2017年11月25日土曜日

引越バイトの六日間



大学時代、引越屋のバイトをしたことがある。
三月の繁忙期。引越バイトをしていた友人が「とにかく人が足りないから二足歩行できるやつなら誰でもいいから連れてこい!」と言われ、ぼくにもお声がかかった。

友人は高校時代はサッカー部に所属し、大学ではボクシング部(ところでボクシング部ってなんでウインドブレーカーの背中に『拳闘部』って書くんだろうね。ダサいよね)。筋肉質な体つきだった。
一方のぼくは高校では野外観察同好会で大学は持久走同好会。筋肉とは無縁の同好会員に肉体労働が務まるかなと一抹の不安もおぼえたが「日給一万五千円超えるで。一週間だけでいいし」という甘い言葉に乗せられて、バイトをやることにした。その言葉が地獄への片道切符だとそのときは知るよしもなかった(ちゃんと帰還してるけど)。

「まあ若いからなんとかなるか」というぼくの見通しは、「ユーチューバーになって楽しく生きていく」ぐらい甘い考えだったことをバイト初日の午前中に思い知らされた。
朝六時に起きて自転車で一時間かけて集合場所へ。その時点でこっちは「いやー今日はがんばったなー」ぐらいの気持ちになってるのに、なんと仕事はまだ始まってもいないのだ。あたりまえだが。

トラックに乗せられて七時半から作業をしたのだが、なんと最初の休憩が午後三時。その間、お茶を飲む時間すら与えられなかった。休憩なしで七時間半の肉体労働。ぎゃあ。思いだしただけで変な声が出た。
重い荷物を抱えて走りまわっているので汗びっしょり。のどが渇いた。他のバイトを見るとみんなペットボトルを持参しているのだが、バイト初日のぼくは何も用意していない。出たよ新人への洗礼。
休憩なしで走りまわっている人たちに「ちょっとジュース買ってきていいっスか」とは言うことができずに「すみません、トイレに行きたいんですけど……」と嘘をついて新築マンションのトイレを貸してもらった。水洗トイレを流すと手洗い場から水が出る。それを飲もうと思いついたのだ。
ところが新築なので水道が通ったばかりらしく、石灰の混じった白濁した水が出てきた。おいどこまで試練をお与えになるんですかと遠藤周作『沈黙』ばりに神に問いかけたのだが、神はただ沈黙するばかり。しかたないのでトイレの白濁水を飲んだ。なんだこの仕打ちは。捕虜か。

本気で脱走も考えはじめた午後三時、ようやく引越作業が終わり、昼飯となった。お茶もおにぎりもめちゃくちゃうまかった。
はあたいへんだったと安堵していたのだが、甘かった。ようやく一軒目が終わったに過ぎなかったのだ。
その日は三軒の引越を担当した。すべて終わったのは午後九時。社員の人が「だいたいカタがついたからバイトは帰ってもいいぞ」と言い残して次の引越先に向かっていった。フルマラソンを走った後に「この後フットサルやるけど来る?」と言われるようなものだ。引越会社の社員とはなんという体力の持ち主なのだろうと恐怖すら感じた。
疲れたが家まではまた自転車で一時間走らねばならない。「うわああああああ」と大声を出しながら帰った。なんで世の中のやつはこんなに引越するんだよ、と日本国憲法に定められた居住移転の自由を恨んだ。

家に帰り、こんな生活があと六日もあるのかと絶望を感じるひまもなくあっという間に眠りについた。いろんな夢を見た。たぶん肉体が疲れすぎていてレム睡眠百パーセントだったのだと思う。


運が良かったのか悪かったのか、一日目がいちばんきつい現場だった。
二日目以降はは一日に三軒の引越を担当することもなかったし、七時間半休憩なしという現場も最初だけだった。なぜいちばんきつい現場にド新人を割り当てるのか。洗礼か。
また、慣れてくるにつれて力の入れ方のコツをつかんで、ベルトに荷物を乗せてだいぶ楽に運べるようになった。初日は軍手だったのだがゴム手袋をするようにしたらぐっと楽になった。
大きなミスといえば六人がかりでピアノを運んでいる最中に指がすべって「あああぁぁムリです!」と叫んでピアノを落としかけてこっぴどく怒られたぐらいで、それなりに充実感も味わえるようになってきた。

ぼくがいちばん嫌だった仕事は、エレベーターのないマンションの三階まで書籍がたっぷり詰まった段ボールを運ぶことでもなく(あらゆる荷物の中で書籍がいちばん密度が高い)、ピアノが廊下を通らないからワイヤーで吊りあげて窓から入れる作業でもなく、トラックの誘導だった。バックするトラックの背後にまわって「オーライ!オーライ!」と叫ぶあれである。

