2017年12月3日日曜日

葬式に遅刻してスニーカーで行った男


祖母の葬式に遅刻した。
大学生のときだ。

ぼくは関西在住、祖母は福井県の田舎に住んでいることもあり、顔を合わすのは子どものときでも一年に一度くらい、中学生になって親戚付きあいを疎ましく思うようになってからは三年に一度くらいしか会わなかった。
祖父母の家は田舎の農家だから絵にかいたような亭主関白の家庭で、ぼくたちが遊びにいっても祖母は常に台所にいて働いており、食事のときも常に忙しく立ちふるまっていてみんなの食事があらかた済んでから部屋の隅で自分の食事をとっていた。愛想のない人ではなかったが、遊んでもらったという記憶はない。孫が来たときでもそうなのだからずっと働きづめだったのだろう。

そんな祖母だから、あまり思い出がない。
唯一おぼえているのは、ぼくが中学生のときに祖母が家にやってきて、ぼくの姉に向かって「よう肥えたねえ」と言ったことだ。「大人っぽくなった」「女らしくなった」という意味で言った褒め言葉だったのだと思うが、思春期の姉には「デブ」と聞こえたらしく、翌日から食事制限をするようになった。田舎のおばあちゃんらしいエピソードだ。


あまり思い出がないからというわけではないが、ぼくは葬式に遅刻した。
原因は、二度寝。最悪のやつだ。
父から祖母が死んだという電話があり、翌日、下宿先の京都から特急に乗って福井に向かうことになっていた。起きたら出発予定時刻を一時間半も過ぎていた。
前日から行って通夜や葬儀の準備をしていた父に電話をした。
「ごめん、寝坊した」と告げると父は絶句した。「……」絵にかいたような絶句。母親が死んだときに息子から「寝坊したから葬式に遅れる」と告げられた中年男の感情は今でもうまく想像することができない。絶句するしかないのだろう。

「ともかく急いで来い。駅からはタクシーで来い」とだけ言われた。
あわてて喪服を着て家を出た。電車に乗ったところで、いつもの習慣でスニーカーを履いてきてしまったことに気がついた。大学生らしいかわいい失敗だ。しかし今さら取りに帰る時間も、革靴を買う時間もない。そのまま特急サンダーバードで福井へと向かった。
駅でタクシーを拾い、行き先を告げた。本当なら父親が駅まで迎えにくる手はずになっていたが、もう葬式がはじまっている時刻だ。故人の次男が葬式を抜けだすのは無理だろう。
祖母の家は最寄駅から車で四十五分の山中にある。父親が幼少の頃は牛を飼っており、冬の夜は凍えないように家の中に入れていたという。そんな昔話のような家の「ただ、広い」という唯一の長所を活かして家で葬儀をあげることになっていた。
タクシーで四十五分だから料金は一万円くらいだったか。大学生には痛かったが致し方ない。

ぼくが到着すると、葬儀は故人に最後のあいさつをするくだりだった。いよいよ大詰め。ぎりぎり間に合ったのだ。
あまり悲しくなかったが、泣きくずれている父親を見ていると「この人はお母さんをなくしたんだな」と思ってつらくなった。祖母が死んで悲しいというより「母親が死んで悲しい人の気持ちを想像して悲しい」だった。他人の悲しみを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな、とひとごとのように思った。

無事に葬儀が終わった。盛大に遅刻したうえに喪服にスニーカーでやってきたぼくは親戚一同から怒られるだろうなと覚悟していたのだが、ちっとも怒られないどころかおばちゃんたちから「たいへんだったねえ」「よく来てくれたねえ」と労われた。
終わるぎりぎりに現れた変な恰好のぼくを見て「忙しいのにとるものもとらず急いで駆けつけたおばあちゃん想いの孫」と解釈してくれたようだった。
ちがうんです、ただの寝坊です。しかも一度は起きたのに二度寝しちゃったんです。スニーカーなのはただばかなだけです。

父親は苦々しげにぼくを見ていたが、「でもまあ間に合ってよかった」とタクシー代として一万円をくれた。
ラッキーと思ったが、「でも母親を亡くした直後にばかな息子にお金を渡さなきゃいけないなんてこの人もつらいだろうな」と思うとひとごとのように嘆かわしくなった。父親の嘆かわしさを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな。

2017年11月30日木曜日

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】


『文学ムック たべるのがおそい vol.1』

西崎 憲 (編集)


