ぼくが中学生のころは、携帯電話なんて誰も持っていなかった。
中学生はもちろん、大人でもほとんど持っていない時代だった。
だから同級生の女の子の家に電話をかけるのはほんとに緊張した。
電話をかけると、たいていはその子のお母さんが出る。
「○○子さんいますか」
というのがまず恥ずかしかった。
ふだんは苗字で呼んでいるものだから、『女子を下の名前で呼ぶ』ということだけで恥ずかしくてたまらなかった。
「ごめんね、○○子は今お風呂に入ってて......」
と言われたりすると、さらに恥ずかしくなった。
同級生のあの子が今お風呂に......と思うと、あらぬ想像をして顔が真っ赤になった。
たまに、お父さんが電話に出ることもあった。
さすがに「うちの娘にどのような用かね」と詰問されるようなことはなかったが、それでもびくびくした。
思わず何も言わずに受話器を置いてしまったこともあった(発信者の番号が相手に表示されない時代だったからこそできたことだ)。
たった一本の電話をするだけですごく緊張した。
携帯電話のように「今何してるー?」ぐらいの軽いノリで電話をかけられるような時代じゃなかった。
無理矢理にでも用事を作って、電話をしていた。
もしあのとき携帯電話があれば、ぼくでも女の子と気軽に電話やLINEのやりとりができただろう。
そうすれば、ひょっとすると彼女ができて、それはそれは楽しい学生生活を送ることができたんじゃないだろうか。
あれは携帯電話がないゆえの悲劇だった。
そして、今の若い人たちは、あたりまえのように携帯電話とともに学生生活を送っている。
携帯電話のない学生生活を送った世代は、三十代中盤のぼくの世代が最後だろう。
ぼくが九十歳くらいまで長生きしたら。
語り部として、携帯電話がなかったことの悲惨さを若い人たちに伝えていかなければならない。
各地の中学校をまわって、講演をしなければならない。
それが、学生時代に彼女のいなかったぼくに課せられた使命なのだと思う。
2016年6月28日火曜日
2016年6月27日月曜日
【読書感想文】テランス・ディックス 『とびきり陽気なヨーロッパ史』

テランス・ディックス『とびきり陽気なヨーロッパ史』
イギリス人ノンフィクションライターが書いたヨーロッパ史。
原著が出版されたのが1991年。
ベルリンの壁崩壊が1989年、欧州連合条約(EUの成立を定めた条約)が調印されたのが1992年なので、まさに「今からEUをつくってヨーロッパがひとつになるんだ!」という時期に書かれた本です。
なので全体的に「ヨーロッパもいろいろあったけど、これからはひとつになって仲良くなっていこうね!」というテイストで書かれています。
25年後たって、EUがバラバラになろうとしている(しかも当のイギリスがまっさきに離脱することになった)この時期に読むと、もの悲しくなってしまいます。
「この頃は希望に満ちあふれていたのにどこでどうまちがってしまったんだろう......」と、離婚前夜に結婚式の写真を見ているような気分になります。まだ離婚したことないけど。
中立公平な立場から書いているわけではなく、「イギリス人から見たヨーロッパ史」なので、かえって新鮮でおもしろいです。
(紹介されているのはEU発足時加盟国のうち、自国イギリスを除いた12国です)
イギリス人からはヨーロッパってこう見えるんだ、と(あくまで、いちイギリス人の意見んですけど)。
イギリスとの長い確執を持つアイルランドにたっぷりページを割いている一方で、ドイツはここ3世紀くらいの歴史しか語られていなかったり(それまでドイツという国がなかったのでしかたないところもありますが)。
日本人がヨーロッパを語るとしたら、長い歴史を持つギリシャやイタリア(ローマ帝国)か、大国であるイギリスやフランスからはじめると思うのですが、第1章がベルギー、第2章がデンマークというのもおもしろい。
でもよく読むと、ベルギーやデンマークというのは実にヨーロッパらしい歴史を持っている国なのです。
ずっと周囲の国との争いに翻弄され、第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領され、冷戦時は米ソ対立に巻き込まれるという、気の毒な歴史。
ヨーロッパの中央にあるがゆえにこんな運命をたどってしまうのですね。
ヨーロッパの国々は地続きでいろんな外国に旅行できていいなあ、とのんきなことを考えていたのですが、とんでもない。
かんたんに攻めこまれるということですからね。
島国である日本の何倍も、防衛戦略も外交も難しいんでしょう。
逆にいうと、こうしたベルギーやデンマーク、それからオランダやルクセンブルクのような小国がしょっちゅう攻めこまれたという歴史があったからこそ、数多の苦難を乗り越えてヨーロッパ連合が誕生したんでしょうね。
連合を組まないと大国には太刀打ちできないですもんね(その中にあってEUに加盟せずに孤高を貫くスイスも、それはそれですごいですけど)。
ぼくは学生時代に世界史をちゃんと勉強していなかったのですが、今ちゃんと歴史をひもといてみると、ヨーロッパ史ってほんと血みどろの歴史ですよね。
常にどこかで血が流れてるんじゃないかって思うぐらい。
冷戦後やっと「さほど緊張が走っていない平和なヨーロッパ」が訪れましたが、それ以前は千数百年前のローマ帝国時代にまでさかのぼらないと、平和な時代ってないですもんね。
