ラベル 娘との遊び の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 娘との遊び の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年5月24日金曜日

娘の知ったかぶり


毎晩、五歳の娘に本を読んでいる。

以前は絵本を読んでいたが、最近は小学校低学年向けのいわゆる児童書が多い。

「絵のないページがある本」は娘が嫌がるので、「どのページにもイラストがある本」を図書館で借りて読んでいる。

一冊読むのに三十分くらいかかる。
という話を他のおとうさんおかあさんにすると「たいへんですね」といわれるが、ぼくからしたらむしろ楽になったと感じている。

絵本を読むほうがぼくはつらかった。
絵本って「内容が単調」または「ストーリーが不条理」なことが多い。

子どもにはそれがおもしろいのかもしれないが、大人からすると「おもったとおりの展開」か「意味わかんねえ」のどっちかになることが多く、退屈きわまりなかった。

その点、児童文学はストーリーは整合性がとれつつもそこそこ裏切りや謎解きの要素があって、大人も楽しめる。

最近読んだ本だと、石井 睦美『すみれちゃん』シリーズなんて、五歳~八歳の少女の動きが丁寧に描かれていてすごくよかった
娘もいたく気に入って、ぼくに読んでもらった翌日にひとりで読みかえしていた。


あとは富安陽子さんの『サラとピンキー』シリーズもおもしろいし、角野英子さん(『魔女の宅急便』の作者)の本もはずれがない。

ぼくも娘といっしょに夜の読書の時間を楽しんでいる。



さて、児童書を読んでいるとときおりむずかしい表現に出会う。

「じゆう」とか「こどく」とか「ふこうへい」とか。
ものの名前ではない、概念を表す言葉。

こういった言葉が出てくると、ぼくは娘に尋ねる。
「ふこうへいってどういう意味かわかる?」

娘は、わかれば自分なりに説明してくれるし、わからなければ「わからない」と言い、ぼくが説明してやる。

以前は、よく知ったかぶりをしていた。
「知ってる」というので「どういう意味?」と訊くと、まるで答えられないことがたびたびあった。

娘もいっちょまえにプライドが出てきて、虚勢を張るようになったのだ。

そのたびにぼくは注意をした。
「知らないことがあるのは恥ずかしいことじゃないよ。でも知らないのに知ってるふりをするのはすごくかっこわるいことだし、自分が困るよ」
と。

知ったかぶりをしたときはたしなめるが、知らないというときはわざとらしいぐらい優しく教えてやる。
これを何度もくりかえしていたら、知らないことは素直に知らないといってくれるようになった。



今のところ、ぼくの中での唯一の教育方針は「学ぶことの愉しさを知ってもらう」だ。

わからないことがわかるようになる。こんなに愉しいことはない。

嫌々勉強することがないように、「本読んでいいよ」「パズルしよっか」ということはあるが、「本を読みなさい」「勉強しなさい」とは言わないようにしている。

愉しく学ぶ上で最大の障壁となるのが「知ったかぶり」だ。
知ったかぶりをしたとたん、学びはストップする。

だから知ったかぶりをしたときは容赦なく糾弾するし、わからないことに対しては決して責めずに教えていこうとおもう。

自戒の念もこめて。


2018年12月10日月曜日

たからさがし


五歳の娘と、その友だちが公園で「なんかおもしろいことしてー」と言ってきたので、
「じゃあ宝さがししよっか」と云った。

よくわからないままに「するー!」と手を挙げる五歳児たち。
「じゃあちょっと待ってて」と鉄棒をさせて、その間にぼくは宝を隠す準備をする。

ノートの切れ端を使い、メモを書く。
「いちばんたかいてつぼうのしたをみろ」と。
で、鉄棒の下に「すべりだいのうえをみろ」と書いた紙をわかりやすく埋めておく。
すべりだいの上には「せがさをんだか  ヒント:はんたいからよむこと」を挟んでおく。
十回ぐらいあちこちいったりきたりさせてあげくに、最後には「おっちゃんのぼうしのなか」として、ぼくの帽子の中にどんぐりを入れておいた。