【執筆陣】
<巻頭エッセイ>
「文と場所/夢の中の町」 穂村 弘 
<創作>
「あひる」 今村 夏子 
「バベル・タワー」 円城 塔 
「日本のランチあるいは田舎の魔女」 西崎 憲 
「静かな夜」 藤野 可織
<翻訳>
「再開」 ケリー・ルース 岸本 佐知子・訳 
「コーリング・ユー」 イ・シンジョ 和田 景子・訳
<短歌>
「はばたく、まばたく」 大森 静佳
「桃カルピスと砂肝」 木下 龍也
「ひきのばされた時間の将棋」 堂園 昌彦
「ルカ」 服部 真里子
「東京に素直」 平岡 直子
<特集 本がなければ生きていけない>
「虚構こそ、わが人生」 日下 三蔵
「Dead or alive?」 佐藤 弓生
「楽園」 瀧井 朝世
「ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず」 米光 一成
穂村弘、岸本佐知子という「ぼくの好きな変な文章を書く人」の両巨頭が執筆陣に名を連ねているのを見て(岸本さんは翻訳だけど)購入。

小説、短歌、翻訳小説、エッセイから成るムックなんだけど、なんだかふわふわした作品が並んでいるという印象だった。夢を見ているみたいというか。
ぼくは地に足のついた物語のほうが好きなので正直あまり性に合わなかったな……。

しかし今村 夏子『あひる』と西崎 憲『日本のランチあるいは田舎の魔女』は、幻想的な雰囲気と妙なリアリティが融合していておもしろかったな。森見登美彦の描くファンタジーみたい。なさそうである、ありそうでない話。特に『日本のランチあるいは田舎の魔女』は劇団員のなんでもない日常から突然霊能力バトルになって意表を突かれた。どんな展開だと思ったが不自然ではなく、これは表現力のなせる業なんだろうなあ。


米光 一成『ただ本がない生活は想像のむこう側にも思い浮かばず』に出てくる一節。

 人にあげたり、処分したとたんに、必要になる(気がする)。名著は手に入りやすいが、トンデモな本(ありがとうの重要さを説くため何十ページもありがとうと繰り返し印刷されてる本や、短歌で綴った聖書や、とんでもない誤植がある本など)は、これを手放したら二度と手に入らないという恐怖のために手放せず、名著を評判の高いものばかり手放してしまう(「バカの棚になる」と読んでいる法則である)。

これ、本コレクターとしてはわかるなあ。
電子書籍のおかげでそんなことなくなったけど、基本的に本って一期一会だからねえ。不人気な本ほど二度と手に入らないからなかなか手放せないんだよねえ。
ぼくの本棚もバカの棚になってるなあ。まあバカな本ばかり買ってるからかもしれんけど。


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2017年11月29日水曜日

つくり笑いの教え方


つくり笑いがへただ。
ここはうそでも笑っといたほうがいいと頭ではわかっているのに、どうもうまく笑えない。


冗談というのは必ずしもおもしろくなくてもいい。場を和ますためにたいしておもしろくない冗談を言うことが必要なときもある。それは理解している。そして、おもしろくない冗談を言った人に対してはつくり笑いで返してやるのが人間関係をスムーズにする潤滑油であることも。
でもとっさに笑顔が出ない。ひと呼吸おいて「あっこれ笑ったほうがいい状況だ」と考えて、それからようやくひきつったように口の端を持ちあげる。せっかく和みかけた場が、ぼくのへたなつくり笑いのせいでまたぎくしゃくしてしまう(ように感じる)。

我ながら愛想がないなあと思う。でも世の中の人だってほとんどがはじめからできていたわけじゃないだろう。ひたすら慣れるしかないのだろうな。
体育会系の先輩のギャグを見せられたり、上司と酒を飲みにいって冗談を傾聴したり、そうしたことの積み重ねでつくり笑いはうまくなっていくのだろう。ずっとそういう場から逃げてきたぼくがうまくつくり笑いをできないのは当然のことなのだ。

中島みゆきの『ルージュ』という曲にこんな歌詞がある。
つくり笑いが うまくなりました
世渡りがうまくなった自分を悲観的にうたっている歌だ。ぼくも二十歳くらいのときはこの歌を聴いて「ああ世間ずれしてしまうって悲しいなあ」と思っていた。そしてそんな自分が好きだった。
でも三十を過ぎた今、「つくり笑いがうまくなるのって悲しいことじゃなくてむしろ喜ばしいことだ」と思う。
つくり笑いがうまいほうがぜったい得だし、周りを幸せにするし、自分自身もハッピーになる。

だからわが子に対して「つくり笑いが上手な人になってほしい」と望んでいる。
でもつくり笑いを上手にするのってどうやって教育したらいいんだろうね。
だじゃれを連発する父親になるとか? でも父親相手にはつくり笑いなんてしてくれないだろうしね。家庭でつくり笑いを教えるのは無理なのかな。


