2017年10月2日月曜日

【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら

少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。

いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。

1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。





1人複数票制度の概要

もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。

ぼくが提示するのは

「1人が何票でも入れていい。ただし同一候補者に対して入れていいのは1票まで」

という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。

有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。




具体的に実行する方法

投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。

このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。





考えられるメリット

意思表示の選択肢が増える

現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。

【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。

「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。

供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。

また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。


複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?

「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。


「落としたい」という意思表示ができる

先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。

選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。

今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。

【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。

投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。



考えられるデメリット

集計の手間がかかる?

得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。

とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。

電子投票にすればもちろんこの点は解決する。


投票ミスが増える

あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。

これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。

とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。

強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。


不正がしやすい

たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。

「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。

また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。

まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。



もし導入されたらどう変わるだろうか?


さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?

候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?


変わるのは無党派層


特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。

大きく変化するのは無党派層だ。

たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。

ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。


選挙カーがなくなる?


現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。

【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。

現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。

そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。

選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。

だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。

不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。

そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?

また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。


政策が似たり寄ったりになる?


現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。

ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。

となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。

「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。

結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。

どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。


現職・与党が不利になる?


"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。

結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。


選挙協力が進む?


【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。

市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。

勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。

そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。



導入される可能性は……


ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。

実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。


上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。

なにより、与党が不利になる制度だ。

さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。

自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。


2017年10月1日日曜日

いっちょまえな署名

全国私立保育園連盟というところから署名協力の依頼がきた。


なんじゃこりゃ。

何万もの署名集めて、首相に伝えるのが「子どもの保育・成育環境向上のための改善を求めます」ってなんじゃそりゃ。

ぼくが首相だったらこんな抽象的な努力目標書かれた署名届けられても「オッケー、改善しまーす☆」って言って、その1秒後に秘書に「おいこれシュレッダーしとけ」って言ってるわ。
「ったく。おれは忙しいんだから金にならない来客は通すなって言ってあんだろ」つって。

(一応書いておくと、少しだけ具体的な要望も後半にはあった。少しだけね)



この署名用紙、めんどくさいことにこんなことが書いてある。

「〃」等の略字は避けてご署名は自署にてお願いします。

いっちょまえに。「自署にて」ですってよ。

いや一応知ってるよ。請願法ってのがあるんでしょ。署名について定めた法律。

自筆じゃなかったり住所が適当だったら無効とされることがあるんでしょ。

知ってるよっていうかさっき調べたんだけどね。知らなかったけどね。


でも無効ってなんだよ。そもそもこの署名が有効になることあんのかい。

この署名が集まったら、それ見た首相が「え!? 子どもの保育環境改善したほうがいいとみんな思ってんの? 知らなかったー。よっしゃ、軍事費全部保育園に回せーい!」ってなることあんのかい。

首相と「〇月〇日までに署名を〇万通集めたら予算を〇円増やす」って具体的な取り決めしたのかよ。してねーんだろ。だったら全部無効だよ。

住所を書こうが書くまいが無効だから、書かないほうがまだマシだよ。




デモとか署名とかの「やったった」気になる行動が嫌いだ。

身内でやるならいいけど、考え方が同じかどうかわからない人にまで協力を求めてくるのがいやだ。

趣旨に賛同できなくて署名をしないこともあるが、それでも断ったときにはいくばくかの罪悪感を感じる。

なぜ他人の思い出作りのためにこっちが罪悪感を覚えにゃあならんのだ。


デモにしても署名にしても、達成感味わうために文化祭やんのはいいけど他人を巻きこまないでほしい。

やるんなら寄付金集めるとか選挙の候補者擁立するとか地元議員と取引するとか、もうちょっとマシなことあるだろうよ。
それが効果あるかどうか知らないけど、署名集めて総理大臣に持っていくよりは可能性あるだろうよ。
(ちなみに私立保育園連盟は寄付金も募っていたからそれには協力した。主張自体に反対するものではないからね。)

署名なんて、何十時間もかけてちまちまベルマーク集めて1,000円ぐらいの文房具もらう行為よりももっと不毛だわ。

こんなことのために他人の時間を奪おうとするなよ。

やりたいんなら1人で千羽鶴折って届けろよ。





世の中の署名嫌いのみなさん!

「署名をなくそう」という署名を集めて世の中を変えましょう!