最後に、この本に出てくる、役に立つ法則を紹介します。
ナポレオンとヒトラーはこの法則を破って身の破滅を招いています。
どうかみなさんもご参考にしてください。
2016年6月24日金曜日
【読書感想文】 ジョージ・フリードマン『続・100年予測』
『続・100年予測』
ジョージ・フリードマン
はじめにことわっておかないといけないのが、タイトルが大嘘だということ。
よく売れた『100年予測』の次に書かれた本なので『続』というタイトルにしたんだろうけど、ぜんぜん続編じゃない。
『100年予測』とはほとんど関係がないし、この本では今後10年間のことしかふれられていない。
ちなみに原題は『THE NEXT DECADE(次の10年)』。
また単行本では『激動予測:「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』という内容を正確に言い表すタイトルだったので、文庫化するときにわざわざひどい題をつけたようだ。
これはハヤカワ書店が金儲けのことしか考えなかったせいだろう。
さらにハヤカワ書店はこりずに、この次に書かれた本を『新・100年予測』として出版したそうだ。
その本は未読だけが(もう買う気もない)、聞いたところでは予測ですらなく、過去の話がほとんどだとか。
ちょっとひどすぎるね。
タイトルも作品の一部だから、あまりにでたらめな邦題はつけないでいただきたい。こういうことやってると読者を失うよ。
とまあ、タイトルは最低ですが、本の内容はいいものでした。
ただ『100年予測』があまりにおもしろかったので、それと比べるとちょっと期待はずれかな。
ジョージ・フリードマンはアメリカの地政学者。
地政学とは聞き慣れない学問かもしれないが、地形から政治や軍事をとらえる学問。
『100年予測』にはこんな言葉が出てきた。
歴史を動かすのは、個人の仕事ではなく地理だという考え方だね。
ジョージ・フリードマンによれば、アメリカが世界の覇権を握ったのも、ソ連が崩壊したのも、地形が決めたこと。
歴史ドラマが好きな人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。
坂本龍馬やナポレオンがいてもいなくても(長期的視野で見ると)大差なかった、ということになるとドラマ性がなくなっちゃうもんね。
地政学の考え方を認めたがらない人が少なくないことも、理解はできる。
でも、たとえば1962年に起こった「キューバ危機」。
キューバへの核弾頭配置をめぐってあわや第三次世界大戦が起こるのではないかという一触即発の事態になった事件。
これはまちがいなく、キューバの位置がアメリカの大西洋進出を妨げる絶妙な位置に存在しているからこそ起こった事件だった。
ぜんぜん違う場所にあったら、キューバのような小国が原因で世界大戦が起こりかけることはありえない。
そういえば第一次世界大戦勃発のきっかけも、オーストリアの皇太子が暗殺されたことだった。
オーストリアも大国ではないが、地理的に重要なポジションを占めていたがゆえに世界大戦につながったんだろうね。
2009年に日本語訳が出版された『100年予測』によれば、今後100年で日本はトルコと組んでアメリカと敵対し、21世紀後半にはメキシコが台頭してアメリカと衝突するという予測が書かれていた。
にわかには信じられないことだけど、根拠を読めば「なるほど、ありえなくもないな」と思わされる(根拠が気になる方はぜひ読んで)。
一方、『THE NEXT DECADE』(邦題がひどいので原題で書く)には奇抜な予想は書かれていない。
どうすればアメリカの国益を最大化できるかという視点に基づいて、世界各地でのアメリカの振る舞い方が示されている。
フリードマンによれば、アメリカがとるべき戦略はシンプル。
要するに、各地域で巨大勢力が生まれないように互いに争わせ、アメリカ自身は手を汚さないようにしましょう、というスタイルだね。言い方は悪いけど。
でも実際このとおりだとおもう。
この考え方を知っていれば、東アジアに対するアメリカのスタンスがよく理解できる。
アメリカにすれば、日本と中国と韓国は互いに憎みあっているぐらいの状態が望ましい。
中国と敵対しているかぎり、日本がアメリカにたてつくようなことはまちがってもないだろうからね。逆に、日中が仲良くなればアメリカにとって経済的にも軍事的にもたいへんな脅威になる。
だからドンパチやらない程度に仲が悪くなっていてほしい。
アメリカは日本の味方もしないし韓国の肩も持たない。
北朝鮮がアメリカに攻撃をしかけてくるのは困るけど、北朝鮮が日本や韓国と険悪な状況にあるのは好ましい。
アメリカにとっていちばん困るのは、日本と中国と韓国(と北朝鮮)が結託して、東アジア連合を作られること。
……ってな具合に、地政学がわかると世界情勢がよくわかるし、将来の予想も立てやすくなる。
「物理的な位置が国家間の関わり方を決める」というのが地政学の考え方だけど、これって国家の話だけじゃないよね。
個人の行動や人間関係も、地理によって大きく影響を受ける。
学生時代、ぜんぜん意識していなかった異性なのに、席替えで隣の席になったとたんに急に気になって……なんて経験、ない?
