2016年7月30日土曜日

【考察】ぶったおれるほどのヒット

ゲームやアニメって、批判されたり犯罪に利用されたりするようになってはじめて大ヒット、って気がする。


買ったばかりのドラクエをカツアゲする不良とか。

ビックリマンシールだけ集めてチョコを捨てる子どもとか。

子どもたちがクレヨンしんちゃんの真似をして大人たちが眉をひそめたこととか。


そういうのが報道されるようになって、社会的に広く受け入れられるんだよね。


だからポケモンGOがヒットしたのも、アメリカでポケモンGOにまつわる事故や事件が頻発した、というニュースがあったからだと思う。

そもそもポケモンが大人にも広く知られるようになったきっかけも、いわゆる“ポケモンショック”で子どもたちがぶったおれたことだったしなあ。



2016年7月29日金曜日

【エッセイ】ほんとにあった、たどたどしい話

ほんとにいるんですねえ。
いやいや、いると聞いてはいたんですが。
目の当たりにしたのははじめてでした。

百貨店で、幼稚園児くらいの子がおもちゃを買ってほしいと、お母さんにせがんでいました。

するとそのお母さんが、
「そうね、ええっと、おくとーばー、のーべんばー、でぃっせんばー……。でぃっせんばーになったら買ってあげる!」

はじめはぼくも、ふざけてるんだろうなあ、と思っていました。
でもその後もお母さんは一生懸命しゃべっていました。

「でぃっせんばーになったらプレゼント、プレゼント・ふぉー・ゆー。わかる? あんだーすだんど?」


出たー、本物だ!
これが本物の、とにかく英語(っぽい言葉)でしゃべることが子どもの英語習得に有効だと本気で信じてる母親だー!

日本語混じりのたどたどしい英語。
もう完全にルー大柴。
聞いてるこっちが恥ずかしい。

ですがお母さん。
安心してください。

あなたのその努力はきっと実ることでしょう。
あなたのお子さんは、きっと将来は流暢なルー語をしゃべれるようになることでしょう。

ちなみに、早期教育が外国語の習得に有効だという説もありますが、教育科学的にはまったく証明されておらず、否定的な研究結果のほうが多いみたいですよ。


……と声をかけようかと思いましたが、やめときました。

だって昔から言うでしょう、「言わぬがフラワー」ってね。

2016年7月28日木曜日

【エッセイ】褒めて伸ばす教育の功罪


3歳の娘と遊んでると、しょっちゅう痛い目に遭うんですよね。

ほら、こどもって手かげんも距離のとりかたも知らないから。

だから油断してると、すぐにみぞおちにパンチ入れられたり、飛び蹴りをくらったり、目つぶしをされたり、ジャーマン・スープレックスをくらわされたりするんですよね。最後のはウソですけど。


ものすごく痛いこともあるんだけど、向こうに悪気はないわけだし、こども相手に怒るのもおとなげないなと思って、ぐっとこらえるわけです。

でも、謝罪のできない子にはなってほしくないので、落ち着いたトーンで語りかけるようにしてたんです。
「お父ちゃんはすごく痛かったから、ごめんって言おうね」
って。

で、こどもがちゃんと「ごめんなさい」と言ったときは、 「わー、ちゃんとごめんなさいって言えたねー! えらいねー!」
と大げさなぐらい褒めてやるようにしてたんです。


ああこれぞ褒めて伸ばす教育だ。
見たか尾木ママ、ぼくは今、いい父親をしているぞとひとり悦に入っていたんです。

が。

子育てってうまくいかないものですね。

根気強く教えこんだおかげで、ぼくが痛がるととっさに「ごめん」と言える子になったんですよ。

でも、その後に必ず「ごめんって言えた!」とアピールしてくる子になったんです。

「ちゃんとごめんって言えたねー! えらいねー!」
と褒めすぎたんでしょうね……。


ぼくのあごに頭突きを決めた後、悶絶するぼくに向かって
「ごめーん。ごめんって言えた!」
と間髪を入れずにうれしそうに声をかけてくる娘。
3歳児とはいえ、そして我が子とはいえ、正直、イラっとします。


