2017年2月23日木曜日

格安スマホに切り替えたからD社の悪口を書く

15年契約していた携帯会社のD社を解約して、MVNO(いわゆる格安スマホ)に乗り換えた。

さほどD社に不満があったわけではない。
(だってテレビCMがいちばんマシだもん。S社とA社は不快になるぐらいスベってるから。あれをおもしろいと思って作ってるやつの情報源コロコロコミックしかないのかな)
ただ安いから乗り換えたってだけ。

高い値をつけるのもひとつの営業戦略だから、それに対してどうこう言う気はない。

でも解約するにあたってナンバーポータビリティの手続きをして、いっぺんにD社を嫌いになった。


携帯会社のD社を大嫌いになった7つの理由
1.ホームページには「手続きはお近くのdショップでおこなってください」としか書いてない(じっさいはオンラインでも手続き可能なのに隠している)。

2.オンラインの手続きはPCからしかできない。
 スマホの手続きがスマホからできない!

3.手続きの方法が死ぬほどわかりにくい。
 ぼくはWeb業界の仕事をしているので人よりはるかに多くのホームページを見ているが、それでも迷いまくった。手続き方法を見つけられない人がほとんどだと思う。
「目次がない」「解約ページへのリンクがなくURLが書いてあるだけ」など、意図的に解約ページにたどりつけないようにしているとしか思えない作り。

4.オンラインの手続きなのに、9時から17時まで、とか時間が決まってる。
 Web上で申し込むだけなのだからぜったい24時間対応できるはずなのに(深夜に2時間だけシステムメンテナンスをするとかならわかる)。

5.手続きがめちゃくちゃ煩雑。本人確認→確認→完了 の3ステップでいいはずなのに、10ステップぐらいある。

6.決まった月に解約しないと1万円近い「解約手数料」をとられる(この解約手数料は裁判にもなっているぐらいグレーに近い)。

7.ナンバーポータビリティの申し込みをすると、その瞬間からLTE通信が使えなくなる。ナンバーポータビリティを申し込んだということは、いってみれば解約の予約をしただけ。まだ契約期間中なのにもう使えなくなる。

一度出ていった人が戻ってくることはないという前提で、全面的に「退会を邪魔してやろう」作戦に出ているわけですね。
7 なんかもう違法なんじゃねえのかとも思うんですが。裁判する気ないので泣き寝入りしますけど。


なんつうかね。
どっちに向かって努力しとんねんって感じですよね。

格安スマホ業者がどんどん参入してきて、顧客の流出が止まらない。値段では勝負できない。品質はどこ使っても一緒。
圧倒的不利な状況ですよね。

だったら、高齢者にターゲットを絞ってもっとサポートを手厚くするとか、利用料で儲けるのはやめて付随サービスで稼ぐシステムをつくるとか、今まで培ったいろんなノウハウを利用してまったくの新規事業に挑戦するとか、そういう方法しかないわけでしょ。
そんなことしたって焼け石に水かもしれないけど、たぶん死期を早めるだけになるだけなんだけど、でもそれしかないんですよ。

でもD社はそういう努力じゃなくて、「なんとかして既存顧客から搾り取ろう」ってがんばってるわけですよ。
「やめられないように魅力的なサービスを提供しよう」じゃなくて、「やめられる前に1円でも多くかすめとってやろう」ってがんばってる。



ぼくは他人にあんまり興味がないから、他人がどれだけ無駄な金を使おうが知ったこっちゃないって思ってる。
でも「ああそうか。D社って15年利用してくれた客に後足で砂かける会社なんだ」って思ったから、今後は積極的に人に「D社やめて他に乗り換えたほうがいいよ」って勧めていこうと思ってる。
「ナンバーポータビリティの申し込み方法難しいから教えてあげるよ」って言ってあげようと思ってる。

大手3社をやめて格安スマホに切り替えた人が、みんな口をそろえて
「乗り換えたほうがいいよ。お金もったいないよ」
って言うのを聞いて、みんな親切でおせっかいだなあと思ってた。

だけどそうか。ぼくみたいに乗り換えるときに前の会社から嫌な思いをさせられたから、恨みを晴らすために言ってるのか!



