2017年6月2日金曜日

多くの人に読んでもらいたいけど読まれるのが怖い


ブログを書く動機っていろいろあると思うけど、基本的には以下の2点に尽きると思う。

  • 書きたい
  • 読んでもらいたい

すごくシンプルだけど、まあこういうことでしょう。
「お金を稼ぎたい」で書く人も、分類すれば「読んでもらいたい」だよね。読んでもらわなきゃお金にならないんだから。


ぼくは他の場所でブログを書いていたのでもう10年以上書いているけど、最近になって「書きたい」と「読んでもらいたい」のバランスをとるのって難しいなあと思う。

せっかく書くからには読んでもらいたい。
誰にも読んでほしくないんだったら日記に書くわけだし(ちなみにぼくは20年ずっと日記をつけつづけている)。


ぼくのブログの読者は多くないけど、書いた内容によっては急に人が集まることがある。
多くの人に読んでもらうのはうれしい。でもちょっと困る。
批判的な意見も多く集まるからだ。

それが1%だったとしても、1万人に読まれたら100人から批判されることになる。
これがつらい。なかなか慣れない。
1人に批判されるだけだったら「世の中には変なやつもいるね」とスルーできるけど、100人に非難されたら世界中から石をぶつけられているような気分になる。

コメントとかいちいち見なきゃいいじゃんと思うかもしれないけど、やはり読んだ人のリアクションは気になるから見てしまう。


結局、虫がいい話だけど「自分の書いたことを好意的に受け止めてくれる人だけに読んでほしい」ってのが本音なんだよね。
そんなことはありえないってわかってるんだけど、それを望んでしまう。

Facebookとかだとそれに近いことができるよね。良ければ「いいね!」だし、悪くてもふつうはいちいち批判しないし。
だからFacebookは居心地がいいんだろうね。
ぼくも「ぜったいに否定されたくないこと」はFacebookに書くし。家族のこととか。

でも一方で「そんな生ぬるい環境にいたらだめだ!」という思いもあって、Facebookだけに安住の地を求めることはできないんだよねえ。



【DVD感想】6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア

『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』

内容紹介(Amazonより)
2016年3月25日。
恵比寿ザ・ガーデンホール。
今をときめくテレビの演出家達が千原ジュニアを自由にプロデュース。
1人の芸人が1つの舞台で全く違った世界を演出された実験的かつ革新的なライブ。
チケットが即完した同ライブ待望のパッケージ化。

2006年に上演された『6人の放送作家と1人の千原ジュニア』の続編的なライブのDVD(『6人の放送作家と~』のほうは観ていないけどね)。

テレビのディレクターたちが周到に準備した舞台に何も知らされていない千原ジュニアが挑む、という実験的な企画。

で、いきなりケチをつけるけど、本編には5人のテレビ局員の舞台しか収録されていない。
公演では加地倫三(テレビ朝日)のパートもあったらしいけど、DVDには収められていない。
『アメトーク』や『ロンドンハーツ』のプロデューサーが何をやったのかは正直見たかったけど、まあしかたない。いろんな権利の問題があるんでしょう。舞台をDVD化するときにはよくある話だ(全部収録しないほうが劇場に足を運ぶメリットも感じられるしね)。

ただ、収録しないんだったらDVDのタイトルは変更したほうがいいんじゃないの?
『6人の』と謳っておきながら5人分しかないのは羊頭狗肉が過ぎるんじゃなかろうか……。




以下、感想。

 末弘 奉央(NHK)


『超絶 凄ワザ!』などの担当ディレクター。
千原ジュニアに対して大喜利のお題を出し、その後『プロフェッショナル 仕事の流儀』風のVTRが流される。
いろんな芸人が「千原ジュニアはいかにすごいか」を語り、捏造をおりまぜながらそのすごさを強調する。
構造としては「むやみにハードルを上げる」という一点のみなんだけど、NHKならではの質の高いドキュメンタリータッチな映像と、絶妙に粗い捏造の対比がおもしろい。

