年をとったときに、
「老いぼれ」といわれようと
「くそじじい」といわれようと
「死にぞこない」といわれようと
「ボケ老人」といわれようと
「まっ、おれもトシとったしな」
と受け流せるんじゃないかと思う。
でも「老害」といわれたら、聞き流せる自信がない。
それまでの人生が全部否定されるような気がする。
はらわたが煮えくりかえるにちがいない。
またおそろしいことに、「老害」といわれたことに対して何と言い返そうと、どんな行動をしようと、「そういうところが老害なんだ」という切り返しがあるから、抵抗の余地がない。
よくできた悪口だと思う。
ほとんど最強。
「老害」って言葉を考えた人って、相手が何を言われたらいちばんイヤかをわかっているという点ですごく想像力豊かで、それを口に出してしまうという点ですごく底意地の悪い人だよねえ。
2016年5月22日日曜日
【読書感想文】ニコルソン・ベイカー 『中二階』
岸本佐知子(翻訳家)のエッセイがめっちゃくちゃおもしろいので買ったのですが、いやあ、やっぱり奇才・岸本佐知子が訳そうと思うだけありますね。
これも異常な小説でした。
誰にでも薦められる小説ではないけど、人によってはものすごくおもしろく感じると思います。ぼくはこういうの大好きです。
◆ 異常なとこ 1
ほんとに何も起こらない。
昔、井上ひさしの『吉里吉里人』を読んだときに、数百ページを費やして2日しか経たないので、「なんて話の進行の遅い小説だ!」と思ったものですが、『中二階』はその比じゃない。
なにしろ、主人公がエスカレーターに乗るところではじまり、エスカレーターを降りるところで終わる。その間、エスカレーターが止まったりするようなトラブルもない。ただ主人公がエスカレーターに乗っている間に考えたことをひたすら書いているだけ。
そういう実験的な小説はほかにもあると思います。「ものすごく短い時間に起こったことを長々と書く」という思いつき自体はそこまでめずらしいものではないでしょう。
でもそういう実験的小説はたいていおもしろくない(おもしろくないから手法として定着せずに実験で終わるのでしょう)。
『中二階』はちゃんとおもしろい小説としても成立しているのがすごい。これはかなりめずらしい実験成功例ですね。
◆ 異常なとこ 2
注釈の多さ。
量も多いが、ひとつあたりの長さも尋常じゃない。
5,000字以上にわたって長々と注釈が続いていたりする(しかもその注釈の中でさらに脱線して余談の余談になったり)。
もう読みづらいことはなはだしい。
でもその注釈が本編と同じくらいおもしろいので読み飛ばすわけにもいかないのが困ったものです。
しかし数ページにまたがって延々と注釈が続いていたりするので、編集者はレイアウトを組むのに苦労しただろうなあ。
◆ 異常なとこ 3
視点の細かさ。
アメリカ人っておおざっぱでがさつなやつらだとぼくは思っているのですが(そしてだいたいあっているんですが)、ニコルソン・ベイカーという人はアメリカ人作家とは思えないぐらい細かい。
両脚の靴紐が同じ日に切れたことについて、「同じ日に切れる確率はどれぐらいか」「どういった動作をしたときに靴紐にどの程度の力がかかるのか」といつまでも考えています。もうこの小説のはじめっから最後まで、ことあるごとに靴紐のことを考えていて、しまいには「1年のうちで靴紐が切れることについて考えるのは何回ぐらいだろう」と考えます。
ほとんど「靴紐が切れることについて考える小説」だといってもいいぐらいです。
ところでこの小説が発表されたのが1988年。
「たいしたトピックのない文章」「注釈の多い文章」「ものすごく視点の細かい極私的な文章」というのは、今ではWeb上にあふれています。
FacebookやTwitterのテキストはほとんどが内容の薄い私的な日記ですし、リンクは注釈に相当しますしね。
とすると、1988年発表の『中二階』がインターネット時代のテキストの氾濫を予想していたというのは考えすぎでしょうか......、
考えすぎですね、はい。
2016年5月20日金曜日
【エッセイ】捨てなくてよかったアジスロマイシン
みんな、余った薬ってどうしてる?
風邪ひくよね。
病院いくよね。
薬もらうよね。1週間分。
3日で治るよね。
薬飲まなくなるよね。
その、残り。
一応おいとくよね。
ぶりかえすかもしれないからね。
で、そのまま。
その薬を後に飲んだことはあるだろうか、いや、ない。
数ヶ月後にまた風邪をひく。
たしか前にもらった薬があったはずーと思って冷蔵庫をさぐると(あたしは薬を冷蔵庫にしまう)、薬が出てくる。
やったー!
捨てずにおいててよかった!
