2016年2月24日水曜日

【エッセイ】いちばん嫌いな映画

いちばん嫌いな映画ですか……。
たしかに、ちょっと難しい質問ですね。
「つまんない映画」は山ほどありますけどね。
でも、つまんない映画って意外と憎めないんですよね。
あそこもだめだった、ここもつまんなかった、って挙げていくのは愉しみですらありますからね。
そうやって悪口を云ってるうちに愛着が出てくるんでしょうね。
映画史に燦然と輝く駄作と名高い『シベリア超特急』『北京原人』『デビルマン』ですら、なんだかんだでけっこう愛されてますから。

前置きが長くなりました。
ぼくが選ぶ、嫌いな映画ナンバーワンは、2006年公開『手紙』ですね。
東野圭吾の原作を映画化したやつです。


あ、ことわっておきますが、原作小説はおもしろかったですよ。
嫌いなのは映画だけ。

映画『手紙』の何が嫌いって、ひとことでいえば「観客をなめてる」に尽きます。

まず主人公の職業が、原作ではミュージシャンだったのが、映画ではお笑い芸人に変わっています。
察するに、「歌のうたえない役者にミュージシャン役はムリだな。ま、お笑い芸人ならいけるっしょ!」って感じで職業変更したんでしょうね。
はい、観客をなめてるポイントその1ですね。

案の定、間もへったくれもないど素人のお笑い芸人の演技を見せられます。
イタい大学生のコンパを延々見せられてるような苦痛。

おまけに主人公が芸人としてそこそこ出世するというストーリーなので、リアリティのかけらもありません。
さらには原作では「ミュージシャンとして刑務所の慰問に訪れて、収監されている兄の前で歌おうとするも涙ぐんでしまい歌えない」というシーンだったクライマックスでしたが、
これをお笑い芸人にしてしまったせいで、
「漫才師として刑務所の慰問に訪れた主人公とその相方。収監されている兄の前で漫才を披露するも、事情を知っているはずの相方がなぜか兄いじりをはじめる。自分で兄いじりをはじめたくせに、やった後に直後に『しまった』という顔をする。もちろんまったくウケない。途方にくれた主人公はマイクの前で呆然と1分以上立ち尽くす」
というどうしようもないシーンに変わり果てています。

どこで感動すればいいんでしょうか。


次のなめてるポイントは、女優の妙な方言。
大阪弁っぽい言葉で話すのですが、大阪人じゃないぼくが聞いても、どうしようもなく耳ざわり。
イントネーションが汚すぎる。
まったく方言指導をしなかったんでしょう。

ま、それはいいです。
そんな映画、いくらでもあります。昔のハリウッド映画なら、日本人役のはずなのに中国語をしゃべってましたからね。

『手紙』がひどいのは、そもそも女優が大阪弁をしゃべる理由がまったくないってことです。
舞台はずっと関東。大阪に行くシーンもない。大阪から来ました、という描写もない。だから方言を話す必然性がまったくないわけです。
なのに大阪弁。そしてそれがどうしようもなくへたくそ。
何がしたいんだ、としか思えませんね。


ストーリーに関しては、原作がしっかりしているので、目も当てられないほどひどいということはありません。
ぼくは原作を読む前に映画を観たのですが、
「ああ、原作のほうはおもしろいんだろうな」
と思わせてくれる程度には、映画のストーリーは崩壊していませんでした(細かいところを挙げればキリがありませんが)。
だからこそ映画観賞後すぐに原作小説を読み、ああよかった東野圭吾はちゃんとしたものを書いていた、と安心したものです。


映画の話に戻りましょう。
いちばん観客をなめてると感じたのは、さっきも書いたクライマックスシーンです。
収監されている兄の前で漫才の慰問に訪れた弟が、相方から「おまえの兄貴は犯罪者ー!」といじられて涙ぐむというシーン(笑)ですね。
はっきりいって、失笑しかないですよね。

ここで、大音量で流れるのが小田和正の『言葉にならない』です。
テレビCMでも使われていた、いわゆる「泣ける曲」のド定番ですね。
これが唐突に流れます(主題歌よりもいいところで使われます)。

なんと親切なんでしょう。
「はいここが制作者が意図した泣くポイントですよー!」
とわかりやすく教えてくれているのです。

ぼくは劇場でこの映画を観ていたのですが、人間の反射というのはふしぎですね、それまで失笑に包まれていた劇場内で、この曲が流れたとたんにすすり泣きが聞こえてきたのです。