2017年2月22日水曜日

【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

内容(「BOOK」データベースより)
本を愛する人へ。本のお蔭で戦争を生き延び、闇屋となって神田に通い、図書館の本を全部読む誓いをたて、(寮の本を失敬したことも、本のために家が壊れたこともあったけれど)本と共に生きてきた井上ひさしさんの半生と、十三万冊の蔵書が繰り広げる壮大な物語。

2010年になくなった井上ひさしさん。
小説家、戯曲作家、『ひょっこりひょうたん島』を手がけた放送作家など幅広く活躍されたが、本の界隈ではとんでもない読書家としても有名だった(遅筆家としても有名だった)。

ぼくは中学生のとき年間300冊ぐらい本を読んでいて、世間知らずだったので「こんなに本を読むやつは他にまずいないんじゃないか」と悦に入っていたが、その頃井上ひさしさんのエッセイを読んで、自分なんて読書家として「中の下」ぐらいだということを思い知らされた(読書量だけが大事なわけじゃないけど)。
井上ひさしさんの「本を積みすぎて自宅の二階の床が抜けた」というエピソードにあきれながらもちょっとあこがれたものだ。

井上ひさしさんの本の読み方(というか買い方)はもう常軌を逸している。
『本の運命』にこんな話が出てくる。

 本というのは読まなくても別に死ぬわけじゃないですから、買わなきゃそれでも済んでしまう。出版社が寄贈してくださる本もかなりありますから、本代を節約しようと思えば可能なんですね。でも僕は、本代をケチるようになったら自分はお終いだと、それだけは言い聞かせています。
 一番買い込んだのは、朝日新聞で文芸時評をやってた頃でした。たまたまその頃、僕の『吉里吉里人』がびっくりするほど売れて、印税がどんどん入ってきたせいもあった。
 気が大きくなって、「よしっ、世の中に出てる本で、文芸時評の対象になりうるものは全部買ってみよう」と決意して、一年間続けました。出入りの本屋さんに、小説と評論と漫画をとにかく全部取ってくれと頼んで。これは月に四、五百万円かかりました。
 お陰で、印税は本代で消え、税金を払うために借金をして、払い終わるのに五年ぐらいかかったでしょうか。これがきっかけで、本がたくさん売れるのが怖くなった(笑)。
 さすがにこんな買い方は続きませんでしたが、いまでも本代が月に五十万円ぐらいになるでしょうか。ですからうちの、エンゲル係数じゃなくて、本にかかる係数はかなり高い(笑)。

とんでもない買い方だ……。
調べたら『吉里吉里人』が刊行されたのは1981年。当時の大卒初任給は12~13万円だそうだ(参考リンク:年次統計)。
2016年度の大卒初任給が20万円くらいだそうだから(参考リンク:厚生労働省 賃金構造基本統計調査結果)、物価は今の6割くらいかな。
ってことは今の金銭価値だと月に1,000万円近くを本代にしていたということになる。
作家だから経費として認められるんだろうけど、それにしても多すぎる。ぼくが税務署員だったら「いくらなんでもこれは本代としてありえない」って朝イチで監査に入るね。



ところで「最近、時間なくて本読んでないなー」って言う人いるじゃない。
あれぜったいウソだよね。そんなはずない。
「時間なくてゴルフ行ってない」ならわかるよ。何時間か要する遊びだから。
でも本を読むのにまとまった時間なんていらない。1分の空き時間があれば読める。なんなら空き時間がなくても読める。ぼくは風呂に入りながら読むし、歯磨きをしながらも本を読んでいる。こないだスカイダイビングしたときも読書しながら落下してきましたし、っていうのと同じくらい「時間なくて本読んでない」はウソだ。

本をよく読む人ならわかると思うけど、むしろ忙しいときほど読書ははかどる。まとまった時間があったら出かけたり人と会ったりしちゃうからね。
本を読むと心を落ち着かせることができるから、忙しいときのストレス解消にいいんだよね。本を読みながら激怒している人を見たことある?


