2026年1月14日水曜日

【カードゲームレビュー】ナナ

ナナ

nana


ルール

 1~12の数字が書かれたカードが3枚ずつある(人数によっては使わないカードもある)。これを何枚かずつプレイヤーに配り、残りは場に裏向きに出す。

 つまり「自分が持っているカード(数字がわかる)」「他のプレイヤーが持っているカード(自分には数字がわからない)」「場に裏向きに置かれている(誰にも数字がわからない)」という3種類があるわけだ。

 このうち3枚をめくり、数字がそろえば手に入れられる。3セット、または特定の2セット、1セットをそろえば勝利となる。

 神経衰弱に似ている。ただしポイントは「プレイヤーのカードを表にするときは、所有している中で最大の数、または最小の数しか出せない」というルールがあることだ。これが非常によく効いている。

 たとえば自分のカードが「1,2,2,2,6,8,10,11」だとする。2のカードが3枚あるが、これを出すことはできない。最小ではないからだ。


味わい

 ルールは神経衰弱に似ているが、味わいはまったく違う。神経衰弱が記憶力と運だけの勝負なのに対し、『ナナ』はそれらに加え、推理や心理の読み合いが重要となる。「自分だけが知っているカード」という要素が加わるからだ。

 たとえば、
「あいつの最小のカードは4だった。ということは大きなカードを多く持っている可能性が高い」
とか
「現在、2のカードのありかが2枚明らかになっている。にもかかわらずあいつが2をそろえなかったのは、あいつが2を持っていない、または2を持っているが1も持っているので出したくても出せないからではないか」
といった読みが必要になってくる。

 ときには嘘をつくことも必要だし、すると当然嘘を見抜く力もいる。演技力も必要となる。


感想

 我が家ではかなりのヒット作だった。12歳、7歳の子どもたちは毎日のように「ナナやろう!」と誘ってくる。ぼくとしてもやっていておもしろい。

 なぜなら、手加減しなくてもいい勝負になるから。ぼくは子ども相手だからといって手加減をしたくないので「本気でやってもいい勝負になる」のはすごくありがたい。かといって運まかせでもない。

 はっきりいって、記憶力では子どもたちに敵わない。子どもの方が集中力もある。でも洞察力や嘘をつくうまさではぼくのほうが上だとおもう。ということで、総合的にはいい勝負になる。

 そして最後まで全員に勝利の可能性があるのもいい。基本的には3セットをそろえないと勝利にならないが、7のカードをそろえた場合はその時点で勝利となる。中盤まで劣勢でも逆転勝利の可能性があるので終盤まで緊張感が持続する。

 1回の勝負が5分程度で終わるのもいい。お風呂を沸かしている間に2ゲーム、みたいな感じで気軽にできる。カードだけなので片付けも楽だし。

 不満があるとしたら、カードの裏面の絵柄が上下対称じゃないこと。これだとわりとかんたんにイカサマができちゃうんだよね。ある数字だけ上下逆にしとく、とか。それを防ぐために全部のカードの向きをそろえているんだけど、これがけっこうめんどくさいんだよなあ。

 でも不満点はそれぐらい。カードデザインもかわいいし、材質もいい。手軽にできてハマるゲームです。



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2026年1月9日金曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学で見た日本』 / 弾圧や差別が戸籍をつくる

歴史人口学で見た日本

速水 融

内容(e-honより)
留学先の欧州で教区簿冊を利用した「歴史人口学」(結婚年齢、家族構成など、ミクロの人口研究)に出会った著者は、帰国後「宗門改帳」を使って同様の研究を開始し、江戸期庶民の暮らしぶりを活写。「家族」と「人口」から見た「新しい日本史」。

 日本における歴史人口学の第一人者による歴史人口学概論。

 歴史人口学とは聞きなじみのない学問だが、ある時代・地域の出産、死去、婚姻、転入、転出などの数をデータベース化して、そこから過去の社会について立体的に分析するという学問だそうだ。

 死ぬ人が徐々に減ってきているとか転出する人が急に増えたとかがわかれば、そこから社会の様子をかなり正確に探ることができる。歴史学というとふつうは古文書を読むことで過去を知るのだろうが、「文書には書き手の主観が多分に入っている」「文書に書かれたことが本当かどうかわからない」「そもそも文書にされないことはわからない」などの弱点があり、かなり局所的、主観的な歴史になってしまう。