そして、我が子の将来が心配です。

政治家になったものの、公金の不適切な使い込みが明らかになって記者会見を開くことになったわが娘。

「心よりお詫び申し上げます……」
と深く頭を下げた後に、

「1、2、3……。ヨシっ、ちゃんと謝罪できた!」

と言わないかと、お父ちゃんは心配です。


2016年7月26日火曜日

【読書感想文】ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

内容(「BOOK」データベースより)
ぼくの飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。家にあるいくつものドアのどれかひとつが、夏に通じていると固く信じているのだ。1970年12月3日、かくいうぼくも、夏への扉を探していた。最愛の恋人に裏切られ、生命から二番目に大切な発明までだましとられたぼくの心は、12月の空同様に凍てついていたのだ。そんな時、「冷凍睡眠保険」のネオンサインにひきよせられて…永遠の名作。

SF史に残る不朽の名作として語られる作品。
今さら読んでみましたが、いやあ美しい小説でした。

「美しい」といっても描写が巧みだとか純愛が描かれているとかではなく(猫に対する純愛は描かれているけど)、ストーリーに無駄も不足もない、疾走感を保ったまま最後まで一気に読ませてくれる小説だということです。
あまりにうまくいきすぎる、ご都合主義的なところもありますが。


SFとしては、今読むとちょっと物足りないところがあります。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や『サマー・タイムマシン・ブルース』のようなよくできたタイムマシンものを知っている人間からすると、「え? もうひとひねりないの?」と思ってしまいます。

というのは、『夏への扉』があまりにいろんな作品に影響を与えすぎたからでしょう。
現代のタイムトラベルものは直接的にであれ間接的にであれほぼすべて『夏への扉』の影響を受けているといってもよいのではないでしょうか。


『夏への扉』が出版されたのが1957年なので、60年近くも前のこと。
この作品中で描かれる<未来>が、西暦2000年のことですしね。
しかし、ちっとも古びていません。
 逆に、よく言い当てているなと感心しました。
 たとえばこんな描写。

 しかし、最近そういったオフィスでは、製図工の見習いなど置かず、たいてい、一種の半自動的な製図機を用いて仕事の能率をあげていた。癪にさわる機械ができたものだと思ったが、その製図機の写真を見たとき、ぼくはなにかはっとした。この製図機なら、機会さえ与えられれば、二十分とかからずに、操作法をマスターしてみせるぞと思った。というのはほかでもない ─ ─ その製図機は、三十年前のある日、ぼくが考えついた製図機のアイデアに、じつによく似ていたからである。製図者が椅子にすわってキイを押すだけで、イーゼルの上の任意の箇所に、直線なり曲線なりを描き出すことができるところなど、まるで、ぼくのアイデアを模倣したとしか思えないほどなのだ。

 文化女中器は(もちろん、これはのちにぼくが改良を加え完成したセミ・ロボット型でなく、市販第一号時代のである)どんな床でも、二十四時間、人間の手をわずらわせずに掃除する能力を持っていた。そしておよそ世の中には、掃除しなくてよい床など、あるはずがないのだ。
 文化女中器は、一種の記憶装置の働きで、時に応じてあるいは掃き、あるいは拭き、あるいは真空掃除器とおなじように塵埃を吸収し、場合によっては磨くこともする。そして、空気銃のB・B弾以上の大きさのものがあれば、これを拾いあげて上部に備えつけた受け皿の中に置き、あとで、彼らよりいくらか頭のよい人間様に、捨ててよいかどうかを判断してもらうこともできるのだ。こうして、文化女中器は一日二十四時間、静かに汚れを求めて歩く。曲がり角であろうとどこだろうと、塵ひとつ見落とさず、すでにきれいになっている床は素通りして、一刻も休まず汚れた床を求めてまわるのだ。もし部屋に人がいる場合には、しつけの行き届いたメイドよろしく、主婦にスイッチをひねって、掃除してもいいよといわれないかぎりは、決して部屋に入ってこない。動力が切れるころになると、自動的に所定の置場へ出かけていって、動力をチャージする─ ─ ただしこれも、永久動力につけ替える以前のことである。

それぞれ、CADオペレーターやルンバに驚くほどよく似ていますよね。
1957年(まだ日本でカラーテレビの放送が始まる前ですよ!)に書かれたものとしては、ものすごく正確な予言だと思いませんか。

さらに感心するのは、作中に登場するこうした機械にハードウェア・ソフトウェアの概念が取り入れられていることです。
すべての部品を1台の機械に入れてしまうのではなく、マシン自体には最低限の機能だけ持たせておいて、部品を取り替えることで、バージョンアップも修理もかんたんになるという発想。