2017年9月29日金曜日

こどもだましじゃないえほん/馬場 のぼる『11ぴきのねこ マラソン大会』【読書感想】

『11ぴきのねこ マラソン大会』

馬場 のぼる

内容(e-honより)
アコーディオン式に折りたたまれた2.8メートルのパノラマ画面で、ねこの国のマラソンのスタートからゴールまでが一望できます。おなじみの“11ぴきのねこ”を含む21匹のランナーたちが、難コース、珍コースをくぐりぬけ、ゴールめざして力走します。沿道には応援のねこたちばかりでなく、町や村でのありとあらゆるねこたちの生活があふれ、数えきれないドラマが描かれています。馬場のぼるの絵本の主人公、名脇役もたくさん登場しています。



つまらないえほんの共通点


4歳の娘と一緒に、毎晩えほんを読んでいる。

週末に図書館で10冊ぐらい借りてきて、1日に1冊か2冊を読む。

月間で数十冊のえほんを読んでいるからぼくも娘も相当なえほん通だといってもいいだろう。

大人が読んで「おっ、このえほんはおもしろいな」と思うえほんは、たいてい子どもも気に入る。

逆に「大人はつまらないけど子どもは大好き」というえほんはまずない。
子どもだましの絵本は、子どもにもそっぽを向かれるのだ。


どういうえほんがつまらないのかというと、
  • 見え透いた教訓がある
  • いい子しか出てこない
  • ストーリーが予定調和
こういうえほんはつまらない。

「ともだちにいじわるをしたらけんかになっちゃった。でもあやまったらゆるしてもらえた。ごめんっていうことはだいじだね。ともだちっていいよね」みたいなクソメッセージを伝えようとするえほんは、子どもも大人も二度と読もうとしない。

村上龍がこないだの芥川賞の選評で
小説は「言いたいことを言う」ための表現手段ではない。言いたいことがある人は、駅前の広場で拡声器で叫べばいいと思う。
と書いていたが、えほんも同じだと思う。
友だちが大事と言いたいなら「ともだちはだいじ」と書けば8文字で終わる。それでいい。どっちみち伝わんないし。




ひとまねこざるは密猟者のおはなし


『ひとまねこざる』というえほんのシリーズがある。おさるのジョージシリーズ、といったほうがわかりやすいかもしれない。

ややこしいが、『ひとまねこざるときいろいぼうし』が1作目で
『ひとまねこざる』は2作目。

このシリーズ、特に昔の作品はすごくおもしろい。
ぼくも子どもの頃、『ひとまねこざる びょういんへいく』や『ろけっとこざる』を何度も読んだ。

黄色い帽子のおじさんがただの密猟者だし、ジョージはいらんことしかしないし、物語は一貫性がなくて支離滅裂だし、先の展開が読めなくてすごくわくわくする。

ジョージはおさるだから後先考えずに行動するし、悪さをしてもあっさり許されるし、きいろいぼうしのおじさんには責任感がまったくないし、楽しくてしょうがない。
(最近の作品はやたら教訓めいているのが残念)





みんな大好き11ぴきのねこ


『11ぴきのねこ』シリーズは、おもしろいえほんの条件をすべて備えている。

ぼくも娘もお気に入りのシリーズだ。


1作目の刊行は1967年

すっとんきょうなことが起こる。

登場人物の行動が理路整然としていない。目先の快楽だけで行動する。

メッセージ性がない。


だいたい11匹である必然性がまったくない。
『11ぴきのねこ』『11ぴきのねことあほうどり』『11ぴきのねことぶた』『11ぴきのねこふくろのなか』『11ぴきのねことへんなねこ』『11ぴきのねこどろんこ』
どの作品も、11匹でなくても成立する。10匹でも12匹でもいい。
なぜ11というキリの悪い数字になっているのかまったくわからない。

とらねこたいしょう以外は個性がない(見た目も一緒、名前もない)。

謎の生き物(怪獣とかウヒアハとか)がいきなり出てきて何の説明もなく終わる。

よくわかんないことだらけだ。


だから、おもしろい。

大人でも先の展開が読めない。

すべて理屈で説明がつくような話は文学じゃない。
そう、『11ぴきのねこ』はエンタテインメントであり文学なのだ!




