2017年9月28日木曜日

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』

フランク パヴロフ (物語) ヴィンセント ギャロ (絵)
藤本 一勇 (訳) 高橋 哲哉 (メッセージ)

内容(e-honより)
心理学者フランク・パヴロフによる反ファシズムの寓話に、ヴィンセント・ギャロが日本語版のために描いた新作「Brown Morning」、哲学者高橋哲哉のメッセージが加わった日本だけのオリジナル編集。

ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき――。

という短い寓話。3分で読めるぐらいのお話。

いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、
俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?

だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。


それほどひねった話ではないが、シンプルなストーリーだからこそ読者の想像力に訴えかけてくる。


それだけに、寓話の後についている解説は完全に蛇足。
この文章はこういう意味なんですよ、このくだりはこういうことを伝えたいんですよ、ってひとつひとつ説明していて野暮ったらしいことこの上ない。
寓話を解説したら文学にならないでしょ。
そこから何を読み取るかは読者に任せましょうよ。



この本を読んで、岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』を思いだした(→ 感想はこちら)。
『「月給100円サラリーマン」の時代』の中にこんな一節があった。
 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
  彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。

太平洋戦争で出兵していった(そして命を落とした)兵士たちの多くはずっと軍人だったわけじゃない。数年前までサラリーマンをしていた人たちだった。
日本が戦争を進めることには賛成せず、かといって積極的に反対もせず、少しずつ変わってゆく状況を黙って受け入れているうちに、いつのまにか逃げ場がなくなって戦地へと駆りだされてしまった。

これはまさに『茶色の朝』で描かれている世界だ。
何も言わないことは、今起こっていることを承認しているのと同じなのだ。


だからみんなデモをして声を上げよう!
……とは思わない。ぼくはデモをするやつらを軽蔑しているから。
デモをすることによって身内の結束が固まることはあっても、新たな仲間が増えることはない(むしろ潜在的な仲間が離れてゆくだけ)のだから。

デモって言うなれば大勢が決した後にする最後の足掻きであって、デモをしなくちゃいけないような局面に追いこまれてる時点でほんとはもう負けが確定しているのだ。
10点を追いかける9回裏2アウトの場面で一度も公式戦に出たことのない3年生を出す"思い出代打"みたいなもので、思い出をつくる以上の効果はない。


ということで、我々ができる最低限かつ最大の行動は、数年後を見すえて選挙に行くことですわ。
あとできることといえば選挙に出馬することとか、教育現場に入っていって若い人を洗脳することとか。


とはいえ教育で洗脳するってのもなかなか難しいよね。
一説によると、現在日本で極右思想の持ち主って中高年男性が多いらしい。
戦後平和教育をもっとも濃厚に受けていた世代が右翼化してるってのは興味深いね。平和教育の反動なのかな。
彼らがほんとに否定したいのは日本の戦後史じゃなくて、自分自身の歴史なのかもしれないね。

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2017年9月27日水曜日

万国のかわいそうなスポーツ選手よ、団結せよ!


60代半ばのおっちゃんとしゃべっていて、こんな話を聞いた。

高校生のとき修学旅行で東北の三陸海岸に行った。50年ほど前のことだ。
『あまちゃん』でも有名になったが、当時から海女による漁の盛んな地域だった。
海女の仕事を見学した後、ボールを手渡された。高校生たちが海に向かってボールを投げ込むと、海女たちが潜ってボールをとってくる。その様子を見てひとしきり楽しんだ。

いくら50年も昔のこととはいえ、戦後日本でそんな非道なことがおこなわれていたのだろうか。
よくほらを吹くおっちゃんなので「うそでしょ?」と訊いてみたが「ほんま、ほんま」と妙に真剣な顔で言う。
半信半疑だったのだが、数ヶ月後、別のおっちゃんからも同様の話を聞いた(ただしそのおっちゃんが体験したのは三陸海岸ではなく三重県の伊勢だと言っていた)。