2017年11月28日火曜日

偏差値三十の靴


女の人は男の靴を見るっていうじゃない。
服は少々無理をしていいものを着れるけど、靴にはほんとの余裕が出るって。
だから男の価値は靴で決まるって。

やめてくれ。見ないでくれ。
自慢じゃないがぼくの靴はへろへろだ。たぶん歩き方がヘンなんだと思う。すぐに足の甲のところに線が入る。磨くことはないからすりきれて黒い靴が白っぽくなってる。靴ベラを使わずに足をつっこむからかかとのところがふにゃふにゃになってる。結び目もヘンだ。
偏差値三十の靴だ。ここからの第一志望合格は厳しそうだ。


まあ見るのは勝手だけどさ。でもそれを公言しないでくれ。「女は男の靴を見るのよ。だからいい靴履きなさい。毎日磨きなさい。靴にはそれはそれはきれいな女神さまがおるんやで」ってプレッシャーをかけるのはやめてくれ。そっと見るだけにしてくれ。

男は女の胸元を見るとき、こそっと見る。見ていないような顔をしてちらっと見る。ましてそれを公言したりしない。口が裂けても「女の価値は胸で決まる」なんて言ったりしない。
なのに女は「女子はけっこう男性の靴を見てるよ」と堂々と言っちゃう。セクハラだ。エッチ。

これ以上女性が男の靴についてとやかく言うのならぼくだって……いや、これ以上はほんとのセクハラになるのでやめとこう。


2017年11月27日月曜日

血圧計がこわい


血圧計がこわい。
ポンプでしゅっしゅっってやる手動のやつじゃなくて、機械の筒の中に腕を入れて自動的に測定されるタイプの血圧計。

怖くないですか。あの腕をぎゅーっと締めつけてくるロボ。
もちろんこっちも「締めつけられるぞ」と覚悟して血圧計に対峙するんですけど、「これぐらいの強さで締めつけてくるだろうな」という想定の五割増ぐらいの力で締めつけてくる。毎回。毎回五割増。「五割増でくるぞ」と身構えているのに、さらにその五割増で締めつけてくる。

あんなに強く締める必要ある?
体温計を見てみなさいよ、腋の下にはさむだけ。つかずはなれずの適切な距離を保っている。
ところが血圧計は想定の五割増でぎゅーっですよ。アメリカ人の握手かってぐらいの強さ。いやアメリカ人にだってあの強さで握ったらファックとか言われちゃうよ。

隙あらばこっちの腕を砕いてやろう、みたいな意思を感じる。ほんとほんと。
医者とか看護師とかが近くにいるときはおとなしくしてるけど、もしも密室で血圧計と一対一だったらあいつは何してくるかわからない。そんな怖さがあるよね。
想像してみて。二畳ぐらいの狭い部屋。窓はない。扉は閉まっている。壁はぶあつくて、こちらの声は外に漏れない。その部屋の真ん中に血圧計が置いてあるの。あなたはそこに手を入れる勇気はある? ぼくはぜったい無理。


病院って命の危険と隣り合わせじゃないですか。
だからぼくは、いろんな検査を受けながら危険を回避するための脳内シミュレーションをおこなっている。
たとえば点滴を受けているあいだ。地震が起こったらどうしようか、と考える。初期振動を感じたら、あいているほうの手で管をつかみ、一気に引き抜く。多少の出血はあるかもしれないが、空気が血管に入るような事態よりはマシだろう。
たとえば採血。この看護師が急に注射器で血管に空気を送りこんできたらどうしようか、と考える。あいているほうの手で腕の根元を抑え、すかさず立ち上がって右足で注射器を蹴りあげ、大声を上げて出口に向かって走る。
万が一の事態にもすぐ対応できるように、ずっとそんなシミュレーションをしている。採血中に鏡で自分の顔を見たことはないが、きっと鬼のような形相で顔で看護師さんをにらみつけていることだろう。

ところが血圧計だけはどうシミュレーションをしても助かる道がない。
もしもこのロボが狂ってすごい力でぼくの左腕を砕きにきたら。
この力でがっちり抑えられたら、ほとんど身体を動かせないに違いない。できることといえば電源プラグをコンセントから引っこ抜くことぐらいだろうが、この位置からはコードに手を伸ばせない。こいつらが叛逆を起こせば、生身の人間に太刀打ちできる術はないのだ。

血圧計の前で人は無力だ。だからせめてぼくの番のときに叛逆を起こさないように、小声で「かっこいい機械ですね」とつぶやいて血圧計様のご機嫌をとることぐらいしかぼくにはできない。