撃たれて煮られて焼かれて喰われるとも知らずに……。
2015年11月20日金曜日
【ふまじめな考察】おばあちゃんの寿命を伸ばすには
海外のとある大学教授の話。
試験前になると多くの学生が
「すみません、祖母が先週亡くなりまして。葬儀があって勉強できなかったんです。そういう事情なんで、なんとか単位をもらえないでしょうか……」
と言いにくるので、
「試験と祖母の急死の間の因果関係」
を調べたそうです。
教授がデータを収集してみたところ、祖母が亡くなる確率は、試験の前にはふだんの10 倍以上になり、さらに成績の良くない学生の祖母が亡くなる確率は50 倍にも上ることがわかったそうです。
(中室牧子『学力の経済学』より)
なるほど、おもしろい研究だ。
ということは、平均寿命を伸ばすためには、大学の試験をやめればいいわけだな!
(正しい推論から導きだされる、誤った結論)
試験前になると多くの学生が
「すみません、祖母が先週亡くなりまして。葬儀があって勉強できなかったんです。そういう事情なんで、なんとか単位をもらえないでしょうか……」
と言いにくるので、
「試験と祖母の急死の間の因果関係」
を調べたそうです。
教授がデータを収集してみたところ、祖母が亡くなる確率は、試験の前にはふだんの10 倍以上になり、さらに成績の良くない学生の祖母が亡くなる確率は50 倍にも上ることがわかったそうです。
(中室牧子『学力の経済学』より)
なるほど、おもしろい研究だ。
ということは、平均寿命を伸ばすためには、大学の試験をやめればいいわけだな!
(正しい推論から導きだされる、誤った結論)
2015年11月19日木曜日
【エッセイ】一円たりない
レジから離れてから気がついた。
お釣りが一円たりない。
もう一度数える。
まちがいない。
心臓が高鳴る。
ぼくは今、試されている。
そう、こういうときにこそ真の人間性が試されるのだ。
ここでいかにスマートに振る舞えるか。そこでダンデーな大人か、あるいはしみったれた守銭奴かを決定づけるのだ。
さあ、この危機的状況を打破できるのか。
ペットボトルのキャップサイズのぼくの人間としての器に、途方もなく大きな試練が注がれている。
足りないのが百円だったなら話はかんたんだ。
百円だったら堂々と云える。
胸を張ってレジに戻り「おつり百円たりなかったよ!」と大きな声で云えばいい。
そこまで強く云われたら中国ですら尖閣諸島をあきらめんじゃね? ってぐらい声高らかにぼくの領有権を主張することができる。
百円という大金だったなら。
しかし。
今ぼくの手元に足りないのは一円なのだ。
都会では自殺する若者が増えているが、問題は一円たりないことだ。
数万年前に我々の祖先が言語を獲得して以来、ありとあらゆるフレーズが人々の間を飛び交ってきた。
その中でも、およそこんなにも情けないセリフはなかろう。
「一円たりないんですけど」
九歳のときのことが頭によみがえる。
あの日おつかいを頼まれたぼくは、会計を済ませた後、おつりが十円たりないことに気づいた。
あわててレジに駆けもどり、店員のおねいさんに十円たりない旨を伝えた。
そのときの不信感に満ちたおねいさんの顔が今でも忘れられない。
ほんとにたりなかったの?
そうやって十円多くせしめようって腹でしょ、小汚いガキンチョね。
おてんと様は騙せても、このあたいの目は欺けないわよ。
この桜吹雪が目に入らないの?
