2017年7月28日金曜日

読みかけの本を抱えて死ぬ




ぼくは常に5~6冊「読みかけの本」を抱えている。
今読みかけている本は以下の6冊だ。
  • 星 新一『殿さまの日』(時代小説)
  • 読売新聞 政治部『基礎からわかる選挙制度改革』(ノンフィクション)
  • ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(SF小説)
  • NHKスペシャル取材班『僕は少年ゲリラ兵だった』(ノンフィクション)
  • 伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』(エッセイ)
  • 佐藤 義典『図解 実戦マーケティング戦略』(ビジネス)
ジャンルもテーマも書かれた時代もバラバラだ。
まだ読み終わっていない本があるのに他の本にも手を出すのだ。


寝る前に読む本


寝る前はKindleで電子書籍を読む。
なぜならKindleなら灯りを消したままでも読めるし、Kindleはブルーライトを発しないらしいからその後スムーズに睡眠につなげられる。さらにメモをとりたいときでも、端末にそのまま記録できるからメモ帳や携帯電話を取りだす必要がない。寝る前の読書に適している。
電子書籍リーダーは、紙の本以上に雨に弱いとか、充電が切れたら読めないとか、通信環境がないと書籍の購入ができないとかいくつか弱点があるけど、枕元で読む分にはそういった心配はすべて無縁だ。
Kindleは寝る前の読書でこそ最大のパフォーマンスを発揮すると思う。

ぼくのKindleには、読みかけの本が常に2冊入っている。そのときの気分で読みたいほうを読む。

通勤時に読む本


ぼくは電車通勤で、電車に乗っている時間は片道約20分。これは本を読むには長すぎず短すぎずちょうどいい。
電車では立って吊り革につかまって読むことが多いので、片手で持ちやすい文庫か新書を読む。
電子書籍で買った本が溜まってきたらKindleで読むこともあるが、誰かの足の上に落してしまったら怒られるだろうなとか、電車とホームの隙間に落としてしまったら大損害だなとかいろいろ心配してしまう。
やはり文庫か新書がいい。電車内は他にやれることがなくて集中できるので、難しめの内容でも頭に入ってきやすい。ノンフィクションをよく読む。

自宅ですき間時間に読む本


ぼくは寝る前を除き、まとまった「読書の時間」というものをほとんど持っていない。
家にいる間はたいがい何かをしながら本を読む。着替えながら読んだり、テレビの音だけ聞きながら読んだり、子どもと遊びながら読んだりしている。
リラックスしているし、他のことをやりながら読むので難しい内容は頭に入ってきにくい。だからこういうときは小説やエッセイを読むことが多い。

汚れてもいい本


先述したように、ながら読みをすることが多い。今は娘とお風呂に入ることが多いが、ひとりで入浴するときは湯船で本を読む。ひとりで食事をするときも、行儀が悪いけど本を広げながらめしを食う。
外食時では、なんとなく店の人に悪い気がしてカウンター席や混雑しているときは遠慮するけど、そうでなければ本を読みながら食べることも多い。そのために「本を読みながら食べやすいもの」という基準で料理を注文する。両手を使わないといけないものや汁が飛びやすいものは避ける。
また、休みの日は娘と公園に出かけるので、屋外で本を読むことも多い。

風呂や食卓や公園で読むと、本は汚れたり傷んだりしやすい。
図書館で借りた本はもちろん、ハードカバーの本もなんとなく汚すのは気が引けるので、外出先や風呂で読む本は文庫や新書が多い。

職場で読む本


仕事中、作業に疲れたときにぱらぱらと読む。さすがに仕事と関係のない本は読まない。


なぜ同時に読むのか


なぜこんな読み方になったのか。
べつに意識してやっているわけではない。数多くの本を読んでいるうちに、自然にこうなった。昔は1冊読みおわるまでは別の本にかからなかったけど、2冊になり3冊になり、いつの間にか5~6冊になっていた。
このやりかたがいちばん量をこなせるからだ。

まず、同じ本ばかり読んでいると飽きる。
「ページをめくる手が止まらなくて一気に最後まで読みました!」みたいな感想がよくあるが、そんな本は50冊に1冊あるかどうかだ。

