2017年8月26日土曜日

室内ゲリラ豪雨の夜


「人生における愚かな夜」のベスト3を決めるとするならば、家の中で水鉄砲を撃ちあった晩は確実にランクインするだろう。


20歳のときだった。
大学の夏休みで、実家に帰っていた。
その日は父母が墓参りでおらず、ぼくは大喜びで高校時代の友人たちを招待した。
「おれんち誰もいないから来いよ」

リビングで酒を飲んでばか話をしていると、ふと傍らにあった水鉄砲が目に留まった。
昼間川で遊んだときに使ったものだ。水鉄砲は3丁あった。猟銃タイプの、水量も水圧もあるやつ。
ぼくはこっそり水鉄砲を手に取り、洗面所に向かった。水を入れ、そっとリビングに戻ると友人の背中に向けて少量の水を放射した。
友人は「ひゃっ!」と大声を上げて驚き、それを見たぼくらはげらげらと笑った。
些細ないたずらだった。

そこから水鉄砲3丁を使っての撃ちあいになるまではあっという間だった。
はじめは遠慮しながらちょろちょろと水をかける程度だったが、酔っぱらっていることもあり、頭から服からずぶ濡れになるにつれてためらいはなくなった。室内ということも忘れて全員おもいっきり引き金を引いていた。

ぼくはビデオカメラを持ってきてこの狂った饗宴を撮影した。1人は実況役にまわり、残る3人はそれぞれ水鉄砲を持って互いに撃ちあった。
ぼくもビデオカメラを片手に家中を走りまわりながら「いいぞ、もっとやれ!」「トイレに逃げこんだぞ、追え!」と叫んで大笑いした。

たぶん、第一次世界大戦のときも こんなふうに一瞬で戦場が拡大したのだと想像する。

セルフイメージはこんなんだった

家の中で水鉄砲の撃ちあいをやったことのある人ならわかると思うが、水鉄砲戦争は野外でやるより室内のほうが7.5倍おもしろい。

まず隠れる場所が豊富にあるので戦術が立てやすい。
トイレに隠れて扉のすき間から狙い撃つ、洗面所で待機しておいて弾切れで給水にやってきた反撃不可能なやつに一方的に射撃を浴びせるなど、さまざまな作戦が可能になる。

また、家の中がびしょびしょになるのも楽しい。
相手を追いつめることに熱中するあまり、濡れたフローリングにすべってずっこける、という事態が何度も生じた。
そのたびに他の面々は大笑いしながら、死者にとどめを刺すように集中豪雨を浴びせた。

なにより背徳感が楽しい。
家の中を水びたしにするのは悪いことだ。だから楽しい。そこに理屈はない。
ビデオカメラで撮影していたおかげでそのときの映像はいまだに残っているが、誰もがほんとにいい笑顔をしている。


1時間以上は撃ちあっただろうか。
アルコールが入っている状態で走り回り大声を上げていたので、さすがに誰しも疲れきった顔をしていた。
「そろそろやめよっか」
誰からともなく言い、改めて部屋の様子を眺めた。

見事なぐらいびしょ濡れだった。
床や壁はもちろん、天井やソファにまで水がかかっていた。テレビも濡れていて、電源を入れたら一瞬ファミコンがバグったときみたいな破滅的な色彩になって「やばい、壊れた!」と焦ったが、よく拭いたら直った。
家中いたるところに銃撃戦の痕跡が残っていたが、和室だけは無事だった。日本人としての良心 がかすかに残っていたのだろう。

2017年8月25日金曜日

「道」こそが「非道」を生む


「報道」という言葉について。

報道、という言葉はどうも鼻持ちならない。
自分で「報道やってます」という人間はどうも信用ならない。「ニュース番組作ってます」とか「新聞記事書いてます」は事実だから何とも思わないんだけど。

思うに「道」という言葉がついているのが、自称"報道関係者"の態度を尊大にさせるのではないだろうか。

ニュースを伝えることなんて、いってみりゃただの商売だ。「報道」なんておこがましい。「報業」で十分だ。
「広告道」とか「製造道」とか「サービス道」とか言わないじゃないか。「農道」は農地脇の道だし。

