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2017年7月22日土曜日

【DVD感想】『ミスター・ノーバディ』

ミスター・ノーバディ(2009)

内容(Amazonプライムより)
2092年、世の中は、化学の力で細胞が永久再生される不死の世界となっていた。永久再生化をほどこしていない唯一の死ぬことのできる人間であるニモは、118歳の誕生日を目前にしていた。メディカル・ステーションのニモの姿は生中継されていて、全世界が人間の死にゆく様子に注目していた。そんなとき、1人の新聞記者がやってきてニモに質問をする。「人間が“不死”となる前の世界は?」ニモは、少しずつ過去をさかのぼっていく――。

ううむ。難解な映画だった。
事前に友人から「ストーリーが分岐している映画なんで、何も知らずに観たら矛盾だらけで混乱するよ」と聞かされていたので大混乱はしなかったが、それでも話の流れから振り落とされないようにするのでせいいっぱいだった。
なにしろ、同一人物のぜんぜんちがう人生が並行に語られる上に、時代も100年ぐらいのスパンの間をいったりきたりして、さらに心象風景もさしこまれるのだから。

「ん? これはどの人生のいつの時代の話だ?」と常に考えていないといけないような感じ。
途中で「この映画は完全に理解するのは無理だ」と気付いて、ストーリーを追うのやめてぼんやりと観ることに切り替えた。

モザイク画のように、部分をじっくり見るのではなく全体の雰囲気を味わう映画なのかも。
映像が美しいから絵画を楽しむように観るのがいいのかもしれないけど、ぼくは左脳型の人間で、絵画鑑賞も苦手なので、観ているのはまあまあつらかった……。


とはいえ、「あのときああしていたら今ごろはどんな人生だっただろう」ということは誰しも考えることだし、SFの永遠のテーマのひとつであるけれど、「あったかもしれない」過去・現在・未来という難しいテーマをうまく映像化したとは思う。




ところでこの作品を観ながら、ぼくは「映画というのは観客を拘束できるメディアだな」と考えていた。

ぼくは『ミスター・ノーバディー』を「退屈な映画だな」と思いながらも最後まで観た(途中で昼寝休憩をはさんだけど)。
それは「映画というのは序盤は退屈でも後半まで観たらおもしろくなることが多い」ということを経験上知っているからだ(もちろん最後までつまんないものもあるけど)。
これがテレビ番組だったら、3分も観ずに離脱していたと思う。
映画だと思うから最後まで観たし、ましてレンタルビデオ屋で借りてきたビデオとか、映画館で観た映画とかだったら、どんなにつまらなくてもお金がもったいないから途中で停止するとか上映中に席を立つとかはしないと思う(寝ちゃうことはあるだろうけど)。


エンタテインメントは、どんどん手軽になってきている。
音楽を例にとれば、昔だったら音楽家の生演奏を聴くしかなかったものが、レコードやCDでいつでも聴けるようになり、カセットテープやMDといった記録メディアで複製もできるようになり、今ではデータで遠く離れた人ともやりとりができる。
が、接触がかんたんになるのと比例して、離脱も容易になっていっている。
コンサートに足を運んだ人が途中まで聴いて席を立つということはほとんど起こらないが、CDを途中停止することにはさほど抵抗がない。

インターネット上にあるコンテンツは、手軽に消費される分、ものすごくかんたんに捨てられる。
本を買って1ページだけ読んで読むのをやめる人はほとんどいないが、WEBサイトを3行だけ読んで「戻る」ボタンを押す人はすごく多い。
テレビも同様で、つまらない時間が1分でも続けばみんなチャンネルを変えてしまう。
だからテレビ番組やWEBサイトでは、逃げられないように「この後驚きの結末が……」みたいな煽りを入れたり、過剰に目を惹くタイトルをつけたり、クライマックスを冒頭に持ってきたりする。
その結果コンテンツがおもしろくなっているかというと、そんなことはない。むしろ逆。

おもしろそうなタイトルに釣られて読んだらがっかり。冒頭がいちばんおもしろい、いわゆる出オチ。タイトルと見出しですべてを表していて本文を読む必要がまったくなかった。
WEBサイトなんてそんなものであふれている。

意味があって序盤にピークを持ってきているのならいいんだけど、耳目を惹くためだけにやっているのであれば、作り手にとっても受け手にとってもマイナスにしかならない。


その点、映画は「基本的に観客は最後まで観る」という前提があるから、いちばんおもしろくなるための構成にすることができる。
序盤はたっぷりと世界観の提示と状況説明に時間を使い、中盤から徐々に観客をひきこんで、ラストにクライマックスを持ってきて「最初はつまんないかと思ったけど終わってみればいい映画だったね」と言われるような作りにすることができる。
これは今の時代においては本当に贅沢なことだと思う。


しかしこれは「映画は最後まで観るもの」という認識を持っているおっさんだからであって、ずっと無料動画や見放題の動画提供サービスに親しんでいる若い人からすると、やはり映画も「つまんなかったらすぐにやめるもの」なのかもしれない。
「10分くらい観たけど退屈だからやめたわー。星1つ!」って考えの人が増えたら、映画もやはり過剰に序盤を盛り上げるストーリーと必要以上に期待を煽る演出ばかりになるのかもしれないな。

そんな時代になったら『ミスター・ノーバディー』のような「最後まで観ないとわけわかんない映画」は誰も観なくなっちゃうんだろうなあ……。



2017年6月2日金曜日

【DVD感想】6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア

『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』

内容紹介(Amazonより)
2016年3月25日。
恵比寿ザ・ガーデンホール。
今をときめくテレビの演出家達が千原ジュニアを自由にプロデュース。
1人の芸人が1つの舞台で全く違った世界を演出された実験的かつ革新的なライブ。
チケットが即完した同ライブ待望のパッケージ化。