本を読むのが苦手な人は、1冊だけを一生懸命読もうとするから読めなくなる。
いい本でも読むのが嫌になる瞬間はある。今の心境とあわない、というときもある。後半からおもしろくなるけど前半は退屈な小説も多い。
そんなとき、無理をして読むのはよくない。かといって投げだしてしまうのももったいない。いい方法は「寝かせておく」だ。
何冊か同時に読んでいるとそれができる。「本は読みたいけど今はこの本の心境じゃない」というときには、他の本に逃げるのが正解だ。

ぼくのKindleには常時2冊の未読本が入っていると書いたが、重めの小説と軽めのエッセイ、サイエンス系のノンフィクションと本格派でないミステリ小説、など「読むのにパワーがいる本」と「あまりパワーを要しない本」がセットで入っていることが多い。意識しているわけではなく、自然とそうなるのだ。


同時に読むことの効用


複数冊の本を並行的に読んでいると、当然ながら1冊を読み切るまでに要する時間は長くなる。常に頭のなかに本が溜まっているような状態だ。
そうすると、ときどき本と本がつながる瞬間が訪れる。「これは別の本に書いてあったことと似た考えだ」と気づく。
また本以外から得た情報とつながることもある。人から聞いた話が本の内容と関連していることを見つけたりする。
こういう発見は誰でもあると思うが、頭の中を本で埋めているその容積が大きいほど、その機会は増える。

……と書いたが、これは後付けの理由だ。
何冊も読んでいたら本が別の情報と有機的につながりやすいということに気付いただけで、狙ってはじめたわけではない。

読書にとって重要なのは「読んでいる時間」だけではない。「読みかけている時間」から得られるものも多い。ぼくが速読をしないのはそれが理由だ(うそ。やろうとして挫折しただけ)。


同時に読む人はけっこういる


成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』という本がある。
成毛さんというのはHONZという書評サイトを運営している読書家だ。

ぼくはこの本を読んだことがない。たぶんこの先も読むことがない。
なぜなら、たぶん同じような読み方をしているんだろうな、と思うからだ。もう実践してるからぼくには必要ない(もしぜんぜん違ったらごめん)。


同時に読む方法は、ある程度の量をこなすためにはいい方法だと思う。
だけどデメリットもある。

ついつい本を買いすぎてしまうこと。
家の中が本だらけになること。
気づくと何カ月も鞄に本が入っていてぼろぼろになっていること。

万人にはおすすめしないけど、「もっと本を読みたいけど読めない」という人はやってみてもいいんじゃないでしょうか。



2017年7月27日木曜日

まとめサイトはプロパガンダに向いている/辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』【読書感想エッセイ】

辻田 真佐憲 『たのしいプロパガンダ』

内容紹介(Amazonより)
本当に恐ろしい大衆扇動は、娯楽(エンタメ)の顔をしてやってくる!

戦中につくられた戦意高揚のための勇ましい軍歌や映画は枚挙に暇ない。しかし、最も効果的なプロパガンダは、官製の押しつけではない、大衆がこぞって消費したくなる「娯楽」にこそあった。本書ではそれらを「楽しいプロパガンダ」と位置づけ、大日本帝国、ナチ・ドイツ、ソ連、中国、北朝鮮、イスラム国などの豊富な事例とともに検証する。さらに現代日本における「右傾エンタメ」「政策芸術」にも言及。画期的なプロパガンダ研究。



プロパガンダ
特定の考えを押しつけるための宣伝。特に、政治的意図をもつ宣伝。
(「大辞林」より)

先日友人と話しているときに「プロパガンダ+(国名)」で画像検索するとおもしろい、という話になった。
特におもしろいのはロシアとアメリカ。東西の双璧だっただけあって、プロパガンダにかけている力もすごい。
いや逆に、プロパガンダに成功したからこそ大国になれたのかもしれない。
この本を読むと、うまくいっている組織というのは広報の持つ力を理解しているのだな、と思う。

プロパガンダというと、政治色の強いポスターを作って攻撃的な音楽を流して拡声器でスローガンを連呼して……というようなイメージがあるが、そんなものでは誰も見向きもしない。成功しているプロパガンダとはたのしいものなのだ、というのが『たのしいプロパガンダ』の主張だ。