商売には正しさは必要だ。広告だって製造だってサービスだって同じだ。
法を破ってはいけない、人を傷つけてはいけない。そんなことはあたりまえだからわざわざ「道」をつけたりしない。
「報道」という言葉には「おれたちは他の商売とはちがうんだぜ」という意識が透けて見える。


「道」をつけると、どうしても「正しき道を追い求める者」ということになる。
宮本武蔵のような求道者のイメージだ。
しかし正しい道を求めることは危険極まりない行為だ。

人が度の過ぎた悪に手を染めるのは、正義のために行動するときだ。
「抑圧されている人々を救うため」「正しい世界をつくるため」といった大義名分をふりかざしはじめたとたん歯止めは利かなくなり、あとは自らが破滅するか他者を破滅させるかしかないことは多くの戦争が教えてくれている。
太平洋戦争だって、指導者たちが「金儲けのため」と思っていたらほどほどのところで手を引いていただろう。
金儲けのためなら「これ以上やったら赤字」という損益分岐点があるが、正義には引き際がない。


「報道」はときに正義のために暴走する。災害救助の邪魔になるような取材をしたり、罪のない被害者やその遺族を苦しめたりする。
商売のためにニュースをつくっているという意識があれば「さすがにこれはやりすぎだな」とブレーキがかかるのに、「報じることが正しい道」と思えばどこまででも突き進んでしまう。

正義の色眼鏡をかけて突き進むことでこそ得られる真実もあるのだろうが、これだけ多くの情報にかんたんにアクセスできるようになった時代、報道に求められるのは「道」を捨てることじゃないかな。

2017年8月24日木曜日

2種類の恐怖を味わえる上質ホラー/貴志 祐介 『黒い家』【読書感想】

内容(「e-hon」より)
若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で保険金の支払い査定に忙殺されていた。ある日、顧客の家に呼び出され、期せずして子供の首吊り死体の第一発見者になってしまう。ほどなく死亡保険金が請求されるが、顧客の不審な態度から他殺を確信していた若槻は、独自調査に乗り出す。信じられない悪夢が待ち受けていることも知らずに…。恐怖の連続、桁外れのサスペンス。読者を未だ曾てない戦慄の境地へと導く衝撃のノンストップ長編。第4回日本ホラー小説大賞大賞受賞作。

子どもの自殺を、生命保険会社の社員が殺人ではないかと疑う……という導入。
序盤は生命保険会社の内情説明が多く、貴志祐介氏は生命保険会社勤務だったらしいので「ああ、よくある職業ものミステリね」と思っていた。
いっとき流行ってたんだよね。医者とか弁護士とかが書く、業界内の話とからめたミステリが。業界の暴露話ってそれだけでけっこうおもしろいから、ミステリとしての完成度はいまいちでもエンタテインメントとしてはそこそこのものになるんだよねー。
……と思いながら読んでいたら、中盤から「ごめんなさい、これは職業関係なくサスペンスとしてめちゃくちゃおもしろいわ」と反省した。

いやもう、得体の知れないものにいつのまにか包囲されて逃げ場がなくなっていく様子が肌で感じられて、背中にじっとりと嫌な汗をかいた。
寝床で読んでいたのだけれど、「これ中断したら怖くて眠れなくなるやつだ」と思って夜更かしして最後まで読んでしまった。とにかく気持ち悪い小説。あっ、褒め言葉ね。


最後までずっと怖かったんだけど、途中から恐怖の質が変わる。
後半はアメリカホラー映画の怖さだね。これはこれで怖いんだけど、アクション映画のスリリングさ。刃物を持った殺人鬼に追いかけられたらそりゃ怖い。あたりまえだ。だけど後に引くような怖さではない。どうなったら助かるかがわかるからね。
本当におそろしいのは中盤。後半までは犯人もわからないし犯行の目的もわからないという「出口の見えない恐怖」。怪談話みたいにじんわりくる不気味さがあるね。

そういえば貴志祐介氏には『悪の経典』という作品もあって、サイコパスというテーマを扱っていることなど『黒い家』と共通する点も多い(発表は『悪の経典』のほうがずっと後)。『悪の経典』も、前半はホラーで後半はサスペンスアクションだったなあ。


ラストにとってつけたような問題提起があったのがちょっと蛇足に感じたけど、中後半はほんと申し分なしのホラーでした。後味の悪い話が好きなぼくですら、読むのがつらく感じたぐらい。

