少し前まで、日本のマンガを海外で出版するときは左右を反転して印刷していたそうだ。
欧米ではページも文字も左から右なので、マンガのコマも左から右になるように反転させていた、というのがその理由。
だから『寄生獣』が英訳されたとき、右手に寄生するミギーは、左手のLEFTYに変えられたのだとか。
でも最近はオリジナルの文化を尊重しようということで、反転せずに日本式で右から左に読んでいきましょうという流れになっているそうだ。
でもまだ慣れない人も多いのだろう。
こないだイタリア語版の『ジョジョの奇妙な冒険』を手にとる機会があったのだが(もちろん第5部)、1ページ目に説明書きがあった。
図入りで、右から左にこうやってコマを見ていくんですよ、ページも右から左にめくっていってくださいね、と書いてあった。
マンガを読むためにまず学ばなくてはならないのか、と感心した。
不まじめな印象のあるイタリアでもこの調子だから、まじめなドイツではきっと、カルチャースクールとか専門学校とかで、マンガを読むためのテクニックを教えているんだろうな。
2015年7月19日日曜日
エクセルワード
知人の会社の住所が
『エクセルワード○○』というビル名だったので
「会社が『エクセルワード』にあるなんて、まさに『オフィス』って感じですよね!」
と得意満面で言ったのに、
「いやそんな大したビルじゃないですよ」
と、ぼくの全力ジョークが伝わらなかったことをここに記す。
まあそれはいいんだけど、でもわかった上でスルーされてたのだとしたらすっごく恥ずかしいな。
『エクセルワード○○』というビル名だったので
「会社が『エクセルワード』にあるなんて、まさに『オフィス』って感じですよね!」
と得意満面で言ったのに、
「いやそんな大したビルじゃないですよ」
と、ぼくの全力ジョークが伝わらなかったことをここに記す。
まあそれはいいんだけど、でもわかった上でスルーされてたのだとしたらすっごく恥ずかしいな。
2015年7月17日金曜日
危険食品
豚の生レバーが危険だからって提供を禁止されたけど、
ガラスとか釘とかも食べることを法律で規制したほうがいいんじゃないでしょうかね。
ほとんどの人は食べたことないから知らないだろうけど、ああいうのって食べるとマジ危険だからね。
ガラスとか釘とかも食べることを法律で規制したほうがいいんじゃないでしょうかね。
ほとんどの人は食べたことないから知らないだろうけど、ああいうのって食べるとマジ危険だからね。
2015年7月16日木曜日
語り継がれしバウムクーヘン
「戦争の悲惨さを語り継ぐ会」
これが、あたしにはふしぎでしょうがない。
どうして「語り継ぐ」のだろう。
どうして文書で書き残さないんだろう。
あたしが関ヶ原の合戦やトロイ戦争のことを知っているのは、語り継がれてきたからじゃない。読んだからだ。
うまく文章で書けないんなら、映像で残すなり、録音するなり、絵画で表現するなり、他にもいっぱい手段はあるのに。
もし語り継がれたとしても、伝言ゲームみたいにちょっとずつ変遷して、伝えたかった内容とぜんぜんちがう話になってる可能性のほうが高そう。
だから「語り継ぐ」のはほんとおすすめしない。
昨日、「バウムクーヘン買ってきて」って頼まれて、何をどうまちがえたらそうなるのかわかんないけど、とにかくまちがえてシャウエッセン買ってきたあたしが言うんだからまちがいないよね。
これが、あたしにはふしぎでしょうがない。
どうして「語り継ぐ」のだろう。
どうして文書で書き残さないんだろう。
あたしが関ヶ原の合戦やトロイ戦争のことを知っているのは、語り継がれてきたからじゃない。読んだからだ。
うまく文章で書けないんなら、映像で残すなり、録音するなり、絵画で表現するなり、他にもいっぱい手段はあるのに。
もし語り継がれたとしても、伝言ゲームみたいにちょっとずつ変遷して、伝えたかった内容とぜんぜんちがう話になってる可能性のほうが高そう。
だから「語り継ぐ」のはほんとおすすめしない。
昨日、「バウムクーヘン買ってきて」って頼まれて、何をどうまちがえたらそうなるのかわかんないけど、とにかくまちがえてシャウエッセン買ってきたあたしが言うんだからまちがいないよね。
2015年7月15日水曜日
勉強嫌いにさせる方法
とあるサイトで、
「小学生の息子に『どれだけゲームをしてもいいけど、その代わりゲームしたのと同じ時間だけ勉強すること』というルールを課したら勉強するようになった」
と得意げに語っている人を見た。
こういう親をもった子どもはとても不幸だと思う。
こんなことを言われて勉強好きになる子がいるだろうか?
親が勉強することを “罰” “楽しいことの代償” としか考えていないのに、子どもが勉強好きになるはずがないじゃないか。
ぼくの親はとりたてて教育熱心ではなかったが、
「勉強したら○○してあげる」と子どもに対して言うことはなかった。
父は算数のおもしろさを知っていたから
「こんな問題もあるよ」
と、パズルを出してくれた。
母は読書のおもしろさを知っていたから
「この本おもしろいよ」
と、小学生にとっては難しめの、けれど小学生でも楽しめる本を与えてくれた。
おかげでぼくは、算数も読書も好きになった(ただし母は算数嫌いだったし、父は本を読まなかった)。
どうして教育をする立場にある人が、わざわざ勉強を苦役だと信じこませるのだろう。
わからなかったことがわかるようになるのはうれしい。
見えなかったものが見えるようになる、こんな楽しいことはない。
これは万人に共通する感覚だと思うんだけど。
「小学生の息子に『どれだけゲームをしてもいいけど、その代わりゲームしたのと同じ時間だけ勉強すること』というルールを課したら勉強するようになった」
と得意げに語っている人を見た。
こういう親をもった子どもはとても不幸だと思う。
こんなことを言われて勉強好きになる子がいるだろうか?
親が勉強することを “罰” “楽しいことの代償” としか考えていないのに、子どもが勉強好きになるはずがないじゃないか。
ぼくの親はとりたてて教育熱心ではなかったが、
「勉強したら○○してあげる」と子どもに対して言うことはなかった。
父は算数のおもしろさを知っていたから
「こんな問題もあるよ」
と、パズルを出してくれた。
母は読書のおもしろさを知っていたから
「この本おもしろいよ」
と、小学生にとっては難しめの、けれど小学生でも楽しめる本を与えてくれた。
おかげでぼくは、算数も読書も好きになった(ただし母は算数嫌いだったし、父は本を読まなかった)。
どうして教育をする立場にある人が、わざわざ勉強を苦役だと信じこませるのだろう。
わからなかったことがわかるようになるのはうれしい。
見えなかったものが見えるようになる、こんな楽しいことはない。
これは万人に共通する感覚だと思うんだけど。
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