うん、これはたしかにテレビではできないよね。特にNHKなら。
いくら千原ジュニアからの「捏造や!」というツッコミがあるとはいえ、「冗談としての捏造」を真に受けてしまう人も観るテレビだとこれはできない。

「大喜利の天才」と上がりまくったハードルに対してどう答えるのかが見ものだったけど、見事に乗り越えてみせた(というかうまく逃げた)千原ジュニア。さすがだねえ。

ラストにピークがくる構成もよかったし、いちばん演出と演者のバランスがちょうどよかったのがこのコーナーだったな。

ただ惜しむらくは9割がVTRで構成されていたためライブ感には欠けていたこと。
これは悪い意味でNHKらしさだね。NHKって生放送でもライブ感がないもんね。

とはいえ1人目としては十分すぎる出来だった。



内田 秀実(日本テレビ)


『ヒルナンデス』などの担当ディレクターが手がけたのは、『千原ジュニアを知らない世界』という企画。
もし千原ジュニアが若手芸人だったとしてもやっぱり売れるのか? ということで、さまざまなシチュエーションに挑戦させられる千原ジュニア。

申し訳ないけど、ほんとにつまらなかった。
雑な大喜利に答えさせられるジュニアがかわいそうに見えてきた。

ゴールまでの道が一直線に決められているから、せっかく即興でやっているのに「どうなるかわからない」というライブ感がない。
この後にやった藤井健太郎の企画が真逆で遊びが多かった(そしてそこがことごとくハマっていた)ため、余計に筋書きの貧相さが目立ってしまった。

ぜんぶテレビでもできることだよね。というか、目まぐるしい場面転換もあったしテレビのほうが向いてる企画なんじゃないだろうか。
オチの手紙(妻からの手紙と思わせて実は別の人が書いていたというよくあるボケ)まで含めて、ことごとく笑えなかった。
なんでテレビで何度も見たパターンのボケを、チケットなりDVDに金払って見なあかんねん。

まあハズレがあるのもライブの魅力のひとつ、と思えば……。



藤井 健太郎(TBSテレビ)


『水曜日のダウンタウン』『クイズ!タレント名鑑』などの担当ディレクター。
以前に書いた(参照記事)けどぼくはこの人のファンなので、このDVDを購入したのも千原ジュニアを観たかったからではなく、藤井健太郎さんが何をやったのかが観たかったから。

で、藤井さんの企画が『ジュニアvsジュニア』というものだったけど、ぼくがこの人のファンだということをさしひいてもこれはすごかった。
これを観られただけでもDVD買ってよかったと思えたね。

さまざまなバラエティ番組やドラマや映画から集めた過去の千原ジュニアの映像をつなぎあわせて、現在の千原ジュニアとトークをしたり対決をしたりするんだけど、まあ鮮やか。
千原ジュニア(現在)が、困らせてやろうと意地悪な質問をしたりしても、ことごとく千原ジュニア(過去)にスマッシュを打ち返される。
完全に手のひらの上で転がされていたジュニア(現在)も素直に「すげえな」と言葉をもらし、悔しそうな顔をしていた。
なにしろこのライブでいちばん笑いをとっていたのが「過去のジュニア」だったからねえ。
(しかしDVD化するときに権利をとるのがたいへんだっただろうな。よくぞ収録してくれた!)

この企画はいい意味でテレビ的だった。

テレビ番組は基本的に無駄から成り立っている。NHKのドキュメンタリーだと30分番組のために2年も取材したりするというし、そこまでいかなくても放送時間の何倍もの映像を収録してそこから編集するのがあたりまえらしい。
つまり撮影したものの大部分が日の目を見ずに捨てられていく。
もったいない気もするけど、その無駄があるからこそ視聴者はおもしろい映像だけを楽しむことができる。

『ジュニアvsジュニア』も、膨大な無駄の上に構成された舞台だった。
いったいどれだけの映像を準備していたのだろう。たぶん舞台で流されたものの何倍もの映像が用意されていて、そのほとんどが使われていない。
(ちなみに3本対決のはずだったがうち1本は捨てられている。捨てられたことで笑いが生まれているから結果的には成功なんだけど、あれは予定通りだったのだろうか?)

