2016年4月6日水曜日

【読書感想文】筒井康隆 『旅のラゴス』

内容(「BOOK」データベースより)

北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か?異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。

久しぶりに読んだなあ、筒井康隆。
中学生のときにはよく読んだのだけれど、初期の暴力的で疾走感のあるSFから、難解で思索的な“文学”になったのに辟易していつしか手に取らなくなった。

で、10年ぶりぐらいに読んだのだけれど『旅のラゴス』はおもしろかった。
そして筒井康隆らしくない小説だった。
というと筒井康隆がおもしろくないみたいだけど、そういうことではないよ。

一般的に小説家を形容する言葉といえば「文豪」だったり「巨匠」だったり「天才」だったり「女王」だったりするけど、筒井康隆の場合は「奇才」もしくは「鬼才」だ。
それだけ独自路線を突き進んできたということなんだろうけど、どうも「奇才」がひとり歩きしているきらいがある。
ファンは筒井康隆に「奇才」らしい小説を期待して、筒井康隆もまたそれに応えようとして実験的な小説を次々に生み出していった。
その結果、コアなファン以外はどんどん取り残されていき、一部の熱狂的ファンだけに支えられる作家になってしまったように思う。


『旅のラゴス』の話に戻るけど、いい小説でした。
つまんない感想だけど、「いい小説」としか言いようがない。いい小説ってのはそういうもんだね。

異世界を部隊にしたSFファンタジーなんだけど、細部まできっちり書き込まれている。かといって「こんな細かいとこまで考えてるんでっせ。どやっ!」という押しつけがましさはない。
登場人物には血肉が通っていて 、けれど必要以上に感情移入しすぎてもいない。
ほどほどに刺激的で、ほどほどに叙情的。
すべてがちょうどいい。

アイロニカルな視点もこめられていて、寓話としても楽しめる。

ただラストだけがちょっと不満。
あまりにも唐突に終わってしまうのが残念。

ま、裏を返せば、もっと読みたかったいい小説だったということでもあるんですが。


 その他の読書感想文はこちら

2016年4月4日月曜日

【思いつき】五穀米がつん!

やめてくれ。
ラーメン屋で「コラーゲンたっぷりでヘルシー」とか書くのはやめてくれ。

こっちは不健康なうまいラーメンを食べたくてラーメン屋に来てるんだ。
健康を求めるならそもそもラーメン屋になんぞ来てないから。

健康の押しつけは暴力だと自覚してくれ。


そっちがその気なら、こっちだって、マクロビオティックなんたらの女子が好きそうな五穀米ランチに
「胃袋にがつんとくる濃厚な旨さ!」
って書いてやるからな!

2016年4月3日日曜日

【エッセイ】墓石転倒率


地震の震度を測るための指標のひとつに
「墓石がどれだけ倒れたか」
というものがあるらしい。

住居だと素材も構造も大きさも形状もまちまちだから、小さい揺れで倒れる家もあれば、大地震にも耐える家もある。
その点、墓だと日本中どこでもだいたい同じ素材・同じ大きさ・同じ形だから、揺れの比較がしやすい。
また、住居だと「これは半壊か全壊か微妙なところだな……」というケースもあって観測者によって判断が異なったりするが、墓石が倒れたかどうかは誰が見ても明らかなので、観測者によるぶれも小さいのだという。


なるほどー。
理にかなっている。
反論の余地もない。

しかし「墓をデータとして扱う」ってなんかふしぎな感覚だ。
ぼくは不謹慎な人間なので平気だが、やっぱり眉をひそめる人もいるんじゃないだろうか。

「墓石倒壊率67%でした」とか言うことに抵抗を感じるんじゃないか。
「東大合格率75%!」とか「お客様満足度97%!」みたいな扱いでいいのか。
ま、いいんだけど。



しょせん墓石なんてただの石の塊だとはわかってるけど、でもやっぱり、その下に埋まっている死人のことが頭によぎっちゃう。




えー、アルバイトのみなさん。
今日はお暑いなか、墓地までお越しいただいてありがとうございます。

わたくし、大学で地震の研究をしております。
その研究のため、みなさんには墓石の倒壊率を計測していただきたく思います。

右手のカウンターで、全部の墓石の数をかぞえてください。
左手のカウンターで、そのうち倒れている墓石の数をかぞえてください。
端までかぞえたら、私のところに数を報告してください。集計はこちらでやります。

以上です。
かんたんですね。
なにか質問はありますか?


