2015年9月21日月曜日

【読書感想】 真保 裕一 『奇跡の人』

真保 裕一 『奇跡の人』

「BOOK」データベースより
31歳の相馬克己は、交通事故で一度は脳死判定をされかかりながら命をとりとめ、他の入院患者から「奇跡の人」と呼ばれている。しかし彼は事故以前の記憶を全く失っていた。8年間のリハビリ生活を終えて退院し、亡き母の残した家にひとり帰った克己は、消えた過去を探す旅へと出る。そこで待ち受けていたのは残酷な事実だったのだが…。静かな感動を生む「自分探し」ミステリー。

 いっとき「自分探し」という言葉が流行った。有名サッカー選手が「自分探し」を引退の理由に挙げたりしていたが、最近は堂々と口にするのが恥ずかしい言葉になった。たぶん。
 いい歳して自分探しなんて恥ずかしいとか、自分を探すのに縁もゆかりもないインドに行ってどうすんだよ、とかのつっこみを受けて、ダサい言葉として認識されるようになった、ってのが最近の潮流だ。

 しかし自分探しをしたくなる気持ちはわかる。
 ぼくは中国で一ヶ月ほど暮らしたことがあるが、そのときなぜか女にすごくもてた。日本では彼女もいなくて童貞だったのに、中国では二人の女性からあからさまに好意を示され、他の女性からも「あなたはすてきな人だ」と言われた。
「ひょっとすると本来のぼくの居場所はここなのかもしれない。これがぼくの本当の姿なのでは……?」と思ったものだ。
 小学生のころは「もしかするとぼくは養子で、ある日大富豪の両親が迎えに来てくれて……」と妄想した。
「ここじゃないどこかに今よりすばらしい自分がいるはず」と思うという点で、これもまた自分探しだ。
 自分が変わる努力はしなくても環境だけが劇的に好転するなら、こんなにいいことはない。ぼくは買ってもいない宝くじに当たりたい。自分が『みにくいアヒルの子』であってほしい。
 だから引退の理由に自分探しを挙げてしまう中田英寿を誰も責められない(あっ名前書いてしもた)。


 というわけで、自分探しは人間の本分だ。
 で、『奇跡の人』である。事故で過去の記憶をなくした主人公が、過去の自分を探す物語である。
 周囲からは「今の君は生まれ変わったんだ。昔は関係ないじゃないか」と云われる。読者も、読みすすめているうちに「あーこれ知ろうとしないほうがいいやつだわ。やめときゃいいのに」と思う。好ましくない過去が出てきそうな予感がする。
 しかし立ち止まれない。ふつうの人でも自分を探してしまうのだ。過去の記憶がなければ、その空白の期間にすばらしい自分を探してしまうのは避けられない。
 かくして、次第に自分探しにとりつかれた主人公はずぶずぶと深みにはまり、現在持っているものまで失ってゆく……。


 という、たいへんおそろしい物語。梗概に「静かな感動を生む」なんて書いてあるからハートウォーミングな話かと思っていたらとんでもない。

 自分なんて探すことなかれ。
 宝くじがめったに当たらないように、より良い自分より悪い自分が出てくる可能性のほうがずっと高いんだから。

2015年9月19日土曜日

【エッセイ】さらばおれらの時代

高校野球を観ていると

最近の高校生はみんなうまいなー。
おれらのときよりレベルが高くなったよなー。
おれらのときよりずっと科学的で効率のいい練習をしてるんだろうなー。
って思うんだけど、

