2016年12月6日火曜日

覗き見趣味と強い意志


マザー・テレサも言っていたように他人のプライバシーを覗くことほどおもしろいものはないよね(よく考えたらマザー・テレサは言ってなかったかもしれない)。
電車で本を読んだりメールを打ったりしている人がいれば、できるかぎり覗きこむように心がけている。

こういうことは日頃から意識していないと意外と実行に移すのは難しい。
ジョギングを続けようと思ってもすぐ三日坊主になってしまう人が多いが、それは意志が弱いからだ。
ぼくは「ひとりでも多くの人のプライベートな部分を覗き見よう」という気持ちを強く持っている。
これが継続につながっている。
何事もすぐに投げだしてしまうみなさんは、ぜひぼくのこの姿勢を見ならってほしい。


ぼくは本には詳しいほうなので、他人が読んでいる本をちらっと見ただけでだいたいのジャンルがわかる。
活字の組み方でどの出版社かわかるし、出版社とフォントの大きさや行間がわかればある程度のジャンルは見当がつく(河出なら純文学、徳間なら時代小説かミステリ、新潮でページ数が少なければ軽めのエッセイまたは文豪の作品が多いとか)。
おかげで「なるほどね。いかにも伊坂幸太郎を好きそうな風貌だな」とか「ばかみたいな顔してるのに意外と骨のあるノンフィクションを読むんだな」とか考えてにやにやすることができる。
これはかつて本屋で働いていた経験があるからこそだ。
若いうちの経験がゲセワな趣味に活きるのは、とても誇らしいことだ。


本もおもしろいが、他人のメールはもっとおもしろい。
先週の金曜日に女の人が打ち込んでいたLINEの内容は、今日はありがとうございましたまた誘ってくださいというものだった。
合コンか初デートの帰りだったのだろうか。
きっとお相手を気に入ったのだろう。

彼女の恋がうまくいくかはどうでもいいけどいいけど、このLINEのやりとりが長く続くといいな。それも早めに返事が来るといい。
しかしぼくの願いもむなしく、合コン相手からの返事が来る前に彼女は電車を降りてしまった。
残念だが、覗き見に慣れているぼくはこんなことではいちいち落ち込まない。強い意志を持っているから。


それにしても、後ろから覗きこまれているのを知らずにLINEを打つ女の人は、どうしてあんなに魅力的なのだろう。
ぼくが本を読むふりをしながらちらちらスマホを覗きこんでいることを知ったら、きっと彼女は嫌な顔をするだろう。恥ずかしがるだろう。

けれどもぼくを楽しませるという崇高な行為をしてくれたのだから、ちっとも恥じることはない。自分のLINEを他人に読ませて楽しませてくれる女の人は、きっと将来孫から愛されるおばあちゃんになるはずだ。

おばあちゃんは見ず知らずの若者の口座に大金を振り込んじゃったりするぐらいガードが甘いから、今の若い女の人たちがおばあちゃんになったときには、スマホやタブレットを覗き見るチャンスがぐっと増えているにちがいない。

そう考えると年をとるのが楽しみだ。

2016年11月30日水曜日

結婚するのがふつうだという幻想


「今の若い人たちは結婚願望が低い」
「子どもを持つより自分の楽しみを優先しようとする」
なんてことをよく耳にする。

でも。ふと思った。
「結婚しない」という選択は、じつは昔から多かったんじゃないのか。

大半の人が
「自分が食っていくだけでせいいっぱい」
「残すほどの財産もない」
だった時代であれば、
「結婚しない」「子どもなんていらない」という選択をするのはごくごくふつうのことだ。

「結婚しても子どもを持たない」という生き方についても、昔は避妊の技術がなかったから選択されなかっただけで、技術があったらそれを選んだ人も多かったのでは。


落語には、『たらちね』『ろくろ首』など、

「邪魔するよ」
 「おや、大家さん。どうしたんですかい」
「おまえもいい歳だろ。そろそろかかあでももらってもいいだろう」
 「うちに来てくれる女がいればいいですけどね」
「そう思って、いい縁談を持ってきたんだ。ところが少しだけ問題があってな」

……という流れではじまる噺がいくつかある。
それだけ、結婚しようとしない人が一般的だったということでしょう。

「いい歳なんだから結婚して身を固めるのがあたりまえ」
という価値観なんて、ここ100年ぐらいの(人類の歴史から見たら)ごく短期間の例外的な時代のものなんじゃないのか。