別々のおっちゃんが同じ話をしているので、おそらく本当にあったアトラクション(っていうのか?)だったのだろう。
しかも東北と伊勢志摩という遠く離れた場所でおこなわれていたということは、たまたま誰かがちょっと思いついてやってみたというような類のものではなく、継続的におこなわれていたポピュラーなイリュージョン(っていうのか?)だったにちがいない。

また、どちらのおっちゃんの話にも共通しているのは、「海女さんに対して申し訳ないとはまったく思わなかった」ということだった(昔はこんなんやってたで、と笑いながら話していたから今も罪悪感などは感じていなさそう)。
奈良公園の鹿にせんべいをやるぐらいの感覚で海女さんに向かってボールを投げていたようだ。


高校生が冷たい海に投げ込んだボールを半裸のおばちゃんたちが苦しい思いをして取ってくる。
まるで鵜飼いの鵜じゃないか。
想像するとかなり異様な光景だ。しかし日本が豊かになっていることを象徴しているような光景でもある。成長する国では若者が力を持っている。

[海女 ボール] [海女 取ってこい] といったキーワードで検索してみたがこれといった情報は見当たらないので、今はやってないのだろう。
今高校生にそんなことやらせてたら非難殺到だろうな。





と思ったのだが、はたして海女さんにボールを拾いに行かせるのは人道にもとる行為なのだろうか。

ぼくは大学生のとき、日本に旅行に来たカナダ人に京都を案内したことがある。
清水寺の近くで人力車に乗った。カナダ人が乗ってみたいと言ったので、ぼくも一緒に乗ったのだ。
車を引いてくれたのはたくましいお兄さん。年齢を聞くと26歳だと言っていた。当時のぼくよりずっと年上だ。


ぼくは罪悪感を覚えた。
酷暑の下、親の金で大学に行かせてもらっているごくつぶしが金に物を言わせて年長者に車を引かせてのんびり京都観光。
いいのかこれで。
今のおまえは資本主義の醜い豚そのものじゃないか。万国の労働者よ、団結せよ!
という思いが胸に去来した(いやべつにマルクス主義者じゃないけど)。

とはいえ「ぼく、降りて走りますよ。なんならぼくが車を引くんでお兄さんは車に座っててください」と言うわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらじっと座っていた。
車引きのお兄さんだって客に乗ってもらわないことには金にならないからこれでいいんだ、と自分に言い聞かせながらぼくは三年坂を揺られた。

はじめて乗った人力車はぜんぜん楽しくなかった。
いっそ足を骨折してたらよかったのに、と思った。そしたら何の遠慮も感じず人力車に乗れたのに。




人力車に乗ることに申し訳なさを感じるのはぼくだけじゃないと思う。
人を乗せた車を引くなんて、本来なら機械や馬や牛がやるはずの仕事だ。タクシーやバイクでも行ける距離をわざわざ人が汗水たらして車を引きながら走るのは、娯楽性以外の何物でもない(料金だってタクシーよりずっと高い)。
だが、とりあえず現代日本においては人力車は非人道的な乗り物だとはされていない。今でも観光地ではよく人力車が走っている。

一方で海女さんに潜ってボールを取りに行かせる話を聞くと「ひどい」と思う。
人力車を引かせる行為と、やっていることは違うのだろうか。
「誰かの娯楽のためにやらなくていい肉体労働をさせている」という点ではどちらも同じなのに。

もっといえばプロスポーツ選手だって「見世物になるために苦しい思いをしている」わけだが、彼らをかわいそうと言う人はほとんどいない。
競走馬を見て「ムチを入れられてむりやり走らされてかわいそう」という人はいても、陸上選手を見て「かわいそうに」と涙を流す人はいない。
海女さんはボールを取りに行くことでお金をもらえるが、多くのランナーはお金ももらえないのに懸命に走っているのだ。なんとかわいそうなことか。

