教習所で、「クラクションは『どけ』とか『もたもたすんな』というために使うものではありません。危険回避のために使うものです」と教わった。
そのとおりだと思う。
車は急に止まれないから、「あぶない! このままだとぶつかる!」というときにだけ使うようにしてもらいたい。
でも。
自転車のベル。
なによあれ?
あれ、危険回避のために使えないよね?
自転車で誰かにぶつかる寸前に、ベル鳴らす人いる?
ブレーキを握るか、ハンドルを切るよね?
自転車のベルって、「どけ」以外の目的で鳴らすことはない。
恫喝にしか使えない道具。
不良がけんかをする前に指をポキポキ鳴らす、あのしぐさと一緒。
なんで自転車にあんな物騒なものの装着が義務付けられているのか、ふしぎだ。
2017年3月24日金曜日
2017年3月23日木曜日
【読書感想エッセイ】 牧野知弘 『空き家問題』
牧野知弘 『空き家問題』
いやあ、すばらしい本だった。
空き家の問題を起点に、日本の社会構造や都市のありかたにまで切り込んでいて、しかもわかりやすい。
空き家の話から「日本の社会全体を大転換しないといけない」という話になるとは思わなかったなあ。
空き家は今後も増えつづける
「空き家が増えている」というニュースは聞いたことがあったけど、正直、べつにいいじゃないかと思ってた。
「田舎から人が減ってるんでしょ。でもしょうがないんじゃない? 空き家のまま放っておけば?」
ってぐらいにしか思っていなかった。しょせん他人事だしね、って。
でも、どうもこれは日本全体の問題らしい。
今、日本全体で毎年20万戸の空き家が新たに生じているらしい。
高齢者の単身世帯が多いということは、そのうちの大部分は、近いうちに住人が施設に移るか亡くなるかして、空き家になっちゃうってことだよね。
空き家は今後もどんどん増える。
田舎の話だけかと思ったら、東京でも空き家は増えている。
売りに出しているわけでもなく、別荘として使っているわけでもない、純粋な「空き家」の数は都内だけで2008年には18.9万戸もあるんだとか。しかも5年で34%も増えている。
もはや土地や家は財産ではない
高級住宅地も、売れなくて困っているらしい。
こないだちょっと用があって、兵庫県芦屋市の六麓荘ってところを歩いたのね。
そこって関西では有名な超超高級住宅地で、有名な会社の会長さんとかがいっぱい住んでいて、120坪以上じゃないと分譲しちゃいけないってルールがある(一戸建ての平均坪数は40~45坪くらい)。
「土地や家は財産」って考えが、もう通用しなくなってる。
ぼくの両親はまたぴんぴんしてるけど、60歳を過ぎているからいつまで元気でいるかわからない。
郊外の一戸建てに住んでるけど、ぼくがその家に住むことはたぶんない。通勤に不便だから。姉夫婦も家を買ったから、もし両親が死んだら、その家はきっと空き家になる。
無事に売れればいいけど、売れなかったら相続税と固定資産税がかかるだけの"負債"になる。
それどころか、家って誰も住んでいないと傷むから、メンテナンスをしなきゃいけない。
でも住まない家のためにお金を出したくない。家はどんどん老朽化する。ボロボロになって近所から苦情が出る。
誰も住まないんならいっそ取り壊して更地にしちゃえばいいじゃんって思うけど、解体費用もばかにならない。
おまけに、「住宅用地の課税標準の特例」ってのがあって住宅は更地にくらべて固定資産税が1/6で済むらしい。つまり、空き家を取り壊して更地にしたら固定資産税が6倍になるってこと。
日本中で家が余ってる。田舎も都心も。
でもその一方で、家を欲している人はいて、新築住宅やマンションはどんどん建設されているし、あいかわらず家は何千万円もする。
片方では余っているのに、もう片方では足りない足りないと言っている。
なんでこんなことになってるんだ?
こないだ建築の仕事をやっている友人と飲んだら、とにかく忙しいとこぼしていた。
「28連勤だったから、明日は1ヵ月ぶりの休みだ」と。
そいつの会社がブラックなだけかと思ったら、この本を読むと、どうも建設業全体が人手不足らしい。
家が余っているのに、なぜ建築で人手不足なんだ?