2006年に上演された『6人の放送作家と1人の千原ジュニア』の続編的なライブのDVD(『6人の放送作家と~』のほうは観ていないけどね)。

テレビのディレクターたちが周到に準備した舞台に何も知らされていない千原ジュニアが挑む、という実験的な企画。

で、いきなりケチをつけるけど、本編には5人のテレビ局員の舞台しか収録されていない。
公演では加地倫三(テレビ朝日)のパートもあったらしいけど、DVDには収められていない。
『アメトーク』や『ロンドンハーツ』のプロデューサーが何をやったのかは正直見たかったけど、まあしかたない。いろんな権利の問題があるんでしょう。舞台をDVD化するときにはよくある話だ(全部収録しないほうが劇場に足を運ぶメリットも感じられるしね)。

ただ、収録しないんだったらDVDのタイトルは変更したほうがいいんじゃないの?
『6人の』と謳っておきながら5人分しかないのは羊頭狗肉が過ぎるんじゃなかろうか……。




以下、感想。

 末弘 奉央(NHK)


『超絶 凄ワザ!』などの担当ディレクター。
千原ジュニアに対して大喜利のお題を出し、その後『プロフェッショナル 仕事の流儀』風のVTRが流される。
いろんな芸人が「千原ジュニアはいかにすごいか」を語り、捏造をおりまぜながらそのすごさを強調する。
構造としては「むやみにハードルを上げる」という一点のみなんだけど、NHKならではの質の高いドキュメンタリータッチな映像と、絶妙に粗い捏造の対比がおもしろい。

うん、これはたしかにテレビではできないよね。特にNHKなら。
いくら千原ジュニアからの「捏造や!」というツッコミがあるとはいえ、「冗談としての捏造」を真に受けてしまう人も観るテレビだとこれはできない。

「大喜利の天才」と上がりまくったハードルに対してどう答えるのかが見ものだったけど、見事に乗り越えてみせた(というかうまく逃げた)千原ジュニア。さすがだねえ。

ラストにピークがくる構成もよかったし、いちばん演出と演者のバランスがちょうどよかったのがこのコーナーだったな。

ただ惜しむらくは9割がVTRで構成されていたためライブ感には欠けていたこと。
これは悪い意味でNHKらしさだね。NHKって生放送でもライブ感がないもんね。

とはいえ1人目としては十分すぎる出来だった。



内田 秀実(日本テレビ)


『ヒルナンデス』などの担当ディレクターが手がけたのは、『千原ジュニアを知らない世界』という企画。
もし千原ジュニアが若手芸人だったとしてもやっぱり売れるのか? ということで、さまざまなシチュエーションに挑戦させられる千原ジュニア。

申し訳ないけど、ほんとにつまらなかった。
雑な大喜利に答えさせられるジュニアがかわいそうに見えてきた。

ゴールまでの道が一直線に決められているから、せっかく即興でやっているのに「どうなるかわからない」というライブ感がない。
この後にやった藤井健太郎の企画が真逆で遊びが多かった(そしてそこがことごとくハマっていた)ため、余計に筋書きの貧相さが目立ってしまった。

ぜんぶテレビでもできることだよね。というか、目まぐるしい場面転換もあったしテレビのほうが向いてる企画なんじゃないだろうか。
オチの手紙(妻からの手紙と思わせて実は別の人が書いていたというよくあるボケ)まで含めて、ことごとく笑えなかった。
なんでテレビで何度も見たパターンのボケを、チケットなりDVDに金払って見なあかんねん。

まあハズレがあるのもライブの魅力のひとつ、と思えば……。



藤井 健太郎(TBSテレビ)


『水曜日のダウンタウン』『クイズ!タレント名鑑』などの担当ディレクター。
以前に書いた(参照記事)けどぼくはこの人のファンなので、このDVDを購入したのも千原ジュニアを観たかったからではなく、藤井健太郎さんが何をやったのかが観たかったから。

で、藤井さんの企画が『ジュニアvsジュニア』というものだったけど、ぼくがこの人のファンだということをさしひいてもこれはすごかった。
これを観られただけでもDVD買ってよかったと思えたね。

さまざまなバラエティ番組やドラマや映画から集めた過去の千原ジュニアの映像をつなぎあわせて、現在の千原ジュニアとトークをしたり対決をしたりするんだけど、まあ鮮やか。
千原ジュニア(現在)が、困らせてやろうと意地悪な質問をしたりしても、ことごとく千原ジュニア(過去)にスマッシュを打ち返される。
完全に手のひらの上で転がされていたジュニア(現在)も素直に「すげえな」と言葉をもらし、悔しそうな顔をしていた。
なにしろこのライブでいちばん笑いをとっていたのが「過去のジュニア」だったからねえ。
(しかしDVD化するときに権利をとるのがたいへんだっただろうな。よくぞ収録してくれた!)

この企画はいい意味でテレビ的だった。

テレビ番組は基本的に無駄から成り立っている。NHKのドキュメンタリーだと30分番組のために2年も取材したりするというし、そこまでいかなくても放送時間の何倍もの映像を収録してそこから編集するのがあたりまえらしい。
つまり撮影したものの大部分が日の目を見ずに捨てられていく。
もったいない気もするけど、その無駄があるからこそ視聴者はおもしろい映像だけを楽しむことができる。

『ジュニアvsジュニア』も、膨大な無駄の上に構成された舞台だった。
いったいどれだけの映像を準備していたのだろう。たぶん舞台で流されたものの何倍もの映像が用意されていて、そのほとんどが使われていない。
(ちなみに3本対決のはずだったがうち1本は捨てられている。捨てられたことで笑いが生まれているから結果的には成功なんだけど、あれは予定通りだったのだろうか?)