これを五歳児にやらせたところ、とても楽しんでいた。
ずいぶんやさしいヒントにしたつもりだが、それでもときどき迷いながらああでもないこうでもないと宝をさがしていた。

「たのしかったー!」「またやってー!」
とお褒めの言葉をいただき、その後、何度も宝さがしをした。



これはぼくが子どものときに好きだった遊びだ。
『きょうはなんのひ?』という絵本で知って、真似をして何度もやった。


『きょうはなんのひ?』は、女の子が家中に散りばめた謎を、おかあさんが解いてゆくという話だ。
絵本にはめずらしく子どもよりおかあさんの登場シーンが多いが、それでもこの絵本の主人公はあまり姿を見せない"まみこ"だ。姿は現さなくても、いたずら好きで頭のいいチャーミングな女の子を感じることができる。
この本を読んだ子は、ぜったいに"まみこ"のように宝さがし(の仕掛人)がやりたくなる。

少し前に脱出ゲームなるものが流行っていたが、それを思いついた人もきっとこの絵本を読んだことのある人なんじゃないかな。



何度か宝さがしゲームをやっているうちに、娘たちも仕掛人をやりたくなった。
「今度は子どもたちがつくるからおっちゃんがやって!」

そう。
この遊びは、仕掛ける側のほうが楽しいのだ。

しかし五歳児たちがつくった宝さがしはめちゃくちゃだった。

「いしのした」とか(どの石やねん!)
「すなのなか」とか(どこやねん!)
「したをみろ(うそ)」とか(じゃあどこ見たらええねん!)。
とても解けない。

そもそも五歳児の書いた文字が読めないし。

2018年6月12日火曜日

ストロベリーハンター


子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。


娘はいちごが大好きだ。

以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。

大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。

他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。

いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。


いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。


予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。


いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。


狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。

まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。

なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。

おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。


皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。

電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。

いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。


2018年4月8日日曜日

四歳児としりとりをするときの覚書



四歳の娘としりとりをするときに考えていること。

ボキャブラリーを増やしたい


意図的に「娘が使わなさそうな言葉」で返すようにしている。
ただし物の名前をそのまま表す言葉は、それを見ないと理解しにくいのでなるべく使わない。たとえば「アリジゴク」「すだれ」などは、それを見せて説明するのがいちばん正確なので、しりとりでは教えない。というより、それを見たことない四歳児に説明するのは不可能に近い。

四歳児でも理解できそうな概念的な言葉をよく使うようにしている。物そのものの名前ではなく、物のグループの名前とか。
昨日のしりとりでは「交代」「下着」「昔」「植物」などを言った。案の定、娘が「どういう意味?」と訊いてきたので、「代わりばんこすること」「パンツとかシャツとか、服の下に着る服」などと説明した。


同じ言葉で攻める


しりとりをしていると、「りんご」→「ゴリラ」→「ラッパ」→「パンダ」→「ダチョウ」のように流れが定型化してしまうことがよくある。
なるべく新しい単語を身につけてもらいたいので、意図的に同じ文字で攻める。「また『に』か~」と言わせる。
脊髄反射的に返せなくすることで新しい単語を必死に探すだろうし、そうすることで自分の語彙として定着するのではないかと思うので。


ヒントを与える


ほとんどの親がやっていると思うが、娘が答えに詰まったときにはヒントをあげる。
「砂漠にいる背中にこぶのある動物」など。答えたときは大げさに褒めてあげる。


動詞や形容詞は禁止しない


通常のしりとりでは用言(動詞、形容詞、形容動詞、助詞など)は禁止だが、娘とのしりとりでは禁止はしていない。「名詞だけだよ」と言ってうまく説明できる自信がないので。
禁止しているわけではないけど、ぼくは使わない。そうすると娘も意外と言わないものだ。
動詞や形容詞の語彙も増やしたいけど、語尾の文字がほとんど同じだからしりとり向きじゃないんだよねー。