はい、そこの方。

はあはあ、倒れてる墓石はどうしたらいいか、ですか。
それはそのままにしておいてください。
なんだかかわいそうな気もしますけどね。
今回はあくまで計測が目的なので。
へたにいじって、場所がおかしくなってもいけませんしね。


はい、あなた。

なるほど、隣のお墓にもたれかかっているお墓をカウントするかですか。
それは、倒れているものとしてカウントしてください。
死んでまで、誰かを支えようとする人もいるんですね。立派ですね。
ドミノだったら「なんで倒れないんだよ!」つってがっかりされちゃうやつですけどね。


はい、そこの方。質問どうぞ。

はあ。
地震で家が倒れて亡くなったの人のお墓が倒れた場合は、倒壊率200%になるんでしょうか、ですか。
そんなわけないでしょ。


はい、もう一度あなた。

地震で家が倒れた人の墓石が倒れて、その墓石の下敷きになって死んだ人の墓が倒れなかった場合はどうするか、ですか?

あなた、お墓の事情について考えすぎですよ。
ただ墓石が倒れているかどうかだけ気にしていたらいいんです。


はい、もう一度あなた。

はい?
墓石が倒れて、その下から死んだはずの人が息をふきかえして出てきた場合はそもそも墓と定義することはできないんじゃないか、ですか……?

その場合はですね……。
すぐに救急車を呼んでください!


2016年3月30日水曜日

【エッセイ】さよならまずいピザトースト

まずかったなあ、給食のパン。

うちの小学校では給食のおばちゃんたちの手作り給食が出されていたから、おかずはおしなべておいしかった。

ただ、パンと牛乳だけは市の給食センターから届けられていて、そのパンがまずかった(牛乳も薄くておいしくなかった)。
給食センターのパンは古代ギリシャでアリストレテスが食べていたのと同じくらいパサパサで、薄い牛乳で流すようにしなければ飲みこめない代物だった。
「だめだめ! そんな乾いたものにここを通させるわけにはいかないよ!」
と、のどちんこによく通行を拒否されたものだ。

ぼくの父親は和食派だったから朝食はいつもごはんだった。
だから、給食で出てくるパサついたコッペパンが、この世のパンのすべてだった。
ぼくにとっては、この世のすべてのパンがパサついていたということだ。

高校生になって学校帰りにパン屋で焼きたてのパンを買い食いしたとき、
「これが……パン……!?」
と、感動にうちひしがれたものだ。



ほかに長い間まずいと思いこんでいた食べ物に、ピザがある。

ぼくの母親がつくるピザは、おいしくなかった。

母の名誉のために云っておくと、彼女は料理が得意なほうである。
家に遊びにきた友人からも「おまえんちのごはんうまいな」と賞賛されたものだ。おふくろの味だということは差し引いても、かぼちゃとツナの和え物などはかなりの味だと思う。
だが、煮物やおひたしは得意でも、昭和三十年生まれの母にとってイタリアンは縁遠いものだった。

母が愛読していた『暮らしの手帖』に載っていたのは、せいぜい「粉チーズで本格派。ミートソーススパゲティー」や「ハムとトマトでかんたんピザトースト」ぐらいのものだった。

今でこそ猫も杓子もカルボナーラだのペペロンチーノだのを食べているが(猫にニンニクや玉ねぎを与えてはいけません)、母が料理を学んだ時代にそんなものはなかった。
チーズの種類といえば雪印と明治とQBBしか知らない母に、モッツァレラだの、ゴルゴンゾーラだの、パルミジャーノ・レッジャーノだの、ボッテガ・ヴェネタだのいわれても、わかるわけがない(ファッションブランドが混ざっとる)。

昭和前半生まれのおばちゃんにおいしいイタリアンを作らせるなんて、宮大工にすてきなオープンキッチンを造れというようなものだ。やらせてみたら意外に渋くておしゃれなキッチンできそうだけど。

母のつくるピザといえば、ヤマザキの食パンにケチャップをかけて、明らかにおつまみ用の辛めのサラミを乗せ、玉ねぎとピーマンときゅうりとゆで玉子をトッピングして、とりあえずチーズ乗せときゃいいんでしょとばかりに雪印のチーズをふりかけ、真っ黒になるまでしっかりトーストした、ピザトーストだった。