おねいさんの瞳はそう云っていた(ような気がした)。
結局、しぶしぶといった様子でおねいさんは十円玉を手渡してくれたのだが、疑われた(ような気がした)ことは、少年だったぼくに深いショックを与えた。
この出来事はぼくを卑屈な人間にした。
つまり今ぼくが女にモテないのはあのおねいさんのせいであるということだ。
しかしもうあの頃とはちがうんだ。
ぼくもいい大人になった。
ネクタイだってしてるし、シャツの裾だってほとんどズボンの中にしまってる。
こんな三十のおじさんが、たかが一円のために嘘をつくなんて誰も思いやしない。
堂々と権利を主張すればいい。
考えすぎるな。
あれこれ考えるほど必死さが増す。
「あっ、えっ、ぼぼぼくのおおおつりがですね、たりなかったっていうか、あでも一円なんすけど、あっ、えっ、あやっぱいいです。すんませんすんません、うへへっ」
こんなにかっちょ悪いことはない。
ぼくは思う。
ああ、ぼくがばばあだったなら。
もしぼくがばばあだったなら、
「ちょっとあんた一円たりないわよ何考えてんの!」
と、脊髄反射よりも早く云えるのに。
こんなことも思う。
ああ、ぼくが野口英世だったなら。
留学費用を女遊びに使い込んだせいで渡米できなくなり、親切な人に泣きついて借りた金もまた夜の街で使い果たしてしまった野口英世だったなら。
きっと一円たりないことなんて一秒たたないうちにきれいさっぱり忘れてしまえていただろうに。もしくは一円足りなかったことを理由に誰かから一万円借りるのに。
でも云わなきゃ。
そう、一円が惜しいから云うわけじゃないんだ。
閉店時に一円のレジ誤差が出るとお店の人が困るから教えてあげるだけなんだ。これは親切なんだ。
よし、云おう。
なるべく、なんでもない調子で。
決意を固めたそのとき。
店員さんが近づいてきた。
ぼけっと突っ立っているぼくに、
「すみません、先ほどプリンを買われた方ですよね」
「はあ」
「レジの前に一円落としていまして、お釣りを一円少なく渡していました。申し訳ありません」
そう云って店員さんはぼくに一円玉を差し出した。
なんだ。
向こうから気づいたじゃないか。
ぜんぜんぼくが気をもむ必要なかったじゃないか。
ぼくはダンデーな大人の余裕たっぷりに応じる。
「あっ、えっ。そそそそうですか。ぜんぜんぜんぜんききき気がつかなかったです。すんませんすんません、うへへっ」
お釣りが一円たりない。
もう一度数える。
まちがいない。
心臓が高鳴る。
ぼくは今、試されている。
そう、こういうときにこそ真の人間性が試されるのだ。
ここでいかにスマートに振る舞えるか。そこでダンデーな大人か、あるいはしみったれた守銭奴かを決定づけるのだ。
さあ、この危機的状況を打破できるのか。
ペットボトルのキャップサイズのぼくの人間としての器に、途方もなく大きな試練が注がれている。
足りないのが百円だったなら話はかんたんだ。
百円だったら堂々と云える。
胸を張ってレジに戻り「おつり百円たりなかったよ!」と大きな声で云えばいい。
そこまで強く云われたら中国ですら尖閣諸島をあきらめんじゃね? ってぐらい声高らかにぼくの領有権を主張することができる。
百円という大金だったなら。
しかし。
今ぼくの手元に足りないのは一円なのだ。
都会では自殺する若者が増えているが、問題は一円たりないことだ。
数万年前に我々の祖先が言語を獲得して以来、ありとあらゆるフレーズが人々の間を飛び交ってきた。
その中でも、およそこんなにも情けないセリフはなかろう。
「一円たりないんですけど」
九歳のときのことが頭によみがえる。
あの日おつかいを頼まれたぼくは、会計を済ませた後、おつりが十円たりないことに気づいた。
あわててレジに駆けもどり、店員のおねいさんに十円たりない旨を伝えた。
そのときの不信感に満ちたおねいさんの顔が今でも忘れられない。
ほんとにたりなかったの?
そうやって十円多くせしめようって腹でしょ、小汚いガキンチョね。
おてんと様は騙せても、このあたいの目は欺けないわよ。
この桜吹雪が目に入らないの?