よく考えたらおれ野球部じゃなかったわ、ってことない?
おれは毎年思うんだけど。

2015年9月18日金曜日

【エッセイ】ぶどうの学校

知り合いが、ぶどうの学校に通っているという。

「ぶどうの学校……。そんなのがあるんですか」

 「そうなんですよ」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんですよ」

「あっ。“武道”の専門学校ですね」

 「いえ、“葡萄”のです。食べるほうの」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんです」

「……。あっ、わかった。ワイン作りを教えるんですね」

 「いえ、ワイン用とはべつの品種です。学校でやるのは食べる用です」

「ほんとですか」

 「ほんとですってば」

「ぶどうを育てるんですか」

 「そうです。育て方を教えてくれるんです」

「……。ああ、農業高校みたいなのですか。それの果樹コースとか」

 「そこまでじゃないです。ぶどうを育ててみるだけです。他の果樹や野菜はやってません」

「ほんとですか」

 「ほんとなんですって」

「なぜまたぶどうを」

 「生徒を募集してたんで。ぶどう嫌いじゃないですし」

「そんな理由ですか」

 「そんなもんですよ。わたし、以前ダンスを習ったこととありますけど、そのときもなんとなく楽しそうだったからっていう程度の動機でした」

「いや、ダンスはわかるんですけど。気楽にはじめてもいいと思います。でもぶどうの学校は……」

 「ぶどうも同じでしょう」

「ぶどう狩りでいいじゃないですか。わざわざ学校で習わなくても」

 「収穫だけじゃなくて栽培もしてみたかったんです。ちゃんとした先生に教わって」

「ぶどうだけをですか……。
 ああ、わかった。ご実家がぶどう農家なんでしょう! そしてあとを継ぐ予定なんですね。だからぶどう栽培について学ぼうと思った。なるほど、それなら理解できる!」

 「いえ、実家はサラリーマン家庭です。親戚にぶどうを育てている人はひとりもいません」

「だめだ……。ぼくの理解の範囲を超えている……!」

2015年9月17日木曜日

【考察】若者よ、手を抜け。あと生き馬の眼も。

他人に優しくできる人は、余裕がある人よね。
精神的に余裕がないときには、周りを助けたりできないもの。

心に余裕があるのは、一生懸命じゃないから。
いつも全力の人は周りに気を配れない。


100パーセントの力でがんばれとか。
常に本気でやれとか。
あたしは周りに迷惑をかけたくないから、そんなことしちゃだめだと思ってる。
一生懸命がんばっていた時期があたしにもあったけど、あの頃は周りに優しくできなかった。

だいたいどの世界でもトップランナーは周囲から嫌われているけど、あれは余力がないからなんだろね。

ラブ・イズ・手抜き。

2015年9月16日水曜日

【エッセイ】女性用マスクの快感

 風邪をひいてマスクをしていると、サイズがあっていないと指摘された。
 マスク大きすぎですよ、と。
 鼻の横にスキマあいてますよ、と。

 翌日ドラッグストアへ行って「小さめ。女性用」と書かれたマスクを買ってきた。
 さっそく装着してみる。
 女性用のマスクを身につける、という行為はちょっと変態みたいでどきどきする。でも嫌いじゃないぜ。

 ぴったり。ジャストサイズだ。
 マスクってこんなにも顔にフィットするものだったのか。
 なんてことだ。
 花粉症を発症してから10年あまり、通算で1,000日はマスクをかけつづけてきたが、ずっと大きめのものをかけていた。
 1,000日間ずっとぼくの鼻の横にはスキマがあいていた。
 だけどそれを疑問に思ったことはなかった。
 その間ずっと花粉やウイルスがスキマから入り放題だったにもかかわらず、
「マスクしてるのにあんまり効果ないなあ」
と鼻水をたらしたアホみたいな顔で首をかしげていた。
 いってみれば、車に鍵をかけながら運転席の窓を全開にしていたわけだ。
 それで「最近車内のものがなくなるなあ」と首をひねっていたわけだから、我ながら相当なおばかさんだ。

 二次元の布で三次元の顔をスキマなく覆うことはできないものだと思ってあきらめていた。
 高い壁に直面したとき、乗り越える方法を探すよりも、乗り越えられない言い訳を探してしまう。
 いつからだろう、そんな大人になってしまったのは。

 なんてちっぽけな人間なんだ、ぼくは。
「小さめサイズ」がお似合いの人間だ。
 自分を過大評価して「普通サイズ」をかけていた自分が恥ずかしい。
 小さめの穴があったら入りたい。