『空き家問題』によると、建設業に従事している人の数は、1995年から2010年にかけて、わずか15年で3分の2に減ってしまったんだとか。
公共事業が激減し、さらにはリーマンショックの追い打ちもあり、建設会社がどんどんつぶれた。職を失った人は他の仕事につき(自殺した人も多かっただろうね)、新たな社員を採用する余裕もない。
その結果、建設業従事者は3分の2に減ってしまった。
ところがその数年後。
東日本大震災が起こり、復興工事の仕事が大量に発生した。さらに東京オリンピックの開催も決まり、スタジアムや関連施設の建設で人手が必要になった。
だが、辞めてしまった人はかんたんには戻ってこない。今から採用しようにも、建築技術は一朝一夕には身につかないから、熟練の技術が必要になる仕事には就けない。
仕事はあるのにそれをできる人がいない。
建設業の人件費は高騰し、資材も高騰。工事車両も減っているわ、長距離トラックの運転手も不足しているわで、今、家やビルの建設費はめちゃくちゃ上がっているそうです。
建設費が上がっても高い値段で売れるならいいけど、平均所得は上がっていないから多くの人には手が出ない。
というわけで建設会社も新たな土地は積極的に買おうとしない。高い建設費で建てても売れないからね。
土地が売れないから空き家も売れない。
で、空き家が増えていく。と、こういう図式らしい。
あまりにややこしいから、ぼくなりにまとめてみたよ。
こうやって見たらわかるけど、「空き家の増加」という現象の背景には、少子高齢化が進んでることとか、若年層の低所得化とか、ライフスタイルの変化とか、必要かどうかもわからない東京オリンピックをやることになっちゃったこととか、いろんな「後回しにしてきたツケ」があるわけなんだよね。
「いずれ何とかなるだろ」が「空き家の増加」という形で一気に噴出したわけで、しかも悪化することはあっても快方に向かう兆しはまったく見えないというのが現状。東京五輪が終われば人材不足や資材の高騰は多少収まるだろうけど、それはそれで不況を招きそうだし。
「どっかで誰かの家が空き家になってる」だけの問題じゃないんだね。
もう空き家問題は、過疎化の進む田舎だけの問題じゃない。
東京ですら例外じゃない。
空き家問題を解消するための対策として、著者は「コンパクトな都市づくり」を挙げている。
市街地の拡大を抑え、道路やインフラなどの整備費用を抑える試みだ。
富山市や青森市で実践されているらしいが、今のところ成功を収めているとは言いがたい状況らしい。
とはいえ。
これから先、ほとんどの地域で人口はどんどん減る。おまけに高齢化が進む。
車移動に頼った生活は必ず限界が来る。
コンパクトな都市を作るのが正解かどうかはわからないが、少なくとも今までの都市を持続させようとしたら近いうちに必ず破綻する。
しかし20年後に生きている都市をつくろうと思ったら、ほとんど一から都市設計をやりなおさなくてはいけないし、そのせいで損をする人はいっぱいいるだろう。
ものすごく利害対立が発生するから、まちがいなく難航する。
かつて経験したことのないほどの人口減少社会になるのだから、過去の成功事例はまったくあてにならない。
都市の設計方法についていろんな意見はあるべきだと思うけど、「20年後に生きているかどうかわからない」人の言うことは聞いてはいけないと思う。
「自分が死ぬまで保てばいいや」の積み重ねが今の状況を招いたのだから。
その他の読書感想文はこちら
こないだちょっと用があって、兵庫県芦屋市の六麓荘ってところを歩いたのね。
そこって関西では有名な超超高級住宅地で、有名な会社の会長さんとかがいっぱい住んでいて、120坪以上じゃないと分譲しちゃいけないってルールがある(一戸建ての平均坪数は40~45坪くらい)。
ぼくには無縁の場所だから、うわーすげえなー豪邸ばっかじゃーんってのんきに歩いてたんだけどさ。
ちょっとコンビニでも寄ろうかなって思ったんだけど、コンビニなんてまったくないの。スーパーもないし、もちろん個人商店もない。
駅からも遠いし、坂の上だから、いちばん近くの店に行くだけでもたいへん。
まあそういうところに住んでるぐらいの人だから当然高級車に乗ってるわけだし(ちなみにそのへんは国産車のほうがめずらしいぐらい)、ひょっとしたらお手伝いさんとかがいて自分では買い物なんかしないのかもしれない。
そんなわけで、大富豪の親戚から「おまえに六麓荘の200坪の土地と家をやる」って言われたとしても、車も持ってないしお手伝いさんも雇えないし掃除も嫌いなぼくには住めないから売るしかないな、って考えてたのね。まあそんな親戚いないけど。
でもそんな土地ってぜんぜん売れないんだって。
たしかに環境はいいけど不便だもん。特に歳をとって坂道をのぼるのも車を運転するのもできなくなったら、もう住めない。
おまけに高いから誰も買いたがらない。
だったら分割して売ればいいじゃんって思うかもしれないけど、高級住宅街って分割販売が禁止されてたりするから、そういうわけにもいかない。
固定資産税だけがガッツリとられて、持つ人によっては財産どころかへたしたら負債になりかねない。
「土地や家は財産」って考えが、もう通用しなくなってる。
ぼくの両親はまたぴんぴんしてるけど、60歳を過ぎているからいつまで元気でいるかわからない。
郊外の一戸建てに住んでるけど、ぼくがその家に住むことはたぶんない。通勤に不便だから。姉夫婦も家を買ったから、もし両親が死んだら、その家はきっと空き家になる。