恐竜の名前は勘弁してくれ


とまあいろいろ考えながらやっているのだが、恐竜がすべてを台無しにしてしまう。

娘は今恐竜にはまっていて、子どもの記憶力ってすごいからあっという間に数十種類の恐竜の名前を覚えてしまった。
しりとりをしていても「アロサウルス」「タルボサウルス」「カスモサウルス」「ケラトサウルス」「ワンナノワウルス」「ニッポノサウルス」「アンキロサウルス」「アルゼンチノサウルス」など、すぐに恐竜の名前で返してくる。
で、今書いたようにほとんどの恐竜の名前は「ス」で終わっている。
「ス」で終わらないのはミンミとかマイアサウラとかごく一部だけだ(ぼくもだいぶ恐竜の名前を覚えた)。

せめてもの抵抗としてぼくも「スイス」「スライス」「スタンス」「スペース」など "す返し" をするのだが、それすらも「ステゴサウルス」「スピノサウルス」「スティラコサウルス」「スコミムス」などではじき返されてしまう。


ほんと、恐竜の名前を次々に言われると「絶滅しろ!」と叫びたくなる。


2018年4月7日土曜日

音の発信源を特定する能力


四歳の娘とかくれんぼをしているときに気づいたんだけど、どうやら四歳児は「音の聞こえてくる方向」がわかっていない。

「もういいよー」と大声で言っているのに、ぼくのいる場所とは反対方向を探しにいく。

大人だったらそんなことはない。正確な位置までわからなくても、右から聞こえてきた音を左からだと間違うことはない(音の反射とかあればまたべつだけど)。

まあ四歳児だからな、と思っていたけど、こないだ六歳の男の子とかくれんぼをしたらやはり音の発信源を特定できておらず、見当違いの方向を探しにいっていた。

「音を聴いてその発信源を探知する」という能力は、どうやら生得的には備わってないらしい。



ぼくが小学校三年生ぐらいのときに友だちとかくれんぼをした際は、
「『もういいよー』と言うとどこにいるのかわかってしまうから、鬼は百秒たったら探しにいくこと」
というルールを採用していたと記憶している。

つまり、九歳頃には音を聴いて発信源を探す能力はある程度身についており、かつそれが当然のこととして共有されていたということになる。

個人差もあるだろうが、だいたい七歳ぐらいで「音発信源探知能力」が身につくようだ。


……遅すぎね?

生物として、生きのびる上でかなり基本的な能力じゃない?

たとえばオオカミのうなり声が聞こえてきたとき、きょろきょろあたりを見回してオオカミの位置を確認しているようじゃ、もう遅い。

現代では野生の生物に襲われる危険性はかなり低いけど、自動車やバイクという凶暴な物体が走りまわっている。
クラクションを聞いたら反対方向に逃げようとするのは本能的なものかと思ったけど、どうやらそうではないらしい。学習によって後天的に身につけないといけないもののようだ。

人間、初期スペック低すぎない?


2018年1月25日木曜日

四歳児とのあそび

最近、四歳の娘とやる遊び。
数年後に見返して自分が楽しむために記録。

ジグソーパズル

ジグソーパズルを買ってあげたら、毎日のようにやっている。
ぼくも好きだったなあ。こういう黙々と作業をする遊び。
完成したらすぐにくずしてしまう。で、またやる。

108ピースのジグソーパズルができるようになったので、300ピースのを買ってあげた。さすがにむずかしいようなのでいっしょにやる。ジグソーパズルはあまりうまいへたが関係ないので、大人もいっしょに楽しめるのがいい。
ふつうはカドや端からやるものだと思うが、娘は自分の好きな絵からやる。