藤井健太郎氏が自分で編集作業もしているという『水曜日のダウンタウン』も同じようにつくられていて、すっごくばかばかしいことに途方もない時間をかけて調査していたり、せっかく制作した映像を早送りで雑に流したりして、おもしろくなるためには惜しげもなく余計なものを捨てている。

舞台で活動している人には、「おそらく日の目を浴びることのないことのためにエネルギーを注ぐ」という無駄はなかなかできないだろうね。舞台って編集が入らないから。

テレビならではのやりかたを持ち込んでいる一方で、どういう展開になるかがプロデューサーにも演者にもわからないというライブならではの緊張感もあり、テレビと舞台の魅力がうまく融合していた企画だった。

笑いの量、すごいことをやっているという感動、終わりの潔さ。
すべて含めて完璧に近いステージだったと思う。



佐久間 宣行(テレビ東京)


『ゴッドタン』を手がける佐久間さんの企画は『千原ジュニアのフリートークvs○○ 3本勝負』。

「擬音で感じる女」「お笑いライブに足しげく通う女」「センチメンタル」という邪魔にも負けずにおもしろいフリートークをできるか? という企画。

まあ、『ゴッドタン』そのまんまだね。これを『ゴッドタン』でやったとしてもまったく違和感がない(番組の名物マネージャーも出てくるし)。
というか『ゴッドタン』の『ストイック暗記王』企画から劇団ひとりやおぎやはぎのコメントをなくしただけのように思えて、ものたりなさを感じた。

対決と言いつつ空気を読んだジュニアが負けにいってる時点で、「勝負」という前提が早々に崩れてしまった。
結果、即興にしては予定調和すぎる、台本にしてはぐだぐだすぎる、というなんとも中途半端な出来に。

プロデューサーが自分の得意パターンに持ちこもうとしすぎてたなあ。
新しいことに挑戦してほしかった。



竹内 誠(フジテレビ)


『IPPONグランプリ』『ワイドナショー』などの担当ディレクター。
素人の語るエピソードを千原ジュニアが代弁することでおもしろくするという『daiben.com』という企画だった。

シンプルでわかりやすいし、千原ジュニアというトークの達者な芸人を活かした企画だったけど、マイナス面も多く目立った。

たとえば、下敷きになった素人のエピソードが
「キノコの研究家が毒キノコを食べてみたときの話」
「お天気キャスターがプライベートで天候とどうつきあってるか」
という話だったこと。

それ自体が興味深い話だったので、千原ジュニアが代弁しなくてもおもしろかったんじゃないの? という印象がぬぐえない。
(代弁前のエピソードは観ている側にはわからないので千原ジュニアというフィルタを通したことでどれぐらいおもしろくなったのかがわからない)

また「素人が千原ジュニアにエピソードを語る時間」というのがあって、この間観客はひたすら待たされる。
DVDでは早送りで処理されていたけど、観客はただただ退屈だったはずだ。
高いお金を払って舞台に足を運んでいるお客さんをほったらかしにするという、悪い意味で「テレビ的」な時間だった。

この企画はおもしろいおもしろくない以前に、「観客に伝わらない」「観客を退屈させる」という点でそもそも失敗していたように思う。
決しておもしろくないわけじゃないけど、でも「これだったらテレビで『すべらない話』を観るほうがいい」と思う。



舞台とテレビの違いってなんだろう


テレビの制作者が舞台のプロデュースを手がけるということで、「舞台とテレビの違い」について考えさせられた。

このライブの間に挿入される映像でも、ディレクターたちに「舞台とテレビの違いはなんだと思いますか?」という質問がされている。
彼らの回答は「ライブ感」「観客との近さ」などだった。

でもライブ感も観客との近さも、決定的な違いじゃない。
VTRを使う舞台もあるし、生放送のテレビ番組もある。
観客を入れて収録するテレビ番組もめずらしくない。


じゃあ最大の違いはなにかって考えたら、それは「演者の代替可能性」じゃないかな。

舞台において、観客は演者に対してお金を払う。
もちろん入場料は劇場のオーナーや裏方のスタッフにも渡るわけだが(というよりそっちが大部分だろうけど)、観客の意識としては出演者に払っている。
だから主役級の演者が出られずに急遽代役が登場する、ということは基本的にありえない。
千原ジュニアのライブだったけど急病のため代わりに千原せいじだけが出てくる、ということは基本的に許されない(それはそれでおもしろそうだけど)。

ぼくは以前、まだ存命だった桂米朝一門の落語会のチケットを買ったことがある。
結局直前になって桂米朝が体調をくずし、公演は中止になった。
米朝さんが出られないならしょうがない。「他の演者は出られるんだから小米朝を代役に立てて公演をするべきだ」とは思わなかった。
そりゃそうだよね、米朝の落語を聴くためにチケットをとったんだもの。

一方、テレビの出演者は誰であっても代役が利く。
主役級が休んだとしても番組が放送中止になったりはしない。

かつて『たけし・逸見の平成教育委員会』という番組があった。
逸見さんが亡くなり、ビートたけしがバイク事故で入院して、番組の顔がふたりともいなくなったが、それでも代役を立てて番組は続いた。
島田紳助が引退してからも『行列のできる法律相談所』はやってるし、関西ではやしきたかじんが亡くなって何年もたつ今でもたかじんの番組が2つ放送されている(さすがに番組タイトルからは消えたけど)。
「この人なしでは考えられない」というような番組でさえも、意外と成立してしまうのだ。
もし明石家さんまが急に休業しても『踊る!さんま御殿』も『明石家電視台』も『さんまのまんま』もきっとしばらく続くだろう。


『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』を観おわってまず僕が抱いた感想は、「テレビっぽいなあ」だった。

それはたぶん、準備が周到すぎたから。
「千原ジュニアには事前に企画の内容を知らせない」「編集でごまかせない舞台だから失敗は許されない」という条件が重なった企画、千原ジュニアがどう動こうが大勢に影響しない企画ばかりになってしまったんだと思う。
結果、千原ジュニアじゃなくても成立する企画になってしまった。