「おまえ誘導やれ」といきなり指名されたときは面食らった。単身者の引越で荷物が少ないため、社員ひとりとぼくひとりという現場だったのだ。
ぼくは二年前に普通運転免許をとっただけのペーパードライバーで、もちろん誘導なんて一度もやったことがない。
「えっでも……」という間もなく、社員のおっちゃんはトラックの運転席に乗りこんでバックをはじめた。いやちょっと待てよと思いながら一応「オーライ、オーライ……」と言うと、運転席から「ぜんぜん聞こえねえぞ!!」とキャッチャーが外野手に声をかけるときぐらいの大声がとんできた。これだから体育会系は嫌なんだよ、野外観察同好会では大声出すシチュエーションなかったんだからしょうがないじゃないかと思いながらやけくそになって「オーライ! オーライ! ストーップ!」と叫んだら、トラックから降りてきたおっちゃんに「三メートルも余裕あるじゃねえか!」と怒鳴られた。
「もう誘導なしでいいや」と言うとおっちゃんは運転席に戻り、塀の五十センチ手前でぴたりとトラックを止めた。誘導なしでできるやんけ、と思った。
「誘導なしでできる、って思ったやろ?」とトラックから降りてきたおんちゃんがにやりと笑った。「俺ぐらいになるとひとりでもできるけどな、一応後ろについて確認せなあかんルールやねん」


引越屋のバイトは六日で終わった。ほんとは七日やる予定だったが六日目の夕方に筋肉が「もう無理です」と泣きついてきたので一日早く終わりにしてもらった。筋肉と対話できたのは後にも先にもあのときだけだ。
めちゃくちゃハードな仕事で不慣れなぼくは何度も怒鳴られたが、引越屋の社員はみんないい人だった。
ただ、早朝から働いているくせに夜九時に「やっと調子出てきたな」と笑っていたり、さんざん重い荷物を運んでるくせに休憩時間にまで腕立て伏せをしていたりしてして、イカれている人がやたらと多かった。
そんなところも含めて、なかなかいい経験だったと今になって懐かしく思う。ただ、二度とやりたくはない。


2017年11月24日金曜日

紙が消えた世界


五年ぐらい前にKindleを買って、はじめは慣れなくてやっぱり紙の本のほうが読みやすいなんて思っていたが、慣れるにつれてすっかり電子書籍派になった。

たいてい電子版のほうが紙の本より安いし、場所をとらないし、いつでも買えるし、売り切れがないし、いつでも読めるし、メモや引用もしやすいし、検索もしやすいし、一度に大量に持ち運べるし、あんまり褒めすぎてAmazonのまわしものだということがばれるといけないのでこのへんでやめとくが、とにかくメリットが多すぎる。
今でも紙の本を読むが(電子版が出ていない場合にかぎり)、「紙の本しかないのか……。だったら買わなくていいかな。電子版なら買ってたんだけどなー」と思うこともある。

本を多く読む人ほど電子書籍のメリットを享受できるから、数年に一冊ぐらいしか本を読まない人を除いて、どんどん電子書籍にシフトしていくだろう。


紙の本は減る一方。
流通数が減ればその分印刷コストも輸送コストも高くなるから、今よりずっと高価になる。高価になれば買われなくなる。さらに高くなる。
電子版だと五百円だけど書籍版は五千円です、みたいな時代がじきにやってくる。もう著者との握手券とかつけて限定版として売るしかない。
紙の本は、あえてレコードを聴くのが贅沢、葉巻は不便なのがいい、みたいなごく一部の好事家の趣味になるだろう。


紙の本の最大のメリットといえば、なんといっても検閲をかいくぐりやすいこと。
ビック・ブラザー的な統治者が言論の自由を封じようと思ったら、まっさきにインターネットと電子書籍を抑えるだろう。一斉チェックが容易だから。
一方、印刷物は完全に掌握するのがむずかしい。自宅で印刷して路上で配布されたら、出所を突きとめるのはきわめて困難だ。
監視カメラ、監視マイクが至るところに置かれている時代、反体制的な言論は印刷物を介してのみおこなわれることになる。
ということで時の政府は個人や組織が勝手に印刷をすることを嫌い、紙の流通を禁止する。
かくして世の中から紙が消える。本や新聞はもちろん、紙幣も消えて電子通貨のみになる。
禁制品となった紙は地下マーケットでのみ流通することとなり、千円札サイズの紙が末端価格一万円を超える価格で取引される。
新しいメディアに抵抗の少ない若年マフィアが紙を使いこなし、紙を介した犯罪が摘発されるたびに老人たちは「紙メディアの闇」と「人の顔が見えない紙媒体による犯罪」と煽りたて、インターネットニュースでは真っ暗な部屋の中で紙が煌々と光る映像が使われるようになるのだ。