 歴史人口学はその弱点を埋める、かなり客観的・科学的な学問なのだ。

 次に、歴史人口学は、対象とする人口集団を人口学や統計学の方法を用いて分析することができる。従来の人口史が観察を主とする歴史学であったのに対し、歴史人口学は分析を含む社会科学的性格の強い歴史研究である。その結果、歴史人口学によって見出された事象の解釈ははるかに科学的になり、従来の事実の叙述を主とする「人口学」から、著書の表題はどうあれ、少なくとも人口学的分析を含むものとなった。つまり、ソフト・サイエンスからハード・サイエンス的性格をもつように変わったのである。

 とはいえ戸籍がなかった時代のことなので、人口を推察するのも容易ではない。

 ヨーロッパの場合は、教区簿冊(教会が作成した、洗礼、婚姻、葬礼などの記録)を元に解析をおこない、日本の江戸時代だと宗門改帳(幕府がキリスト教禁制のために住民の信仰を調べた記録)が重要な史料になったという。

 またドイツの場合は、ナチスが「ユダヤ人の血」を調べるために調査した記録が重要な史料になっているそうで、宗教弾圧だったり人種差別だったりが調査の動機になっているという話は興味深い。なるほどね、「住民を支配したい」という強烈な動機があるからこそ莫大な手間暇をかけて人口について調べようということになるんだよね。

 ブラック会社が日報を細かく提出させて社員の行動をコントロールしようとするけど、案外後世になったらそういう記録が貴重な史料になるのかもしれないね。やべーやつのやべー行動が後の世では価値を持つのだ。



 またこんな話も。

 前述したように、明治以前にもマクロの統計史料がないわけではない。幕府の全国人口調査があったし、また、いくつかの藩では領内の総人口を記録した。だから総人口くらいについてであれば統計資料はあるわけだが、より詳しい出生や死亡、結婚、移動に関するマクロのデー夕というものはなかった。
 一方、明治維新以降は(正確には「宗門改帳」が明治四=一八七一年まで続いたわけだから、明治五年以降は)、ミクロの史料のない状態で歴史人口学をやらなければならなくなる。明治五年に編成された「壬申戸籍」があるが、これには身分が書いてあり、利用が法的に禁止されている。現在の社会状況では、この禁止はやむを得ない。

 なるほどね。明治時代に作られた戸籍があるが、身分が書かれていて差別につながるから利用できない、と。だから、宗門改帳があった江戸時代のほうがかえって明治時代より史料が豊富なのだとか。

 でもそれって、今の戸籍だって将来的には利用できなくなる可能性があるってことだよね。たとえば100年後の世界では戸籍に性別を記載するのは差別だってことになってて、今の戸籍を見ることもできなくなってるとか。ありえなくもないな。最近の履歴書には性別の欄がないものもあるし。



 江戸時代の人口動態について。

 日本全体の傾向としては、ほとんど人口変動がなかったが、危機だけをとると、例外なく全国人口は減っている。つまり、危機を免れた場所はまずないといっていい。しかし逆に平常年だけとると、二地域を除いて人口はだいたい増えている。その人口の増えなかった地域はどこかというと、関東地方と近畿地方である。
 これはひじょうに興味深い。なぜかというと、関東地方には江戸があり、近畿地方には京都、大坂があった。江戸の人口は百万といわれているし、京都と大坂もそれぞれ四、五十万だから、両方足すと百万近くになる。江戸時代の日本は、江戸という百万都市、京・大坂を足すと百万近い都市という、二つの人口密集地をもっていたわけだ。人口百万という都市は、現在でも相当な規模で、世界にそれほど多くはない。この二つの百万都市をもっているにもかかわらず、その地域を含む関東や近畿で人口が減っているのである。これは一見不思議なことで、そういう巨大な都市があれば、その周辺の地域では、都市に物資を供給する産業、すなわち手工業や市場向け農業生産が盛んになって、経済的に発展し、その結果人口も増えるだろうと常識的には考えてしまう。ところが、そういうところで平常年の人口が減っているのである。これには説明が必要となる。
 そこで私は、自分の造語であるが「都市アリ地獄説」を提起した。つまり都市というのはアリ地獄のようなもので、引きつけておいては高い死亡率で人を(やって来た人だけではないが)殺してしまう。だから地域全体としては人口は増えなくなる。江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところでなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないということを意味している。

