃあ洗い物ぐらいはとやっていたんだけど、ぼくは皿の裏に残った洗剤を気にしない性質なので「食器用洗剤なんか少々口に入れても大丈夫なものしか使ってないだろうし料理についたらむしろクリーミーさがプラスされるのでは?」なんてうそぶいていたら、やはり妻から「洗い物もしなくていいわ。どうせわたしがやることになるから」と部署移動を命じられ、今では資料整理室という名の追い出し部屋に放り込まれて日がな一日新聞の切り抜きをさせられる日々を送っている。


 話がそれたが、極力手間ひまのかからない料理を心がけているものとして、この土井先生の「一汁一菜でよい」という提案には大いに励みになった。

 さらに土井先生は「家で食べるごはんはそんなにおいしくなくてもいい」とも言う。

 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。

 そうそう。ぼくは味に無頓着なほうなので、よほど辛いとか真っ黒焦げとかでなければなんでもいいよ、と思う。
 高いお金を出して食べるレストランでの食事にはおいしさを求めるけど、家庭の味ってほどほどでいいよね。
 同じものをくりかえし食べるからこそ骨の髄まで染み込むわけで、「おふくろの味」となるんだろうね。



 家で「おいしい!」と言うことについては、ぼくには失敗談がある。

「料理をつくっている人からするとおいしいと言ってもらいたい」という話を聞いたので、妻がつくった料理で「おいしいな」と感じたときは率直に伝えるよう心がけた。
で、あるとき「これおいしいね!」と言い、その数日後にまた「これおいしいやん」と言い、また別の日に「このおかずおいしいね」と言うと、妻からこう言われた。

「あんたがおいしいって言うときってオイスターソースで味付けしたときだけやね。それ料理を褒めてるんじゃなくてオイスターソースを褒めてるだけやん」


 そうだったのだ。ぼくは何も考えずに「おいしい!」と発していたのだが、褒めていたのはすべてオイスターソース炒めだったのだ。

……という失敗を喫したことがあるので、「何も言わないことこそがおいしいということだ」という土井先生の言葉を妻に献上して、今後は余計なことは言わないように努めようと思う。



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2017年7月5日水曜日

なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家/【読書感想】町田 康 『正直じゃいけん』

町田 康 『正直じゃいけん』

内容(「e-hon」より)
日本経済新聞に連載された「随筆ひとり漫才」、「週刊朝日」に連載された「アナーキー・イン・ザ・3K」を初めとする真理への希求と言葉への愛が炸裂する珠玉のエッセイ集、待望の文庫化。

とある書店で バースデー文庫 という企画をやっていた。1月1日生まれから12月31日生まれまで366人の物書きの本を並べ、「あなたとおなじ誕生日の作家の本を読んでみませんか?」という企画だ。
へえ、ぼくは誰と同じなんだろうと見てみたら、町田康といっしょだった。

町田康か。
ずっと気になっていた作家なんだよなあ。でも読んだことはない。
『告白』とか『パンク侍、斬られて候』とか書店で手に取ったことはあるけど、「うーん、クセが強そうな作家なのにぶあついなあ。もし性にあわなかったときにこれを完読するのはしんどいな……」と思って敬遠していたのだ。
本好きの人にとっては1人や2人はいるだろう、「なんとなく気になるけどなんとなく読んでみる気が起こらない作家」。書架から手にはとってパラパラとやることはあるけど、レジまで持っていくことはない作家。「ほかに読む本がどうしても見つからないときにでも読むことにしよう」と思って、そんな機会は決して訪れることがない作家。ぼくにとって町田康はそういう作家だった。

バースデー文庫で見たときも「んー、町田康かあ……。悪くないね……」なんて言いながらも結局は買わなかった。
でもずっと気になっていたので、後日に「まずはエッセイぐらいから……」と手に取ってみた。