藤井健太郎氏が自分で編集作業もしているという『水曜日のダウンタウン』も同じようにつくられていて、すっごくばかばかしいことに途方もない時間をかけて調査していたり、せっかく制作した映像を早送りで雑に流したりして、おもしろくなるためには惜しげもなく余計なものを捨てている。

舞台で活動している人には、「おそらく日の目を浴びることのないことのためにエネルギーを注ぐ」という無駄はなかなかできないだろうね。舞台って編集が入らないから。

テレビならではのやりかたを持ち込んでいる一方で、どういう展開になるかがプロデューサーにも演者にもわからないというライブならではの緊張感もあり、テレビと舞台の魅力がうまく融合していた企画だった。

笑いの量、すごいことをやっているという感動、終わりの潔さ。
すべて含めて完璧に近いステージだったと思う。



佐久間 宣行(テレビ東京)


『ゴッドタン』を手がける佐久間さんの企画は『千原ジュニアのフリートークvs○○ 3本勝負』。

「擬音で感じる女」「お笑いライブに足しげく通う女」「センチメンタル」という邪魔にも負けずにおもしろいフリートークをできるか? という企画。

まあ、『ゴッドタン』そのまんまだね。これを『ゴッドタン』でやったとしてもまったく違和感がない(番組の名物マネージャーも出てくるし)。
というか『ゴッドタン』の『ストイック暗記王』企画から劇団ひとりやおぎやはぎのコメントをなくしただけのように思えて、ものたりなさを感じた。

対決と言いつつ空気を読んだジュニアが負けにいってる時点で、「勝負」という前提が早々に崩れてしまった。
結果、即興にしては予定調和すぎる、台本にしてはぐだぐだすぎる、というなんとも中途半端な出来に。

プロデューサーが自分の得意パターンに持ちこもうとしすぎてたなあ。
新しいことに挑戦してほしかった。



竹内 誠(フジテレビ)


『IPPONグランプリ』『ワイドナショー』などの担当ディレクター。
素人の語るエピソードを千原ジュニアが代弁することでおもしろくするという『daiben.com』という企画だった。

シンプルでわかりやすいし、千原ジュニアというトークの達者な芸人を活かした企画だったけど、マイナス面も多く目立った。

たとえば、下敷きになった素人のエピソードが
「キノコの研究家が毒キノコを食べてみたときの話」
「お天気キャスターがプライベートで天候とどうつきあってるか」
という話だったこと。

それ自体が興味深い話だったので、千原ジュニアが代弁しなくてもおもしろかったんじゃないの? という印象がぬぐえない。
(代弁前のエピソードは観ている側にはわからないので千原ジュニアというフィルタを通したことでどれぐらいおもしろくなったのかがわからない)

また「素人が千原ジュニアにエピソードを語る時間」というのがあって、この間観客はひたすら待たされる。
DVDでは早送りで処理されていたけど、観客はただただ退屈だったはずだ。
高いお金を払って舞台に足を運んでいるお客さんをほったらかしにするという、悪い意味で「テレビ的」な時間だった。

この企画はおもしろいおもしろくない以前に、「観客に伝わらない」「観客を退屈させる」という点でそもそも失敗していたように思う。
決しておもしろくないわけじゃないけど、でも「これだったらテレビで『すべらない話』を観るほうがいい」と思う。



舞台とテレビの違いってなんだろう


テレビの制作者が舞台のプロデュースを手がけるということで、「舞台とテレビの違い」について考えさせられた。

このライブの間に挿入される映像でも、ディレクターたちに「舞台とテレビの違いはなんだと思いますか?」という質問がされている。
彼らの回答は「ライブ感」「観客との近さ」などだった。