でも。
こわくて飲めない。
たぶんこれは風邪薬だと思う。
たぶん。
けど、この「アジスロマイシン錠250mg」が風邪に効くという確証が持てない。
もし、風邪薬じゃなかったらどうしよう。
下剤だったらどうしよう。
耳を溶かす薬だったらどうしよう。
そもそも。
これはほんとに飲み薬なのか。
粉末にして水にとかして注射器で静脈に打ちこむのがただしい服用方法かもしれない。
飲んで大丈夫か。
飲んだら耳が溶ける薬だったらどうしよう。
そんな不安に負けて、結局いつも冷蔵庫の薬は飲めない。
結局、病院にいく。
また薬をもらう。
出されたのは、カルボワシステイン錠500mg。
ああよかった。
冷蔵庫にあるアジスロマイシン錠とはちがう薬だ。
家にあるのと同じ薬だったらもったいないもんね。
で、新しくもらったカルボワシステイン錠を全部飲む前に、また風邪がなおる。
そしてまた、何の薬だったか忘れられるカルボワシステイン錠。
こうして、あたしの冷蔵庫には耳が溶ける薬ばかりがたまってゆく。
2016年5月17日火曜日
【読書感想文】奥田英朗『どちらとも言えません』
奥田英朗氏ってこんなにエッセイがうまかったのか。
スポーツのことをこんなにおもしろく語れる人は多くない。
スポーツはもちろん、社会一般や他国の文化や人の心の機微にも造詣が深く、それなのにあくまで観戦者の立場を守りつづけた文章を書けるのはすばらしい。
スポーツライターには無理だろうね、このほどよい温度感でエッセイを書くのは。
関係者だと利害関係が生じるから思いきったことは書けないし、どうしたって「世間一般の人は知らない、入念な取材に基づくここだけの裏話」になってしまう。
それだといいルポルタージュにはなってもおもしろいエッセイにはならない。
その点、奥田英朗氏は本業が小説家なので、スポーツ業界からどう思われたっていいやぐらいの気持ちで書いているのだろう。肩に力を入れずにあることないこと書いていて気持ちがいい。
たとえば、2010年のサッカーワールドカップについて書いたこんな文章。
どうです、こんな無責任なことを書ける人がスポーツライターにいますか。いないでしょう。
匿名掲示板にだって書くのを躊躇していまいそうな“適当発言”。
これを由緒あるスポーツ情報誌『Number』に署名入りで書いてしまうのだから、根性がすわっているというかなんというか。
ぼくはほぼ毎年高校野球を観るために甲子園に行くのだが、友人とビールを飲みながら下劣なことばかりしゃべっている。
やれ「□□高校の監督は顔に知性が感じられない。学校の偏差値の低さが顔に出ている」だの、やれ「○○県は民度が低いからアルプススタンドの応援もダサい」だの、当事者に聞かれたらぶん殴られても文句のいえない低俗な軽口を叩いている。
これは友人しか聞いていないから言える冗談だけど、だからこそおもしろい。
『どちらとも言えません』もそれと同じ。
無責任だからこそ辛辣で痛快。
野球場で酔っぱらいが飛ばしているヤジみたいなもの。
妙にヤジがうまいおっさんっているもんね。
そういうおっさんはえてして改まって意見を求められると言葉に詰まっちゃったりするもだけど、おもしろいヤジをそのまま文章にできるのが奥田英朗氏の才能なんだねえ。
あくまで「観客の目線」。
エッセイのほとんどは、テレビ中継や新聞記事に基づいて書かれたもの。つまり、我々読者と同じ条件。
それにちょっとした考察や思いつきの要素が加えられることで、ぐっと読みごたえが増す。
さすがは小説家。
異国の文化も、このようなストーリーを持たせることで腑に落ちる。
「わかったような気になる」だけなんだけどね。
でもそれでいい。
だってスポーツ観戦自体ってそんなもんだから。スポーツ解説者なんて、勝手に選手の心情を憶測して、さも真実であるかのように説明してるだけだから。
スポーツ観戦に必要なのは真実ではなく物語性なんだよね。
そういやぼくは小学生のときに近藤唯之(元スポーツ新聞記者)のプロ野球エッセイをよく読んでいたけど、あれなんか完全に報道じゃなくて物語だったもんなあ……。
奥田英朗氏のエッセイは、正確性よりも「わたしはこう思う」というホンネを大事にしている。そして皮肉や警句もほどよく効いている。
これがまたスポーツをした後のような爽快感を味わわせてくれる。
たとえばこんな一節。
あーあ、言っちゃったよ……。
それをわかってても口に出さないのが大人のふるまいなんだけど、改めて言われると「いややっぱりそうだよなー」と苦笑。
みんなうっすら思ってるんだよね。
ちなみに、ぼくが思う「本当のことは言いっこなし」は、「みんな柔道なんかまったく好きじゃないんでしょ?」ってこと。
いやほんとつまんないもん。
そりゃ豪快に一本背負いとかきめてくれたらおもしろいよ?
でも、スポーツとしての柔道って(特にレベルの高い人同士の試合だと)点数稼ぎ & 時間稼ぎだからね。
でかい選手が胸ぐらつかみあったままじりじりじりじりすり足で歩くだけの競技なんて誰がおもしろがるんだって話ですよ。
ほんとはみんな興味ないけど、日本人選手がメダルを稼いでくる競技だから、オリンピックの時期になったら応援してるふりしてるだけでしょ?
もしもだよ。
国際オリンピック連盟が
「次のオリンピックから柔道はなしね」って言い出したとするよね。
けっこうな数の日本人が反対すると思う。
でもそれって、「日本の獲得メダル数が減るから反対!」じゃない?
「柔道をオリンピックで見たいから反対!」って人は柔道家以外にいる?
日本がすごく弱くなってメダルを1個もとれなくなったとしても柔道を見つづける人ってどれだけいる?
その他の読書感想文はこちら
2016年5月15日日曜日
【考察】答えは404 not found
「日本の中学・高校の教育は詰め込み型で、答えのある問題を解かせることしかやっていない」
みたいな偉そうな批判をする輩がいるけど、
てめえがテストで点とるための勉強しかしてこなかったことを日本の教育の問題にすりけてんじゃねえよ!
やるやつはやってるし、やらないやつはどんな環境でもやらねえよ!
ってうちの2歳児が言ってました。
みたいな偉そうな批判をする輩がいるけど、
てめえがテストで点とるための勉強しかしてこなかったことを日本の教育の問題にすりけてんじゃねえよ!
やるやつはやってるし、やらないやつはどんな環境でもやらねえよ!
ってうちの2歳児が言ってました。
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