おねいさんの瞳はそう云っていた(ような気がした)。
結局、しぶしぶといった様子でおねいさんは十円玉を手渡してくれたのだが、疑われた(ような気がした)ことは、少年だったぼくに深いショックを与えた。
この出来事はぼくを卑屈な人間にした。
つまり今ぼくが女にモテないのはあのおねいさんのせいであるということだ。
しかしもうあの頃とはちがうんだ。
ぼくもいい大人になった。
ネクタイだってしてるし、シャツの裾だってほとんどズボンの中にしまってる。
こんな三十のおじさんが、たかが一円のために嘘をつくなんて誰も思いやしない。
堂々と権利を主張すればいい。
考えすぎるな。
あれこれ考えるほど必死さが増す。
「あっ、えっ、ぼぼぼくのおおおつりがですね、たりなかったっていうか、あでも一円なんすけど、あっ、えっ、あやっぱいいです。すんませんすんません、うへへっ」
こんなにかっちょ悪いことはない。
ぼくは思う。
ああ、ぼくがばばあだったなら。
もしぼくがばばあだったなら、
「ちょっとあんた一円たりないわよ何考えてんの!」
と、脊髄反射よりも早く云えるのに。
こんなことも思う。
ああ、ぼくが野口英世だったなら。
留学費用を女遊びに使い込んだせいで渡米できなくなり、親切な人に泣きついて借りた金もまた夜の街で使い果たしてしまった野口英世だったなら。
きっと一円たりないことなんて一秒たたないうちにきれいさっぱり忘れてしまえていただろうに。もしくは一円足りなかったことを理由に誰かから一万円借りるのに。
でも云わなきゃ。
そう、一円が惜しいから云うわけじゃないんだ。
閉店時に一円のレジ誤差が出るとお店の人が困るから教えてあげるだけなんだ。これは親切なんだ。
よし、云おう。
なるべく、なんでもない調子で。
決意を固めたそのとき。
店員さんが近づいてきた。
ぼけっと突っ立っているぼくに、
「すみません、先ほどプリンを買われた方ですよね」
「はあ」
「レジの前に一円落としていまして、お釣りを一円少なく渡していました。申し訳ありません」
そう云って店員さんはぼくに一円玉を差し出した。
なんだ。
向こうから気づいたじゃないか。
ぜんぜんぼくが気をもむ必要なかったじゃないか。
ぼくはダンデーな大人の余裕たっぷりに応じる。
「あっ、えっ。そそそそうですか。ぜんぜんぜんぜんききき気がつかなかったです。すんませんすんません、うへへっ」
2015年11月18日水曜日
2015年11月17日火曜日
【エッセイ】無神経な父
ぼくの父親はほんとに無神経な人だ。
プレゼントをもらったときに
「同じやつこないだ買ったばっかりなんですよ」
って言っちゃう。
「うちの家ほんとに田舎で……」と謙遜する相手に
「あーたしかに、あのへんほんとになんにもないですよね!」
と言ったこともある。
悪気がないのが余計にたちが悪い。
無神経な発言をしては、母にたしなめられるのが常だ。
ぼくが小学生のときのこと。
「わらじを作る」という授業があった。
紐を編んでわらじを作る。
まずは自分ひとりで一足作り、残り一足は授業参観の日に保護者と一緒に作るという予定だった。
前半のわらじ作りの日。悪ガキだったぼくは、悪友Sと一緒に紐で指を縛ったり、紐を切って投げたりと、ぜんぜんまじめにわらじを編まなかった。
ふと気がつけば、他の子たちのわらじ作りは着々と進んでいる。すでに一足完成させた子もいる。
やばいな。おれらもそろそろやるか。
あれ。
けっこう難しいな。ちゃんと説明聞いてなかったからな。
まずい、このままだとおれとSだけまったくできていないじゃん。
……ふと隣を見ると、Sはすごい勢いでわらじを編みあげてゆく。
しまった、こいつめちゃくちゃ器用なんだった!
そして無情にもチャイムが鳴り、前半のわらじ作りが終わった。
周りを見渡してみると、どんなに遅い子でも4割は完成している。ぼくだけだ、1割もできていないのは。
その日から1週間、ぼくはずっと憂鬱だった。
わらじができていないことはべつにかまわない。自業自得だ。
問題は、ぼくだけがぜんぜんできていないこの状況を、授業参観でやってきた母が見たとき、何と思われるかだった。
母は怒るだろうか。
いや、それならまだマシだ。
母はきっと怒らない。きっと深いため息をつくだろう。そして悲しそうな顔を見せるにちがいない。
己のばかな行為で母親を悲しませる。ほんとに気が滅入る話だ。
まじめにわらじを作らなかったことを心底後悔した。
そして授業参観当日。
意外にも、学校に来たのは母ではなく父だった。
ぼくの父は仕事大好き人間なので授業参観のようなイベントに来るのは決まって母親だった。 母に用事があって代わりに休みをとったのだろう。父が参観日に来たのは後にも先にもこのときだけだった。
「それでは、おうちの人と一緒にわらじ作りの続きをしましょう」
担任が言い、みんなはロッカーに作りかけのわらじを取りに走った。ぼくだけが重たい足どりで、1割もできていないわらじを取りに行った。
父は、戻ってきたぼくが手にしている、ちっともできていないわらじ(というかほとんどただの紐)を見た。それから周囲を見渡して、他の子の作品と見比べた。自分の息子だけがダントツで見劣りしていることは明らかだった。