小学生のときによく遊んだのは家が近い子だったんじゃない?
これは大人になってもそんなに変わらない。
職場の席が近いとか、帰る方向が一緒とか、案外そういうことで交友関係って決まってくる。
ぼくらは地理の影響を受けずには生きられない。
また、この本は組織について学ぶための教科書にもなる。
組織を効率よくコントロールしようと思ったらアメリカがとっている戦略(できるかぎり自らは介入せずにキーパーソン同士をほどよく敵対させてパワーバランスを保つ)が有効かもしれない……。
国際情勢だけでなく、いろんなことがらが読みとけるようになれる(かもしれない)本だね。
2016年6月22日水曜日
【エッセイ】あまちゃん帝王学
知人の六十代男性から聞いた話。
彼が高校生のとき、修学旅行で東北に行った。
そこに海女さんがいた。『あまちゃん』の舞台の地である。
そこでは、修学旅行生たちが海に向けて野球ボールを投げ、海女さんが泳いでとってくるというショー(?)がおこなわれていたのだそうだ。
えええっ。
なんというサービスだ。じぇじぇじぇ。
要は、犬の訓練でやる「とってこい」である。
「あれが修学旅行でいちばん印象に残っている思い出だなあ」と六十代男性は平然と語っていたが、そりゃ印象に残るだろう。
学生がおもしろ半分に投げたボールを追いかけて、中年の海女さんが冷たい海に飛び込む。
じつにものがなしく、そして奇妙に官能的な光景だ。
そうゆうのはオットセイとか長良川の鵜とかにやらせることだろう。
今だったら絶対に許されない。
いや、四十数年前でも道徳的にどうなんだ。
そういうショーがあることもさることながら、それを修学旅行でやらせる学校もすごい。
ときに他人に厳しく接することも大切だという教育なのか。
団塊の世代はお店の従業員に対して横柄な態度をとる人が多いが、それはこうした帝王学(?)の成果なのかもしれない。
彼が高校生のとき、修学旅行で東北に行った。
そこに海女さんがいた。『あまちゃん』の舞台の地である。
そこでは、修学旅行生たちが海に向けて野球ボールを投げ、海女さんが泳いでとってくるというショー(?)がおこなわれていたのだそうだ。
えええっ。
なんというサービスだ。じぇじぇじぇ。
要は、犬の訓練でやる「とってこい」である。
学生がおもしろ半分に投げたボールを追いかけて、中年の海女さんが冷たい海に飛び込む。
じつにものがなしく、そして奇妙に官能的な光景だ。
そうゆうのはオットセイとか長良川の鵜とかにやらせることだろう。
今だったら絶対に許されない。
いや、四十数年前でも道徳的にどうなんだ。
そういうショーがあることもさることながら、それを修学旅行でやらせる学校もすごい。
ときに他人に厳しく接することも大切だという教育なのか。
団塊の世代はお店の従業員に対して横柄な態度をとる人が多いが、それはこうした帝王学(?)の成果なのかもしれない。
2016年6月21日火曜日
【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』
清水潔 『殺人犯はそこにいる』
横山秀夫氏や(かつての)宮部みゆき氏のような社会派ミステリが好きなのだが、この本のような優れたノンフィクションを読むと、「事実は小説よりも……」という月並みな感想しか出てこない。
どんなすごい小説も、やはり事実には適わない。
なにしろ、一介の記者が、連続誘拐殺人事件の犯人として服役していた人物の無実を証明し、裁判をひっくり返し、警察と検察の嘘を暴き、さらには真犯人まで見つけてしまうのだから。
それも大手新聞の記者などではなく、週刊誌の記者が。
こんな筋のミステリ小説を書いたら「警察よりも新聞記者よりも先に、週刊記者が真実にたどりつくなんてありえない」と言われてしまいそうだ。それぐらいすごいことをしてるし、それぐらい警察や新聞記者がダメだったということでもある。
エンタテイメントよりもおもしろく、ホラーよりも恐ろしい。
なにしろ真犯人はほぼわかっているのにまだ捕まっていないのだから。
ひさびさに「読みながら全身の血が震える」という感覚を味わった。
全ジャーナリスト、全捜査関係者に読んでほしい。
というか財布に1,744円以上入っている人は全員買って読んでほしい。