レゴ

レゴも好きだ。でも、あまり創作はしない。設計図通りにつくり、できた家や恐竜を使っておままごとをやる。こういうところは女の子だなあ、と思う。教えなくても、遊びかたに性差が出るよね。
ぼくもレゴが大好きだったが「塊をつくり、ぶつけあって壊れなかったほうが勝ち」という遊びをよくやっていた。あと迷路をつくったりとか、首を斬り落としたりとか。男の子だなあ。

都道府県クイズ

娘は地図が好きなので、日本地図を買ってあげた。さすが子ども。すごい勢いで覚える。
保育園に行く途中、毎日娘と都道府県クイズをする。
「"お"ではじまる県は?」
「大阪府、岡山県、大分県、沖縄県。じゃあ"と"ではじまるのは?」
「東京都、栃木県、富山県、鳥取県、徳島県」
みたいなのを言いあう。でも娘は名前は覚えているが、都道府県の概念はよくわかっていない。

恐竜クイズ

娘は恐竜も好きだ。お年玉でトリケラトプスのぬいぐるみを買うぐらい。しょうもないことに金をつかうなあ、と思うが、それでこそお年玉の正しい使い方だとも思う。有用なものはふだん買ってもらえるもんね。
恐竜の名前をたくさん覚えた。
やはり保育園に行く途中、
「頭の後ろが長い恐竜は?」
「パラサウロロフス。じゃあ尻尾の先にハンマーみたいなのがついている恐竜は?」
「アンキロサウルス」
みたいなクイズを出しあいながら歩く。おかげでぼくもずいぶん恐竜に詳しくなった。

ボールあそび

といっても、まだあまり上手に投げることができない。
一メートルくらい離れて、ただ投げあうだけだ。
あと、ボールを転がす遊びもよくやる。どちらが遠くまで転がせるか。勝たないと怒るのでほどほどに負けてあげる。

かけっこ

四歳ともなるとなかなか速くなってくるので、いっしょに走るのはなかなかしんどい。
これまたわざと負けてあげる。でもあんまり負けすぎると「お父ちゃん、ちゃんと走って!」と怒る。めんどくさい女だ。
なので五回中一回くらいは勝つようにしている。

自転車

少し前に、自転車の補助輪をとった。四歳で補助輪なしというのはちょっと早い気もするが、以前ペダルのない自転車に乗っていたので、バランスをとるのはうまくなった。補助輪なしでもまず転ぶことはない。とはいえひとりで上手に乗れるわけでもないので、ぼくが自転車の後ろを支えながらいっしょに走ることになる。
これがきつい。けっこうな速さで走るし、こちらは幼児用の自転車を支えているから中腰の姿勢になる。このつらさを知らない人は、ぜひ中腰で走っていただきたい、ほんの数十メートルで音を上げるだろうから。

かくれんぼ

ぼくの人間性が四歳児並みなのでだいたい一緒に楽しく遊ぶんだけど、どうもかくれんぼだけは苦手だ。
一歳くらいならいいんだけど、四歳ともなるとそこそこちゃんとしたところに隠れないと納得してもらえない。で、娘から遠く離れた木の茂みなんかに入って身をひそめることになる。
そこで「もういいよー」と大きな声を出すのが恥ずかしい。

また、遠くに隠れると娘はなかなか見つけてくれない。そこに知らないおじさんが通りかかる。大の大人がひとりで木の茂みにうずくまっているのを見て、おじさんはぎょっとした顔をする。そりゃそうだろう。「いやこれはかくれんぼをしていて……」と弁明するのも変だし、ぼくは恥ずかしさをこらえて身をひそめつづける。
ああ、苦手だ。

【関連記事】

トリケラトプスと赤い羽根共同募金


2018年1月2日火曜日

こどもらしい自由な絵


四歳の娘とお絵かきをして遊ぶ。

「バズ・ライトイヤー(映画『トイ・ストーリー』に出てくるおもちゃ)が描きたい!」
というので、絵本に載っていたバズを見せて描かせてみる。


うーん、よくわからん……。
上のほうに顔らしきものがある、ということだけがかろうじてわかる。

なんで中央がこんなにすかすかなのか尋ねると、「白のクレヨンがないから白いところは描かなかった」とのことだ。
なるほど、大胆な省略だ。

そういわれると、目を凝らして想像力で補うと体や脚が見えてくる、ような気もする……。

しかしぼくが親だからそこまで補ってくれるのであって、注釈と見る人の大規模な補完によってしか成り立たない絵というのはずいぶん不親切だ。
何の事前情報もなしにこの絵を見て「バズ・ライトイヤーだね」と気づいてくれる人は、ほとんどいないだろう。