なにが怖いって、『黒い家』に出てくるヤバい人みたいなのが現実にもいるってことがいちばん怖いんだよなあ……。



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2017年8月23日水曜日

第99回全国高校野球選手権大会をふりかえって



いやあ、おもしろい大会だった。
ぼくは20年ぐらい高校野球を観ているし、毎年甲子園にも足を運んでいるが、これほどわくわくした試合の多かった大会は1998年の80回大会以来だ(いわゆる松坂世代の年)。



第99回全国高校野球選手権大会をふりかえって


予選から話題の多い大会だった。

センバツの決勝で対戦した大阪桐蔭と履正社が地方予選の準決勝で対戦したり、宮城大会の決勝が引き分け再試合になったり、プロ注目の清宮幸太郎選手のいる早稲田実業が決勝で敗れたりと、なにかとにぎやかだった。

ちなみにぼくは早実が負けることを願っていた。清宮くんを嫌いなわけではないが、彼が甲子園に出たら他のチームの報道がその分減らされることが目に見えていたから。
同様に思っていた高校野球ファンは多いと思う。2001年の寺原隼人のときも偏向報道がひどかったから、同じ事態にならなくてよかった。
甲子園で活躍した選手にスポットライトを浴びせるのはいいが、前評判で大騒ぎするのはやめてほしい。


そんなわけで、熱心な高校野球ファン以外にとっては「清宮くんの出ない大会」というちょっとマイナスな感じではじまった第99回全国高校野球選手権大会だったが、いざ開幕してみるとそんなしょうもない修飾詞はたちまち吹き飛んだ。


開幕戦の彦根東ー波佐見で彦根東が9回逆転サヨナラ勝利を収めたのが、派手な試合が多い今大会にふさわしい幕開けだった。
そこからも派手な打ち合いが続き、ドラマチックな試合展開が多かった。

  • 津田学園7-6藤枝明誠(延長11回サヨナラ)
  • 明徳義塾6-3日大山形(延長12回)
  • 日本航空石川6-5木更津総合(9回に4点とっての逆転)
  • 智辯和歌山9-6興南(6点差からの逆転劇)
  • 天理2ー1神戸国際(延長11回)
  • 明豊9-8神村学園(延長12回表に3点、その裏に4点という大逆転劇)
  • 盛岡大付12ー7済美(両チームに満塁本塁打が飛び出す空中戦。延長10回)
  • 仙台育英2ー1大阪桐蔭(9回2死走者無しからの逆転サヨナラ)
  • 天理13-9明豊(明豊が9回に6点返す猛追)
  • 花咲徳栄9-6東海大菅生(延長11回)

高校野球では大差からの逆転劇が多いとはいえ、1大会に1,2試合ある程度だ。しかし今大会は点の取り合いが多く、大逆転や終盤での猛追が多かった。
息詰まる投手戦もいいものだが、やはり動きのある試合展開のほうが観ていて楽しい。

ちなみに、中京大中京が広陵に対して9回7点差から追い上げを見せた試合も見応えがあった。2009年決勝で9回6点差から1点差まで猛追された中京大中京が、今度は追い上げる側だったことにぐっときた。あの試合を思いだした高校野球ファンも多かったことだろう。

個人的には強い智辯和歌山の復活がうれしかった。2回戦で敗れはしたものの、1回戦で強豪・興南を相手に6点差をひっくり返した試合は、2000年代初頭の手が付けられないほど打ちまくっていた智辯和歌山がよみがえったようだった。『ジョックロック』が鳴り響くのに合わせて次々に鋭い打球が野手の間を抜けていくのにはしびれた。



酷暑と打高投低


ドラマチックな試合が多かった最大の要因は、打力が向上したことだろう。
32年ぶりに本塁打記録を更新した広陵の中村奨成くんを筆頭に、両チームあわせて5本塁打の空中戦あり、史上初の代打満塁本塁打あり、1試合2ホーマーの選手が7人(中村奨成くんは2回達成)もいたりと、とにかくホームランが多かった。
少し前なら1試合2本塁打も打てば怪物と呼ばれていたのに、今大会はそれが7人も。しかも神戸国際の谷口くんや青森山田の中沢くんは2年生。もはや高校野球は新しい時代に入ったと言っていいだろうね。
しかし広陵・中村くんはすごかった。記録だけでなくフォームも美しい。足も速い。走攻守そろったキャッチャーなんてものすごく貴重な人材だからどのプロ球団も欲しいだろうなあ。
しかしケガの影響とはいえ地方大会で打率1割台だった選手が甲子園であんなに打つなんて、つくづく甲子園とはおもしろい場所だ。