『11ぴきのねこ マラソン大会』


毎週図書館に行くので毎日のように新しいえほんを読んでいる娘が、『11ぴきのねこ マラソン大会』を見たときはいつにもまして大興奮していた。

文字通り飛び上がってよろこんでいた。


なにしろ全部広げると2.8メートルもある。
己の身の丈の倍以上もあるのだ。

それだけでも娘にしたら衝撃的だったのに、その長い紙に所狭しとねこたちの絵が描かれている。

何百匹のねこたちがそれぞれ違うことをしているので、いつまで見ても飽きない。

見るたびに新しい発見がある。

たぶん子どもには理解できないだろうな、というネタもある。でも子どもはそういうのが好きなのだ。


読み終わるなり娘は「明日も読もう!」と言った。

翌日も翌々日も読んで、ぼくが「明日は別のえほん読もっか」と言うとうなずいたが、翌日になると「やっぱり今日も11ぴきのねこ読んでいい?」と訊いてきた。

こんなにも夢中になるなんて。

2,000円以上もするからちょっと躊躇したけど、買ってよかった。



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2017年9月28日木曜日

寓話を解説しちゃだめですよ/『茶色の朝』【読書感想】

『茶色の朝』

フランク パヴロフ (物語) ヴィンセント ギャロ (絵)
藤本 一勇 (訳) 高橋 哲哉 (メッセージ)

内容(e-honより)
心理学者フランク・パヴロフによる反ファシズムの寓話に、ヴィンセント・ギャロが日本語版のために描いた新作「Brown Morning」、哲学者高橋哲哉のメッセージが加わった日本だけのオリジナル編集。

ある日、茶色以外の犬や猫を飼ってはいけないという法律が施行される。
"俺"とその友人は法律に疑問を持つが、わざわざ声を上げるほとでもないと思い"茶色党"の決定に従う。茶色の犬や猫は飼ってみればかわいいし、慣れてみればたいしたことじゃない。
だが"茶色党"の政策は徐々にエスカレートしてゆき――。

という短い寓話。3分で読めるぐらいのお話。

いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、
俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?

だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。


それほどひねった話ではないが、シンプルなストーリーだからこそ読者の想像力に訴えかけてくる。


それだけに、寓話の後についている解説は完全に蛇足。
この文章はこういう意味なんですよ、このくだりはこういうことを伝えたいんですよ、ってひとつひとつ説明していて野暮ったらしいことこの上ない。
寓話を解説したら文学にならないでしょ。
そこから何を読み取るかは読者に任せましょうよ。



この本を読んで、岩瀬彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』を思いだした(→ 感想はこちら)。
『「月給100円サラリーマン」の時代』の中にこんな一節があった。
 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
  彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。

太平洋戦争で出兵していった(そして命を落とした)兵士たちの多くはずっと軍人だったわけじゃない。数年前までサラリーマンをしていた人たちだった。
日本が戦争を進めることには賛成せず、かといって積極的に反対もせず、少しずつ変わってゆく状況を黙って受け入れているうちに、いつのまにか逃げ場がなくなって戦地へと駆りだされてしまった。

これはまさに『茶色の朝』で描かれている世界だ。
何も言わないことは、今起こっていることを承認しているのと同じなのだ。


だからみんなデモをして声を上げよう!
……とは思わない。ぼくはデモをするやつらを軽蔑しているから。
デモをすることによって身内の結束が固まることはあっても、新たな仲間が増えることはない(むしろ潜在的な仲間が離れてゆくだけ)のだから。

デモって言うなれば大勢が決した後にする最後の足掻きであって、デモをしなくちゃいけないような局面に追いこまれてる時点でほんとはもう負けが確定しているのだ。
10点を追いかける9回裏2アウトの場面で一度も公式戦に出たことのない3年生を出す"思い出代打"みたいなもので、思い出をつくる以上の効果はない。


ということで、我々ができる最低限かつ最大の行動は、数年後を見すえて選挙に行くことですわ。
あとできることといえば選挙に出馬することとか、教育現場に入っていって若い人を洗脳することとか。


とはいえ教育で洗脳するってのもなかなか難しいよね。
一説によると、現在日本で極右思想の持ち主って中高年男性が多いらしい。
戦後平和教育をもっとも濃厚に受けていた世代が右翼化してるってのは興味深いね。平和教育の反動なのかな。
彼らがほんとに否定したいのは日本の戦後史じゃなくて、自分自身の歴史なのかもしれないね。

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2017年9月27日水曜日

万国のかわいそうなスポーツ選手よ、団結せよ!