テレビをつくっている人間として「最後の最後を演者のパフォーマンスにゆだねる」ことは怖くてできなかったんだろうなあ。

すごく実験的でおもしろい企画だったんだけど、結果的に「テレビマンが舞台を成功させるのは難しい」という弱点を露呈させてしまった舞台だったのかもしれない。

ただ回を重ねればそのへんを打破するような企画をぶったててくれる人も現れると思うので、ぜひ同様の企画をまたやってほしいね。

【関連記事】

【読書感想文】 藤井 健太郎 『悪意とこだわりの演出術』


2017年5月9日火曜日

【DVD感想】『カラスの親指』





『カラスの親指 by rule of CROW's thumb』(2012)

内容(Amazonビデオより)
悲しい過去を背負ったままサギ師になったタケ(阿部寛)と、成り行きでコンビを組むことになった新米サギ師のテツ(村上ショージ)。そんな2人の元に、ある日ひょんなことから河合やひろ(石原さとみ)と河合まひろ(能年玲奈)の美人姉妹、それにノッポの石屋貫太郎(小柳友)を加えた3人の若者が転がり込んでくる。彼らもまた、不幸な生い立ちのもと、ギリギリのところで生きてきたという。これをきっかけに始まる他人同士のちょっと奇妙な共同生活。やがて、タケが過去に起こしたある事件が、彼らを一世一代の大勝負へ導くことになるが、この時は誰一人、それを知る由もなかった…。社会のどん底で生きてきた5人の一発逆転劇。そして驚愕の真実が明かされる…。

Amazonプライムで鑑賞。
道尾秀介の小説を映画化したもの。
詐欺で悪人から大金を騙しとる、っていういわゆる「コン・ゲーム」の王道のようなストーリー。

コン・ゲームって、小説だとジェフリー・アーチャーの『100万ドルを取り返せ!』とか伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』、映画だと『オーシャンズ』シリーズや『ラスベガスをぶっつぶせ!』なんかが有名だね。

そういう作品をいくつか見ているので『カラスの親指』も

「予想外のハプニングがあり、失敗したかにみえてもじつはそれも計算通りで、最終的にはうまく金をとるんだろうなー」

と思ってたらまさにそのとおりの展開だった。

……と思いきや、もうひとひねりあった。


だまされたー!
と気持ちよく叫びたいところだけど……。

んー、この展開はいただけない。

完全にやりすぎ。ご都合主義が過ぎる。
「最後に大どんでん返し」をやりたいあまりリアリティを捨ててしまった。

「たまたまうまくいった」の10乗みたいな確率のストーリーを「全部私の筋書き通りです」って言われてもなあ……。

さらっと「当たり馬券を用意してただけです」とか言ってるけど、どうやって当たりの万馬券を用意するんだよー!
これは一例だけど、ほかにも穴だらけだった。

しかも無駄金使って大芝居を打つ動機が弱いし。
このへん、原作小説ではちゃんとつじつま合わせてるのかな?

一応ちゃんと伏線は張ってあってフェアではあるけどね。

でもフェアだったらなんでも許されるわけじゃないぜ!

2時間40分もある長編映画だったけど、無茶などんでん返しを入れるぐらいなら、2時間ですっぱり終わってほしかった。

終盤まではけっこう楽しめただけに残念。



冒頭の競馬場のシーンはよかったなあ。

詐欺師3人の騙しあい。

あのシーンがいちばん「おお!」ってなった。



村上ショージの演技が笑っちゃうぐらいへただった。

「ぱっとしない詐欺師」の役だからへたでもあんまり気にならなかったんだけど、セリフが聞きとれないところも。

ラストの重要なセリフまで棒読みだったけど、あそこで豹変してシリアスな演技をしてたら全体の印象も大きく変わったんだけどな……。



時間がたっぷりあるのに、セリフで説明してる箇所が多くて疲れてしまった。

阿部寛が聞かれてもいないのに自分の過去をべらべらしゃべる。
あまりにあけっぴろげだから「これも嘘なんだろうな」と勘ぐっていたら、全部ほんとだったのでびっくりした。

詐欺師なのにオープンすぎる!
しかも隠したい過去なのに。

そのへんが「詐欺師として一流にはなれない」という人物描写なのだとしたらアリだけど、たぶん何も考えてないだけ。

原作小説の地の文で説明してることを、何も考えずにセリフにしちゃったんだろうなー。



公開時のキャッチコピーは

「衝撃のラストには、衝撃のウラがある。」

だったそうだけど、そろそろこういう

「驚愕のラスト!」
「ネタバレ禁止! あなたもきっと騙される」

みたいな映画、やめにしない?

あと「映像化不可能と言われた〇〇がまさかの映画化!」も。
(『イニシエーション・ラブ』とか『アヒルと鴨のコインロッカー』とか)

中にはよくできているものもあるけどさ。

でも監督の自己満足に思えちゃう。

よく映像化したなーとは思うけど、でもべつに映像化する必要なかったんじゃない?


「観客をだますタイプの作品」って映像には向いてないんだよね。

小説だと
  • 「読者はすべての文を読む」という了解があるので伏線やトリックが見過ごされにくい
  • すべてを描写する必要がないので、都合の悪い情報は隠すことができる
  • かんたんに読み返せるので「あーそういうことか」って思ってもらえる
という利点があるから、自然に、かつフェアに読者をだますことができるんだよね。

でも映像作品は
  • 画面の情報量が多いので伏線の提示がさりげなさすぎると観客に気づかれない
  • 読者に与えたくない情報まで画面に映ってしまう
  • かんたんに見返せないので、観客が「そんな伏線あったっけ?」ってなる
こういう事情があるから、読者をだますタイプの作品には向いてないと思うんだよね。
(難しいからこそ『シックス・センス』のようにうまくはまったときは衝撃も大きいんだけど)