わくわくさせてくれるストーリーもさることながら、60年前の想像力がふんだんに表現されている細部の描写もおもしろい本です。

あと猫が活躍するという、めずらしい小説でもあります。
犬とちがって、猫ってあまり活躍するような生き物じゃありませんからねー。


2016年7月23日土曜日

【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』

角田光代・穂村弘 『異性』

内容(「BOOK」データベースより)
好きだから許せる?それとも、好きだけど許せない?男と女は互いにひかれあいながら、どうしてわかりあえないのか。「恋愛カースト制度の呪縛」「主電源オフ系男女」「錯覚と致命傷」など、カクちゃん&ほむほむが、男と女についてとことん考えてみた、話題の恋愛考察エッセイ。

歌人・穂村弘と小説家・角田光代が、それぞれ男と女の立場から恋愛についてつづったエッセイ。
交互に連載していたらしいので、お互いの書いたものにコメントしつつ「いや私はこう思うよ」「ぼくはこう思うんだけどあなたはどう?」といったやりとりも見られる。

往復書簡のような形が新鮮。
この形式を考案したのは編集者かな。内容にもあってるし、すばらしい発明。
書いている人たちも楽しかったんじゃないかな。

学生時代に好きな女の子と交換日記のやりとりをしていたんだけど、そのときの愉しさを思い出した。


えー内容だけど、ぼくは穂村弘さんのエッセイが大好きなので穂村パートは楽しく読めた。でもふだんのエッセイより腰が引けているというか、マトモなことを書いているのが残念。
妄想が暴走して、読んでいる側がなんだそりゃもうついていけねえ、ってなるのが穂村弘さんのエッセイのおもしろさだ。
でもこの連載では、半分は角田さんに語りかけるように書いているので、あまりにとっぴなことは書かれていない。
女同士の会話って「意見」とか「思いつき」よりも「共感」のほうが重視されることが多いけど、まさにそんな会話を聞いてるみたい。
「あーあるある」って話に終始しているのがもったいなかったなあ。もっと勝手な”決めつけ”を読みたかった。

角田パートのほうは、うーん......。
ぼくが男性だからなのかもしれないけど、共感もできないし、かといって「この感情をそんなふうにとらえるのか!」っていうような切れ味もなく、穂村パートへの前振りになってしまっているような感じ。

角田「男ってこうだよね」
穂村「いや、それはそうじゃなくて、こうなんだよ」
角田「なるほど、そうだったのか!」
ってな流れが多かったなあ。

ぼくが穂村弘びいきになっているだけかもしれないけど。



いちばん大きくうなずいたのはこんな話(穂村パート)。

 思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。
 その証拠に、お洒落やマナーの本を書いたり教えたりいている人自信が特に恰好よいわけではない、ってことはよくある。その人たちは、確かに知識もセンスもあるんだろう。お金も時間もかけているんだろう。でも、そんなもの何にもなくたって、恰好いい人は遥かに恰好いい。もともと輝いている彼らは、何故自分が恰好いいのか、その理由を深く考えたこともなさそうだ。逆に云うと、だから、その種の本を書くことはできないだろう。
 高校生の私は、「恰好よくなるための本」を何冊も熟読した。でも、くすんだ存在感は変わらない。無駄無駄無駄。だって、主電源が落ちてるんだから。

そうそう!

これ、ずっと思ってた。
マナーにうるさい人ってなんか卑しいし、ファッションについてあれこれ語る人って微妙にかっこよくない(「すごく」じゃなくて「なんか」「微妙に」だめなんだよね)。

たぶん、王室に生まれ育った人ってマナーに無頓着だと思うんだよね。
その人にとってはそれが自然に身に付いているもので、意識するようなことではないから。

同じように、自然にかっこいい人(顔立ちがいいとかじゃなくて身のこなしが優雅だとか内面の魅力があふれているような人)は、お洒落についてあれこれ語らない。
うるさいのはむしろ、自分を実物以上に良く見せようと必死な″おしゃれ成金″の人たち。

ちょっと高級めのスーツ屋なんかに行くと、店員がみんな「なんか惜しい」。
いいスーツを着こなしているし髪型もキマっているのに、どうもかっこよくない。
素敵だな、と思えるような店員を見たことがない。
「ほら、ばっちりキマっているおれってかっこいいでしょ」ってな心持ちが透けて見えてしまう。

そうかあ、あの人たちはみんな″主電源″が落ちていたのかあ。