無事に売れればいいけど、売れなかったら相続税と固定資産税がかかるだけの"負債"になる。
それどころか、家って誰も住んでいないと傷むから、メンテナンスをしなきゃいけない。
でも住まない家のためにお金を出したくない。家はどんどん老朽化する。ボロボロになって近所から苦情が出る。
誰も住まないんならいっそ取り壊して更地にしちゃえばいいじゃんって思うけど、解体費用もばかにならない。
おまけに、「住宅用地の課税標準の特例」ってのがあって住宅は更地にくらべて固定資産税が1/6で済むらしい。つまり、空き家を取り壊して更地にしたら固定資産税が6倍になるってこと。
こうして、どんどん空き家が増えていく……って構図らしい。
日本中で家が余ってる。田舎も都心も。
でもその一方で、家を欲している人はいて、新築住宅やマンションはどんどん建設されているし、あいかわらず家は何千万円もする。
片方では余っているのに、もう片方では足りない足りないと言っている。
建設業はとにかく人が足りない
こないだ建築の仕事をやっている友人と飲んだら、とにかく忙しいとこぼしていた。
「28連勤だったから、明日は1ヵ月ぶりの休みだ」と。
そいつの会社がブラックなだけかと思ったら、この本を読むと、どうも建設業全体が人手不足らしい。
家が余っているのに、なぜ建築で人手不足なんだ?
『空き家問題』によると、建設業に従事している人の数は、1995年から2010年にかけて、わずか15年で3分の2に減ってしまったんだとか。
公共事業が激減し、さらにはリーマンショックの追い打ちもあり、建設会社がどんどんつぶれた。職を失った人は他の仕事につき(自殺した人も多かっただろうね)、新たな社員を採用する余裕もない。
その結果、建設業従事者は3分の2に減ってしまった。
ところがその数年後。
東日本大震災が起こり、復興工事の仕事が大量に発生した。さらに東京オリンピックの開催も決まり、スタジアムや関連施設の建設で人手が必要になった。
だが、辞めてしまった人はかんたんには戻ってこない。今から採用しようにも、建築技術は一朝一夕には身につかないから、熟練の技術が必要になる仕事には就けない。
仕事はあるのにそれをできる人がいない。
建設業の人件費は高騰し、資材も高騰。工事車両も減っているわ、長距離トラックの運転手も不足しているわで、今、家やビルの建設費はめちゃくちゃ上がっているそうです。
というわけで建設会社も新たな土地は積極的に買おうとしない。高い建設費で建てても売れないからね。
土地が売れないから空き家も売れない。
で、空き家が増えていく。と、こういう図式らしい。
空き家問題は日本の問題そのものだ
あまりにややこしいから、ぼくなりにまとめてみたよ。
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空き家増加の要因 |
こうやって見たらわかるけど、「空き家の増加」という現象の背景には、少子高齢化が進んでることとか、若年層の低所得化とか、ライフスタイルの変化とか、必要かどうかもわからない東京オリンピックをやることになっちゃったこととか、いろんな「後回しにしてきたツケ」があるわけなんだよね。
「いずれ何とかなるだろ」が「空き家の増加」という形で一気に噴出したわけで、しかも悪化することはあっても快方に向かう兆しはまったく見えないというのが現状。東京五輪が終われば人材不足や資材の高騰は多少収まるだろうけど、それはそれで不況を招きそうだし。
「どっかで誰かの家が空き家になってる」だけの問題じゃないんだね。
どうやって解決したらいいんだろう
もう空き家問題は、過疎化の進む田舎だけの問題じゃない。
東京ですら例外じゃない。
空き家問題を解消するための対策として、著者は「コンパクトな都市づくり」を挙げている。
市街地の拡大を抑え、道路やインフラなどの整備費用を抑える試みだ。
富山市や青森市で実践されているらしいが、今のところ成功を収めているとは言いがたい状況らしい。
とはいえ。
これから先、ほとんどの地域で人口はどんどん減る。おまけに高齢化が進む。
車移動に頼った生活は必ず限界が来る。
コンパクトな都市を作るのが正解かどうかはわからないが、少なくとも今までの都市を持続させようとしたら近いうちに必ず破綻する。
しかし20年後に生きている都市をつくろうと思ったら、ほとんど一から都市設計をやりなおさなくてはいけないし、そのせいで損をする人はいっぱいいるだろう。
ものすごく利害対立が発生するから、まちがいなく難航する。
かつて経験したことのないほどの人口減少社会になるのだから、過去の成功事例はまったくあてにならない。
都市の設計方法についていろんな意見はあるべきだと思うけど、「20年後に生きているかどうかわからない」人の言うことは聞いてはいけないと思う。
「自分が死ぬまで保てばいいや」の積み重ねが今の状況を招いたのだから。
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2017年3月22日水曜日
WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法
デモ行進をしたり街中で政治的なビラを撒いたりしている人を見ると、投石器で近代兵器と戦っているのを見ているような気になる。
もっと効率よくやろうよ。
時代はとっくに変わってるのに、なんで100年前と同じ戦い方してるんだよ。
TwitterとFacebookだけがWEB媒体だと思ってるの?