プロパガンダというと、政府や軍部が作って一方的に国民に押しつけたと思われがちだが、実際はそんな単純ではなかったのである。現に民間企業は利益に敏感で、満洲事変や日中戦争が勃発するとさっそく「愛国歌」「国策映画」「愛国浪曲」「愛国琵琶」「国策落語」「軍国美談」などと冠した、時局便乗的な商品を続々と売り出していった。今では考えられないが、当時の日本では戦争といえば、領土が増え、国威が上がる輝かしい歴史が想起された。そのため、「勝った、勝った」と煽る商品が出てきてもまったく不自然ではなかった。
 これに対して、政府や軍部はときに後援や推薦をしてお墨付きを与え、ときに発禁処分や呼び出しなどを行って規制し、自分たちの都合のいいように民間企業の商品をコントロールしようとした。

たとえば、今では戦争のイメージとはまったく無縁のタカラヅカ(宝塚歌劇団)も、『太平洋行進曲』など戦争を扱った芝居を上演して、積極的に戦争を応援していた。
しかも、序盤はコメディ調にして観客を飽きさせないようにし、中盤からシリアスな戦闘シーンに教訓めいたセリフを乗せていたというから、かなり巧みなプロパガンダだ。これも軍に強制されてやっていたわけではなく、「こういうものがウケる」から作られたものだ。


アメリカでも同様で、今では平和の象徴のようなディズニー映画でも、戦時中は敵国を批判・揶揄するような物語が作られていた。

以下、ドナルドダック主演の『総統の顔』という作品の内容。

 映画の内容は、ドナルドダックがナチ・ドイツを模した「狂気の国」で暮らしているというもの。ドナルドダックは朝から壁に掲げられた肖像画に向かって、「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒロヒト! ハイル・ムッソリーニ!」と挨拶させられる。そして貧しい朝食もそこそこに、『わが闘争』の読書を強要され、軍需工場の労働へと駆り出されてしまう。
 工場の作業は、チャップリン監督・主演の映画『モダンタイムス』よろしくベルトコンベアーで運ばれてくる弾丸を次々に組み立てるというものだが、たまに弾丸にまじってヒトラーの肖像画が流れてくる。すると、ドナルドダックはその都度、肖像画に「ハイル・ヒトラー!」と叫ばなければならない。この様子は実に滑稽で、今でも見る者の笑いを誘う。
 そして過酷な労働に、ドナルドダックは次第に精神に変調をきたし、兵器が飛び交うサイケデリックな幻覚を見る。ここの映像はディズニーのアニメとは思えないほど、おぞましいものがある。ところが、その途中で目が覚める。なんと、以上の光景は夢だったのだ。ドナルドダックは部屋に飾られた自由の女神の模型にくちづけし、米国の自由を讃えて終幕となる。
 主題歌「総統の顔」は劇中に何度も使われ、その特徴的なメロディは観賞者の耳を離さない。


今この内容を見ると「なんちゅうストーリーだ」と思ってドン引きだけど、当時のアメリカ人はこれを観て笑っていたのだろう。
今の日本人だって「北朝鮮はネタにしていい」って風潮があって国家首席を小ばかにした冗談をあたりまえのように口にしているけど、50年後の日本人が見たら「隣国である北朝鮮をあからさまにばかにするなんて、当時の日本人はなんてはしたない人たちだったんだ」と思うかもしれないよね。



『たのしいプロパガンダ』では、戦時中の日本やナチス時代のドイツから、現代の北朝鮮、ISIL(イスラム国)、オウム真理教などのプロパガンダの手法が紹介されている。
……というと「プロパガンダというのはヤバい国家・団体が使うものだな」という印象を持たれるかもしれないが、そんなことはない。どの国だってやっているし、逆にうまくやっている国ほど巧みすぎてそれが宣伝活動だと気づかれないほどだ。

もし今日本が戦争をするとしたら、まちがいなくAKB48あたりはまっさきにプロパガンダに起用されるだろうね(今でもプロデューサーは国家権力と近い位置にいるし)。
若者のイメージを変えるのがいちばん手っ取り早いし、そのためには人気のアイドルやミュージシャンを使うのが効果的だから。