ぼくがいちばん本を読んでいたのは中高生のとき。さっきも書いたように年間300冊くらい読んでいた。
部活で朝練に行って、学校で授業を受けて、また部活して、夜はテレビを観たり勉強したりして、休みの日には友人と遊びにいっていたのに、いったいいつ読んでいたのか今思うとふしぎ。でも本って知らない間に読んでいるもんなんだよね。

逆に人生でいちばん本を読む量が減ったのは、本屋で働いていたとき。
激務だったからね。おまけに郊外型書店だったので車通勤をせざるをえず、通勤途中にも読めない(信号待ちのときに少し読んでましたけどやっぱり集中できない)。
ある日急に「本屋がいちばん本を読めないってどういうことだよ!」ってめちゃくちゃ腹が立って、本屋を辞めた(それだけが理由じゃないけど)。
忙しいときほど読めるっていったけど、さすがに1日15時間働いて、月に休みが3日だったら読めるわけない。



 本と野球と映画――、それが僕にとっては決定的でした。結局僕は、小さい頃の記憶にある本や文房具、レコード、映画、それから物置にあった野球の道具とか、そういうものをもう一度身のまわりに集めようと思って、後の半生を生きてきたような気がする。つまり、あの山形のちっちゃな店を自分のまわりにもう一度、建てようとしてる。そういう運命にあったんですね。

中崎タツヤさんという漫画家がいる。彼のエッセイ『もたない男』には、ひたすら物を持たない人間の生活が描かれている(なにしろ彼は、読みおわったページを捨てながら本を読んでいく)。
おもしろいエッセイなんだけど、同時に異常性を感じてうすら寒さを感じる。あらゆる物を捨てずにはいられないというのはきっと何かの病なんだろう。
そして、井上ひさしさんのエッセイにも似たものを感じる。
何にも持たないということと集めすぎるということは正反対に見えて、じつは表裏一体で、モノに執着しすぎるという点で同じ病なのかもしれない。

井上ひさしさんは、幼いころは本や映画に囲まれて育ったのに、父親が死に、母親とも離れて児童養護施設で暮らしていた。そういった生い立ちが異常とも思えるほどの本の収集癖につながったのだと自分で分析している。
そして収集癖が高じて、ついには故郷の町に大きな図書館を建てるということまでしてしまう。話のスケールがすごい。

図書館をつくるにあたって、海外の図書館を視察したことが書かれている。
以下は、シアトル市立図書館についての記述。

 もっと感心するのは、本の並べ方です。書棚に背表紙を並べるのじゃなくて、横にして本の表側を見せて並べてある。特に子供の本は、表側に楽しい絵を描いたり、色がとても鮮やかだったり、凝って作ってあって子供が喜ぶようになっている。それがずらりと並ぶと、美術館に来たように華やかで、子供がすぐに近づいていきたいという気になる。しかも一冊取っても、下に十冊ぐらい同じ本が置いてある。それでも人気がある本は、そこだけグッと引っ込んでしまいますから、今度は後ろにバネの仕掛けが付いていて、取るたびに前に出てくる……。とにかく、子供のことを考えて、心にくいほどの配慮をしているんですね。

ぼくも娘が生まれてから本屋や図書館の児童書コーナーによく行くようになった。
娘も本が好きなので、絵本を1冊持ってきて「次これ読んで!」と差しだすんだけど、娘がとってくるのはきまって、棚に並べている本ではなく、平台に積んであったり展示台に置かれている絵本。
子どもは字が読めない(読めても早くは読めない)から、書棚にたくさん並んでいる本の背表紙だけを見て、おもしろそうな本を見つけることができない。
だから表紙が見える本しか目に入らない。

これって考えてみたらあたりまえのことだけど、大人は意外と気づけないよね。ぼくも本屋のときは、背表紙を向けて書架に絵本を詰めこんでいた。


子どもと本を読んでいると、本ってただの情報源じゃなくて、アートであり、インテリアであり、おもちゃであり、アルバムなんだということを改めて気づかされる。子どもって、さわって、ひっぱって、投げて、ときにはなめて、本を楽しむからね。
手ざわりやにおいや重さも、本を構成する大事な要素だよね。

置き場所の事情もあって最近は電子書籍を買うことが多いだけど、やっぱり読みやすいのは紙の本(引用は不便だけど)。

許されるならばぼくも床が抜けるぐらいの紙の本を集めたい!