オウンドメディア作って寄稿を呼びかけたら、有名無名問わず記事を書いてくれる人いっぱいいるでしょ?
その活動してる人の中にはプログラマもサーバーエンジニアもデザイナーも制作ディレクターもいっぱいいるんじゃないの?
1日デモをしてもらう代わりに本職の技術を活かしてもらったら、ちゃんとしたものできますよ。
ちゃんとしたメディア作って、いい記事がいっぱいあれば人は来るよ。
「政府の圧力が~」「マスコミが報道しない~」なんて言ってる場合じゃない。
仮に日本政府の圧力があったとしても、Googleはアルゴリズムを変えたりしない。
Googleのロボットが権力者の意向を"忖度"すると思いますか?
人が集まれば、Adsenseでも貼って収益上げればいいじゃない。
その収益で検索広告とDSPを回せば、もっともっと人が来るよ。
YouTube広告流して、若い人にも知ってもらえばいい。
オウンドメディアの記事は政治的なことである必要はない。
むしろ、関係のないコンテンツも多いほうがいい。
おもしろいコンテンツがあればテーマは何でもいいし、有名人が書くならただの日記でも人は呼べる。
「あの政策に反対だけど、難しいことは書けないから……」と思ってる人だって、自分の得意分野の話なら書けるでしょ。釣りの話でもアニメの話でも業界のウラ話でも半生記でも、なんでもいい。とにかくコンテンツを増やすことが大事。
ページビュー数を稼ぐ記事を書いた人には報酬を渡したらいい。そしたらもっと書いてくれるでしょ。
ちょうど国会で「印象操作」という言葉が話題になってたけど、どんどん印象操作すればいいじゃない。
首相がやたらと「それは野党の印象操作だ!」を口にするのは、印象操作が何より自分の立場を脅かすことを知っているからだよ。
アラブの春だって英国のEU離脱だってトランプ旋風だって、印象操作の結果ですよ。
世の中を変えられるかどうかは、どれだけ印象操作できるかで決まるんだよ。
せっかくたくさんの人が集まっていろんな知識や技術があるのに、なんで足並みそろえてデモ行進してるの?
なんでそれぞれの得意分野を活かそうとしないの?
デモとビラでどれだけ印象操作できるの? 敵を増やしてるだけじゃないの?
【後日記事】
もっと効率よくやろうよ。
時代はとっくに変わってるのに、なんで100年前と同じ戦い方してるんだよ。
TwitterとFacebookだけがWEB媒体だと思ってるの?
報道機関が信じられないならロボットを使おう
オウンドメディア作って寄稿を呼びかけたら、有名無名問わず記事を書いてくれる人いっぱいいるでしょ?
その活動してる人の中にはプログラマもサーバーエンジニアもデザイナーも制作ディレクターもいっぱいいるんじゃないの?
1日デモをしてもらう代わりに本職の技術を活かしてもらったら、ちゃんとしたものできますよ。
ちゃんとしたメディア作って、いい記事がいっぱいあれば人は来るよ。
「政府の圧力が~」「マスコミが報道しない~」なんて言ってる場合じゃない。
仮に日本政府の圧力があったとしても、Googleはアルゴリズムを変えたりしない。
Googleのロボットが権力者の意向を"忖度"すると思いますか?
