2016年6月21日火曜日

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

清水潔 『殺人犯はそこにいる』


内容(「BOOK」データベースより)5人の少女が姿を消した。群馬と栃木の県境、半径10キロという狭いエリアで。同一犯による連続事件ではないのか?なぜ「足利事件」だけが“解決済み”なのか? 執念の取材は前代未聞の「冤罪事件」と野放しの「真犯人」、そして司法の闇を炙り出す―。新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞受賞。日本中に衝撃を与え、「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。


横山秀夫氏や(かつての)宮部みゆき氏のような社会派ミステリが好きなのだが、この本のような優れたノンフィクションを読むと、「事実は小説よりも……」という月並みな感想しか出てこない。
どんなすごい小説も、やはり事実には適わない。

なにしろ、一介の記者が、連続誘拐殺人事件の犯人として服役していた人物の無実を証明し、裁判をひっくり返し、警察と検察の嘘を暴き、さらには真犯人まで見つけてしまうのだから。
それも大手新聞の記者などではなく、週刊誌の記者が。

こんな筋のミステリ小説を書いたら「警察よりも新聞記者よりも先に、週刊記者が真実にたどりつくなんてありえない」と言われてしまいそうだ。それぐらいすごいことをしてるし、それぐらい警察や新聞記者がダメだったということでもある。


エンタテイメントよりもおもしろく、ホラーよりも恐ろしい。
なにしろ真犯人はほぼわかっているのにまだ捕まっていないのだから。

ひさびさに「読みながら全身の血が震える」という感覚を味わった。
全ジャーナリスト、全捜査関係者に読んでほしい。
というか財布に1,744円以上入っている人は全員買って読んでほしい。


読んでいると、警察はもちろん、警察の発表をそのまま垂れ流していた報道機関に対してもむかむかとしてくる。
無実の人間を糾弾しておいて、冤罪だったことが明らかになるとたちまち手のひらを返して自分は何も悪くないとばかりに警察叩きに終始するマスコミ。

「足利事件」の冤罪報道はぼくもよく覚えているが、「無実の人を犯人扱いしたことをお詫びします」と伝えていたテレビ局はぼくの知っているかぎり1社もなかった(さすがに新聞は申し訳程度の反省記事を書いていましたが)。

ただその一件をもって「マスゴミ」などと断罪する資格は、ぼくのような傍観者にはない。無罪報道がなければぼくもまた「あいつが犯人か」と思いこんでいたのだから。


こうした冤罪事件は今後も起こる。百パーセント正しい制度というものはない以上、必ず過ちは起こる。
そうなったら警察は身内を守るために嘘をつくだろうし、マスコミは警察の発表をそのまま報道してしまうだろう。

それを防ぐことはできない。
組織が自らの不利益になる行動することなんてありえない。
ある程度の分別のある大人なら、自浄作用なんて期待するだけ無駄だということをわかっている。
だったら、どういうシステムを構築すれば被害を最小限にできるかに知恵を絞ったほうがいい。

ぼくは、事件の大小に関わらず、刑事事件の容疑者の氏名を公開することをやめればいいいと思う。
実名報道にどういう意味があるんだろう。
「先日起こった殺人事件の容疑者が身柄を拘束されました」だけでいいのでは。
顔写真とか氏名とか年齢とか職業とか中学校の文集とかを日本中に公開する必要ってどこにあるんだろう。
「公権力の暴走するときのチェックになる」という考えもあるが、実名報道したって公権力は暴走するし。

「おれは犯人のツラをおがんで溜飲をさげたいぜ」という人だっているだろう。
「犯罪者は、悪いことをしたという過去を一生引きずっていけばいいんだ。社会更正なんてしなくていいんだよ」という人だっているだろう。
でもそれは今の日本の法律に則した考え方ではない。刑法では罰金刑や懲役刑、あるいは死刑が定められているけど、それ以上の社会的制裁を課すことは定めていない。

