2015年9月2日水曜日

遠き遠きモテの世界

「自分はモテないし、この先もモテることはない」
という現実をぼくが知ったのは、小学3年生の春のことだった。

 遠足で隣県の山に登ったときのことだ。
 山頂でお弁当を食べたあと、ぼくらは付近の斜面を走り回って遊んだ。
 斜面を駆け上がり、その後駆け下りる。そしてまた上る。
 その行為のどこに悦びを見いだしていたのかは今となっては謎だが、自分のしっぽを追いかけて回り続ける雑種犬よりアホだった小3のぼくらは、その生産性ゼロの遊びに数十分以上も耽っていた。
 その間にも南米の密林がどんどん減少して砂漠へと変わっていることも知らずに。

 突然、鋭い悲鳴が響いた。
 女の子たちが騒然としている。
 走り回っていた女の子のひとりが斜面から転げ落ち、さらに悪いことに石に頭をぶつけたのだ。
 彼女の意識ははっきりしていたが頭からは血が出ていた。
 すぐに担任の先生がとんできたが、ぼくは彼女がそのまま死んでしまうのではないかと思った。
 小学生にとって「頭から血が出る」というのは、あのベジータがあっさりフリーザにやられてしまったときと同じくらい絶望的な状況だった。
 遊んでいた誰もが、ぼくと同じようにオロオロしながら、けれど何もできずに頭から血を流す女の子を遠巻きに見ていた。

 そのときだった。
 同じクラスのヨシダくんがけがをした女の子に駆け寄り、ハンカチを差し出したのだ。

 衝撃的な出来事だった。
 今でも当時の感動とともに、その光景を鮮明に思い出すことができる。
 まちがいなくその場にいた全員(教師も含め)が、ヨシダくんの振る舞いにときめき、そして彼に惚れたはずだ。
 もちろんぼくもそのひとりである。
 傷ついた女性にさっとハンカチを差し出す紳士的な振る舞いもさることながら、何よりぼくが驚嘆したのは、彼が「ハンカチを持っている」ということだった。

 当時のぼくにとってハンカチというものは、パーカライジング(リン酸塩の溶液を用いて金属の表面に化学的にリン酸塩皮膜を生成させる化成処理)と同じくらい、自分の生活とは縁遠いものだった。
 トイレに行っても手を洗わないし、よしんば洗ったとしても濡れた手の処理は
・ズボンでごしごしする
・友だちの背中になすりつける
の二択だったぼくにとって、手をハンカチで拭くなんて、手にリン酸塩を塗ることぐらいありえないことだった。
 つまり、ぼくはごくごく普通の小学3年生男子だったわけだ。
 ところが、ぼくと同じ歳月しか生きていないヨシダくんは、ハンカチを所持していただけでなく、これ以上ないというベストなタイミングでポケットから取り出し、あろうことかさりげなく女の子に差し出してみせたのだ。
 なんて破廉恥な小学3年生なのであろう!

 そして彼がハンカチを差し出した瞬間、ぼくは稲光に打たれたように悟ってしまった。
 「モテる」とはこういうことだ、と。

 このときぼくがはっきりと認識した「モテる」世界は、眼前に見えているにもかかわらず、西方浄土よりも遠く感じられた。
 自分が立っている場所との落差を感じ、深い絶望を覚えた。
 とても自分が、傷ついた女性にさりげなくハンカチを渡せる男になるとは思えなかった。
 8歳のぼくが感じた予感は悲しいことに的中し、30歳をすぎた今でも女性に対してハンカチを差し出すことはおろか、お世辞のひとつすら言えない。

 ああ。
 なんて遠いんだ「モテる」世界よ!
 ぼくには一生かかってもたどり着けそうにないよガンダーラ!!

2015年9月1日火曜日

受け取るな!のビラ

 路上でビラ配りをしている男女が
「こんなの受け取ろうと思います?」
「あたしだったら絶対に受け取らないー」
とおしゃべりしながら配っていたので、
もらおうとした手をあわてて引っ込めた。


2015年8月31日月曜日

それが男の優しさ

「今日は食欲ないから晩ごはんいらないわ」
と妻に告げる。
 すると彼女は
「大丈夫? 明日仕事休んで病院に行ったほうがいいんじゃない?」
と私の身体を気づかった。

 その気持ちはありがたい。
 だが妻よ。
 男が、それぐらいのことで仕事を休むなんて弱音を吐くわけにはいかない。
 それが男のせいいっぱいの強がりってもんだ。

 ましてや、
「家に帰る途中で誘惑に負けてラーメンを食べちゃったから、満腹で妻が用意してくれた晩ごはんを食べられない」
なんてことは口が裂けても言うわけにはいかない。
 それが男のせいいっぱいの優しさってもんだ。
 そうだろう?