「やってやれないことはない」ぐらいだったらやらないほうがいいと思うんだよなあ。

映画には映画の長所があるんだからさ。

小説では表現しづらいスピードとかリズムとかスリルとかを表現するのには向いてるんだし。

作品ごとに適したメディアは違うから、無理に映像化・アニメ化・コミカライズ・ノベライズしないほうがいいと思うなー。

2017年3月1日水曜日

R-1ぐらんぷり2017の感想

R-1ぐらんぷり2017の感想書きます。


【1回戦Aブロック】

・レイザーラモンRG 『トランプ大統領』

この人のすごさって、「プロとは思えない潔さ」ですよね。
トランプ就任直後にトランプやったり、五郎丸が流行ってるときに五郎丸やったり。
しかも似てないし、たいしたひねりもない。
プロの芸人がぜったいにやらないことでしょ。素人が(それもおもんないやつが)忘年会でやっちゃうレベルのキャラ。
それをプロがやるってのがすごいよね。
この人しかできない。ここまでいくと逆にカッコイイ。
もうおもしろいとかおもしろくないとかどうでもいい。ていうかおもしろくなかった
でもそれもいいじゃない、って思わされる人間的魅力があるね。相方がイヴァンカ・トランプの恰好で応援に来てたシーンもしみじみとした良さがあったなあ。こちらもやっぱりおもしろくなかったけど。

・横澤夏子 『ママチャリ』

達者だね。達者さがちょっと鼻につく感じだね。
一人芸って、ネタの力と表現力のかけ算だと思うんだけど、ネタが弱いよねえ。
というかこの道って、古くは山田邦子から、青木さやかやら柳原可奈子やらがさんざんやりつくしてしまった道だからねえ。

・三浦マイルド 『両方から聞こえてきそうな言葉』

ネタそのものは良かったんだけど、キャラクターとあってなさすぎてうまく入ってこなかったな。せっかく強いキャラクターがあるのに誰がやっても成立しちゃうネタだったな。
後半の保育園のくだりは広島出身という点をうまく活かしてたけど、そこにいくまでは「悪くはないけど……」っていう感じでした。

・サンシャイン池崎 『となりのトトロ』

たぶんああいう勢いで押しきるネタって、現場にいたら笑っちゃうと思うんだよね。
逆にいうとテレビで観ている人との温度差がいちばんあるのもこういうネタ。
きっと「まったく笑えなかった」という感想があふれかえっていたことでしょう。ぼくもそのひとり。


ぼくは「あえて言うなら三浦マイルドだけど誰でもいいや」って思ってましたが、サンシャイン池崎が最終決戦進出。


【1回戦Bブロック】

・ゆりやんレトリィバァ 『透明感のある女』

わかりやすいフリの後に、強い一言を並べていくネタ。
設定がフリーダムすぎて、客も戸惑っていたように感じた。
たとえば「なんで〇〇は××なん?」っていう言い回しで統一するとか、ヤンキーというテーマでそろえるとか、なにかしらルールがあったほうが見やすかったように思う。
ところでネタとまったく関係ないけど、ゆりやんレトリィバァってすごい吉本新喜劇にいる雰囲気漂わせてるよね。はじめて見たとき「ぜったい新喜劇の役者や」って思った。新喜劇側はぜったいほしいやろ。

・石出奈々子 『ジブリっぽい女の子が大阪に行く』

いきなりネタと関係ないこと書くけど、この人、すごいタイプ。
整っているようでちょっとだけくずれてる顔とか、小柄なとことか肌がきれいなとことか。
「かわいいなあ」と思って観てたのであんまりネタ覚えてないや。
ええっと、大阪に行く話ね。
ほんとジブリの世界の表現すごいね。特にあの力こぶのとことか。でも肝心のネタはおもしろくなかったなあ。大阪ネタが手垢まみれすぎて。
あの世界観で、大阪人全員から憎まれるぐらいどぎつい攻撃したらおもしろいんだろうなあ。

・ルシファー吉岡 『大化の改新』

よくできてるんだけど、設定自体はそこまでぶっとんでるわけじゃないから、あとはどれだけ切れ味の鋭い言葉を並べるかなんだけど、期待を超えてくれなかったなあ。
自身が2016年にやった「キャンタマクラッカー」のネタのほうが、設定、言葉のインパクト、くだらなさ、どれをとっても上だった。
自分に負けちゃだめだね。

・紺野ぶるま 『占い師』

15年くらい前だったらすごくウケてたと思う。
今でもおもしろくないわけじゃないんだけどね。でもすべてが古い。
いろんなネタをパクってんのか? って思っちゃうぐらい、どのボケも既視感があったなあ。
それでもまだ表現力があれば笑えるんでしょうけど。
この人がネタ書いて横澤夏子が演じたらうまくいくんじゃないかな。


Bブロックも消去法で石出奈々子かなあと思っていた。で、石出奈々子が最終決戦進出。

アイデンティティ田島の敗者復活コメントおもしろかったなあ。「ブルマも行ったし」
でも結果発表前に急にアナウンサーがコメント振った時点で「落ちたんだな」ってわかっちゃったから、あれはよくないね。


【1回戦Cブロック】

・ブルゾンちえみ 『キャリアウーマン』

見ててわかるぐらい緊張してたね。本人も「ネタ飛ばした」と言ってたし。
あの顔で余裕たっぷりのいい女を演じるのがおもしろいネタだから、緊張しちゃったら成立しない。
べつの番組で観たことあるけど、いちばん笑ったのは両隣の男のセリフだった。

・マツモトクラブ 『雪の夜の駅のホーム』

笑いの量を求められる場では勝てないだろうねえ。この人のはコントじゃなくてコメディだからねえ。
戦いの場を変えたほうがいいんじゃないかと思う。
ところで「掛川は新幹線止まらない」は、RGのネタを受けてのアドリブだったのかな。アドリブを入れにくい構造のネタなのに、がんばったなあ。

・アキラ100% 『全裸芸』

いやあ、おもしろい。これは惹きつけられちゃうでしょ。
以前に観たことあって、でも去年のR-1ぐらんぷりで決勝に行けなかった時点で「今後はもう無理だろうな」と思っていた。
だって見た目のインパクトが命だし、『丸腰刑事』の完成度は高かったから、「もうこれ以上のネタを作って上がってくることはないな」と思っていた。
で、今年になって決勝進出。「なんでいまさら」と思っていたら、ちゃんとネタのレベルを上げているのでびっくりしてしまった。
生放送だった、というのも有利にはたらきましたね。
板尾審査員がコメントしていたとおり、スリリングなネタで見入ってしまいました。