2017年11月23日木曜日

結婚は慎重に。


高校時代からの旧友に彼女ができたらしい。三十代半ばで、人生二人目の彼女。

「おお、よかったやん」と祝福して、ひととおりなれそめを聞く。
お相手も同い年。付き合って三カ月だが今のところ不満もないのでいずれは結婚も考えたい、とのこと。

先に結婚しているものとして、一応アドバイスした。
「だったら早いとこ結婚しようって言ったほうがいいんじゃない? 年齢も年齢やし。結婚生活がうまくいくかどうかなんてどうせ何年付き合ったってわからんで。結婚に最適なタイミングなんか待ってても永遠にこないから、結婚したいと思うんやったら思いきりの良さも大切やで」
と。

すると旧友は「なるほどなー。ほかの既婚者たちからも同じようなこと言われたわ」と云う。

「そうやろ、結婚なんて運でしかないから思いきってやってみたらええねん」

「でもな、Fにだけは『結婚は慎重にしたほうがいいで』って言われたわ」

Fというのはやはり高校からの友人の女性で、数年前に結婚している。
だが彼女の夫は浮気性らしく、女遊びをして家に帰らない日も多いらしい。離婚も考えている、という話をFから聞いたことがあった。


そうか、人って誰かにアドバイスをするときには自分の経験を語っているだけなんだな。

ぼくは結婚生活に大きな不満を抱いていないから「思いきって結婚したらええんちゃう?」と云った。同じようなアドバイスをした既婚者たちも、さほど不満は感じていないのだろう。
だけど離婚したいと考えているFだけは「結婚は慎重に」とアドバイスした。

ぼくは旧友に対してうまくいってほしいと思って「思いきって結婚したらいいんじゃない?」と言った。Fも本心から相手のことを思ってアドバイスしたのだと思う。「勢いで結婚しないほうがいいよ」と。
どちらも相手の幸福を願ってしたアドバイスなのに、その内容は正反対だ。

助言というものはもちろん相手のことを考えておこなうわけだけど、その根拠となっているのは相手の人生ではなく自分の人生なんだなあ。

2017年11月22日水曜日

法よりも強い「空気」/山本 七平『「空気」の研究』【読書感想】


『「空気」の研究』

山本 七平

内容(Amazonより)
「空気を読む」ことが誰にも求められる現代の必読書!
社会を覆う「空気」の正体を正面から考察し、1983年の初版以来読み継がれ、日本の針路が云々されるたびにクローズアップされる古典的名著。
〈以前から私は、この「空気」という言葉が少々気にはなっていた。そして気になり出すと、この言葉は一つの〝絶対の権威〟の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに気づく。(中略)至る所で人びとは、何かの最終的決定者は「人ではなく空気」である、と言っている〉
昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では〝空気〟はある種の〝絶対権威〟のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束することの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探る、山本七平流日本学の白眉。

ときには法よりも強く社会を支配してしまう「空気」。

最近「福井県で中学生が自殺した事件を受けて、文部科学省が全国に生徒指導の見直しを通知した」というニュースを見た。「空気に支配されすぎだろ」と感じた。
たしかに人が死んでるから大きな事件だし再発防止に向けた取り組みはしていかないといけないんだけどさ。でも教育って「今日から変えます!」っていって来月に成果が出るものじゃないわけで。結果が出るまでには早くたって十年かかる。それを「なんとかしなきゃいけない"空気"だから」ってトップが右往左往してたらそれにふりまわされる現場はたまったものじゃないだろうな。
一人の自殺者のために一万人の生徒の教育プログラムを変更するってどう考えてもおかしいんだけど、でも「自殺した生徒はお気の毒ですけど、それはそれとして一過性の雰囲気に流されずに従来通りの方針でやっていきます」とは言いだせない"空気"だったんだろうな。文部科学省は。

会社で会議をやったときなんかに、その場の出席者全員が「こんな会議意味ない」と思いながら、空気的に誰もそれを口に出すことができず「では目標達成に向けて各人がさらに努力してまいるということで……」みたいななんの意味もない結論を出して、誰も「もう終わりにしよう」とは言えないまま毎週会議が開かれつづける、ということがよくある。