これから先、日本はまちがいなく若者が生きにくい時代になる。
結婚しない、子どもを持たない人は増えていく。

でも、それは歴史的に見ればめずらしいことではない。
いつの時代も、あえて結婚しなかった人はけっこうな割合で存在した。
ただ、そういう人の存在は後世に伝えられなかっただけ(だって語り継ぐ子孫がいないんだもん)。

2016年11月28日月曜日

幽霊から学ぶ生物進化学と経営への提言


まったく光の届かない深海に棲む魚は、ものを見る必要がないため眼が退化するといいます。

一方、幽霊。

彼らには脚がありません。
浮遊能力を身につけたことで歩く必要がなくなり、脚という器官が不要になったためです。

脚をなくしたことで脚の維持・活動にかかっていた物資やカロリーを他の器官にまわせるようになりました。
また、脚の分の重量がなくなったために、浮遊に用いるエネルギーも少なくて済みます。
脚をなくすのはたいへん効率がいい退化であるといえますね。

また幽霊には胃や腸などの消化器官もありません。
彼らは怨念をエネルギーに変換して活動しているため、食物からカロリーを摂取する必要がないのです。
そのため消化器官は少しずつ小さくなり、ついにはなくなってしまったのです(ただし完全に消えたわけではなく、なごりはまだ見られます。「霊腸」と呼ばれる、今では何の役にも立たない器官がかつて腸を持っていた痕跡です)。

消化器官はなくなりましたが肺や舌は今も残っています。
これは「うらめしや」といった言葉を発することで怨みを伝達するためです。

怨念エネルギーによって肺に空気を取り込み、怨念エネルギーによって空気を吐き出し、その際に喉を振動させることによって「うらめしや」という音を発するのです。

幽霊の声帯は人間のものより長く、また自在に震わせることができます。
これによって、より低く恨めしく聴こえる声を出すことができるのです。
他の幽霊との怨み競争に勝つための戦略であるといえるでしょう。

大昔の幽霊は人間とほとんど同じ姿をしていました。
ですが代を重ねるごとに少しずつ遺伝子が変化していきました。
不必要な器官を持った幽霊は怨むことができずに淘汰されていき、結果として今の姿の幽霊だけが残ったというわけです。

失ったものばかりではありません。新たに身についた機能もあります。
たとえば浮遊能力がそれです。

昔の幽霊は、浮くことができませんでした。
当時は高い建物がなかったので、浮かずとも怨む相手の夢枕に立つことができたからです。
ところが文明が進むにつれ、高いところに住む人間が増えてきます。これでは夢枕に立つことができません。
しかし幽霊は進化の過程で浮遊能力を獲得しました。
浮遊できる幽霊は他の個体に比べて怨みに行くのに有利だったために、浮けない幽霊は淘汰され、浮ける個体ばかりになったのです。

このように別の種の進化にあわせて進化することを「共進化」といいます。
捕食者が鋭い歯を持つようになったからカニが堅い殻を持つようになった、というのと同じです。

また、幽霊が建物などを透けることができるのも、共進化により獲得した形質です。
昔の人の家は鍵がなかったり壁にすき間があったので幽霊が侵入しやすかったのですが、今の住宅は気密性が高いのでかんたんに入ることができません。
そこで壁を透けて通れる能力を身につけたのです。

このように、幽霊の進化速度はたいへん速く、人間のライフスタイルの変化にあわせてその形態や行動はどんどん変わっています。
近年では、写真に写ったりビデオテープを介して呪ったりといったことも可能になっています。

もしかすると、もうドローンにつかまって移動したり電気自動車に特化した幽霊も出現しているかもしれません。

幽霊がこれだけ長期にわたって繁栄してきたのも、この
「的確に状況の変化をとらえる力」と
「変化に柔軟に対応するために既存の成功パターンを捨てて自己を変革していく柔軟な精神」
があったからに他なりません。