・おいでやす小田 『言葉を額面通りに受け取る彼女』

これはいいネタだね。いちばん笑ったのはアキラ100%だったけど、ネタの完成度はこれがダントツで1番だった。
「比喩表現を言葉通りに受け取ってしまう」ってボケ自体は古典落語にもあるぐらいだから目新しいものじゃないんだけど、見せ方がうまかったね。
彼女だけでなくウェイターも使ったり、言葉だけじゃなく手の動きもつけたり、妄想の会話を延々くりひろげるくだりがあったり、飽きさせない趣向が十分に凝らされていた。


アキラ100%がおいでやす小田を僅差で抑え、最終決戦進出。
ぼくも「笑ったのはアキラ100%、でも好みはおいでやす小田」と思っていたから、まあ納得。
あとは、アキラ100%にはかわいげがあるけど、おいでやす小田にはかわいげがないってのも、意外と審査に響いたのかも。本人が悪いわけじゃないけどね。


【最終決戦】

・サンシャイン池崎 『でかい剣を持ってるやつあるある』

あれ?
1本目のネタよりはおもしろいと思ったのに、こっちのがほうがウケてない。
ていうか客が疲れてない?
後半急カーブを切って着地する構成とか、叫びすぎて声出なくなってるとことか、おもしろかったのにな。好きじゃないけど。
「らしくない」ネタだったからすんなり受け入れられなかったのかな。
1本目と違う笑いのとりかたをしにきていて、じつはけっこう計算高い人なのかもね、この人。

・石出奈々子 『ジブリの世界のテレビショッピング』

サンシャイン池崎とは逆に、1本目と同じタイプのネタを持ってきて撃沈。
いやあ、びっくりするぐらいスベってたね。
ほんとおもしろくなかったなあ。かわいいだけだったなあ。かわいかったなあ。


・アキラ100% 『全裸芸』

サンシャイン池崎が空回り、石出奈々子がだだスベりで、やる前からほぼ結果が決まってしまったアキラ100%。
ここでのアキラ100%は安心感がありますね(ネタの内容は不安感しかないけど)。だってこの芸がスベることないでしょ。眉をひそめられることはあっても。
で、最後の最後までいろんな角度から全裸芸を見せてくれて楽しませてくれました。
ネタを見るだけで、まじめな人なんだなあってわかりますね。


というわけで、アキラ100%が残る2人に圧倒的な差をつけて、文句なしの優勝!


しかし、「R-1ぐらんんぷり優勝者は売れない」というジンクスがありますけど、このジンクスは少なくともあと1年は続きますね、これ……。



2017年2月25日土曜日

【DVD感想】 バカリズムライブ『類』

バカリズムライブ『類』

内容紹介(Amazonより)
バカリズムの最新オリジナル・コント・ライブ!! 2016年6月23日~26日に草月ホール(東京)で開催されたバカリズムライブ「類」の模様を収録! 主演「升野英知」/作・演出「升野英知」/作詞「升野英知」と、すべて自身で手がけているライブ作品。


・オープニング


このライブについて、ひたすら自画自賛するバカリズム。
ポスターや音楽やライブタイトルを絶賛し、センスがいいだの、知性を感じるだの、あげくにはサブカル心をくすぐるだの、一歩まちがえたら自分のライブを観にきた観客をばかにしているとも取られかねない(じっさいばかにしているのかもしれない)言葉を並べ立てる。
事実、ポスターも音楽もオシャレだし、このオープニングを1本のコントとしてカウントしてもいいぐらい十分におもしろい。 メタ的な笑いをちりばめながらもライブ本編への期待がいやが上にも高まる、小憎らしいオープニング。


・友情の類


自称「リア充」の男が、「非リア充」の友人に対して、リア充を隠していたことを謝罪をするという独白コント。
論旨は何もまちがってなくて男は本心から謝罪をしているわけだから、本来なら笑うようなことはないのに、でもずっとおかしい。
「当人はいたってまじめなのに傍から見ているとおかしい」というコントらしいコント。
ボケらしいボケはオチのみなんだけど、だからこそその破壊力は強烈。
即時性のあるコントだから5年後に観てももうおもしろくないんじゃないでしょうか。


・(幕間映像)教師の類


・手品の類


ハイパー中本というマジシャンによる「言葉だけで表現する手品」。
ぼくも昔、同じようなことをしていたのを思いだした。
学生時代、友人と一緒に「ラジオ番組を作ろう」っていって、音声コントをカセットテープやMDに吹き込んでいたんですね(時代だなあ)。
その中で、「ラジオだから音声しか聞こえないのにマジックショーをやる」という設定のコントがありました。
だから発想自体はさほどめずらしいものじゃないんですよね。「ラジオなのに匂いを伝えようとする」「電話なのにおもしろい顔をする」とかって。

でも、「過去の栄光として語る」という切り口を加えることによって、たしかめようのない過去の自慢をするやつへの風刺にもなっているというのがいいですね。
おっさんの「昔はワルかった」自慢みたいなね。どうせ誇張してるんだろうけど確かめようもないしそもそもおまえに興味ないから確かめようとも思わねえよハイハイすごかったんですね、みたいなやつね。


・(幕間映像)類物語


・上司の類


会社員の男が、「自分がいかに会社を辞めたいか」を表やグラフを駆使してプレゼンするという内容。
「なんとかして自分の気持ちを伝えよう」と思っているという意味ではたしかにパワーポイントは適切なツールだし、こないだ会社を辞めた身としては思いの丈をぜんぶぶちまけてやりたいという気持ちもわかる(ぼくは言わなかったけど)。
「しょうもないことでもパワポでバーンと見せればおもしろい」ってのは、バカリズムやスーパー・ササダンゴ・マシンがよく使う手法だけど、ちょっとずるい笑いの取り方だよなあ。でも笑っちゃうんだよなあ。