店内で『蛍の光』を耳にしたら「そろそろ帰らなきゃ」と思うように、『言葉にならない』を聴いたら「あっ、そろそろ泣かなきゃ」と思ってしまう人が世の中には少なからずいるのです。

「これ流しときゃどうせ泣くんでしょ♪」と、脈絡なく小田和正を流す。
観客をなめてるといわずしてなんといいましょう。

調べてみると、映画『手紙』の監督は生野慈朗という人。
テレビドラマの演出家だそうです。

ああ、どうりでいかにもテレビドラマ的な安い演出のオンパレードなわけです。
「こういうときはこうしときゃいい」というテレビドラマのセオリーが骨身に染みついてるんでしょうね。


というわけで、観客ばかりか映画そのものもなめきった態度で作られた『手紙』。

10年たってもいまだに不快感が消えないため、嫌いな映画ナンバーワンとして自信をもって推薦させていただきます!

2016年2月23日火曜日

【ふまじめな考察】頭脳明晰1回転

ニュース番組を観ていたら、アメリカでスノーモービルのフリースタイルっていう大会が開かれたニュースを伝えていた。

スノーモービルっちゅうのはあれです。
でっかい電動そり。
ビッグスクーターみたいなやつですね。
その大会。

あー、雪道を走ってタイムを競うわけねー。
と思って見てたら、どうもちがうわけ。
なんかジャンプしてんの。

雪上にジャンプ台が作ってあって、スノーモービルでそこに突進して、勢いよくジャンプするわけ。

のみならず。
あろうことか。
あにはからんや。

ジャンプしながら、空中でスノーモービルにつかまりながら逆立ちしたり後ろ向きに座ったりするわけ。
そんで、誰がいちばん難易度の高い跳びかたができたかを競うわけです。

もちろん、たいへん危険です。
何百キロもあるスノーモービルごと、10メートルは跳ぶわけですからね。
着地に失敗すれば、いくら雪の上とはいえただではすまないし、スノーモービルにぶつかったりしたら命にもかかわるわけです。

しかし危険と紙一重なところこそがフリースタイル競技の魅力であるようでして、若干二十歳ぐらいの男たちは果敢にもスノーモービルでジャンプして宙返りをしたりするわけです。

それを見て、ぼくは思いました。
この競技やってるやつの平均偏差値、30届かないぐらいだろうな、と。

だってそうでしょう。
電動そりに乗ってジャンプしながらぐるぐる回って後ろ向きに座るとか、どう見ても、頭脳明晰な人間のやる競技じゃないでしょう。

だってそうでしょう。
何の必要性もないのにスノーモービルで逆立ちしようとして転倒して半身不随になるとか、どう考えても、ハイスクールの弁論大会で西海岸代表に選ばれるタイプの青年のやることじゃないでしょう。

しかし。
うらやましいのもまた事実。
なにしろ、齢二十歳ぐらいにして、スノーモービルのジャンプの大会に出られるぐらいの技術を持ってるわけです。

たいへんな金持ちですよね。

スノーモービルを買ったことがないので知りませんが、でっかいバイクみたいなスノーモービル、原付買うぐらいのお金では買えないでしょうね。

しかもふつうのスキー場ではスノーモービルのジャンプの練習はさせてくれないでしょうから、貸し切るか、自分専用のコースを所有するか、人里離れた雪山に行くかしないといけない。

これ、相当な金持ちのボンボン息子か、あるいはアラスカで熊狩りしてる猟師の息子かじゃないとできないことですよ。

なんてうらやましいバカたちだ……!

2016年2月22日月曜日

【エッセイ】くすむ!日本レコード大賞

妻が云う。

お父さんと一緒に映画『阪急電車』のビデオを観たの。
そしたらお父さんが
『こないだ観た汽車の映画が……』っていうの。
汽車なんかずっと前になくなってんのに、いまだに電車っていう癖が抜けないのよ。
どうして年寄りってああなのかしらね。

と語っていたので、

「君も今、DVDのことをビデオっていってたよ」

と指摘した。

「うわー!
 そういうことかー!」

と妻は頭を抱えていた。


2016年2月20日土曜日

【読書感想】ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』

ライマン・フランク・ボーム (著),毛利孝夫 (翻訳)『オズの魔法使い』 

内容紹介(Amazonより)
フランク・ボームによるオズの物語全14作中、第1作にあたる名作「オズの魔法使い(The Wonderful Wizard of Oz)」を、ルビ付きの完全新訳、縦書き表示でお届けします!
竜巻でオズの国へ飛ばされた少女ドロシーが、かかし男、ブリキの木こり、臆病ライオンたちと繰り広げる冒険の世界!
初版で掲載されたW.W.デンスローの美しいカラーの挿絵を76点収録!

