2016年9月29日木曜日

【エッセイ】100万人のヘビ使い

『世界史を変えた50の動物』(エリック・シャリーン/原書房)という本を読んでいると、
「今でもインドには100万人のヘビ使いがいる」という記述に出会った。

100万人のヘビ使い……!
さすがはインドだ(インドのこと何も知らないけど)。

懐の深さがすごい。

日本にも、ヘビ使いに似た職業としてサル回しがいる。
でも日本にサル回しは100人もいないだろう。
日本には、100人のサル回しが食っていけるだけの余裕がない。


以前、十二星座にへびつかい座が加わって十三星座になると聞いたときに
「なんだよへびつかい座って」と思った。
でも、インドで100万人が従事するぐらいメジャーな職業だったのだ。
インドだけで100万人ってことは、世界には100万とんで50人くらいのヘビ使いがいるにちがいない。

世界中にライオンは100万頭もいないだろう。
弓道やアーチェリーや弓を使った猟で食べていっている人は100万人もいないだろう。

そう考えると、獅子座や射手座よりもへびつかい座のほうがよっぽどメジャーな星座といえる(本物の乙女も絶滅危惧種らしいから、乙女座よりもメジャーかも)。


100万人ってどれぐらいの数なんだろうと思って調べてみたら、日本の警察官の人数が約28万人らしい(総務省統計)。
ヘビ使いの4分の1しかいない。

もしも100万人のヘビ使いと、250万匹のヘビ(ヘビ使い1人あたりの平均ヘビ所有数を2.5として算出)が大挙して日本に押し寄せてきたとしたら。
たった28万人の警察官では防ぎきれないだろう。自衛隊や消防を入れたって敵わない。日本はあっというまにヘビだらけになってしまう。


でも心配しなくても大丈夫。
ヘビ使いのヘビはキバを抜かれているので、襲われて命を落とすようなことはほとんどないんだって。

これで安心して眠れますね。

ではみなさま、よい夢を。

2016年9月28日水曜日

【考察】ザリガニの差

厄年の男女を対象にした神社の厄払いと、

「これを買わないと不幸になりますよ」
と言って高い壷を売りつける霊感商法

両者の違いについて考えてみたけれど、
残念ながらぼくには違いが見つけられませんでした。

あえていうなら、壺が手に入るだけ後者のほうが少しマシかな。
壺でザリガニとか飼えるし。

2016年9月27日火曜日

【ふまじめな考察】今年はこれを流行らせます

「今年の流行色」は、日本流行色協会なる団体が毎年制定しているらしい。

流行色を誰かが決めてるってどうなのよ。
流行って自然発生的に起こるもんでしょ。

と思ったのだけれど。
特にカラートレンド情報については、長い歴史の中でカラー設計の指針としてその信頼性と的確性が広く認められています。
(日本流行色協会ホームページより)

という文章を読むと、ファッション業界からするとありがたい指針かもしれないなと思いなおした。

なんの制約もなしにゼロからものをつくるってたいへんだもんね。
自由は創造性を制限する。
「今年はこのテーマに従って服をつくってください」という指針があったほうが、かえってつきぬけた発想も生まれやすいのかもしれない。

どんな色が流行るかあらかじめわかっていたほうが仕入れや在庫の計画も立てやすいだろうし。



「今年の流行」は、色だけじゃなく他の分野でも計画的に制定したらいい。

「来年流行するギャグは、謝罪のギャグです」とか。
で、謝罪ギャグを生みだした芸人を、テレビ番組も積極的に使うようにするの。 

流行りのギャグって、初めて見たときはそんなにおもしろくなくて、何度もくりかえされるうちに 人口に膾炙して広まっていくことが多い。
でも見る人もあらかじめ「今年は謝罪ギャグがくる」ってわかってるから、心の準備ができていて、初見から笑うことができる。

うん、準備ができてるっていいね。



詐欺も年々新しい手口が考え出されては廃れていく。
ある程度知れわたってしまえば詐欺として通用しなくなるから、詐欺師は常に新しい手口を考案しなくてはいけなくてたいへんだよね。