父は、笑った。
それはもう、大笑いだった。
「はっはっは! おまえだけぜんぜんできてないじゃないかー!」
ぼくのできそこないのわらじを指さして爆笑していた。
予想に反して父が大笑いしたので、ぼくはびっくりして、そして照れ笑いを浮かべた。
「おまえだけだぞ、こんなにひどいのは。なんだこれ。わらじの形にもなってないじゃないか! はっはっは!」
「ははっ。ずっと遊んでたからね」
「ほんとおまえはダメだなー!」
もし母がこの場にいたら、「そんなこと言わないの!」と父をきつくたしなめていたことだろう。
だが父はちっともぼくに対して気を遣わなかった。
そして「ぜんぜんできてないけどしょうがない、一からわらじつくるかー」と言ってぼくと一緒にわらじを完成させた。
ぼくは、このときの父の無神経さに心から救われた。
作ったものをばかにされて、嘲笑されて、おまえはダメだと言われたことで、1週間憂鬱だった気持ちがすっと晴れた。
同情よりも無神経にばかにするほうが、よっぽど相手を楽にすることもあるということをぼくは学んだ。
プレゼントをもらったときに
「同じやつこないだ買ったばっかりなんですよ」
って言っちゃう。
「うちの家ほんとに田舎で……」と謙遜する相手に
「あーたしかに、あのへんほんとになんにもないですよね!」
と言ったこともある。
悪気がないのが余計にたちが悪い。
無神経な発言をしては、母にたしなめられるのが常だ。
ぼくが小学生のときのこと。
「わらじを作る」という授業があった。
紐を編んでわらじを作る。
まずは自分ひとりで一足作り、残り一足は授業参観の日に保護者と一緒に作るという予定だった。
前半のわらじ作りの日。悪ガキだったぼくは、悪友Sと一緒に紐で指を縛ったり、紐を切って投げたりと、ぜんぜんまじめにわらじを編まなかった。
ふと気がつけば、他の子たちのわらじ作りは着々と進んでいる。すでに一足完成させた子もいる。
やばいな。おれらもそろそろやるか。
あれ。
けっこう難しいな。ちゃんと説明聞いてなかったからな。
まずい、このままだとおれとSだけまったくできていないじゃん。
……ふと隣を見ると、Sはすごい勢いでわらじを編みあげてゆく。
しまった、こいつめちゃくちゃ器用なんだった!
そして無情にもチャイムが鳴り、前半のわらじ作りが終わった。
周りを見渡してみると、どんなに遅い子でも4割は完成している。ぼくだけだ、1割もできていないのは。
その日から1週間、ぼくはずっと憂鬱だった。
わらじができていないことはべつにかまわない。自業自得だ。
問題は、ぼくだけがぜんぜんできていないこの状況を、授業参観でやってきた母が見たとき、何と思われるかだった。
母は怒るだろうか。
いや、それならまだマシだ。
母はきっと怒らない。きっと深いため息をつくだろう。そして悲しそうな顔を見せるにちがいない。
己のばかな行為で母親を悲しませる。ほんとに気が滅入る話だ。
まじめにわらじを作らなかったことを心底後悔した。
そして授業参観当日。
意外にも、学校に来たのは母ではなく父だった。
ぼくの父は仕事大好き人間なので授業参観のようなイベントに来るのは決まって母親だった。 母に用事があって代わりに休みをとったのだろう。父が参観日に来たのは後にも先にもこのときだけだった。
「それでは、おうちの人と一緒にわらじ作りの続きをしましょう」
担任が言い、みんなはロッカーに作りかけのわらじを取りに走った。ぼくだけが重たい足どりで、1割もできていないわらじを取りに行った。
父は、戻ってきたぼくが手にしている、ちっともできていないわらじ(というかほとんどただの紐)を見た。それから周囲を見渡して、他の子の作品と見比べた。自分の息子だけがダントツで見劣りしていることは明らかだった。
父は、笑った。
それはもう、大笑いだった。
「はっはっは! おまえだけぜんぜんできてないじゃないかー!」
ぼくのできそこないのわらじを指さして爆笑していた。
予想に反して父が大笑いしたので、ぼくはびっくりして、そして照れ笑いを浮かべた。
「おまえだけだぞ、こんなにひどいのは。なんだこれ。わらじの形にもなってないじゃないか! はっはっは!」
「ははっ。ずっと遊んでたからね」
「ほんとおまえはダメだなー!」
もし母がこの場にいたら、「そんなこと言わないの!」と父をきつくたしなめていたことだろう。
だが父はちっともぼくに対して気を遣わなかった。
そして「ぜんぜんできてないけどしょうがない、一からわらじつくるかー」と言ってぼくと一緒にわらじを完成させた。
ぼくは、このときの父の無神経さに心から救われた。
作ったものをばかにされて、嘲笑されて、おまえはダメだと言われたことで、1週間憂鬱だった気持ちがすっと晴れた。
同情よりも無神経にばかにするほうが、よっぽど相手を楽にすることもあるということをぼくは学んだ。
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