政治でもプロパガンダは巧みに利用されている。
たとえば大手まとめサイトのいくつかはある政党と結びついていると言われている。事実かはわからない。でもその手のサイトを見ると、たあいのないニュース記事や笑えるネタに混じって、かなりの割合で特定の政党を非難する記事が掲載されている。
『世界のおもしろ動画』や『ネコの決定的瞬間をとらえた写真』みたいな記事の間に『××党の××が「××」とバカ丸出しの発言』なんて政治主張の強い記事が唐突にはさまれるのはぼくから見たらかなり異様なのだけど、違和感なく「そうか、××はバカなのか」と鵜呑みにする人もいるんだろう。
まとめサイトって、都合のいい主張だけを恣意的に並べることで、さも「いろんな意見があるけど××だけは共通認識である」かのように見せることに向いているから、プロパガンダに適しているよね。
それが〇〇党が密かにやっていることなのか、それとも〇〇党の支持者が勝手にやっていることなのかはわからないが、少なくとも誰かが社会情勢を誘導しようとしていることはまちがいない。

プロパガンダ=悪と単純にはいえないけど、「あー今誘導されそうになってるな」って自覚はしといたほうがいいね。
楽しいものほど要注意。



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2017年7月26日水曜日

雨のち晴レルヤ


ゆずの楽曲『雨のち晴レルヤ』。
娘は赤ちゃんのとき、朝ドラの主題歌だったこの曲が大好きだった。
どれだけ泣いていてもこの曲が流れるとぴたっと泣き止んだ(曲が止まるとまた泣く)。
朝ドラのオープニングが流れると、動きを止めて食い入るように見ていた。熱心すぎて怖いぐらいだった。
ゆずのCDを買ってきて、娘がぐずるたびにこの曲だけを何度も何度もリピート再生していた。

そんな娘も4歳に。
テレビからたまたま『雨のち晴レルヤ』が流れてきたけど、見向きもしない。
「この曲知ってる?」と訊いてみたが、「知らない」とつれない返事。
毎日10回以上も聴いていたのに。

もう音楽で泣き止む歳じゃなくなったんだね。
寂しいけど成長したってことなんでしょう。
ありがとう、ゆず。
娘はゆずの歌声を忘れちゃったみたいだけど、お父ちゃんはこの曲を聴くと赤ちゃんだった娘をだっこしたときの軽さを思いだすよ。


2017年7月25日火曜日

太平洋戦争は囲碁のごとし/堀 栄三 『大本営参謀の情報戦記』【読書感想エッセイ】

堀 栄三 『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』

内容(「e-hon」より)
「太平洋各地での玉砕と敗戦の悲劇は、日本軍が事前の情報収集・解析を軽視したところに起因している」―太平洋戦中は大本営情報参謀として米軍の作戦を次々と予測的中させて名を馳せ、戦後は自衛隊統幕情報室長を務めたプロが、その稀有な体験を回顧し、情報に疎い日本の組織の“構造的欠陥”を剔抉する。

戦時中に陸軍大本営の参謀を務め、戦後は自衛隊で西ドイツ大使館防衛駐在官を務めた堀栄三氏による、情報戦に関する本。
文章を書くプロではないので文章が読みづらい。
「堀は~」と書いているので、ん? 自分のお父さんのことを書いているのか? と思ったら、自分のことを「堀」と読んでいるのだ。己のことを「えりかは~」と語る出来のよくない女かよ、おじいちゃん!