でもライブ感も観客との近さも、決定的な違いじゃない。
VTRを使う舞台もあるし、生放送のテレビ番組もある。
観客を入れて収録するテレビ番組もめずらしくない。


じゃあ最大の違いはなにかって考えたら、それは「演者の代替可能性」じゃないかな。

舞台において、観客は演者に対してお金を払う。
もちろん入場料は劇場のオーナーや裏方のスタッフにも渡るわけだが(というよりそっちが大部分だろうけど)、観客の意識としては出演者に払っている。
だから主役級の演者が出られずに急遽代役が登場する、ということは基本的にありえない。
千原ジュニアのライブだったけど急病のため代わりに千原せいじだけが出てくる、ということは基本的に許されない(それはそれでおもしろそうだけど)。

ぼくは以前、まだ存命だった桂米朝一門の落語会のチケットを買ったことがある。
結局直前になって桂米朝が体調をくずし、公演は中止になった。
米朝さんが出られないならしょうがない。「他の演者は出られるんだから小米朝を代役に立てて公演をするべきだ」とは思わなかった。
そりゃそうだよね、米朝の落語を聴くためにチケットをとったんだもの。

一方、テレビの出演者は誰であっても代役が利く。
主役級が休んだとしても番組が放送中止になったりはしない。

かつて『たけし・逸見の平成教育委員会』という番組があった。
逸見さんが亡くなり、ビートたけしがバイク事故で入院して、番組の顔がふたりともいなくなったが、それでも代役を立てて番組は続いた。
島田紳助が引退してからも『行列のできる法律相談所』はやってるし、関西ではやしきたかじんが亡くなって何年もたつ今でもたかじんの番組が2つ放送されている(さすがに番組タイトルからは消えたけど)。
「この人なしでは考えられない」というような番組でさえも、意外と成立してしまうのだ。
もし明石家さんまが急に休業しても『踊る!さんま御殿』も『明石家電視台』も『さんまのまんま』もきっとしばらく続くだろう。


『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』を観おわってまず僕が抱いた感想は、「テレビっぽいなあ」だった。

それはたぶん、準備が周到すぎたから。
「千原ジュニアには事前に企画の内容を知らせない」「編集でごまかせない舞台だから失敗は許されない」という条件が重なった企画、千原ジュニアがどう動こうが大勢に影響しない企画ばかりになってしまったんだと思う。
結果、千原ジュニアじゃなくても成立する企画になってしまった。

テレビをつくっている人間として「最後の最後を演者のパフォーマンスにゆだねる」ことは怖くてできなかったんだろうなあ。

すごく実験的でおもしろい企画だったんだけど、結果的に「テレビマンが舞台を成功させるのは難しい」という弱点を露呈させてしまった舞台だったのかもしれない。

ただ回を重ねればそのへんを打破するような企画をぶったててくれる人も現れると思うので、ぜひ同様の企画をまたやってほしいね。

【関連記事】

【読書感想文】 藤井 健太郎 『悪意とこだわりの演出術』


2017年5月30日火曜日

プロ野球選手ははらわた煮えくり返ってるんじゃないのかな



ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』にこんな一節があった。

「わが社に来て何年だね」と、幹部は若い社員に尋ねたそうだ。
「三年になります。大学を出てすぐ入社しました」
「では入社したとき、三年後の年俸はどのくらいだと考えていたのかね?」
「一〇万ドルは欲しいと思っていました」
 幹部は社員の顔をまじまじとながめた。
「だが、きみのいまの年俸は三〇万ドル近いじゃないか。それで何が不服なのかね」
「ええ、ただ……」若い社員は口ごもった。「デスクが近い同僚ふたりが、働きぶりはぼくとたいして変わらないのに、三一万ドルもらっているんです」