たぶん行政や政治の世界では、利益追求という明確な指標がない分、より空気に支配された決定をおこなっているのだろう。

岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』に、戦争に向かう時代のサラリーマンについてこんな記述があった。
 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。
空気に支配され、空気に逆らうことができず、徴兵されて死んでいった。命を落とすような状況になっても空気には抗うことができなかった。
たぶんぼくもその時代に生きていたら同じ末路をたどったと思う。
独裁者が始めた戦争ならその人物が退けば流れは止まったかもしれないが、空気ではじまった戦争だけにかんたんに止められなかったのかもしれないな。



この『「空気」の研究』、内容は難解でいまいち理解できなかった。
自動車公害とか共産党とか田中角栄の話とか、「当時は誰でも知っていた話」があたりまえのように例えとして出てくるので、三十年以上たった今読むと「例え話があることでかえってわかりにくい」になる。

まあ、「ぼくたちはたやすく空気に支配される」ということを自覚できるだけでも読む価値はあるかなと思う。

 一方明治的啓蒙主義は、「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯どめがなくなり、そのため傍若無人に猛威を振い出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追いこんでしまった。戦艦大和の出撃などは〝空気〟決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて〝空気〟決定なのである。だが公害問題への対処、日中国交回復時の現象などを見ていくと、〝空気〟決定は、これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。

センセーショナルな出来事が起こるたびに右往左往してもろくな結果は生まないからね。
おい文部科学省、おまえらのことだぞ!


【関連記事】

【読書感想エッセイ】岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』



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2017年11月21日火曜日

くだらないエッセイには時間が必要/北大路 公子『流されるにもホドがある キミコ流行漂流記』【読書感想】

『流されるにもホドがある
キミコ流行漂流記』

北大路 公子

内容(e-honより)
好きなものは、おビールとお相撲と蟹など。平和と安定を好むキミコ氏が、まったく興味のない「流行」に挑んだ!人気アプリに触発された感涙の人情話、某流行ランキングに従い、北陸新幹線に乗って金沢を目指す旅行記、かの名作に想を得たハロウィン物語、北海道の土産についての考察と試食レポなど。多彩な筆致を堪能できる傑作エッセイ集。

流行にまったく興味のないエッセイストの北大路公子さんが、あえて苦手な流行りものに挑む、というエッセイ。

「流行りものについてほとんど情報がない状態であれこれ考察する」というパートと、「いざ流行りものを見にいく/食べてみる」というパートに分かれてるんだけど、前者はじつに味わいがある。

相撲はいいよう。なにしろルールがずっと一緒だもの。変更とか全然ないもの。「足の裏以外のところが土俵についたら負けね」「あと土俵から出ても負けね」って、もう何百年もそれしか言ってないもの。
 時折、百年前の横綱の写真をネットで見つけては、うっとりと眺める。同じだ、と思う。髷で裸で化粧まわしで仁王立ち。おしなべて顔がデカい印象はあるけれど、それ以外は今の横綱と完璧に同じ。粗い画質の写真を前に、私は「ウェアのデザイン性」という概念のない世界の安定感を心ゆくまで味わう。変わらないって本当に素晴らしい。私の安寧はここにある。

言葉選びのセンスと内容の無さが光っている。

ところがルポルタージュ部分はいまいちキレが悪い。いいかげんなことを書いちゃいけない、情報を伝えないといけないという思いが先行しているからか、「どうでもいいことをテキトーに書くおもしろさ」がすっかり鳴りをひそめている。
業務報告的な文章になってしまっていて、せっかくのおもしろさが死んでるなあと残念だった。
「実体験してみて、三年後に記憶だけでそのときの様子を書く」とかだったらもっと肩の力が抜けておもしろいエッセイになっただろうなあ。




ぼくもこうしてインターネットの隅っこでブログをつづっているけど、最近あった出来事ってどうも書きにくい。
情報がありすぎて、どうでもいいことまで書いちゃうんだよね。札幌に行ったときにこんなことがありました、って伝えたいのに、関空から飛行機で千歳空港へ行ってそこから鉄道で……みたいに主題と関係のないことをだらだらと書いちゃう。「札幌で」から話をスタートさせりゃあいいんだけど、情報を捨てるのって難しいんだよね。せっかくだから書きたい。
でも十年前のことを記憶だけで書こうと思ったら、たいしておもしろくない情報はとっくに脳内から消えている。必然的に印象に残った出来事だけを書くことになり、ぽんぽんとテンポよく書けて気持ちがいい。

ビジネス文書は新鮮なうちに素材をそのまま形にしたほうがいいんだろうけど、くだらないエッセイを書くときは脳内で寝かせておいて粗熱をとったほうがいいものが書ける、というのがぼくの経験上の法則。



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