ボールを取りに行かされる海女さんはいなくなっても、今日もバレーボール選手は飛んできたボールを落とさないよう必死で走る。

なんと非人道的行為だろう。



2017年9月26日火曜日

国家元首になる日のために読んでおこう/武田 知弘 『ワケありな国境』【読書感想】


武田 知弘 『ワケありな国境』

内容(e-honより)
西アフリカにある国境空白地帯とは…?中国がチベットを手放さない本当の理由とは…?世界の奇妙な国境線、その秘密を解き明かす。

コンビニに置いてあるうさんくさいムックみたいなタイトルだったので期待せずに読んだのだが、意外と内容は教科書的でまともだった。
「タックスヘイブン(租税回避地)はなぜ旧イギリス領が多いのか」みたいな国境関係ない話も多かったけど。


日本人として生きていると、国境を意識することはほとんどない。
川端 康成 『雪国』の書き出しは
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
だけど、この「国境」は「こっきょう」ではない。日本に鉄道で越えられる国境(こっきょう)はないからね。
これは「こっきょう」ではなく「くにざかい」。越後国(今の新潟県)と上野国(今の群馬県)の境だと言われている。



国境を意識することはないが、いろんな「境」は気になる。
小学校のとき、隣の席のやつの筆箱が1センチ自分の机にはみだしてくるだけでものすごく気になった。
新幹線に乗ると、席と席の間にある肘かけはどちらの領土なのかが気になる。
電車で7人がけの座席の「端から2番目あたり」と「端から3番目あたり」にまたがるように座っているやつに対しては「どっちかに寄れよ」と思う。

かように、ちょっとした境でも侵害されると過敏に反応してしまう。
いわんや国境をや。
世界の国境ではいたるところで争いがくりひろげられている。争いのない国境のほうがめずらしい。
ふだんニュースを見ていると「〇〇国はここは自分のとこの領土と主張していて強欲だなあ」と思うけど、どの国も等しく強欲だよねえ。主張できるだけの力を持っているかどうかだけで、みんな隙あらば言いたいはず。ぼくだってできることなら満員電車で7人掛けの座席を独占したい。



不法移民向けガイドブック

国境で起こるトラブルは国境線をめぐる争いだけではない。
メキシコでは、アメリカへ不法入国する途中で死ぬ人が多いためメキシコ政府が異例の対策をとったそうだ。

 警備が厳重になれば、それをかいくぐらなければならないので、不法移民たちは必然的に危険な道を選ばざるを得なくなる。砂漠で道に迷う者、トラックや船のコンテナの中で窒息死する者、さらには極寒の海中で溺死する者など大勢の犠牲者が出ている。
 メキシコ政府は、そうした国境越えの死亡者を減らすために、「安全にアメリカに入国するため」のガイドブックを発行し、国境付近などで150万部も配った。
 32ページの小冊子で、そのなかでは国境越えのコツやアメリカで勾留されたときの法的権利などが詳しく説明されている。

政府制作のガイドブックってメキシコ総領事館の連絡先とかホテルの住所みたいな『地球の歩き方 アメリカ不法入国編』的なことが書いてあるのかと思ったら、そうじゃないんやね。
「砂漠地帯では水を飲むと脱水症状を防げる」なんて『マスターキートン』みたい。政府が配布する冊子の内容とは思えない。

なんて優しい国なんだ。優しいというか甘っちょろいというか。
亡命するために逃げようとする国民を殺す国とは大違いだけど、どっちのほうが政府として正しいのかよくわからんなあ。



