「この先に、正直村と嘘つき村があります」
「はい」
「どちらも行政区分としての村ではありません」
「はい?」
「かつて存在していた正直村と嘘つき村は、平成の大合併により四国中央市に統合されました」
「四国中央市に」
「今では、『愛媛県 四国中央市 正直』という地名にその名を残すのみです」
「嘘つき村のほうは」
「イメージが悪いのでその名前は完全に消えました」
「なるほど。四国中央市は四国の中央にあるんですか」
「いえ。北端です」
「じゃあ嘘つき村の精神は今も根づいているわけですね」
2015年11月26日木曜日
【エッセイ】下々の生活
ミュージシャンが全国ツアーで言う
「大阪めっちゃ好きやねん!」
「福岡好いとーとよ!」
って、ほんとに好きだったらぜったいそんなこと言わないよね。
庶民の服を着て城下町へ出て「なるほどこれが下々の生活か」とうそぶく殿様と同じような傲慢さを感じる。
全国ツアーでご当地あいさつをするミュージシャンは、アメリカ南部なまりの人に向かってわざと南部なまりの英語でしゃべって銃を向けられたらいいのに。
「大阪めっちゃ好きやねん!」
「福岡好いとーとよ!」
って、ほんとに好きだったらぜったいそんなこと言わないよね。
庶民の服を着て城下町へ出て「なるほどこれが下々の生活か」とうそぶく殿様と同じような傲慢さを感じる。
全国ツアーでご当地あいさつをするミュージシャンは、アメリカ南部なまりの人に向かってわざと南部なまりの英語でしゃべって銃を向けられたらいいのに。
2015年11月25日水曜日
【思いつき】人形のプーさん
くまのプーさんが熊じゃなくてぬいぐるみだということを、今さらながらはじめて知った。
どうりで黄色いと思った。
ってことはプーさんの世界は、クリストファー・ロビンの空想の世界なわけか。
『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンとプーさんの関係は、
『トイ・ストーリー』におけるアンディとウッディだったんだね。
視点が逆だから気がつかなかった。
どうりで黄色いと思った。
ってことはプーさんの世界は、クリストファー・ロビンの空想の世界なわけか。
『くまのプーさん』のクリストファー・ロビンとプーさんの関係は、
『トイ・ストーリー』におけるアンディとウッディだったんだね。
視点が逆だから気がつかなかった。
2015年11月24日火曜日
【エッセイ】しつこくないやぎさんゆうびん
2歳児が歌っていた。
「くろやぎさんからおてがみついた♪
しろやぎさんたらよーまずにたべた♪
しーかたがないっ!」
うん、そうだよね。
そっちのほうがまっとうな対応だよね。
「くろやぎさんからおてがみついた♪
しろやぎさんたらよーまずにたべた♪
しーかたがないっ!」
うん、そうだよね。
そっちのほうがまっとうな対応だよね。
2015年11月23日月曜日
【ふまじめな考察】世にもつまらない文章
インターネットが普及したことによって、ホームページやブログやTwitterやFacebookなんかで、誰でもかんたんに自分の文章を全世界に向けて発信できるようになった。
とても便利な世の中になったと思うが、何がすばらしいって、誰でも手軽に「つまらない文章を読めるようになった」ことだ。
昔は、そうではなかった。
書籍や雑誌や新聞など、活字となって世に出回っているものは、ちゃんと訓練を受けた人が書いていて、ちゃんと訓練を受けた人がチェックしていたわけだから、一定の水準には達していた。
現在TwitterやFacebookで散見される「うちの子こんなにかわいいのよ。でへへ」みたいなゴミや、「おれってこんなに人脈広くてすごいお方なんだぜ。どやっ!」みたいな産廃は、インターネット以前には活字になる前に葬られていたものだった。
そういったひどい文章は、小学校の文集や会社の社内報でひっそりと出回っているだけで、誰でもかんたんにアクセスできるようなものではなかった。
つまらない文章を読むと、勉強になる。
起承転結のない自分語りがいかに読者を不快にさせるか、どんな文章指南書よりも雄弁に教えてくれる。
テクニックのない人の内輪話を読んでいると、痰壺をのぞいているような気分になる。この事実は、名文家とされる文豪の著書をいくら読んでもわからないことだ。
ぼくが子どもの頃、大人はみんな立派な人だと思っていた。
大人たちが書く文章は、筋道が通っていて、読み手のことを意識していて、エゴを抑えたものばかりだったからだ。
その認識が誤りだったことを、インターネットは教えてくれた。
大人がみんな読みごたえのある文章を書くわけではなく、そういった文章を書ける大人だけが世間に文章を発表する権利を与えられていただけだったのだと。
文章にかぎった話ではない。
歌がへたくそな歌手や、つまらないお笑い芸人や、考えのない評論家は昔からいた。ただ彼らが陽の目を見なかっただけで。
今、我々は彼らから多くのものを学ぶことができる。いい世の中になったものだ。
数百年前から駄作を提供してくれていた、和歌がへたくそな歌人や、弱い武士や、思想浅薄な儒学者たちの存在が現在に伝わっていないことがつくづく残念でならない。
とても便利な世の中になったと思うが、何がすばらしいって、誰でも手軽に「つまらない文章を読めるようになった」ことだ。
昔は、そうではなかった。
書籍や雑誌や新聞など、活字となって世に出回っているものは、ちゃんと訓練を受けた人が書いていて、ちゃんと訓練を受けた人がチェックしていたわけだから、一定の水準には達していた。
現在TwitterやFacebookで散見される「うちの子こんなにかわいいのよ。でへへ」みたいなゴミや、「おれってこんなに人脈広くてすごいお方なんだぜ。どやっ!」みたいな産廃は、インターネット以前には活字になる前に葬られていたものだった。
そういったひどい文章は、小学校の文集や会社の社内報でひっそりと出回っているだけで、誰でもかんたんにアクセスできるようなものではなかった。
つまらない文章を読むと、勉強になる。
起承転結のない自分語りがいかに読者を不快にさせるか、どんな文章指南書よりも雄弁に教えてくれる。
テクニックのない人の内輪話を読んでいると、痰壺をのぞいているような気分になる。この事実は、名文家とされる文豪の著書をいくら読んでもわからないことだ。
ぼくが子どもの頃、大人はみんな立派な人だと思っていた。
大人たちが書く文章は、筋道が通っていて、読み手のことを意識していて、エゴを抑えたものばかりだったからだ。
その認識が誤りだったことを、インターネットは教えてくれた。
大人がみんな読みごたえのある文章を書くわけではなく、そういった文章を書ける大人だけが世間に文章を発表する権利を与えられていただけだったのだと。
文章にかぎった話ではない。
歌がへたくそな歌手や、つまらないお笑い芸人や、考えのない評論家は昔からいた。ただ彼らが陽の目を見なかっただけで。
今、我々は彼らから多くのものを学ぶことができる。いい世の中になったものだ。
数百年前から駄作を提供してくれていた、和歌がへたくそな歌人や、弱い武士や、思想浅薄な儒学者たちの存在が現在に伝わっていないことがつくづく残念でならない。
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