60代半ばのおっちゃんとしゃべっていて、こんな話を聞いた。

高校生のとき修学旅行で東北の三陸海岸に行った。50年ほど前のことだ。
『あまちゃん』でも有名になったが、当時から海女による漁の盛んな地域だった。
海女の仕事を見学した後、ボールを手渡された。高校生たちが海に向かってボールを投げ込むと、海女たちが潜ってボールをとってくる。その様子を見てひとしきり楽しんだ。

いくら50年も昔のこととはいえ、戦後日本でそんな非道なことがおこなわれていたのだろうか。
よくほらを吹くおっちゃんなので「うそでしょ?」と訊いてみたが「ほんま、ほんま」と妙に真剣な顔で言う。
半信半疑だったのだが、数ヶ月後、別のおっちゃんからも同様の話を聞いた(ただしそのおっちゃんが体験したのは三陸海岸ではなく三重県の伊勢だと言っていた)。

別々のおっちゃんが同じ話をしているので、おそらく本当にあったアトラクション(っていうのか?)だったのだろう。
しかも東北と伊勢志摩という遠く離れた場所でおこなわれていたということは、たまたま誰かがちょっと思いついてやってみたというような類のものではなく、継続的におこなわれていたポピュラーなイリュージョン(っていうのか?)だったにちがいない。

また、どちらのおっちゃんの話にも共通しているのは、「海女さんに対して申し訳ないとはまったく思わなかった」ということだった(昔はこんなんやってたで、と笑いながら話していたから今も罪悪感などは感じていなさそう)。
奈良公園の鹿にせんべいをやるぐらいの感覚で海女さんに向かってボールを投げていたようだ。


高校生が冷たい海に投げ込んだボールを半裸のおばちゃんたちが苦しい思いをして取ってくる。
まるで鵜飼いの鵜じゃないか。
想像するとかなり異様な光景だ。しかし日本が豊かになっていることを象徴しているような光景でもある。成長する国では若者が力を持っている。

[海女 ボール] [海女 取ってこい] といったキーワードで検索してみたがこれといった情報は見当たらないので、今はやってないのだろう。
今高校生にそんなことやらせてたら非難殺到だろうな。





と思ったのだが、はたして海女さんにボールを拾いに行かせるのは人道にもとる行為なのだろうか。

ぼくは大学生のとき、日本に旅行に来たカナダ人に京都を案内したことがある。
清水寺の近くで人力車に乗った。カナダ人が乗ってみたいと言ったので、ぼくも一緒に乗ったのだ。
車を引いてくれたのはたくましいお兄さん。年齢を聞くと26歳だと言っていた。当時のぼくよりずっと年上だ。


ぼくは罪悪感を覚えた。
酷暑の下、親の金で大学に行かせてもらっているごくつぶしが金に物を言わせて年長者に車を引かせてのんびり京都観光。
いいのかこれで。
今のおまえは資本主義の醜い豚そのものじゃないか。万国の労働者よ、団結せよ!
という思いが胸に去来した(いやべつにマルクス主義者じゃないけど)。

とはいえ「ぼく、降りて走りますよ。なんならぼくが車を引くんでお兄さんは車に座っててください」と言うわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらじっと座っていた。
車引きのお兄さんだって客に乗ってもらわないことには金にならないからこれでいいんだ、と自分に言い聞かせながらぼくは三年坂を揺られた。

はじめて乗った人力車はぜんぜん楽しくなかった。
いっそ足を骨折してたらよかったのに、と思った。そしたら何の遠慮も感じず人力車に乗れたのに。




人力車に乗ることに申し訳なさを感じるのはぼくだけじゃないと思う。
人を乗せた車を引くなんて、本来なら機械や馬や牛がやるはずの仕事だ。タクシーやバイクでも行ける距離をわざわざ人が汗水たらして車を引きながら走るのは、娯楽性以外の何物でもない(料金だってタクシーよりずっと高い)。
だが、とりあえず現代日本においては人力車は非人道的な乗り物だとはされていない。今でも観光地ではよく人力車が走っている。

一方で海女さんに潜ってボールを取りに行かせる話を聞くと「ひどい」と思う。
人力車を引かせる行為と、やっていることは違うのだろうか。
「誰かの娯楽のためにやらなくていい肉体労働をさせている」という点ではどちらも同じなのに。

もっといえばプロスポーツ選手だって「見世物になるために苦しい思いをしている」わけだが、彼らをかわいそうと言う人はほとんどいない。
競走馬を見て「ムチを入れられてむりやり走らされてかわいそう」という人はいても、陸上選手を見て「かわいそうに」と涙を流す人はいない。
海女さんはボールを取りに行くことでお金をもらえるが、多くのランナーはお金ももらえないのに懸命に走っているのだ。なんとかわいそうなことか。

ボールを取りに行かされる海女さんはいなくなっても、今日もバレーボール選手は飛んできたボールを落とさないよう必死で走る。

なんと非人道的行為だろう。