 江戸と大阪・京都といった都市部には人が集まってくる。だが都市部の人口は減りつづける。なぜなら都市の死亡率は高いから。

 今のような公衆衛生の考えも技術もなかった時代、人が集まれば環境は悪くなるし、疫病も流行る。農村部のほうが健康的な生活を送れていたようだ。それでも人は都市に集まってくる(まあ農村で安定した暮らしを送れている人はわざわざ都市に行く理由がないから、都市に移住する人の生活が貧しい=死亡率が高いのは当然かもしれない)。

 これは現代にも通じるものがあって興味深い。さすがに今は都市部のほうが極端に死亡率が高いということはないが、その代わり都市部は出産率が低い。独身でも生活しやすいとか、都市のほうが周囲からの結婚・出産へのプレッシャーが少ないとか、都市部は家が狭いから多くの子どもを持ちにくいとかいろいろあるけど、とにかく出産率が低い。東京の合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの数)は1を切っている。

 都市アリ地獄は今も続いている。


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2026年1月2日金曜日

【読書感想文】浜口 桂一郎『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』 / 思いつきで制度を変えるな

新しい労働社会

雇用システムの再構築へ

浜口 桂一郎

内容(e-honより)
正規労働者であることが要件の、現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した、その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。独自の労働政策論で注目される著者が、混迷する雇用論議に一石を投じる。

 2018年刊行。積読をしているとままあることだが、なんで買ったのか自分でもわからない本。

 読んでみて、その謎がさらに深まった。なんで買ったんだろう……。

 ぼくははるか昔の学生時代、労働法研究のゼミに所属していたのだが、そのときに読んだ本のことを思い出した。めちゃくちゃ固い本だった。なんで研究者でも労務担当者でもないのに買ったんだろう……。



 派遣業について。「登録型派遣事業」というのはいわゆる一般的な派遣事業で、働いた月だけ派遣元企業から賃金が出て、働かなかったとき(仕事がないとき)は賃金が出ないというスタイルだ。

 この派遣業、やたらと目の敵にする人がいる。諸悪の根源は派遣業だとでも言わんばかりに。人身売買とまで言い出す輩もいる。

 かねてから労働界に根強いのが登録型派遣事業禁止論です。これはかつてのドイツの仕組みであるとともに、日本政府が当初検討した案でもあり、それ自体としては筋の通った議論ではあります。ただ、すでにドイツも捨てた過去の制度に固執するには、それなりの理由が必要でしょう。
 あたかも登録型派遣事業を禁止すれば労働者はすべて常用雇用になるかのような議論も存在しますが、いうまでもなく日本の労働法制は有期雇用契約をほとんど規制していませんから、「派遣切り」が「有期切り」に姿を変えるだけです。判例法理でも、有期契約を単に反復更新しただけでは無期契約と同等と見なされるわけではありません。むしろ、有期労働者の雇止めがほとんど規制なしに行えるのが日本の現状です。
 そもそも、市場経済においては労働力需要が増大したり減少したりすることはごく普通のことです。その増減に対応して臨時的に労働者を活用したりそれを停止したりすることも、本来的に禁止されるべきことではありません。世界中どこでも、一時的臨時的雇用を禁止している国はありません。問題があるのは、本来労働力需要自体は恒常的に存在するのに、つまり無期契約で雇用することが自然であるにもかかわらず、解雇規制をすり抜ける目的でわざと有期契約にしておき、必要のある限り更新に次ぐ更新を重ねておいて、いざというときにはその期間満了を装って実質的に解雇しようとすることなのです。

 そうなのよね。悪い派遣業者がいるのは事実だが、派遣業自体は何ら悪くない。派遣で働きたい人と、派遣社員を雇いたい企業がいるのだから、派遣のような有期雇用契約が生まれるのは当然のことだ。

 世の中には、繁忙期と閑散期がある仕事がある。たとえば農業従事者が農閑期である冬場だけ有期で働きたいと考えるのは当然だ。建設業なんて、大きな仕事を受注すればその間は人手が必要だが、案件のないときに社員を大勢抱えていたら会社がつぶれてしまう。