打力が向上した原因は「ウェイトトレーニングが強化されてフルスイングする打者が増えたから」なんてしたり顔で解説する人もいるが、どうも信じられない。だって98回大会の本塁打数が37本で、今年は68本。トレーニング方法や戦術がたった1年でそんなに変わるものだろうか?
ボールの反発係数でも上がったんじゃないかとぼくは睨んでいる。プロ野球のほうではこっそり変えていた前科があるからなあ。

以前から、春のセンバツは投手力が重要、夏の選手権大会は打力が勝敗のカギを握ると言われていた。
気候のいい春は好投手が1人で投げぬいて勝ち進むことができるが、夏は予選・本選ともに日程に余裕がないため全試合を1人の投手が投げることはほぼ不可能。また確実にばてるのでどんな好投手でも必ず打たれる。だから控えの投手が充実していて打力のあるチームが有利だと言われている。

昔と比べ物にならないほど夏の暑さが増していることも、打高投低に拍車をかけているように思う。
以前は複数投手をそろえているチームをわざわざ「2枚看板」「3枚看板」なんて呼んでいたが、今ではそっちがあたりまえ。今年出場した前橋育英なんて140km投手が4人もそろっていた。
今大会、香川代表の三本松高校がエース佐藤くんを擁してベスト8まで進んだが、このような絶対的エースに依存するチームはほとんどなくなった。全国レベルの投手が複数いないと勝てない時代になったのだ。
公立高校はますます不利になるだろうがそれもいたしかたない。不利だからこそ公立校が勝つと盛り上がるのだ(三本松も公立校)。


しかしずっと言われていることだが、暑さ対策はなんとかしたほうがいい。
ぼくは毎年甲子園に行って外野席で観戦しているが、ここ数年は全試合観ずに帰っている。あまりに暑いからだ。
観客が昔と比べ物にならないぐらい増えたこと、老化により体力がなくなっていることもあるが、それを差し引いても昨今の暑さは耐え難い。ぼくは日灼け止めを塗りたくり、長袖長ズボン、つばの広い帽子にサングラスという徹底した紫外線対策をして観戦に臨んでいるが、それでも灼ける。半袖で行ったときは日灼けしすぎてほぼ火傷だった。
観客席でビールを飲みながら観ているだけでもつらいのに、ずっと駆けまわっている選手の負担はいかほどだろうか。
高野連は死人が出るまで変えないつもりだろうか。それならそれで「人死にが出るまでは変えません!」と立場を明確にしたらいいと思う。

日程的な事情があって開催時季をずらすのは難しいのかもしれないが、せめて決勝戦を14時開始にするのはやめないか。後のスケジュールを気にしなくていい決勝戦なのに、なぜよりによっていちばん暑い時間帯にやるんだ。
決勝戦は17時開始でナイターにしたらいいのに。選手にしたら涼しいし、準決勝の後に少しは休息をとれるし、何より日中仕事がある人も観戦できるし!(これがいちばんの理由)




日なた側のベンチは不利じゃないだろうか?


甲子園球場では三塁側だけ午前中日陰になり、午後は逆になる。日なた側はベンチ内にいてもずっと陽が当たるのであまり休めないように思う。

ということで調べてみた。

準決勝・決勝を除くと1日のゲーム数は3試合もしくは4試合。
第2試合は正午に近い時刻に始まるので無視。
準決勝・決勝を除く「第1試合の勝敗」「第3・第4試合の勝敗」をそれぞれ調べてみた。

午前中におこなわれる第1試合

 一塁側(日なた側)の4勝10敗

午後におこなわれる第3・第4試合

 一塁側(日陰側)の11勝10敗

というわけで、午後については明確な差はなかったが、午前中におこなわれる第1試合に関しては三塁側(日陰側)がかなり有利っぽい。

さらに "8時開始" のゲームにかぎっていえば、一塁側は2勝8敗と圧倒的に分が悪い。しかもその2勝は準優勝した広陵とベスト8の盛岡大付属が挙げたもので、かなりの力の差がないと「午前中の日なたの不利」をひっくり返すのは難しいと言えるかもしれない。