インターネット出現以前であればよほどの大事件をのぞけば犯人の名前なんてすぐに人々の記憶からは消えていたけど、名前を検索すればすぐに何年も前の事件が明らかになる現代においてはより社会的制裁の影響は大きくなっている。
「1年間刑務所に入るより犯罪者として自分の名前がインターネットに残りつづけるほううがキツい」と思う人のほうが多いだろう。ぼくもそう思う。
刑法で定められているよりも大きな罰を与える(私刑をする)権利が報道機関にあるのだろうか。

「そうはいってもわたしは犯人の卒業文集が読みたいわ。ざまあみろと思って胸がすっとするから」という人は、それを人前でも言えるだろうか。
たいていの人は言えない。それは「心の醜さをうつしだした願望」だから。
そういう気持ちはぼくにもある(人一倍強いぐらいだ)が、そういうどす黒い欲望と刑罰は切り離して考えなければいけない
刑法は、復讐心や野次馬根性を満たすためにあるわけではないのだから。

まして [容疑者] の段階で大きく氏名を報じるなんて言語道断だ。
容疑者が犯人でなかった場合の補償なんか誰にもできないのに。

それに氏名が公開されないほうが再犯率が下がるんじゃないかな。社会復帰してまともな職につきやすくなるんだから。


というわけでぼくが「こうだったらいいのに」と思う、犯人の実名報道に関するルールは以下の通り。

・未成年にかぎらず、すべての事件の容疑者の実名は捜査関係者、司法関係者、保護観察官、保護司以外には公表しない。

・裁判で死刑または無期懲役が確定した場合にのみ、氏名を一般にも公表する(事件が重大であるためと、加害者が社会復帰する可能性がほぼないため)。

・政治家の収賄など、市民の代表として選ばれたものがその立場を利用して犯した罪に関しては、以降の選挙に反省を活かすために例外的に公開する(ただしこれも刑が確定してから)。

・上記の規則を破ったものに対しては、刑事罰は課さないが、「醜い野次馬根性を満たすために規定を守らなかったもの」として氏名を公開する!

いかがでしょう?


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2016年6月20日月曜日

【思いつき】ひび割れた未来

こうして誰もが携帯電話を持ち歩く世の中を、昔の人は想像しただろうか。 

  .....想像しただろうな。


 手にした携帯電話で調べればたいていのことはすぐにわかる世の中を、昔の人は想像しただろううか。

   ......想像した人もいただろうな。


その携帯電話の液晶画面が割れてるのにそのまま使いつづける世の中を、昔の人は、

   想像しなかったにちがいない!


2016年6月19日日曜日

【エッセイ】かっこいい消費期限切れ

職場にあった、ちょっと古くなったお茶を捨てようかと女性社員が話していたので、

「こんぐらい大丈夫でしょ!」

とかっこつけて自信満々に飲み干して、そしたら帰宅してから嘔吐して、でも翌日休んだら
「やっぱりあのお茶が……」
ってことになってものすごく恥ずかしいので、無理して出勤するわたくし。


てゆうか古いお茶を飲むことのどこが「かっこつける」ことになるのか、教えてくれ昨日の自分よ。

2016年6月17日金曜日

【エッセイ】この餃子のタレ、届け!

どうして歌詞は己を実物よりよく見せようとするんだろ、ってあたしは思う。

「一生君を愛しつづけるよ」
「つらいことがあってもがんばればいつか報われるさ」
みたいなのが完全に嘘ではないんだろと思う。
たしかに本気でそう思っている部分もあるんだろね。

だけどそれだけではないよね。
あたしたちはもっとくだらないことを考えてる。
餃子を買ったときについてくるタレがかなりの確率で手につくんだけど、タレ袋の形状はもっと改良の余地があるんじゃないかとか。

作詞をする人はそういうことを伝えたいと思わないんだろうか。己の内面に対して誠実であろうと思わないんだろうか。梶井基次郎のように内に秘めたる感情を有り体に吐露しようと思わないんだろうか。