我々ビジネスマンが幽霊から学ぶべきことは非常に多くあります。

ここにお集まりいただいた経営者諸兄に対しては、ぜひこのことを忘れずに今後の経営に勤しんでいただきたいと思います。

本日はご清聴、ありがとうございました。


2016年11月26日土曜日

寝ている人の口に何かを放り込むことについて

お疲れなのだろう、電車の中で口を開けて眠っている人がいる。

心がざわつく。
この口に、何か放り込んでやりたい。

ボタンがあればつい押したくなるのと同じで、ぽっかりと開いた口は人間の本能的欲求に強く訴えかける何か入れたい。

消しゴムのカスでもあれば、パスタに粉チーズでもかけるようにぱらぱらっと口の中に放り込んで味を調えてあげるのに。
だけど電車の中なので消しゴムのカスはない。
おい口をあけて寝ている女よ。消しカスがなくて命拾いしたな。

まあどっちにしろ他人の口に何かを放り込んだりはしない。
なぜならぼくは大人だから。分別があるから。



ぼくがまだ小学生で、父親と一緒に風呂に入ったときのこと。
父が湯船に浸かって大口を開けて気持ちよさそうに眠っているのを見て、口の中に何か放り込みたくなった。
といっても風呂の中なのでたいしたものはない。
ぼくは湯船のお湯をすくって、父の口に注いだ。

直後、父は溺れた。

んげほっ。がはああぁっ。
信じられないぐらいむせかえり、顔を真っ赤にして何度も咳きこんだ。
ぼくは、父はこのまま死ぬんじゃないかと思って怖くなった。手のひらいっぱいのお湯で死ぬなんて、お湯って怖いなと思っていた(怖いのはおまえの発想だ)。

1分後、めちゃくちゃ怒られた。
ぼくの父はめったに感情的にならない人だが、このときばかりは声を荒らげて怒った。
無邪気な好奇心で殺されかけたのだから。
後にも先にも、全裸であんなに怒られたのはこのときだけだ。




この体験からぼくは三つのことを学んだ。

寝ているときに口にお湯を入れると人はかんたんに溺れるということ。

他人の口に勝手にものを入れてはいけないということ。

そして、服を着ているときよりも裸で怒られたときのほうがずっとダメージがでかいということ。


ぼくはもう大丈夫だ。経験から学んだから。
勝手に人の口にものを放り込んだりしない。

だけど世の中の人々はそうではない。
隙あらば、本能のままに他人の口に消しカスやお湯を入れてしまうやつらばかりなのだ。

だからみんな知っておいてほしい。
電車内で口を開けて寝ることは、死と隣り合わせの危険な行為なのだと。

あと、全裸で怒られるのは服を着て怒られるのより三倍ダメージを受けるのだと。

 

2016年11月21日月曜日

【エッセイ】雷天犬捕獲大作戦


母の奇行について。

うちの母は犬が好きだ。
ずっと犬を飼っていたのだが、かわいがっていた犬が昨年死んでしまった。
しばらく落ち込んでいたのだが、最近また犬を飼いたいという気持ちがふつふつと沸いてきたらしい。
「でもねえ、わたしもお父さんも、もういつ死ぬかわからないし、犬だけ残されたらかわいそうでしょ。だから飼っちゃいけないと思うのよねえ」

犬を飼いたい。でも飼えない。
そんなジレンマを抱えた母はひらめいた。
「そうだ、迷い犬を保護しよう!」

迷い犬を見つけて保護すれば、飼い主が見つかるまでの数日間限定で、犬を飼う楽しさを味わうことができる。
これまでにも何度か迷い犬を預かった経験のある母はそう考えた。


しかし迷い犬などそうそういるものではない。
そこで彼女がとった行動は「カミナリの日に近所をうろうろする」というものだった。

犬を飼ったことのある人は知っていると思うが、たいていの犬はカミナリをものすごく怖がる。
遠雷であってもあのゴロゴロが聞こえたとたんにパニックを起こし、すくみあがり、吠え、走り回る。
首輪から抜け出したり塀を飛び越えたりして脱走する犬もめずらしくない。

それを知っている母は、カミナリの音が聞こえると家を飛び出し、あちこち歩き回って積極的に迷い犬を探しているのだとこないだ電話で話してくれた。
いいアイデアを思いついたと自慢気だ。

しかし。
母もまあまあいい歳だ。

カミナリの日にあてもなくうろうろする老婆を見て、近所の人はどう思うだろう。
「ああ犬好きのおばあちゃんなんだな」と察してくれる人は決して多くはあるまい。

犬を保護するより先に自分自身が保護されないことを、息子としては切に願うばかり。