・正義の類


罵倒することによって相手に精神的ダメージを与えるヒーロー・ノノシリンダー。
「手下の前で無理していきがってんじゃねえよカス、卓球部の2年か」みたいな言葉を延々並びたてる一人コントなんだけど、ちゃんと半泣きになっている敵が見える。
あのオチも鮮やかだね。いっそはじめからそうしてやれよ、って。


・(幕間映像)ボールは誰の何の類


・背徳の類


いろんなものをずらして楽しむ「ずらし屋」を名乗る男の独白。
途中から恋愛話になってきて、いったいどう着地するのかと思っていたらなるほどこういうことねというオチ。
単独ライブならでは、という感じのゆるめのネタ。
既婚者としてはちょっとドキドキしました。


・(幕間映像)類物語


・反逆の類


叛逆精神の表出であるロックにあこがれた男による独白と歌。
一人『マジ歌選手権』というようなネタで、でも狙いがベタベタになっちゃった近年の『マジ歌』よりもずっとおもしろい。
いい歌だし。
『ガラスの翼は壊れたマリオネットのように傷だらけさ』『I think』『JOY』の3曲を披露。『I think』『JOY』は曲の最後でタイトルの意味がわかるという構成で、歌の中でもきっちりオチをつけるという完成度の高い曲。
今回いちばん笑ったコントでした。


・(幕間映像)思い出の類


・40LOVE~幸福の類~


40歳独身男が、生身の女性との結婚をあきらめ、精神的な結婚生活を想像する ”マリッジベーション” にふける。
「妄想彼女」という題材は新奇なものではないよね(『東京大学物語』という妄想の頂を極めてしまった漫画作品があるし)。でも先の展開のばかばかしさはすばらしい。これはライブで観たら、引き込まれる分、めちゃくちゃ笑うだろうなあ。
終盤はラーメンズの『映画好きの二人』(公式動画)のような展開。



知性3割、バカ7割ぐらいのちょうどいい配分の作品集、という印象でした。

コントというのは知的なだけでは笑えません。
知的なだけでは感心はしても笑えないし、バカなだけだと後に何も残らない。
知性とバカの両方があってこそ印象に残る名作コントとなるのだとぼくは思います。

だからいいコント師と呼ばれるような人は、漫才のボケ/ツッコミほどではないにせよ、「知性」と「バカ」の役割が決まっていることが多い。
(コントによって役割が変わることがあるにせよ)ラーメンズなら知性の小林とバカの片桐、バナナマンなら設楽の綿密な構成からはみだすほどに暴れる日村、というように。

ところが一人コントをしようとすると、「知性」「バカ」の両方の役割を一人で担わないといけません。
これはたいへん難しいことです。さっきまで賢いことを言ってたやつが急にバカなことを口にしても説得力に欠けますから。

でもバカリズムはこれを一人でやっている。
これをやるには何より表現力が必要なわけで、バカリズムというのはその奇抜な発想がづどうしても語られるけれど、ぼくはそれより「表現力のすごい人」という印象を持っています。
ちょっと怒ったり、照れたり、相手をこばかにしたり、悪意を持って毒づいたり、あわてたり、とにかく表情が目まぐるしく変わる。
「演者」としての能力も高い人だと、コントを観るたびに思います。

「知性」が強く出た『バカリズム案』シリーズもいいのですが、「バカ」と「表現」が存分に発揮されるコントのほうが、やっぱりいいですねえ。


2016年2月29日月曜日

【映画感想】『長い長い殺人』

『長い長い殺人』(2007年)
暴走車に轢かれ、頭部を殴打された男の死体が発見された。被害者の妻・法子(伊藤裕子)は愛人がいる派手好きな女、しかも夫に3億円の保険金をかけていたことが発覚する。世間やマスコミは法子と愛人・塚田(谷原章介)に疑惑の目を向けるが、2人のアリバイは完璧だった。そして事件を担当する所轄刑事の響(長塚京三)、探偵の河野(仲村トオル)は不可解な連続殺人事件へ巻き込まれていく。

原作は宮部みゆきの同名の小説。

原作を読んだのはもう20年以上前なのでストーリーはほとんど忘れてしまった。
覚えていることといえば、
「小説の語り手が財布」だということと、
「おもしろかった」ということだけ。

(あの頃の宮部みゆきはほんとに神がかっていた。それまでミステリといえば江戸川乱歩と赤川次郎しか読んだことのなかった中学生のぼくにとって、『我らが隣人の犯罪』『スナーク狩り』『長い長い殺人』はめまいがするほどおもしろかった)


さて。
映画『長い長い殺人』、丁寧な作りの秀作だった。

映像化にあわせてストーリーを調整しながらも、原作者のメッセージの中核となるところにはしっかりと時間を割いている。
重みを置くべきところを心得ている、というアレンジのしかただ。

10ほどの章に分かれていて、かつ章ごとに視点が変わるという独特な構成。ともすれば散漫な印象にもなりかねなかったが、そのあたりもうまく処理している。
章のたびに緊迫感のある展開を用意していて、退屈させない。

まず事件の概要を説明し、容疑者が浮上し、観客の中でもこいつが犯人だという確証が高まったところで、決定的な証拠を提示。
いよいよ逮捕かというところで容疑者の無罪を証明する完璧なアリバイを出してきてひっくり返してしまうという展開は、ほんとにスリリング。

全体的に静かな映画だったが、それがかえっていい緊張感を与えていた。


ただ惜しむらくは「語り手が財布である」必然性を感じなかったこと。

原作では、視点をころころ変えるわけにはいかないこと、事件関係者を語り手にしてしまうと情報を小出しにできないこと、といった小説特有の事情があり、いつも身近にあってプライベートな情報を多く持つ“財布”というアイテムからの視点にすることが優れた効果を生んでいた。