文章はさておき、情報戦、戦術に関する記述はおもしろい。
平易な説明がなされているので、軍事に関してど素人のぼくでも感覚的に理解しやすい。

繰り返し語られるのは、「点と線」の説明。

「大本営作戦課はこの九月、絶対国防圏という一つの線を、千島─マリアナ諸島─ニューギニヤ西部に引いて絶対にこれを守ると言いだした。一体これは線なのか点なのか? いま仮りにウェワクに敵が上陸してきたとして、どこの部隊が増援に来られるか? いままでのブーゲンビル、ラエ、フィンシュハーフェン、マキン、タラワ島みんな孤島となってしまって、一兵どころか握り飯一個の救援も出来ていない。アッツ島が玉砕する間、隣のキスカ島は何が出来たか? 要するに制空権がなければ、みんな点(孤島)になってしまって、線ではない。線にするにはそれぞれの点(孤島)が、船や飛行機で繫がって援軍を送れなければいけない。そのために太平洋という戦場では制空権が絶対に必要なのだ。大事な国防圏というのが有機的な線になっていないから、米軍は自分の好きなところへ、三倍も五倍もの兵力でやってくる。日本軍はいたるところ点になっているから玉砕以外に方法がない。あとの島は敵中に孤立した点だから、米軍は放っておく、役に立たない守備隊どころか、補給が出来ないから米軍は攻めてこないが、疫病と飢死という敵が攻めてくる。
 自分はこれを米軍の『点化作戦』と呼んでいる。大きな島でも、増援、補給が途絶えたら、その島に兵隊がいるというだけで、太平洋の広い面積からすると点にさせられてしまう。

 土地を占領することは陸軍の任務であったが、それは米軍では空域を占領する手段でしかなかった。従って主兵は航空であって陸軍は補助兵種に過ぎなかった。陸軍が占領する土地の面積は、そこに陸軍が所在している面積と大砲の射程だけの土地であるから太平洋の広さから見ると点のようなものである。それに比較して空域を占領した場合は、戦闘機の行動半径×行動半径×三・一四であるから、仮りに戦闘機の行動半径が五百キロとすると、この占領空域は実に、七十八万五千平方キロと恐ろしいような数字になる。これが航空を主兵とした米軍と、依然歩兵を主兵と考えていた日本軍の太平洋上の戦力の相違であった。戦略思想の遅れは、こんな大きな数字的懸隔となって現れてしまうのである。

日本軍は太平洋の島々を占領して陸軍に守らせていたが、それは「点」をつくっていただけで、太平洋という広大な戦場の「面」を多く獲得するためには米軍のように「線」を確保することが必要だった、というのが筆者の主張だ。
  • それまで中国やロシアと大陸で戦っていたから高地を抑えて要塞をつくることが勝利につながったが、戦場が大洋であれば高地とはすなわち「制空権」である。
  • 陸戦では、守るほうが攻めるほうより圧倒的に有利である。だが太平洋の島においてはその逆で、島を占領しても包囲されてしまえば何もできない。
  • 点ではなく線をつくるためには補給が何より重要であるが、日本軍は補給をまったく重視していなかった。結果、島を占領している軍は孤立してしまい、米軍が攻め込むまでもなく病気や飢えで自滅した。
といったことがくりかえし語られている。

なるほどねえ。
これって囲碁の考え方そのものだよねえ。囲碁では石の「生き死に」という考えが重要で、どれだけ石があっても死んでいる(=生きている石とつながっていない)のであれば意味がない。
だから点在する石(自軍の戦力)をいかに有機的につなげるかが重要となるわけで、それができなかった日本軍が敗れたのは必然だったのだろう。
しかし囲碁という文化を持っていた日本にその考え方ができず、おそらく囲碁などやったこともない米軍が囲碁的戦術を使っていた、というのは皮肉だね。



諜報活動という観点からみると、真珠湾攻撃は大失敗であったという話。

 戦争中一番穴のあいた情報網は、他ならぬ米国本土であった。日本の陸海軍武官が苦労して、爵禄百金を使って準備した日系人の一部による諜者網が戦争中も有効に作動していたなら、サンフランシスコの船の動きや、米国内の産業の動向、兵員の動員、飛行機生産の状況などがもっと克明にわかったはずだ。いかに秘密が保たれていたとしても、原爆を研究しているとか、実験したとか、原子爆弾の「ゲ」の字ぐらいは、きっと嗅ぎ出していたであろうに、一番大事な米本土に情報網の穴のあいたことが、敗戦の大きな要因であった。いやこれが最大の原因であった。日系人の強制収容は日本にとって実に手痛い打撃であった。
 日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利をあげて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。日本人が歓声を上げたとき、米国はもっと大きな、しかも声を出さない歓声を上げていたことを銘記すべきである。
 これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦(作戦)が大事だったか、情報(戦略)が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここから始まった。寺本中将が開戦に不満を表した理由もここにあった。