だから日本流行詐欺協会が、
「来年は葬式を利用した詐欺が流行ります」
という指針を示してやるといい。

ある程度の指針があったほうが詐欺師も騙しかたを考えやすいだろう。

流行に敏感な人は特に葬式詐欺には注意するから引っかからない。
そうなると詐欺師たちも食っていけなくなるんじゃないかと心配してしまうよね。

でも大丈夫。
流行にうとい人って決して少なくないから。
もう若者が誰も使わなくなった頃に流行りだったギャグを言い出すおっさんとかいるでしょ。
ああいう人が、ちゃんと後から流行の詐欺にひっかかってくれるから。



日本流行疫病協会は、
「来年は蚊を媒介にした伝染病を流行らせます」
って、ちゃんと流行の指針を示しといてほしい。

流行が事前にわかってたら医療機関も対策できるし、予防接種もできる。
指針があるとほんと助かる。

それに、病死に見せかけた殺人計画も立てやすいしね。

2016年9月26日月曜日

【読書感想文】米原 万里 『旅行者の朝食』

内容(「BOOK」データベースより)
さる賢人曰く、人類は以下の二つに分類される。「食べるために生きるのではなく、生きるためにこそ食べる」「生きるために食べるのではなく、食べるためにこそ生きる」さて、あなたはどちらのタイプ?グルメ・エッセイロシア風味。

旅行グルメ本みたいなタイトルですが、旅行の要素はほとんどなく、食べ物エッセイ。

続きはこちら


2016年9月25日日曜日

【エッセイ】凶器を手にした心を持たないやつら


いっとき仕事で毎日車を運転していましたが、どれだけ運転しても慣れなくて、車に乗るのがイヤでイヤでしかたありませんでした。
そのときの会社を辞めたときにまず思ったことは「よかった、これで車の運転をしなくて済む」でした。

なんでそんなにもイヤだったのかというと、周りのドライバーの悪意がむきだしになっている(ように感じられる)ことに耐えられなかったからです。


ぼくは大量殺人鬼や総理大臣ではないので、あからさまな敵意を向けられることは、めったにありません。

でも、車を運転していると、それをしょっちゅう感じてしまうのです。
「こいつ、とろとろ走りやがって。割り込んでやれ」
「へたくそな運転してやがるな。わざとぶつけてやろうか」
「だっせえ車に乗ってんな」

周囲の車のドライバーからの声が聴こえてくるような気がします。


歩いていたり自転車に乗っているときはそんなこと感じないのに、どうして車を運転しているときだけそのような心持ちになるのでしょうか。

やはり、顔が見えないからでしょうか。

運転手の顔が見えず、ただの大きな鉄の塊しか目に入らないため、攻撃的な目を向けられているような気がするのかもしれません。


考えてみると、自動車というものはいともかんたんに人の命を奪うことのできる乗り物ですから、いわば凶器です。

多くの車と並んで走っているという状況は、ナイフや銃やアイスピックやバールのようなものを手にした人たちに囲まれている状況と同じようなものなのです。

おまけに、その凶器を持った人たちは顔が見えず、何を考えているのかまったくわからないのです。

不安な気持ちにならないわけがありません。
車を運転している間、ぼくはずっと怖くてしかたありません。


しかし。
ぼくが大嫌いな車の運転をしているときでも、ただひとつだけ安心する瞬間がありました。

それは、救急車がサイレンを鳴らして近づいてきたときです。
救急車が来ると、ほとんどすべての車は速度を落としたり脇に寄ったりして道を譲ります。
この行動を見て、ぼくはほっとするのです。

ああよかった、ぼくの周りにいるのは凶器を手にした心を持たない大量殺人鬼じゃなかった。
ちゃんと良心を持った人たちが運転しているのだ。
その証拠にほら、どこかで怪我か急病になった顔も知らない人が助かるよう、救急車に道を譲ったじゃないか。


救急車が走り去ると、車たちはまた雑然と走り出します。
でももうさっきとは違います。
つい先ほどの行動によって、彼らは見ず知らずの人のために道を譲る、心優しい人たちだと証明されたのですから。

もう怖くありません。
ぼくはひと心地つきます。

そして冷静に周りを見渡して、こう思うのです。

前の車、とろとろ走りやがって。
わざとぶつけてやろうか。

と。