だが映像の場合は、視点を変えることも情報をあえて描かないことも比較的容易だから、あえて財布に語らせる必要はなかったとおもう。
「語り手が財布」というのが小説の最大の特徴だから切り捨てにくかったんだろうけど。

あと、『長い長い殺人』の重要なテーマとなっている劇場型犯罪者の心理については、20年前には斬新だったのだろうが、その数年後に、やはり宮部みゆきが『模倣犯』という金字塔的な作品が送り出した後の今となっては、正直目新しさは感じない。

ただ映画化された『模倣犯』は超がつく失敗作だったので、それと比べると『長い長い殺人』は完璧に近い映像化だといってもいいね。


2016年2月24日水曜日

【エッセイ】いちばん嫌いな映画

いちばん嫌いな映画ですか……。
たしかに、ちょっと難しい質問ですね。
「つまんない映画」は山ほどありますけどね。
でも、つまんない映画って意外と憎めないんですよね。
あそこもだめだった、ここもつまんなかった、って挙げていくのは愉しみですらありますからね。
そうやって悪口を云ってるうちに愛着が出てくるんでしょうね。
映画史に燦然と輝く駄作と名高い『シベリア超特急』『北京原人』『デビルマン』ですら、なんだかんだでけっこう愛されてますから。

前置きが長くなりました。
ぼくが選ぶ、嫌いな映画ナンバーワンは、2006年公開『手紙』ですね。
東野圭吾の原作を映画化したやつです。


あ、ことわっておきますが、原作小説はおもしろかったですよ。
嫌いなのは映画だけ。

映画『手紙』の何が嫌いって、ひとことでいえば「観客をなめてる」に尽きます。

まず主人公の職業が、原作ではミュージシャンだったのが、映画ではお笑い芸人に変わっています。
察するに、「歌のうたえない役者にミュージシャン役はムリだな。ま、お笑い芸人ならいけるっしょ!」って感じで職業変更したんでしょうね。
はい、観客をなめてるポイントその1ですね。

案の定、間もへったくれもないど素人のお笑い芸人の演技を見せられます。
イタい大学生のコンパを延々見せられてるような苦痛。

おまけに主人公が芸人としてそこそこ出世するというストーリーなので、リアリティのかけらもありません。
さらには原作では「ミュージシャンとして刑務所の慰問に訪れて、収監されている兄の前で歌おうとするも涙ぐんでしまい歌えない」というシーンだったクライマックスでしたが、
これをお笑い芸人にしてしまったせいで、
「漫才師として刑務所の慰問に訪れた主人公とその相方。収監されている兄の前で漫才を披露するも、事情を知っているはずの相方がなぜか兄いじりをはじめる。自分で兄いじりをはじめたくせに、やった後に直後に『しまった』という顔をする。もちろんまったくウケない。途方にくれた主人公はマイクの前で呆然と1分以上立ち尽くす」
というどうしようもないシーンに変わり果てています。

どこで感動すればいいんでしょうか。


次のなめてるポイントは、女優の妙な方言。
大阪弁っぽい言葉で話すのですが、大阪人じゃないぼくが聞いても、どうしようもなく耳ざわり。
イントネーションが汚すぎる。
まったく方言指導をしなかったんでしょう。

ま、それはいいです。
そんな映画、いくらでもあります。昔のハリウッド映画なら、日本人役のはずなのに中国語をしゃべってましたからね。

『手紙』がひどいのは、そもそも女優が大阪弁をしゃべる理由がまったくないってことです。
舞台はずっと関東。大阪に行くシーンもない。大阪から来ました、という描写もない。だから方言を話す必然性がまったくないわけです。
なのに大阪弁。そしてそれがどうしようもなくへたくそ。
何がしたいんだ、としか思えませんね。


ストーリーに関しては、原作がしっかりしているので、目も当てられないほどひどいということはありません。
ぼくは原作を読む前に映画を観たのですが、
「ああ、原作のほうはおもしろいんだろうな」
と思わせてくれる程度には、映画のストーリーは崩壊していませんでした(細かいところを挙げればキリがありませんが)。
だからこそ映画観賞後すぐに原作小説を読み、ああよかった東野圭吾はちゃんとしたものを書いていた、と安心したものです。


映画の話に戻りましょう。
いちばん観客をなめてると感じたのは、さっきも書いたクライマックスシーンです。
収監されている兄の前で漫才の慰問に訪れた弟が、相方から「おまえの兄貴は犯罪者ー!」といじられて涙ぐむというシーン(笑)ですね。
はっきりいって、失笑しかないですよね。

ここで、大音量で流れるのが小田和正の『言葉にならない』です。
テレビCMでも使われていた、いわゆる「泣ける曲」のド定番ですね。
これが唐突に流れます(主題歌よりもいいところで使われます)。

なんと親切なんでしょう。
「はいここが制作者が意図した泣くポイントですよー!」
とわかりやすく教えてくれているのです。

ぼくは劇場でこの映画を観ていたのですが、人間の反射というのはふしぎですね、それまで失笑に包まれていた劇場内で、この曲が流れたとたんにすすり泣きが聞こえてきたのです。

店内で『蛍の光』を耳にしたら「そろそろ帰らなきゃ」と思うように、『言葉にならない』を聴いたら「あっ、そろそろ泣かなきゃ」と思ってしまう人が世の中には少なからずいるのです。

「これ流しときゃどうせ泣くんでしょ♪」と、脈絡なく小田和正を流す。
観客をなめてるといわずしてなんといいましょう。

調べてみると、映画『手紙』の監督は生野慈朗という人。
テレビドラマの演出家だそうです。

ああ、どうりでいかにもテレビドラマ的な安い演出のオンパレードなわけです。
「こういうときはこうしときゃいい」というテレビドラマのセオリーが骨身に染みついてるんでしょうね。


というわけで、観客ばかりか映画そのものもなめきった態度で作られた『手紙』。

10年たってもいまだに不快感が消えないため、嫌いな映画ナンバーワンとして自信をもって推薦させていただきます!