 ぜんたい自分はなにをやっても人に後れをとることが多いが、自動車の運転をしている場合それは顕著で、絶えず割り込みその他にあっているのであるが、そういう車を数多、目撃するうちに、そうして無茶をする車、得手勝手な行動によって交通に問題を起こしている車がある特定の車種に集中していることに自分は気がついた。
(中略)
 というのは、十人十色、などというように、人は各々その性格が異なるはずなのに、なぜこの車に乗った途端、申し合わせたように、かくも凶悪・凶暴な運転をするようになるのであろうか? と自分は考えたのである。
 で、さんざんに首を捻った挙げ句、自分はエアコンじゃないか、という結論に到達した。すなわち、エアコンのフィルターに毒が塗ってあって、スイッチを入れると毒が発散、これを吸い込んだドライバーは、いかな温厚な人といえども、精神に異常をきたし、どらあ、どけえ、殺すぞ、という状態に陥る、といういわば仮説である。
『ビーエムの怪』より)

なるほど、町田康ってこういう文章を書くのか。
パンクロッカーだけあってパンクな文章をつづるね(パンクってどんなのかと聞かれても正確には答えられないけど)。
ブログやSNSを通して誰もが情報を発信できるようになって、こういう勢いにまかせて書いたような文章を書く人はめずらしくなくなった。たぶんそういう人たちのうち、かなりの人が町田康の文章に影響を受けたんだろうな。

町田康自身は野坂昭如や中島らもの影響を大きく受けたと書いていて、ああなるほど改行の少ない疾走感のある文章とか口語交じりの荒っぽい言葉づかいとか、随所に影響を感じることができる。
じつはきっちり計算して書いているんだろうなあ、という気がする。上に引用した文章でも、車種を伏せているのにタイトルでばらしちゃってるとことか。


はまる人にははまるんだろうなあ、という文章で、しかし「はまる人にははまる」≒「自分にははまらなかった」わけで、ぼくは「もうしばらく町田康は手に取らなくていいかな」という感想だった。
文章自体がおもしろすぎると、まとめて読んだときに疲れちゃうんだよねえ。
土屋賢二もそうだしぼくの中では村上春樹もその部類に入るんだけど、文章がおもしろいと内容が頭に入ってきにくい(というか内容はあんまりない気がする)。読んでいる間はおもしろいけど、読後にぜんぜん記憶に残っていない。
ブログ、SNS、週刊誌連載の1記事ぐらいだったらそれでいいんだけど、1冊の本としてまとめて読むとなかなかつらいものがある。初対面の人に出身地はどこですかとかご兄弟はいますかとかのあたりさわりのない話を1分するのは平気でも1時間は話していられないように。

『正直じゃいけん』も週刊誌連載をまとめた本らしいけど、媒体によって向き不向きがあるから、なんでもかんでも本にすればいいってもんじゃないなと思う。ファンにはうれしいだろうけどさ。



町田康氏は細かいことをああだこうだとうだうだ考えていて、共感できるところもなかなかに多い。

 もっとも分かりやすいのは「思ってる/考えてる」という文言でこれを言う人はけっこうやばいので注意が必要である。
 あなたにこうこうこういった内容の仕事を依頼したい「と思っています/と考えています」なんて文書が送られてくる。いくらあなたがあなたのなかで思っていると言ったところで世間は、「ああ、そう」と言って終わりで、一生思っていろ、と言いたくなるがしょうがない検討をしたところ、そういう人に限って具体的日程等の諸条件があわぬ場合が多く、その旨を伝えてお断りを申しあげると今度は、お引受けいただかないと、「困ります」と言って電話をかけてくる。
 困るのはあなたであって私はちっとも困らないので、困る、と言われても困る、あ? やはり俺も困るのか? などと思いつつも諸条件があわぬものは仕方ないので、やはり諸条件不可能である旨を伝えると、再度、連絡があり、ということは諸条件の見直しをおこのうてくれたのか、と思うとそうではなくして、いかに自分がこの仕事を依頼したいと「思って」いるか、について縷々述べるばかりで条件の見直しはいっさい行なわれていない。
『あなたとわたし/なかよくあそびましょ』より)

ぼくもこういう言葉遣いはすごく気になるほうなので、よくわかる。
ぼくが嫌いなのは「お願いしてもよろしいでしょうか」という言い回し。いや願うのはあなたの個人的かつ内面的な行為だからこちらが妨げる類のものではありませんよ、と思う。
思想の自由が保証されているんですからどうぞ好きなだけお願いしてください。その上でちゃんとお断りしますから!



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