2015年8月30日日曜日

ラブコメの宿命

ラブコメ漫画って、けっこう早い段階で主人公とヒロイン(ヒーロー)がひそかに両想いになってしまって、もう結末は決まってしまう。
でもそれだと話がつづかないから、 お互いの勘違いによってぎくしゃくさせたり、フラれるとわかりきっているライバルを登場させたりするよね。

あれって、ドラゴンボールでいうと、
もうセルは死んでるのにまだ生きていると誤解している悟空たちが一生懸命修行をしていたり、
さあフリーザと闘うぞってときに今さらヤムチャが新キャラとして登場したり、
みたいなもんだよね。

2015年8月29日土曜日

【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』


『超発明: 創造力への挑戦』

真鍋 博

「BOOK」データベースより
星新一との仕事でも知られる天才イラストレーター・真鍋博が、頭の体操として考え、あたため、育ててきた“夢の発明品”129個の大博覧会!実現可能に見えるものからユーモアにみちた珍発明まで、ポップで精細なイラストとその解説文で、未だ実現しない夢に見る“日本の未来”を40年も前から語り続けています。日本SF界を支えた“思考”と“発想”をご堪能あれ!

 昔の人の「未来予想」は愚かでおもしろい。だってはずれているに決まっているから。
 自分だけが答えを知っているクイズのように、にやにやしながら「君たちにはわかんないよねー。難しいよねー」と底意地の悪い楽しみかたができる。
 明治時代のとある学者が「このままだと東京の街は馬車の馬糞でいっぱいになる」と真剣に憂慮していたらしいが、そういう的はずれな予想がぼくは大好きだ。

 真鍋博の『超発明』も、今から40年以上前に刊行された本なので、いわば”昔の人の未来予想”だ。当時の科学技術を土台に、ありったけの想像力というスパイスをふりかけて考案された発明たち。
 これがなんというか、性格の悪いぼくにとっては残念なことに、40年たった今でも色褪せていないのだ。今年書かれたと言われても信じてしまうくらいの鮮度の良さだ。
 予想は古くなるが空想は古びないのだと教えてくれる。

 真鍋博といえば星新一作品のイラストで有名だが、あらゆる刺激をなくして死を疑似体験する『無刺激空間』や、増えすぎた生物を狩る『天敵ロボット』なんて発明は上質のショートショートような味わいだ。
 諷刺やエスプリがたっぷりと効いて、さらなる想像をかきたてられる。

 輸送や陳列のコストを削減する『四角い卵』、味を記憶する『録味盤』、光そのものを絵の具にする『オプティカル・パレッ ト』、物体の一部分だけの重さを量る『部分体重計』のような、もうすぐ実現するんじゃないかという発明(ぼくが知らないだけでもう開発されているのかもしれないが)も魅力的だが、突拍子もないナンセンスな発明にこそ真鍋博の豊かな想像力が光る。

たとえば次の発明。
『球体レコード』
 円盤より球体の方が表面積は大きい。そして球体レコードがその歴史的発展の単なる延長でない点は、エンドレスであり、一個のレコードに何億曲でも収録できることだ。
まだレコードしか録音手段がなかった時代なので「レコードをいかに改良するか」という発想になるのは当然だ。だがそこから出発して、現代ではほぼ実現したといってもいい“一個のレコードに何億曲でも”という着地点にまで持ってくるのは、単なる空想にとどまらない、現実的な視点も必要になる。
 理論に裏打ちされた空想、これもやはり星新一に共通するものがある。

 最後に、ぼくがいちばん気に入った発明を。
 『空砲』
 かつて人類は人類同士の闘争のため大砲を撃ち合ったが、未来は人類が人類を救うためお互いに酸素の爆弾を落とし合い、空気の大砲を撃ち合わねばならないだろう。
 闘うのは人間の本能であり、それを否定した平和は不自然そのもの。しかし、それが花であり、鳥であり、きれいな空気の弾であれば、闘争はより建設的であり、より平和的であるといわねばならない。
美しいほどにリアリスティックでロマンティックな発想だ。
 隣国同士が憎み合わずに互いに贈り物をすれば世の中はよくなる。だが、それを支えるのは親切心ではない。愛は地球を救わない。なぜなら愛は長続きしないから。
 だが競争心や闘争心は持続する。数々の戦争が数多の偉大な発明を生んだように、米ソの対立が宇宙開発につながったように、『憎悪は地球を救う(可能性もある)』のではないか。

 地に足のつかない理想を並べたてる輩よりも、こういうリアリスティックなアイデアにこそノーベル平和賞をあげたほうがいいんじゃなかろうか。
 ノーベル平和賞だって “競争心を平和のために利用する発明” だしね。


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