ああ、わかる……。


給料の高い/安いって、身近な人との比較なんだよね。

もちろん食うに困るほどだったら「絶対的に安い」なんだけど、そうじゃなかったらあとは相対的な問題。


ぼくは今「年収1000万円もらえたらいいなー」と思ってるけど、"年収1000万円もらえるけど同じ仕事をしている同僚全員が1500万円もらっている" 会社にいたら、きっとすぐ不満を感じてやめたくなると思う。
「なんであいつのほうが高い給料もらってるんだ」って。


その不満って、会社でいちばん高い給料をもらわないかぎりはなくなることはない。
身近な人の給料なんて知らないほうがいい。


そういう点でプロ野球選手ってきついだろうなと思う。
だって他の選手の年俸が丸わかりだもん。
「なんであんな守備のへたなやつが俺よりもらってるんだ」
「先発投手なんか週1しか投げないのに中継ぎの俺より多いのは納得いかない」
とかぜったいに思ってる。

特に「ケガでまったく出場していないけど自分より高額な年俸の選手」が身近にいたら、もうはらわた煮えくり返ってしかたないだろうね。


その点、個人種目はわかりやすい。
ゴルフとか競輪とかだと「賞金獲得額」は公表されるけど、賞金は「多く勝ったから多くもらえる」だけなので単純明快だ。
「なんでおれのほうが低いんだよ……」という不満の入り込む余地がない。

野球やサッカーのような団体競技選手は、給料非公開にしたらだいぶストレスが軽減されると思う。

公開しなきゃいけない理由ってなんだろ。


2017年5月27日土曜日

母親として、子どもに食べさせるものには気をつかいたい


母親として、子どもに食べさせるものには気をつかいたい。

あたしはお買い物をするときは無農薬、無添加のものを選ぶようにしている。
産地にもこだわっていて、野菜はなるべく近くで作られたものを買うようにしている。
遠いと鮮度は落ちるし、逆に鮮度が落ちないものは変な添加物があるからじゃないかと不安になる。
それに遠くからガソリンを使って運ぶのはエコじゃない。

少し遠いけどきちんとした食材を置いているスーパーマーケットへと足を運ぶ。


今日食べるものを、少しだけ。
それがあたし流。

毎日お買い物に行くのは正直手間がかかる。
だけどたくさん買って冷蔵庫に入れておくのは不健康なんじゃないかと思い、こまめに買いにいくようにしている。

昨日はエビとシイタケとタケノコとカエルとキクラゲで中華風の炒め物、今日はキャベツとニンジンとモルモット肉とインゲン豆でシチュー。
今日は何を食べようか、と献立を考えながらお買い物をするのは楽しい。


味付けも、できるかぎりシンプルに。
ソースやマヨネーズは使わない。岩塩、自家製のお味噌、コウモリ油、カモメだし。天然素材の調味料は味に深みがあるから毎日食べても飽きがこない。


味覚だけでなく、子どもには五感を使って料理を楽しんでもらいたい。
視覚、嗅覚、触覚、聴覚も食事を味わい豊かなものにしてくれる大切な要素だから。

旬の血栓の鮮やかな赤、お吸い物のお椀をあけたときにふわっと広がる硫化水素の香り、とれたてのナメクジの弾力ある歯ごたえ、踊り人魚の断末魔。

楽しく工夫をすることで子どもたちは好き嫌いなく何でも食べてくれるし、何よりお料理をしているあたしがいちばん楽しんじゃってたりして(笑)。



2017年5月25日木曜日

【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』

ダン・アリエリー/著 熊谷淳子/訳

『予想どおりに不合理』

内容(「e-hon」より)
「現金は盗まないが鉛筆なら平気で失敬する」「頼まれごとならがんばるが安い報酬ではやる気が失せる」「同じプラセボ薬でも高額なほうが効く」―。人間は、どこまでも滑稽で「不合理」。でも、そんな人間の行動を「予想」することができれば、長続きしなかったダイエットに成功するかもしれないし、次なる大ヒット商品を生み出せるかもしれない!行動経済学ブームに火をつけたベストセラーの文庫版。