南極の領有権

中学校の社会の授業で「南極はどこの国の領土でもありません」と教わった。
そうか、この争いの絶えない世の中で南極だけは平和であふれている場所なんだね、と思ってた。

ところが、どうもそうではないらしい。
イギリス、アルゼンチン、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、ノルウェー、フランスの7国が南極の領有権を主張しているのだそうだ。アルゼンチンとかオーストラリアとかは南極に接しているからまだわかるけど、イギリスやノルウェーなんて北の端じゃねえか(イギリスやフランスは植民地が近くにあるのかな?)。
分割して自分たちのものにしようとしている7か国。そうはさせじとアメリカやソ連などは南極の軍事利用の禁止などをうたった南極条約を結んだ。
ところが、チリが実効支配を主張するために南極での出産を奨励したり、アルゼンチンが南極に小学校をつくったり、イギリスが南極周辺の海底を自国の大陸棚として国連に届け出たり、領有権争いは収まる様子がない。
南極もまた、利権をめぐって各国がしのぎを削っている場所なのだ。

今は宇宙条約があって宇宙空間の領有が禁止されているけど、この調子だと、月から貴重な資源が見つかった途端に各国が「月はうちの領地だ!」と主張しだすんだろうね。




シーランド公国

いちばんおもしろかったのはシーランド公国の話。
シーランド公国という国家をご存じだろうか。
イギリスが第二次大戦中に築いた海上要塞を、ロイ・ベーツという元軍人が勝手に領土として主張してできた要塞国家だそうだ。

人口は4人(ロイ・ベーツの家族)。
面積は200平方メートルというから、14メートル四方ぐらいの広さ。坪数にすると60坪ぐらい。ちょっと大きい一軒家ぐらいの領土だ。

シーランド公国を独立国として認めている国はひとつもない。
だが、イギリス政府がロイ・ベーツを訴えたものの裁判所が訴えを退けたという経緯があるため、イギリス政府は手出しをできない(というよりどうでもいいから放置している、のほうが近いかもしれない)。
というわけで他国から認められていないが、領土を奪われたりする心配もないというなんとも宙ぶらりんな状態になっている。それがシーランド公国。

 シーランド公国では、財務大臣としてドイツ人投資家を雇っていたが、1978年、商談のもつれからその財相がクーデーターを起こしロイ・ベーツの息子である、シーランド公国の王子を誘拐。政権譲渡を要求するクーデーターが起こった。ロイ・ベーツは、イギリスで傭兵を雇い、ヘリで急襲。たちまち鎮圧し財相を国外追放した。
 その後、そのドイツ人投資家はシーランド公国亡命政府を樹立。いまでも公国の正当権を争っている。

なんだこれ。めちゃくちゃおもしろいじゃないか。
これが200平方メートルの中で起こっている出来事だからね。

このシーランド公国、爵位を売ったり外国人にパスポートを発行したりして財政を立てているが、2012年に大公が死去して現在は息子が継いでいるらしい。


わくわくするような話だね。
星新一のショート・ショートに『マイ国家』という作品がある。ある男が突然自分の家を日本から独立させると主張しだす話だ。
また井上ひさしの小説『吉里吉里人』でも、東北地方の寒村が日本からの独立を宣言する。
しかし事実は小説よりも奇なりで、まさか実行に移す人物がいて、しかもその国内で誘拐事件やらクーデターやら亡命政府誕生やらが起こるとは、星新一も井上ひさしも想像しなかっただろう。

ちなみにこのシーランド公国、約150億円で売りに出されているらしいので、国家元首になってみたい大金持ちの方は購入を検討されてみては?



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2017年9月25日月曜日

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】

『ダブル・ジョーカー』

柳 広司

内容(e-honより)
結城中佐率いる異能のスパイ組織“D機関”の暗躍の陰で、もう一つの諜報組織“風機関”が設立された。その戒律は「躊躇なく殺せ。潔く死ね」。D機関の追い落としを謀る風機関に対し、結城中佐が放った驚愕の一手とは?表題作「ダブル・ジョーカー」ほか、“魔術師”のコードネームで伝説となったスパイ時代の結城を描く「柩」など5篇に加え、単行本未収録作「眠る男」を特別収録。超話題「ジョーカー・ゲーム」シリーズ第2弾。