金を稼げばもっと人は来る
人が集まれば、Adsenseでも貼って収益上げればいいじゃない。
その収益で検索広告とDSPを回せば、もっともっと人が来るよ。
YouTube広告流して、若い人にも知ってもらえばいい。
オウンドメディアの記事は政治的なことである必要はない。
むしろ、関係のないコンテンツも多いほうがいい。
おもしろいコンテンツがあればテーマは何でもいいし、有名人が書くならただの日記でも人は呼べる。
「あの政策に反対だけど、難しいことは書けないから……」と思ってる人だって、自分の得意分野の話なら書けるでしょ。釣りの話でもアニメの話でも業界のウラ話でも半生記でも、なんでもいい。とにかくコンテンツを増やすことが大事。
ページビュー数を稼ぐ記事を書いた人には報酬を渡したらいい。そしたらもっと書いてくれるでしょ。
専門知識を活かして印象操作しよう
ちょうど国会で「印象操作」という言葉が話題になってたけど、どんどん印象操作すればいいじゃない。
首相がやたらと「それは野党の印象操作だ!」を口にするのは、印象操作が何より自分の立場を脅かすことを知っているからだよ。
アラブの春だって英国のEU離脱だってトランプ旋風だって、印象操作の結果ですよ。
世の中を変えられるかどうかは、どれだけ印象操作できるかで決まるんだよ。
せっかくたくさんの人が集まっていろんな知識や技術があるのに、なんで足並みそろえてデモ行進してるの?
なんでそれぞれの得意分野を活かそうとしないの?
デモとビラでどれだけ印象操作できるの? 敵を増やしてるだけじゃないの?
【後日記事】
WEBマーケターが考える、効率よく「印象操作」する方法
やっぱりデモより広告のほうが効率いい
2017年3月20日月曜日
ぼくらがコーヒーを飲む理由
仕事中にコーヒーをよく飲む。
どれぐらい飲んでるんだろうと思って数えてみたら1日に6杯飲んでいた。
明らかに飲みすぎだ。
よほど眠たいのだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。
毎日7時間半くらいは眠っている。土日はお昼寝もする。
決して睡眠不足ではない。
よほどコーヒー通なのだろうと思われるかもしれないが、そんなこともない。
香りの違いなんてぜんぜんわかんない。
というかミルクをじゃばじゃばと入れるのでコーヒーの香りなんて雲散霧消している。
あんな苦いものをそのまま飲む人の気が知れない。
ぼくはミルクと砂糖を大量に入れるのでコーヒー通とはほど遠い。
じゃあなぜそんなにコーヒーを飲むのか。
それは「堂々と甘いものとミルクを口にできるから」ということに尽きる。
ぼくは甘いものとミルクが好きだ。
でも甘いものとミルクが好きなおじさんに対する世間の目は、キャラメルフラペチーノのように冷たい(しかしキャラメルフラペチーノほど甘くない)。
会社のデスクでミルフィーユ食べながらハチミツ入りミルクを飲んでいると、「きもーい」という目を向けられる(仕事中にお菓子食べているからかもしれない)。
会社のデスクでミルフィーユ食べながらハチミツ入りミルクを飲んでいると、「きもーい」という目を向けられる(仕事中にお菓子食べているからかもしれない)。
でもコーヒーを飲むおじさんはなんとも思われない。
いや、じっさいはおじさんが何を食べようが誰も気にしていない。しかし自意識過剰なおじさんは不安なのだ。
ごくふつうの飲み物を飲む、ごくふつうのおじさんでありたい。
和を以て貴しと為す日本人でありたいとおじさんは思っている。
だからぼくはコーヒーを飲む。
堂々と甘いものとミルクを口にするために。
でもほんとは。
ほんとは、のむヨーグルトを飲みたい。
カルピスを飲みたい。
ヤクルトでもマミーでもいい。なんならミルキーをお湯で溶いたやつでもいい。
甘さとミルクの味の両方を楽しめる乳飲料が飲みたい。
スタバでもドトールでもUCCでもいいから、
「パッケージはブラックコーヒーとまったく変わらないけどミルクと砂糖たっぷりでコーヒー成分ゼロ」の【無珈カフェラテ】を発売してくれることを切望している。
感動をありがとう
街中で募金を集めている女の人が、
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。
あれっ。
いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。
ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。
同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。
オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。
感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。
だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。
感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。
前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」
かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。
感動なんてその程度のものだ。
今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。
だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。
あれっ。
いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。
ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。
同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。
オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。
感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。
だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。
感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。
前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」
かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。
感動なんてその程度のものだ。
今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。
だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。
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