行動経済学の古典的名著(といっても単行本の刊行は2008年だけど)。

この本に出てくる実験やたとえ話は、どこかで聞いたことのある話も多い。
たとえば「イスラエルの保育園でお迎えの時間を過ぎた親から罰金を取るようにしたら遅刻する親が増えた」話など。
それはこの本がそれだけ多くの人に影響を与えて、いろんな本に引用されたから。
行動経済学のバイブル的な本になっているんだね。

ぼくも何かの本の参考文献にこの本が挙げられていたので買った(何の本だったか失念してしまったけど池谷裕二さんか橘玲さんだったと思う)。


どこかロマンチックな都市に滞在しようということになり、あとはあなたの好きなふたつの都市、ローマかパリのどちらかを選ぶだけだ。旅行代理店の担当者は、それぞれの都市について、航空運賃、ホテルの宿泊、観光、朝食無料サービス込みのパッケージツアーを提示した。あなたはどちらを選ぶだろう。
 たいていの人にとって、ローマでの一週間とパリでの一週間のどちらかを選ぶのは、そうたやすいことではない。ローマにはコロッセオがあるし、パリにはルーブルがある。どちらもロマンチックな雰囲気だし、おいしいものを食べたり、すてきな店で買い物したりできる。簡単に決められるわけがない。だがここで、第三の選択肢を出されたらどうだろう。第三の選択肢は、朝食無料サービスのないローマ、つまり’ローマ、またの名はおとりだ。
 この三つ(パリ、ローマ、’ローマ)で考えると、朝食無料サービス付きのローマは朝食無料サービス付きのパリと同じくらい魅力的だけれど、劣った選択肢である朝食無料サービスなしのーマは格下だとすぐに気づくはずだ。あきらかに劣った選択肢(’ローマ)と比較することで、朝食無料サービス付きのローマがより引きたつ。もっと言うと、’ローマのおかげで、朝食無料サービス付きのローマがぐんとよく見えて、比較がむずかしかったはずの朝食無料サービス付きのパリよりいいとさえ思えてしまう。

ぼくらは合理的に物事を選択しているように思ってるけど、"絶対的な判断" が苦手らしい。
何かと比べないと良し悪しを判断することはできない。

上の’ローマの選択肢と同じようなものにマクドナルド理論というものがある。
少し前にネット上で広がったものなので、聞いたことがあるかも。

マクドナルド理論は、Jon Bellさんという人が提唱したらしい(参照)。

「昼飯どうしよう?」といっても誰もアイデアを出さないときに「マクドナルドはどう?」という悪い選択肢を提示すると、マクドナルドを避けたい一心で急にみんなが活発に意見を出すようになる。

という理論で、マクドナルド社から名誉棄損で訴えられたら負けそうな話だけど説得力がある。
「昼飯なんか何でもいいよ」と言いながらも、ほんとは「これだけは嫌」ってのがあるんだよね(いや、マクドナルドがベストだという状況もあるよ。お金はないけど長居したいときとか)。




買い物だけじゃなく、恋愛でも同じなんじゃないかな。
異性が少ない職場だと恋をすることがない、という話をよく耳にする。
それって単純に相手が少ないからだけじゃなくて、「比較するのに十分なサンプルがないから」ってのもあるのでは。
べつの誰かと比較をしないと、人を好きになるのは難しいのかもしれない。

たとえば脱出不可能な無人島で女性と2人っきりになったとしよう。よほどいやな相手じゃないかぎりは相手に対して性的な感情を持つかもしれない。
でも「好き」になるかと言われると、ちょっと違うような気がする。
1人しか選択肢がなければ「好き」とは思えないんじゃないかな。
自分の親は唯一無二の存在だからわざわざ「好き」という感情を抱かないのと同じで。