真珠湾攻撃はたしかに奇襲として成功したわけだけど、不意打ちをしたことで(宣戦布告してたという説もあるけれど)アメリカに対して「米国内にいる日系人を強制収容する」という口実を与えてしまった。真珠湾攻撃がなければ非人道的な行為だとして国内外から反対の声が上がっただろうからね。
強制収容された日系人の中には日本軍のスパイもいただろうし、スパイとまではいかなくても本国に情報提供してくれる人はいたはず。
結果として敵国の情報入手の手段を絶たれてしまった。物量で劣る日本がアメリカと渡り合うためには情報で優位に立つしかなかったのに、その可能性も潰えてしまったわけだ。

まあアメリカの情報をもっと入手できたとしても日本がアメリカに勝つ可能性は万にひとつもなかっただろうけど、それでももう少し優位な条件で講和につなげるとか、少なくとも沖縄上陸や原子爆弾を落とされる前に終戦させられた可能性はあるわけで、こう考えると情報入手の可能性をなくしてしまった真珠湾攻撃の罪は大きいなあ。



この本から学ぶことは多い。
テレビディレクターの藤井健太郎さんが『悪意とこだわりの演出術』の中で、こんなことを書いていた。
 逆に、何かを悪く言ったりしているとき、意図的に事実をねじ曲げていることはまずあり得ません。悪く言われた対象者からは、事実だったとしてもクレームを受けることがあるくらいなのに、そこに明らかな嘘があったら告発されるのは当然です。
 そんな、落ちるのがわかっている危ない橋をわざわざ渡るわけがありません。そんな番組があったらどうかしてると思います。どうかしてる説です。

真珠湾攻撃の件とこの話に共通するのは「敵対する相手にこそ紳士的に、ルールを守って接しなければならない」という教訓。さもないと相手につけいる隙を与えることになるから。
人の悪口を言おうと思っている人はご参考に!



海軍と陸軍の考え方の違いについて。

 海軍は海という一面平坦で隠れることの出来ない水面を戦場として、自分の大砲の口径が何インチであり、相手の大砲は何インチであるから、その飛距離からどちらかの勝ち、と勝敗は敵とかなり離れたところで数字的に決められる。従って米軍の戦力と自軍の戦力とを、戦う前に計算してしまう。よほどの悪天候や、夜戦でもない限りこの数字をひっくり返すことは出来ないと考えるようになる。
 ところが陸軍は、桶狭間の戦いに代表されるように、兵力の多い方が必ず勝つとは限らない。夜暗も、濃霧も、地隙も、森林も、山岳もある。利用すべきものは全部利用して、奇襲で成功した例は、近代戦の中にも沢山ある。勢い必勝の信念こそが第一で、兵力の多寡や兵器の優劣ではないという教育になりやすい。
 この点から陸海軍の伝統的な思想が出来上った。海軍は合理的にものを考え、陸軍は非合理的思考と断じられる。海軍は数字を見て早く諦めるが、陸軍は少々のことでは諦めないで最後までやる。これが陸海軍の伝統が長年にわたって培った戦争哲学であって、先の中川連隊の戦闘は、陸軍式の代表のようなものであった。

なるほどね。
これを読むと、日本は陸軍の国だな、と思う(他の国がどうだか知らないけど)。
スポーツでもビジネスでも、"知恵と勇気と努力" で物量を凌駕できると信じ込んでいる人の多いこと。

工夫次第で、兵力の少ない側が勝つことはある。
源義経の鵯越の逆落としや桶狭間の戦いとか日露戦争みたいに「〇万の大軍をわずか〇の兵力で打ち破った」的な戦いは話としておもしろい。
でもそれってごくごく稀な例だから語り継がれてるわけで、ほとんどの場合は兵力や物資量が上回っているほうが勝つ。当然だけどね。

だから、知恵と勇気と努力で逆転勝利を狙うのは、どう転んでも兵力を用意できない場合(不意に攻め込まれたときとか)だけにとどめておくべきで、物量を用意できないのであれば攻める側にまわるべきではない。
鵯越の逆落としはあくまで奇襲だし、日露戦争だって長期化してたら最終的には日本が破れていただろうしね。