サンプルが少ないのであと何年かさかのぼって調べたらもっと有意なデータがとれるかもしれないが、そこまでやる気力はないので誰か調べてください。



2017年8月22日火曜日

走者一斉救助のツーベースヒット


友人と話していたとき、野球の「ファール」はおかしくないか? という話になった。

[foul]を辞書で引くと、[悪い] [汚い] などの意味がある。
サッカーやバスケットボールの「ファール」は理解できる。敵チームの選手をケガさせかねない危険なプレーに対して与えられるものだから、[悪い][汚い]行為とのそしりはまぬがれない。
だが野球のファールは、べつに卑怯なプレーでもなんでもない。ただの打ち損じだ。失敗は誰にでもある。汚いなんて言われる筋合いはまったくない。

さらにファールフライは漢字で「邪飛」と表される。ラインの外にボールを打ち上げただけで、なぜ邪(よこしま)なんて汚名を与えられなくてはならないのだろう。
テニスやバレーボールでは、サーブを失敗することを「フォルト」と呼んでいる。野球の打ち損じも「フォルト」でいいのではないだろうか。



よく言われていることだが、野球用語には物騒な言葉が多い。
死んだり殺したりしてばかりいる。
一死、二死、牽制死、盗塁死、刺殺、捕殺、併殺、挟殺、三重殺……。こんなに人が死ぬスポーツは他にない。「犠牲バント」も死だ。得点することをわざわざ「生還」というぐらいだから、基本的に死ぬのがあたりまえの世界なのだ。

しかし解せないのが「死球」だ。さっきあげた野球用語の「死」や「殺」はアウトの意味だ。だが、デッドボールを直訳したのだろうが、死球の「死」はアウトではない。むしろチャンス拡大だ。
すなわち、野球には2つの意味の「死」がある。死球で出たランナーが牽制死すると二度死ぬことになる。007か。


死だけではない。不穏な用語は他にもある。
たとえば「盗塁」。これもスチールの訳だろうが、なぜ盗むのかよくわからない。
バスケットボールにも「スチール」という用語があるが、これは敵が持っていたボールを奪うことだから納得できる。
だが野球のスチールは何も奪っていない。ルールに基づいて懸命に走ってチャンスを拡大したのに盗っ人扱いだ。「到塁」とかでよかったんじゃないか。


「走者一掃のツーベースヒット」という言い方も穏やかでない。
走者一掃、なんてまるで邪魔者を排除するような言い方ではないか。ランナーにしたら懸命に走ってチームに得点をもたらしたのに、なぜ「一掃する」とゴミのような扱いを受けなければならないのか。
ヒットによってランナーを「死」から救ったのだから「走者一斉救助のツーベースヒット」とかでいいんじゃないだろうか。


「自責点」も嫌な言葉だ。
チームスポーツでは「誰のせいで負けたか」という戦犯探しは暗黙の了解としてしてはならないことになっている。明らかに誰かのミスが原因で敗れたしても、少なくとも建前としては「しょうがないよ、みんなの力が足りなかったんだ」ということにするのが潔いということになっている。
しかし野球ではそこのとこをわざわざ明白にする。自責点なる概念をつくり、誰の責任でどれだけ点をとられたかということを厳密に算定する。
さらに不公平なことに、自責点はピッチャーにしかつかない。野手がどれだけエラーをしようが、点をとられた責任はすべてピッチャーにおしつけ、あまつさえ「負け投手」なんて呼び名をつける。チームスポーツなのに、まるで負けた原因がすべてピッチャーにあると言わんばかりだ。
許せないのは、それを監督が甘んじて受け入れていることだ。部下にすべての責任を押しつけるなんて責任者失格だ。
潔く「責任はすべて私にある。自責点は私につけてくれ!」と言える監督がいてもいいんじゃないだろうか。
そして、その行動に対して「そなたの部下を思う気持ち、誠にあっぱれ! 自責点はゼロとしよう!」と名裁きを見せる大岡越前のような審判がいてもいいのに。