『ジョーカー・ゲーム』に続く"D機関"シリーズ2作目。

シリーズものの小説ってたいてい「だんだん質が落ちてくる」か「同じようなパターンで飽きてくる」のどっちかなんだよね。
夢枕獏『陰陽師』シリーズなんか、はじめはおもしろかったけど毎度毎度同じパターンだったのでげんなりした。

ところがこの"D機関"シリーズは、どの短篇も高いレベルで安定しているし、さらにすべてが個性的で飽きさせない。
10篇ほど読んだが、「またこのパターンか」と思う作品はひとつとしてなかった。

安定感はともすれば退屈につながりがちなのに、安定と変化の両方を維持できているのはすごいよね。


飽きさせない工夫のひとつは、作品ごとに登場人物が変わること。
"魔王"こと結城中佐以外は、全員が非凡な能力を持ちながらまったくの無個性(であろうとしている)。スパイは目立っちゃいけないからね。
個性がないから飽きない。スパイとして生きるために名前も経歴もころころ変わるから、シリーズものでありながらまったくべつの小説になる。

視点や舞台が作品ごとに異なるのも楽しい。
『ダブル・ジョーカー』に収録された作品の主人公はそれぞれ、

  • 日本陸軍内に設置された諜報組織のボス
  • 中国でソ連のスパイをつとめる陸軍軍医
  • フランス領インドシナに勤務する無線通信士
  • かつて日本人に逃げられた逃げられた経験を持つナチスドイツのスパイ組織幹部
  • 開戦前夜のアメリカに潜入している一流スパイ

D機関に対する立場も違うし、目的も違う。
はじめは誰が"D機関"のスパイかわからないから、誰がスパイなのか? と推理するミステリの味わいも楽しめる。

ほんと、スパイ養成機関という装置がうまく機能している。
柳広司はいい発明をしたよなあ。


ほどよい含蓄があり、スリルと驚きがあり、最後は鮮やかな着地が決まる。
エンタテインメント小説として完璧といっていいぐらいの作品集だよね。
一言でいうなら……「品がいい小説」。

全方位的に完成度が高くて逆になんか物足りないと少しだけ感じてしまう……のは欲張りすぎかな。



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2017年9月23日土曜日

汚くておもしろいスポーツ


少し前にTwitterに書いた投稿。

Twitterでは文字数制限があって不正確になってしまった点もあるので、補足。

まず「スポーツ」とひとくくりにしてしまったけど、スポーツにもいろいろある。
たとえば剣道なんかは、いくら相手に鮮やかに打ち込んだとしても「打ち込んだ後に気を抜かずに相手を意識していないと一本にならない」「相手への敬意を欠いていると一本にならない」といった決まりがある。
これはスポーツのルールとしてはすごくあいまいだ。「気を抜いていたかどうか」なんて他人が判断できることではない。
しかしこういうあいまいなルールは、あいまいであるがゆえにどんなシチュエーションにも対応できる。

法律に詳しくない人は「法律って杓子定規で人間味がないんでしょ」なんてイメージを持っていることが多いが、じっさいは逆だ。
法律というのは最低限のことだけ決めておいて、あとはあいまいなまま残しておく。懲罰ひとつとっても「無期または3年以上の懲役」「1000万円以下の罰金」などかなりざっくりとしか決められていない。「1000万円以下の罰金」の刑で罰金1万円、ということだってありうる。
1人殺したら15年、2人殺したら無期、3人で死刑みたいな刑罰表があるわけではない。判例はあるけれど、最終的には裁判官のさじ加減で刑は決まる。

不公平なようにも思えるが、おかげで「長年の介護生活の末にこれ以上息子を苦しめまいよう自分を殺してくれと頼んだ老母を泣きながら手にかけたケース」と快楽殺人の刑罰に差をつけることができる。
社会や倫理観は変化するが、ルールがあいまいであれば「とりあえず今の時点ではベスト」な判断ができる。