読んでいると、警察はもちろん、警察の発表をそのまま垂れ流していた報道機関に対してもむかむかとしてくる。
無実の人間を糾弾しておいて、冤罪だったことが明らかになるとたちまち手のひらを返して自分は何も悪くないとばかりに警察叩きに終始するマスコミ。
「足利事件」の冤罪報道はぼくもよく覚えているが、「無実の人を犯人扱いしたことをお詫びします」と伝えていたテレビ局はぼくの知っているかぎり1社もなかった(さすがに新聞は申し訳程度の反省記事を書いていましたが)。
ただその一件をもって「マスゴミ」などと断罪する資格は、ぼくのような傍観者にはない。無罪報道がなければぼくもまた「あいつが犯人か」と思いこんでいたのだから。
こうした冤罪事件は今後も起こる。百パーセント正しい制度というものはない以上、必ず過ちは起こる。
そうなったら警察は身内を守るために嘘をつくだろうし、マスコミは警察の発表をそのまま報道してしまうだろう。
それを防ぐことはできない。
組織が自らの不利益になる行動することなんてありえない。
ある程度の分別のある大人なら、自浄作用なんて期待するだけ無駄だということをわかっている。
だったら、どういうシステムを構築すれば被害を最小限にできるかに知恵を絞ったほうがいい。
ぼくは、事件の大小に関わらず、刑事事件の容疑者の氏名を公開することをやめればいいいと思う。
実名報道にどういう意味があるんだろう。
「先日起こった殺人事件の容疑者が身柄を拘束されました」だけでいいのでは。
顔写真とか氏名とか年齢とか職業とか中学校の文集とかを日本中に公開する必要ってどこにあるんだろう。
「公権力の暴走するときのチェックになる」という考えもあるが、実名報道したって公権力は暴走するし。
「おれは犯人のツラをおがんで溜飲をさげたいぜ」という人だっているだろう。
「犯罪者は、悪いことをしたという過去を一生引きずっていけばいいんだ。社会更正なんてしなくていいんだよ」という人だっているだろう。
でもそれは今の日本の法律に則した考え方ではない。刑法では罰金刑や懲役刑、あるいは死刑が定められているけど、それ以上の社会的制裁を課すことは定めていない。
インターネット出現以前であればよほどの大事件をのぞけば犯人の名前なんてすぐに人々の記憶からは消えていたけど、名前を検索すればすぐに何年も前の事件が明らかになる現代においてはより社会的制裁の影響は大きくなっている。
「1年間刑務所に入るより犯罪者として自分の名前がインターネットに残りつづけるほううがキツい」と思う人のほうが多いだろう。ぼくもそう思う。
刑法で定められているよりも大きな罰を与える(私刑をする)権利が報道機関にあるのだろうか。
「そうはいってもわたしは犯人の卒業文集が読みたいわ。ざまあみろと思って胸がすっとするから」という人は、それを人前でも言えるだろうか。
たいていの人は言えない。それは「心の醜さをうつしだした願望」だから。
そういう気持ちはぼくにもある(人一倍強いぐらいだ)が、そういうどす黒い欲望と刑罰は切り離して考えなければいけない
刑法は、復讐心や野次馬根性を満たすためにあるわけではないのだから。
容疑者が犯人でなかった場合の補償なんか誰にもできないのに。
それに氏名が公開されないほうが再犯率が下がるんじゃないかな。社会復帰してまともな職につきやすくなるんだから。
というわけでぼくが「こうだったらいいのに」と思う、犯人の実名報道に関するルールは以下の通り。
・未成年にかぎらず、すべての事件の容疑者の実名は捜査関係者、司法関係者、保護観察官、保護司以外には公表しない。
・裁判で死刑または無期懲役が確定した場合にのみ、氏名を一般にも公表する(事件が重大であるためと、加害者が社会復帰する可能性がほぼないため)。
・政治家の収賄など、市民の代表として選ばれたものがその立場を利用して犯した罪に関しては、以降の選挙に反省を活かすために例外的に公開する(ただしこれも刑が確定してから)。
・上記の規則を破ったものに対しては、刑事罰は課さないが、「醜い野次馬根性を満たすために規定を守らなかったもの」として氏名を公開する!
いかがでしょう?
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