 世の中にいろんな仕事があることを知れば、調整弁となる派遣社員が必要不可欠だとわかるとおもうんだけど。2008年頃の「派遣切り」のイメージが強すぎて、派遣と聞いただけで脊髄反射で拒否反応を示してしまう人がけっこういるんだよね。



 今はすっかりなりをひそめたけど、2000年前後の頃って「終身雇用制・年功序列制をとっているから日本の企業はだめなんだ」という言説をよく聞いた(そういうやつはどうせ日本経済の調子が良かったときは「日本型雇用システムがあるから日本経済は強いんだ」とか言ってたんだろうな)。

 九〇年代から二〇〇〇年代にかけてのさまざまな改革は、それまでの日本社会のあり方がそのままでは持続可能ではないという認識に基づいていました。そのこと自体は一定の根拠のある判断であったと思われます。問題は、社会システムはそのさまざまな要素がお互いに支え合って成り立っており、一見不合理に見えるある要素を不用意に取り除くことが他の部分に好ましくない影響を与えることがあり得るという認識のないまま、ややもするとただひたすらに「悪しき規制を退治せよ」といった勧善懲悪的な演出の下で改革が推し進められた点にあるように思われます。
 それゆえ、改革への熱狂が社会全体を覆っている時期には、改革の副作用が深刻な形で噴出していても、それに言及すること自体が改革への熱意を引き下げるのではないかといった配慮から、その問題は意識的に黙殺され、逆に改革への熱狂が醒めてくると、副作用ゆえに改革を全否定する議論が噴出するという事態が起こるのでしょう。そこに欠落していたのは、社会システム総体の様子を見ながら、副作用が最低限に収まるように、漸進的に改革を進めていこうという冷静な感覚だったのではないでしょうか。

 これは雇用システムに限った話ではなく、何かあると極端なことを言い出すやつがいる。どっかの学校でいじめ自殺が起こったら「制度が悪い。制度を変えよう!」とか言い出すアホが。

 そりゃあどんなシステムにだって悪いところはある。だけど長く使っている制度にはいい点もたくさんあるし、アホなえらい人の思い付きで変更したときに良くなるという保証はどこにもない。ちゃんとあらかじめ指標を決めて変更前後の影響を計測して改革がうまくいったかどうかを検証して、定められた期間に目標達成しなければ政策の過ちを認めて引き返す……ということをすればいいのだが、アホなえらい人がそんなことをするはずがないけどね(過ちを認められるまともな人は思いつきでころころ制度を変えない)。


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【読書感想文】ダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝』 / 汝の敵を愛せる人

ダライ・ラマ自伝

ダライ・ラマ(著)  山際 素男(訳)

内容(e-honより)
チベットの宗教的、政治的最高指導者として精力的に平和活動をつづけ、ノーベル平和賞を受賞した第14世ダライ・ラマが、観音菩薩の生れ変わりとしての生い立ちから、長きにわたる亡命生活の苦悩、宗教指導者たちとの交流、世界平和への願いなどを、波乱の半生を振り返りつつ語る。チベットとダライ・ラマを知る恰好の入門書。

 

 3歳のときにダライ・ラマと認められ、中国軍に侵攻されたことで亡命政府の長となり、後にノーベル平和賞を受賞するという波乱万丈な人生を送っている第14代ダライ・ラマによる自伝。

 高野秀幸さんが『未来国家ブータン』の中でおもしろい本だと絶賛していたので読んでみた。

 ダライ・ラマといえばチベット仏教の最高位であり、チベット国の元首でもある。国民にとっては精神的支柱である。いわば大日本帝国における天皇ぐらいの大権力者だ。

 それなのに、ぜんぜん飾らない人柄であることが文章からもにじみ出ている。ダライ・ラマになった後も清掃係たちといっしょにいたずらをしたことを書いていたり、大事な式典のときに時間がかかるからトイレが大丈夫だろうかとばかり考えていたと書いていたり。