しかし野球のルールはそうではない。
野球のルールブックを見たことがあるだろうか?
数百ページあり、シチュエーションごとの詳細な規則が記されている。
ルールの数は数千ともいわれている。もしかするとプロ野球において一度も適用されたことのないルールもあるかもしれない。
だが野球のルールは細かすぎるがゆえにすべての局面に対応することができない。

たとえば1992年の高校野球選手権大会で、明徳義塾高校が強打者だった星稜高校の松井秀喜を5打席連続敬遠したことが話題になった。
社会現象にもなるぐらい賛否両論を巻き起こし、そのほとんどが否定的な意見だったが、野球のルールでは5打席連続敬遠を罰することはできなかった(今もできない)。数百ページにわたるルールブックのどこにも「敬遠四球は4打席連続まで」なんて書かれていないからだ。仮に書いたとしても、ピッチャーが「この四球はわざとじゃない」と主張すれば規定には引っかからないからザル法となる。
だから今後同じ作戦を弄するチームが現れたとしても、少なくともルール上はそれを罰することはできない。

剣道方式なら話はかんたんだ。
「相手への敬意を欠いたプレーをおこなったチームは負けとする」の1行で済む。
審判の判断で、明らかにコントロールの悪いピッチャーなら5打席連続四球を与えても見逃すし、状況的に敬遠と判断されても仕方のないケースであれば3打席連続であっても負けになる。

前代未聞のプレーが起こったとしても、審判の内なる「相手への敬意を欠いたプレーかどうか」の基準に照らし合わせればすべて判断可能だ。



あいまいなルールは、プレイヤーからするとすごくやりにくい。
どこまでがセーフでどこからがアウトかわからないのだから。
だからこそ厳密にルールを守る。「ここまではぜったいに大丈夫」と自信を持って言える範囲を超えることはない。
「これは規定がないけどフェアじゃないかもしれないな」という作戦は実行しにくいし、仮に試してみて見逃されとしても次の試合の審判が見逃してくれるとはかぎらない。実力者であるほどアンフェアなプレーを試せない。

野球のような事例を列挙していくパターンだと、安心してギリギリを攻められる。「ルールに書かれていない」=「やってもいい」のだから。
わざとデッドボールを当ててもランナーを1人許すだけ。危険なタックルして相手の野手を怪我させても守備妨害でアウトが1つとられるだけ。チームが即負けになることはない。
卑怯と罵られるかもしれないが、少なくともグラウンド上ではたいした罰は受けない。
基本的に「反則スレスレの行為をしたほうが得をする」構造になっているのだ。



……と、まるでぼくが野球を憎んでいるかのようなネガティブなことを書いてしまったが、そんなことはない。毎年甲子園に高校野球を観にいくぐらい野球は好きだ。
相手をだますプレー(隠し球、スクイズ、1塁走者が気を惹いている隙に3塁走者が本塁を陥れる重盗、ランナーを誘いだす牽制……)があるからこそ野球はおもしろいと思っている(逆に剣道を観戦したことはない)。

野球以外でも、人気のあるスポーツは反則すれすれの汚い手が横行しているのがふつうだ。
相手を怪我させかねない危険なスライディング、審判の見えないところでおこなわれる暴力を伴う激しいポジション取り、敵が反則をしたことを印象付けるための大げさなアピール。状況によってはわざと反則をしたほうが有利になることもある。
そうした駆け引きがあるからこそ観客は熱狂する。
だから反則すれすれのプレーをやめろという気はないし、これからもどんどんやってほしい。
犯罪や騙しあいを描いた小説や映画がおもしろいのと同じだ。

ただ、さんざん汚い手を使う競技をやらせておきながら「スポーツは若者の心身の健全な育成に役立つ」とかしゃあしゃあとのたまうのは気に食わない。

「世の中は汚いことだらけだから、その予行演習として汚い振る舞いかたを覚えさせるためにスポーツは役立つよ」と言うのならわかるけどさ。