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2017年2月20日月曜日

値打ちこく

中学生のとき、学校のマドンナと呼ばれるような女子生徒が二人いた。
YさんとMさんとしよう。

あどけなさを残したかわいさのYさんと、少し妖艶な色気を漂わせたMさん。
生徒数の少ない中学校だったので、ほとんどの男子はそのどちらかに恋心を抱いていて、「おまえ好きな子いる?」は「YさんとMさんのどっちが好き?」とほぼ同義だった。


卒業してからも同窓会やなんやかんやで、YさんとMさんに会うことがあったけど、二人とも学生時代と変わらずきれいで、いかにもモテるんだろうなという雰囲気を身にまとっていた。

そんなYさんとMさん、三十代なかばの今でも独身だ。
話を聞くかぎりではYさんもMさんも結婚願望がないわけではなく、「いい人がいなくて……」と言っていた。

んなあほな。相手がいなかったわけがない。
学生時代からモテモテだったわけだから、言い寄ってくる男はいくらでもいただろうし、自分からアプローチすればなびく男はその数倍いただろう。



よくある話だ(東村アキコの漫画『東京タラレバ娘』も、まさにそんな話)。

この話を、会社の後輩(男)にした。
「美人だったから、もっといい相手がいると思ってえり好みをしているうちに婚期を逃しつつあるんだろうねー」
と言うと、後輩が言った。

「そうなんですよ。そういう女って値打ちこいてるからだいたい結婚できないんですよ」



いい言葉だ、と思った。
彼がそういう女性からどんな嫌な思いをさせられたのかはわからないけど、いい言葉だ。

「値打ちこく」ってのは関西弁だと思うが、この言葉の持つニュアンスを他の言葉で言い換えるのは難しい。

強いて言うなら「気取ってもったいをつける」みたいな感じだろうか。

「しょうもないもんのくせに値打ちこくなや」のように罵言として使われることが多い。たまに「自分を安売りせんともっと値打ちこいたほうがええで」みたいに使われることもある。
いずれにせよ、「じっさいよりも高い価値があるかのように見せる」という意味である。


なまじっかモテるから「わたしにはもっとイケメンで金持ちで、わたしの好きにさせてくれる男がいるはず」と思っている女を形容するのに「値打ちこく」はぴったりの言葉だ。


もっとみんな、お高く留まって婚期を逃しかけている女の悪口を言うときに「値打ちこく」という言葉を使うようになればいいのに。

あんまり機会ないけど。




2017年2月19日日曜日

手のひら、内出血すればいいのに

生のパフォーマンスを観る機会ってあるじゃない。
音楽だったりお芝居だったりお笑いだったりバレエだったり(バレエは見たことねえけど)。

そういうのを鑑賞するときの態度として、あたしがいちばん嫌いなのは手拍子。


あれなんなの。
何のつもりなの。
歌がはじまったとき途端に、取り憑かれたように手拍子はじめるやつ。少なからずいるけど。

「さあ、あたしがリズムとってあげるから上手に歌いなさい」って言いたいわけ?
さんざん練習積んで舞台上で歌を披露している演者が、おまえの手拍子なしではちゃんと歌えないと思ってるわけ?


観客の手拍子、すっごい邪魔。
あってよかったと思ったことない。

ノイズでしかねえんだよ。
舞台上のミュージシャンなり役者なり芸人だったりオペラ歌手だったり(オペラも見たことねえけど)の歌を聞きたいの、こっちは。
おまえの手拍子を聴くために金払ってんじゃねえの。



あとね。
何年か前に、ラーメンズのコントライブを観にいったのよ。
で、コントだからおもしろいこと言うじゃない。
ウケるじゃない。

そこで、手を叩いて笑うやつがいるのよ。

バカなの?
それとも、ゼンマイ巻いたらシンバル叩くサルのおもちゃみたいに、笑ったら自動的に手叩いちゃうの?

笑うのは当然。
コントだからみんな笑いに来てるわけだし、笑いって反射的に出るもんだし。
でも手を叩くのは意識的にやってるわけでしょ?
邪魔してる自覚ないの?

ラストの大オチで手を叩くならいいよ。
「おもしろかった!」って演者に伝える手段として。
あたしもおもしろかったコントが終わったときはせいいっぱいの拍手をするよ。

でも途中で手を叩くのはやめて。
続きのセリフが聞こえないんだよ。
まだ落語とか漫才なら、観客の拍手が鳴りやむのを待つ"笑い待ち"ができるかもしれない。
でもコントは芝居なんだよ。舞台上と観客席は切り離された空間なんだから、演者が観客の反応に合わせて"笑い待ち"をするわけにはいかないんだよ。



パフォーマンスの途中で観客が手を叩くのは、相手がしゃべっている途中に「はいどうもありがとうございました」って言うのと同じでしょ。
それくらい失礼な行為だと、義務教育で教えてほしい。

手拍子や拍手をするやつは、観劇とスポーツをごっちゃにしてるんじゃない?