ゆで玉子を乗せるのは栄養バランスをとるため。
きゅうりは冷蔵庫の残り物を片づけるため。
真っ黒になるまで焼くのは、残り物でおなかをこわさないため。
主婦の習性が存分に発揮され、結果、ぜんぜんピザじゃないものができてしまうのだった。

これを「はい、ピザよ」と出されていたのだ。
(母はピザトーストにかぎらず、食パンを黒くなるまで焼かないと気がすまない。「芳醇」を買ってもカリカリになるまで焼く。ぼくがトースターのタイマーを4分にセットしても、「こんなんじゃ焼けへんで」と勝手に8分にする)

外食でイタリアンレストランに行くことなんてなかったし、町内に宅配ピザ屋ができたのは中学校に入る年だったから、ぼくはその黒こげのきゅうり乗せパンこそがピザだと思っていた。

だからずっとピザは嫌いだったし、町内にピザ・カリフォルニアができたときは、あんな黒こげパンを誰がお金出して配達してもらうんだろうかとふしぎに思ったものだ。

しかし、あのピザこそが、ぼくにとってのおふくろの味。



 
今から数十年後。
年老いたぼくは今まさに息をひきとろうとしていた。
「あと177分後」
モニターに映しだされた余命予測は、血圧脈拍心拍数脳活動状況血中酸素濃度その他あらゆるデータにもとづいて導きだされたものであり、誤差±5%の水準で的中することが知られている。つまりほぼまちがいなくあと3時間後には死ぬということだ。
しかしぼくが苦しむことはない。
最先端の高濃度ヘルヂミニウム転回装置のおかげで、死ぬ直前まで臓器は正常に機能している。また、正確に死に向かってコントロールされたカウンセリングプログラムを受けてきたため、不安や怒りを感じることもない。

いくら科学が進んでも死は避けられない。だが最先端科学により、心身ともになるべく健全に近い状態で最期の瞬間を迎えることができるのだ。2016年頃には考えられなかった医学の進歩だ。

「なにか食べたいものはありませんか。できるかぎりのことは用意します」

モニターに映しだされたアンドロイドが、誰よりもあたたかい声で尋ねる。もちろんこれも穏やかに終末を迎えるためのプログラムの一環だ。

ぼくは眠たい頭をはたらかせ、すこし考える。
これが人生最後の食事だ。あたたかいものを食べたい。
いくら胃腸が正常に動いているとはいえ、もともとが年寄りの胃だ。ボリュームのあるものは食べる気がしない。軽食でいい。

「おかあさんのピザトーストが食べたい……」

なぜそれが口をついて出たのか、自分でもふしぎだった。
少しも好きな料理ではなかった。
むしろ、嫌いだったといってもいい。
だが今の気分にぴったり合うのは、人生最後の料理にふさわしいのは、あのピザトーストにおいて他になかった。

もちろんそれはすぐに用意された。
ぼくの脳波から読みとった記憶情報をもとに、母のピザトーストが忠実に再現される。
安物の食パンにカゴメのケチャップがふんだんにかけられ、ピーマンと辛めのサラミとゆで玉子ときゅうりが乗せられる。材料はすべて昭和末期のものに近い味が使われている。
最後に雪印のチーズをふりかけ、これ以上やったら炭になる、という状態までこんがりと焼く。

「焼きすぎたろ……。焦げてるし……」
病床に集まった家族、医師、看護師の全員が心の中で思っているのが伝わる。
だが誰も口には出さない。
もうまもなく死を迎える人間が「これこれ! これこそおかあさんのピザトースト!」とうれしそうにしているのに、誰が「そんなの食べたら癌になりますよ」と言えるだろうか。

ぼくはひさしぶりに身体を起こし、黒こげきゅうり乗せパンをほおばる。
手についたケチャップまですべて平らげ、やがてゆっくりと目をとじる。

もう、この世でやることはなにひとつない。

「ああ、まずかった……」

それが最期の言葉となった。

その死に顔には、まずかったという言葉とはうらはらに、満足そのものといっていい微笑が浮かんでいた……。

2016年3月29日火曜日

【写真日記】契約書のフォント


とある会社が送ってきた契約書のフォントがゴシック体だった。
やはり契約書は明朝体じゃないと気持ち悪い……。

感覚的なことだけど(だからこそ)けっこう大事なことだと思うので、そろそろこういうことをビジネスマナーとして教えていく必要があると思う。

あとぼくとしては、エクセルで数字を左詰めで入力する人の神経が信じられない。
けっこういるんだよね、これが。