みんな大まかには知りながら、じつはよく知らない物語。それがオズの魔法使い。

かくいうぼくもよく知りませんでした。
「ええっと……。竜巻でぶっ飛ばされたオズ? が、かかしとかライオンたちと旅をして、次々に襲いかかってくる敵を知恵と勇気と魔法でやっつけて、最終的にまた竜巻に飛ばされておうちに帰ってくる話、かな……?」
ぐらいの認識でした。

いまさら児童文学を読むのもなあということで一生『オズの魔法使い』をうろ覚えのまま生きていくつもりだったんですが、もう版権が切れているのでKindleで安く買えるというので、読んでみました。
(電子書籍の最大の魅力はこういうところですね。著作権なんてのは作者が死ぬと同時に切れてしまえばいいのに。大半の創作者にとっては、子孫に小金が入るよりも自分の死後も作品が読まれつづけることのほうが大事でしょう)

そんなわけで、30歳を過ぎてはじめてまともに読んだ『オズの魔法使い』。
感想はというと、
「少年時代に読んでおけばよかった!」

奇想天外なキャラクター、荒唐無稽なようでじつはしっかりと組み立てられたプロット、次々に試練が襲いかかるスリリングな展開。
児童文学としては最高傑作といってもいいほどの出来映え。


なによりすばらしいのは、説教くささをまったく感じさせないところ。

人々を困らせていた東の魔女と西の魔女をドロシーがやっつけるわけですが、その決め手となるのは力でも策略でも勇気でも友情でもありません。
“まったくの偶然”によってドロシーは魔女を打ちたおすのです。
オズの正体を暴くのも偶然。さまざまな困難を切り抜けるのもほぼ偶然。
「家に帰る」という最大の目的だって、最後にはあっけないほどかんたんに達成されてしまいます。
(なにしろ「もしその力を知っていたなら、この国に来たその日に、あなたはエムおばさんのところに帰れたのですよ」と言われてしまうぐらい)

“努力と根性で道を切り開く主人公”に食傷している身からすると、運命に身を任せて「このままじゃおうちに帰れないわ」と困っているだけのドロシーの存在はかえって痛快でさえあります。


さらに、もうひとつの目的である「知恵の足りないかかし」「ハートを持たないブリキの木こり」「勇気のないライオン」が、それぞれ自分に欠けているものを手に入れるまでのいきさつについても、まったく教訓的ではありません。
彼らは、旅をすることで知恵と優しさと勇気を手に入れるわけではありません。また、はじめからそれらを持っていたことに気づくわけでもありません。
「だまされて、知恵と優しさと勇気を与えられたと思いこまされる」ことによって、彼らは心の底から満足するのです。

知恵も優しさも勇気も、そして幸せも、手に入れるものではないのです。
持っていることに気づくものでもない。
そんなものは、あるといえばあるし、ないといえばない。
それらを持っている人と持っていない人の違いは、「持っていると思いこんでいる」かどうかだけ。
そこに努力は要らないのです。


……とまあ、教訓的でないお話から教訓を導きだしてしまうのは野暮というもの。

そのへんのくだらない意味など忘れて、100パーセント純粋なエンタテイメントとして楽しめる『オズの魔法使い』。
とりあえず我が子には必ず読ませようと思います。



2016年2月19日金曜日

【思いつき】Democratic

今夜はみんな、ライブに来てくれてサンキューな!

ここで、チーム民主主義のイカれたメンバーを紹介するぜ!


まずは立法担当、国会!
法律をクリエイトするのはお手のもんだ!

続いてのメンバーは、内閣!
担当は、行政!
国会が作った法を見事なテクニックで演奏してみせるぜ!

最後はこのおれ、裁判所!
司法は任せろ!
法の番人って呼んでくれよな!


今日はみんな、盛りあがっていこうぜ!

サイコーにデモクラティックな夜にしようぜ! イエーイ!