スポーツは存分に拍手したらいいよ。
いいプレーが出たら思う存分手を叩けばいい。
ゴルフのパットの直前とかじゃないかぎりは、プレーの妨げにも観戦の邪魔にもならないから。


でも、フィギュアスケートにかぎっては、演技途中の拍手は禁止にしてほしい。

フィギュアで、ジャンプ決めるたびに客が拍手するでしょ。
あいつら、演技をひとつの作品として楽しむ気ないの?
まだ音楽が流れて演技が続いてるんだから拍手したら邪魔になると思わないの?

フィギュアスケートはスポーツであると同時に、芸術表現でもあるからね。
バレエやオペラと同じなんだから(だからバレエもオペラも見ねえけど)。



2017年2月17日金曜日

【読書感想文】 東野 圭吾 『新参者』

東野 圭吾 『新参者』

内容(「BOOK」データベースより)
日本橋の片隅で一人の女性が絞殺された。着任したばかりの刑事・加賀恭一郎の前に立ちはだかるのは、人情という名の謎。手掛かりをくれるのは江戸情緒残る街に暮らす普通の人びと。「事件で傷ついた人がいるなら、救い出すのも私の仕事です」。大切な人を守るために生まれた謎が、犯人へと繋がっていく。

東野圭吾さんの『加賀恭一郎シリーズ』。
加賀恭一郎シリーズといえば『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』のような実験的なミステリのイメージがあったけど、最近では『赤い指』のように社会派のミステリに傾いてきている。

切れ者の加賀刑事が登場するこの『新参者』、正直にいって、ミステリとしては退屈な部類に入る。
『悪意』『容疑者Ⅹの献身』『聖女の救済』のようなあっと驚く仕掛けはない。
『秘密』『変身』『分身』のような、奇抜な設定があるわけでもない。
殺人事件が起きて、刑事がいろんな人に話を聞いていくうちに、徐々に謎が解き明かされていくというストーリー。
殺し方も平凡な絞殺だし(いやじっさいは平凡じゃないけどミステリとしては平凡)、密室でもないし、犯人は偽装工作を仕掛けたわけでもないし、アリバイトリックがあるわけでもなければ叙述トリックがあるわけでもない。被害者も犯人もどこにでもいるような市井の人だし、最後に明らかになる殺人の動機も凡庸。
ないない尽くしで逆に新鮮なぐらい。

ミステリ小説を構成するおもしろ要素が何にもない。
じゃあつまらないのかというと、おもしろいんだな、これが。



東野圭吾さんはもう押しも押されぬ大作家。
その大作家のテクニックで調理したら、派手さのない素材でもこんなにおいしくなってしまう。
志賀直哉、O・ヘンリー、阿刀田高、ジェフリー・アーチャーらの"短篇の名手"と呼ばれる人は、大したことのない日常のふとした出来事を、見事な短篇に仕上げてしまう。
東野圭吾さんもそんな領域に達している。
ミステリ作家としてだけでなく、小説家としても超一流になった証だね、こういう地味だけどおもしろいミステリを書けるのは。


『新参者』は、殺人事件を軸にストーリーが進むけど、大部分は「日常の謎系ミステリ」。
「キッチンばさみがあるのに新しくキッチンばさみを買ったのはなぜだろう」といった小さな謎を加賀刑事が解き明かしていく。
こうした謎はほとんど殺人事件とは関係ないが、それらの積み重ねの末にたどりつく真相。
その真相には東京下町の人々の人情がにじみ出ている……、というちょっと風変わりな味わい。

読みながら「なんか落語みたいな雰囲気の小説だな」と感じていた。
落語には滑稽噺とか怪談噺とかいくつか分類があるが、その中に人情噺というジャンルもある。
笑わせながらも最後はほろりとさせてくれる噺。
『新参者』は落語ではないので笑いはないけど(でも東野圭吾は笑える小説を書くのもうまいけどね。『名探偵の掟』シリーズは傑作!)、笑いの代わりに謎があり、サゲの代わりに真相がある。
人情噺ならぬ人情ミステリだね。
そういやO・ヘンリーも人情ミステリが多いな。

ミステリとして読むと肩透かしを食らいそうな小説だけど、人間の情や業を描いた短篇小説集だと思って読むと、しみじみとさせられる。

「奇抜な設定もトリックも意外性ないミステリなのになんでおもしろいんだろう」
これこそがいちばんのミステリであり、東野圭吾という実力者の仕掛けたトリックなのかもしれないね。


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