そこで「お父ちゃんならこうやって描くな。まず鉛筆で描いて、それからクレヨンで色を塗る」と言って、ぼくも描いてみた(お手本と言えるほどぼくも絵がうまくないけど……)。
それが下の画像の右の絵。
さらにそれと同じように娘が描いたのが左の絵。


どうでしょう。
ぐっとうまくなったと思いませんか。親ばかですかね。
何の説明もなしに左の絵を見たとき、十人中一人ぐらいは「バズ・ライトイヤーを描いたんだね」と理解してくれるのではないだろうか。
少なくとも「人型の何かを描いたんだな」ということは伝わると思う。


「こどもらしいのびのびした線」は失われてしまった。でもそれでいいと思っている。どうせいつか捨てなきゃいけないものだ。早めに捨てたらいい。

絵を「己の内面を表現する手段」ととらえる人がいる。趣味の絵ならそれでいいと思うけど、内面の表出としての絵を他人に理解してもらえるのはごくごくひとにぎりの人だけだ。
絵は、言葉や文字と同じく情報伝達手段として用いられることのほうが圧倒的に多い。

なのに、教育現場ではやたらと「こどもらしい絵」がもてはやされる。
一歳児が「ごはん、たべたい」としゃべったら「すごい!」と言われる。「こどもらしく『あー』とか『まーまー』とか言いなさい」と言われることはない。
小学生が上手な字を書いたら「字が上手ね」と褒められる。「こどもらしいのびのびした雑な字を書きなさい」と言われることはない。
なのに、絵に関しては「こどもらしい自由な絵」が求められる。ふしぎだ。


2017年10月12日木曜日

3人のおかあさんと男女の違い


娘(4)の日記。

読んでいただければわかるように(読めねー!)、おままごとが最近の流行りらしい。

4歳になって「今日、保育園で何をしたか」を説明できるようになったんだけど、「おままごとをした」と「おにんぎょうであそんだ」が多い。


おままごとは誰が何の役をやったの? と訊くと、
「M(自分)はバブーちゃん(赤ちゃん)、Rちゃんがおねえちゃんで、NちゃんとSちゃんとKちゃんがおかあさん」
とのことだった。

複雑な事情のありそうな家庭環境だ。

女の子ばかりなので、みんなおかあさんをやりたがって、おとうさんをやる子がいないらしい。

「男の子はおままごとしないの?」と訊くと、「Kくんだけはやってくれるけどほかの子はプラレールとか車とかであそぶ」のだそうだ。


保育園では特に男女の区別もなく育てていると思うのだが、自然と男女グループに分かれていくのはおもしろい。


そういえば、ぼくはレゴが好きなので娘ともよくレゴであそぶ。

ブロックで家や車をつくるのだが、興味深いのはその後で、娘はつくった家や車でおままごとをはじめる。

レゴの人形を持ってきて「こんにちはー。あそびにきましたよー」などと言いはじめる。

ぼくはレゴを組み立てたりばらしたりするほうが楽しいのだが、娘は組み立て作業よりもおままごとに興じている時間のほうが長いぐらいだ。

ぼくがこどものころは、友人と「レゴでつくった車をぶつけあって先に壊れたほうが負け」「レゴの人形の首をならべて首タワーをつくる」とかやっていたので、ずいぶんと遊びかたがちがうものだ。

レゴ人の首

3歳までは男も女も同じように走りまわるだけだったのだが、4歳くらいから別々の道を進みはじめるんだねえ。