 ちなみに、ダライ・ラマは生まれたときからダライ・ラマなわけではない。先代のダライ・ラマが亡くなったときに、高僧である摂政が“視た”光景をもとに使者が国中を探しまわり、その光景通りの家を探し当て、そこに住んでいた子どもに先代の遺品とそれにそっくりな偽物を見せ、その子がことごとく本物を選んだためにダライ・ラマの化身であると認めたという。それが第14世ダライ・ラマ。まるで神話。今でもこんなやりかたが生きる世界もあるんだね。ローマ法王がコンクラーベという投票制で決まるのとえらい違いだ。



 1948~1951年に、チベットは中国共産党軍に攻め込まれて占領された。今なおチベットは自治権を失っており、中華人民共和国のチベット自治区となっている。ある日突然中国軍が攻め込んできて植民地になったわけだ。当然チベット民衆は抵抗し、中国軍はチベット人に対して残虐の限りを尽くした。多くの人が虐殺され、拷問され、経済的自由や教育の機会を奪われた。

 祖国と同胞を踏みにじられたにもかかわらず、ダライ・ラマ氏の文章からは中国に対する怒りはまるで感じられない。いや、そんなわけないだろとおもってしまう。憎しみや怒りがあふれて当然だろう。それでも憎悪や恨みは微塵も感じさせない。さすがは高僧である。


 わたしは中華人民共和国との提携の可能性を本気で考えはじめた。マルキシズムを考察すればするほど気に入ってきた。それは、万人の平等と正義に基づく制度、世界の悪への万能薬を宣言している。理論的観点からいえば、その唯一の欠点は、人間的存在を純粋に物質的側面からのみとらえようとする面に思え、これには同意しがたかった。また彼らの理想追求のために用いる手段も気にかかっていた。その硬直さがあまりに目立ちすぎる。それでもわたしは共産党員になりたいという気持すら表明した。仏教と純なマルキシズム理論との統合によって政治を導く効果的方法を編み出しうるのではなかと考えたのであり、今でもその可能性を考えている。

 祖国の敵である中国を憎むどころか、そこから学ぼうという姿勢まで見せる。

「汝の敵を愛せよ」という言葉があるが(聖書の言葉だが)、言うは易くても行うは難し、自分の愛する人を殺した国を愛することはなかなかできない。

「中国にはあれだけ多くの人がいるんだから、一部残虐なことをする人がいたとしても、大半の国民は我々と同じ平和を愛する人のはず」なんてことを書いている。よくその境地に達することができるものだ。



 ダライ・ラマ氏による平和への提言。

 チベット、中国両国民の関係改善に、何よりも必要なのは信頼の確立である。過去三十年にわたる大量殺戮によって、信じがたいだろうが、百二十五万ものチベット人が、飢餓、処刑、拷問、自殺などで死に、数万人が強制収容所に閉じ込められており、中国軍隊の撤退のみが、真の調停交渉の道を開くことができるのである。チベットにおける強大な占領軍の存在は、チベット人の嘗めてきた辛苦と抑圧をつねに思い起こさせる。軍隊の撤退こそが、友情と信頼に基づいた有意義な関係を中国との間に将来打ち樹てうる最も大切な要素なのだ。
 残念ながら中国は、わたしの提案の最初の部分を、わたしはそうは考えていないのだが、分離に向かう動きと解したようだ。わたしの意図するところは、両国民間に真の調和があれば、どちらかが、あるいは双方が歩み寄り、少なくとも妥協的態度をとるべきなのが論理的帰結だということだ。しかもチベットが権利を侵害されている側─われわれはいっさいを奪われているなのだから、中国に提供すべきものは何もない。それゆえ、相互信頼的空気を生み出すために、武器を持っている(それらが隠されていようといまいと)者がそれを引っ込めるのは理の当然である。これがわたしの平和地域という意味である。つまりだれも武器を振りまわさない地域ということだ。このことは、 両者間に信頼を生むだけでなく、中国側に大きな経済的プラスとなるはずだ。チベットに駐留する厖大な軍隊の維持費は、開発途上国にとって大変な損失だからである。

 こんな冷静な思考ができるのはすごい。(特に被害者の側は)自分の側の要求を叫びたくなるものだが、相手側のメリットを訴えることができる。

 なんと大人な対応だろう。昨今、自国の利益ばかり求める人ばかりが各国のトップに立っている。そんな態度で相互に利益のある共同関係が築けるはずがない。ダライ・ラマ氏のような人が首脳になってくれたらしいのになあ。


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