そして人は比較でしか物事の価値を決められないから、アンカリング(はじめにつけた値段がその後の行動にずっと影響を及ぼす)の効果からなかなか逃れられない。

 アンカリングは、どんな買い物にも影響をおよぼす。たとえば、ユーリ・シモンゾーン(ペンシルベニア大学の助教)とジョージ・ローウェンスタインは、はじめての市町村に引っ越す場合、たいていの人はそれまで住んでいた市町村で支払った住宅価格をアンカーにしたままであることを示した。この研究によると、相場が安い都市(たとえば、テキサス州のラボック)から、ほどほどの都市(たとえば、ペンシルベニア州のピッツバーグ)に引っ越した人は、新しい相場に合わせて支出を増やすことはしない。それどころか、たとえこれまでより小さい家や、住み心地の悪い家に家族を住まわせることになるとしても、それまでの相場で払っていたのと同じような金額しか出さない。同じように、もっと物価の高い都市から引っ越してきた人は、新しい住宅事情にも以前と同じだけの大金をつぎこむ。たとえばロサンゼルスからピッツバーグへ引っ越すと、たいていの人はペンシルベニア州に着いてもたいして支出を切りつめず、ロサンゼルスで払っていたのと同じような金額を出す。

うちの近所に豆腐屋さんがあって、そこに高級豆腐が1丁200円で売られている。
この豆腐はすごくおいしい。はじめて食べたときは感動した。
でも高いからいつも買うのをためらう。たまにしか買わない。

でも焼肉を食べに行ったら3,000円は使う。
もちろん焼肉はおいしいけど、高級豆腐の15倍の満足感が得られるかといったらそこまでじゃない。
だったら1回焼肉を食べるよりも15回高級豆腐を買うほうがだんぜんお得だ。

理屈ではそうなんだけど、やっぱりぼくは焼肉に3,000円出すのはためらわないし、200円の豆腐を買うのは躊躇してしまう。
よくよく考えたらおかしな話だ。

「3,000円でどれだけの効用が得られるか」を適正に評価してるわけじゃなくて、ぼくの中に「焼肉の相場」「豆腐の相場」があって、それを基準に高い/安いを判断しているだけなんだよね。

わかっていても不合理な行動をとってしまう。
だからこそ企業はブランディングに力を入れるんだろう。
この本にはスターバックスがアンカリングをうまく使って成功した話が書いてあるけど、喫茶店のコーヒーなんてまさにアンカリングによってお金を払ってる最たる例だよね。
あんな豆の煮汁に500円とか、冷静に考えたら信じられない。
エスプレッソなんてあんなにちょびっとしかないのに。

「喫茶店のコーヒー100円」が相場の世の中だったとしても、「いやおれは500円払ってでも飲むぞ」と言える人はほとんどいないんじゃない?



古典経済学では「すべての人は自分の利益を最大化するために合理的な行動をとる」ものとしているけど、じっさい人は不合理な行動ばかりとっている。

人々がお金のためより信条のために熱心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり三〇ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。

この気持ちはわかる。
友だちから「引っ越しを手伝ってくれ」と言われたら、協力してやりたいと思う。
でも「引っ越しを手伝ってくれ。1,000円払うから」と言われたら「あほか、なんで1,000円で半日拘束されなあかんねん」と言ってしまう。
1,000円でももらえたほうがタダよりはいいはずなのに。


合理的に生きるのってほんとに難しい。

今がんばれば後で楽になるとわかっていても怠けてしまう。
1時間夜ふかしするよりも30分早く起きるほうが時間を有意義に使えて睡眠も長くとれるとわかっていても、だらだら夜ふかししてしまう。
損をしてばっかりだ。

この本を読むと「合理的に生きられない自分」のことがよく見えてくる。
たぶんそのほとんどは改めることができない。きっとぼくはこれからも豆腐屋の店先で200円の豆腐を買うかどうか迷いつづけるだろう。


行動は変えられなくても、せめて合理的に生きられない自分に自覚的でありたい、と思う。
「絶対に合理的に生きなきゃ」と思うのは自分自身がしんどいし、「自分はいついかなるときも合理的な選択をしている」と思う人ほどはた迷惑な存在はないのだから。




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