あたしは「この思い、餃子のタレメーカーに届け!」といつも思ってるんだけど。
そういう真実の歌詞をみんなつくってほしい。



でも。
いくら歌詞に真実味があってほしいとはいえ、「いい女とやりてえぜ」みたいなのはつまらない。
文学性がないんだもの。

「言われてみたらたしかにそんな思いが自分の中にもあるー!」
と言いたくなるような、心のせまい隙間に指をつっこんで溜まったほこりを掻きだすような歌詞が聴きたい。



あたしがこれまでに「これこそ真実の歌詞だ!」と思ったのは、二度だけだ。


一度は斉藤和義『君の顔が好きだ』を聴いたとき。

「君の顔が好きだ 君の髪が好きだ 朝も昼も夜も切なさに酔って胸痛めてる自分もいい」

なんて素直な歌詞なんだろうと思った。
ちょうどあたしも切なさに酔って胸痛めてたから。そんな自分に恋していたから。


もう一曲はユニコーンの『大迷惑』。

「お金なんかはちょっとでいいのだー!」

それまでのストーリー性のある歌詞が、ラストのこの咆哮に見事に結集される様は、ドラマチックですらあった。
オーケストラの演奏とあわさって、壮大な物語に感じられた。

なんという真実味。
お金なんていらないよといえば嘘になるし、金が欲しいというのは本当だけどそれがすべてではない。
そう、お金なんかはちょっとでいいのだ。

ぜひ、声に出したい日本語として国語の教科書に載せてもらいたい。

(この曲が発表されたのがバブルまっただなかの1989年だというのがまたすごい)



2016年6月16日木曜日

【エッセイ】梅干しをスパイクで

おにぎりは楽しい。

こないだおにぎりを作って公園にもっていった。
食べるときわくわくした。

あれ。
おにぎりってこんなに楽しかったっけ。
ときどきコンビニでおにぎりを買うけど、そのときはなんとも思わないのに。

ちょっと考えて、その理由がわかった。
ぼくが作ったおにぎりの具材は、鮭フレークと昆布と食べるラー油。
無造作にバッグに入れたので、食べるときにはどれがどれだかわからなくなった。
それが楽しかった。

中身がわからないからわくわくしたのだ。



ぼくは小学生のときサッカーチームに入っていた。
週末には練習や試合があって、そのたびに母がおにぎりをにぎってくれた。

毎週のことだから、食べるほうも飽きるし、にぎるほうも飽きる。
母はさまざまな具材をおにぎりに入れてくれた。

もちろんあたりはずれがあって、タラコははずれ、鮭はあたり、牛肉を炒めたものが大当たりだった。
ぼくは梅干しに対して嫌いを通りこして憎悪の感情を抱いているのだが、母はぼくの梅干し嫌いを克服させようとして、一年に一度くらいこっそり梅干しをしのばせていた。
もちろんこれは大はずれ。
ぼくは梅干しを吐き出して、「もぉー、梅干し入れるなって言ってるじゃんかよぉ......」泣きながら文句を言って、吐き出した梅干しの上から砂をかけてスパイクで踏んづけたものだ(今思うと因果関係が逆で、ぼくが梅干しを憎むようになったのはこのときの体験が原因だったかもしれない)。



とにかく、たまに泣きべそをかくことがあったとはいえ、何が入っているかわからないおにぎりを食べるのは楽しかった。
自分がつくったものでもどきどきするのだから、誰かに作ってもらったおにぎりを食べるときの緊張感はなおさらだ。

コンビニでもお総菜屋さんでもおにぎりは売っているが、残念ながら具材は一目瞭然だ。
食べるときには「ああこれはシーチキンマヨネーズだな」と認識してから食べることになる。
これではおにぎりの楽しさは半減だ。

そこで提案なのだが、コンビニで、中身がわからないおにぎりを売るというのはどうだろうか。
これだけでだいぶおにぎりが楽しくなる。

鮭だろうか。
梅干しかもしれない。
ひょっとするとふつうなら240円くらいするもある和牛ステーキおにぎりかもしれない。
廃棄する予定だったからあげくんんかもしれない。ただの塩むすびかもしれない。

おにぎりという華やかさのない食材に一気に緊張感が生まれると思う。