「敗軍の将は兵を語らず」という言葉があって負けた弁解をあれこれ語るべきではないとされているけど、まったくの逆じゃないかと思う。
敗軍の将の弁にこそ、多くの教訓が含まれている。敗軍の将にこそ雄弁に語ってもらいたい。
逆に、勝ったほうは何とでも好きに言えるから、話半分に聞いておいたほうがいい。
ビジネスの成功者の話なんか、自慢話だけで何の役にも立たないからね。

以前に 『自己啓発書を数学的に否定する』 という記事でも書いたように、成功のために必要なのは成功しなかった人の体験談だからね。


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2017年7月24日月曜日

知恵遅れと言葉の変遷


 知恵遅れ、という言葉を最近聞かない。
 ぼくが小学校のときは、子どもも大人もふつうに使っていた。
 あの子は知恵遅れだからしょうがないね、というように。

 今だったら発達障害とかADHDとか自閉症とかダウン症とかいろいろ難しい名前が付けられるんだろうけど、当時は「知恵遅れ」とひとくくりにされていた。

 今、「知恵遅れ」は差別的だとして放送禁止用語になっているという。
「知的障害者」というのが正しいらしい。


 言われた側がどう受け取るかわからないけど、ぼくにとっては「知恵遅れ」のほうが寛容な言い方だという印象を受ける。
「知的障害者」というと、何かが決定的に欠けている人で、彼我の差は何があっても埋められないイメージ。
「知恵遅れ」のほうは、ただ遅れているだけ、そのうちそれなりの域に達するさ、いろんな人がいるからね、という懐の広さを感じる。

 まだ自転車に乗れない子。まだ逆上がりができない子。まだ背が低い子。まだ上手にしゃべれない子。まだ九九を覚えていない子。
「知恵遅れ」もそれと同列のような感じだ。まだ十分な知恵がついていない子。



 でもこれは「知恵遅れ」という言葉が公的に使われなくなったことで、イメージが変わっただけなのかもしれない。

 昔は「便所」というのは丁寧な言い回しだった、と聞いたことがある。
「厠」を丁寧に言い換えたのが「便所」だったのだとか。
 でもその言い方が普及するうちに、「便所」に汚いイメージがついた。便所はきれいな場所ではないから当然だが。今では「便所」と言われると汚いトイレ、というイメージだ。
 そこで「トイレ」が使われるようになった。「便所」より上品な言い方として。だが「トイレ」のイメージもだんだん汚れてきて、さらに上品に言いたい人は「お手洗い」と呼ぶようになった。
 きっと近い将来「お手洗い」も汚い言葉になってしまい、また新しい言葉が代わりに用いられることだろう。

 一方、ほとんど使われなくなったことで「厠」には汚いイメージがなくなった。ときどきトイレの入り口に「厠」と書かれた居酒屋がある。耳になじみの薄い言葉になったことで、逆に粋な言葉に昇格したのだろう。

「知恵遅れ」も同様に、使われなくなったことでマイルドなイメージになっただけなのかもしれない。トイレで例えて申し訳ないけど。

これは「便所」ではない



「ボケ」が「認知症」になり、「デブ」が「メタボリック」になり、「オバサン」が「熟女」になった。
 いずれも差別的なイメージを和らげるために考案された言葉なんだろうけど、人口に膾炙したことで、いずれの言葉も差別的なイメージを持ちつつある。

 こないだ病院に行ったら「AGAの方はご相談ください」というポスターが貼ってあって、AGAって何だろうと思って見てみたら「男性型脱毛症」(AGA:Androgenetic Alopecia)だと書いてあった。「ハゲ」が「AGA」になったのだ。
 きっと10年後の小学生は、ひたいの広い友人を「やーい、AGA!」と言ってからかっていることだろう。


 マイナスイメージのある言葉を次々に言い換えることに意味があるのだろうか、と思う。
 そんなことをしても、くさいものにふた、いやこれは差別的表現なので訂正しよう。臭的障害物質にふたをしてるだけじゃないだろうか。