2025年1月21日火曜日

【読書感想文】今尾 恵介『地図帳の深読み』 / 川と言語の密接なつながり

このエントリーをはてなブックマークに追加

地図帳の深読み

今尾 恵介

内容(e-honより)
学生時代に誰もが手にした懐かしの学校地図帳には、こんな楽しみ方があった!100年以上に渡り地図帳を出版し続けてきた帝国書院と地図研究家の今尾恵介氏がタッグを組み、海面下の土地、中央分水界、飛び地、地名や国名、経緯度や主題図など「地図帳」ならではの情報を、スマホ地図ではできない「深読み」をする!家の奥に眠るあの地図帳、今もう一度繙いてみませんか。

 地図マニアである著者が、学校でおなじみの地図帳をもとに、あれこれと洞察をくわえた本。

 これを読んでいて思いだしたんだけど、社会の授業中、ずっと地図帳を見ていた子がいたなあ。クラスに一人はいたんじゃないかとおもう。何がそんなに楽しくて地図帳を見てるんだろうとおもってたけど、たぶんこういうことを考えてたんだな。

 ぼくは地図好きな子ではなかったけど、歳をとってから、地図って単なる場所を示すものではなくて、歴史だとか、経済だとか、人々の生活までが見えるものだとわかるようになり、ちょっとおもしろさを感じるようになってきた。

 まだひとりで地図を見てにやにやするほどではないけどね。でも地図に詳しい人の解説を読むのは楽しい。



 地図帳には、単なる地図だけでなく、いろんな図や表が載っていた。人口、土地面積、雨温図、名産品など。その中に言語分布地図もあった。どの地域がどの言語を使っているのかを示した図だ。

 さて、ある時にスイスの言語分布地図を見た。どこかの大きな図書館に置いてあったナショナルアトラスを閲覧した時のことかもしれない(今なら高校生用の地図帳でも載っている)。これが以前に自分でなぞった四つの河川の流域図にずいぶん似ていると感じたのである。つまりライン川流域にはドイツ語話者が多く、ローヌ川流域はフランス語、ポー川流域がイタリア語、そしてドナウ川流域がロマンシュ語という具合に流域と言語分布が重なっていた。
 スイスは日本に似て山が深いから実感できると思うが、商圏、婚姻圏といった文化圏は人の往来の多寡で決まってくる。たとえば関東と新潟県を区切る三国山脈は雪国の冬と晴れ続きの冬の境界であるが、文化圏や方言の境界でもある。考えてみればトンネルも通じていない大昔に好んでわざわざ険しい峠越えをする人は少なかっただろうし、移動にあたっても川沿いが楽なのは間違いない。そんなわけで言語、方言の違いが流域ごとに決まってくるのは普遍的な現象である。

 河川の流域図(どの川の水を利用しているかを地域ごとに区切った図)と言語分布地図が似ているのだ。

 現代日本ではどこにいってもほぼ同じ言葉を使っているのでわかりづらいけど、かつては、山ひとつ越えたら使っている言葉もぜんぜん違ったのだろう。人の往来がほとんどないので、言葉も文化も独立していたのだ。一方、同じ川沿いの集落であれば、行き来も楽だったはず。交流が盛んであれば言語も近いものになるだろう。

 川と言語に密接なつながりがあるなんて考えたこともなかったなあ。




 過去の地図帳との読み比べ。

 昭和48年(1973)の「中学校社会科地図」では、九州地方のページに有明海と島原湾の干拓を示す図が掲載されていた。凡例には干拓年代として「1767年以前」「1768~1867「1868~1967」「1967年以後」と時代ごとに4色に塗り分けられ、これに加えて「干拓工事中」「干拓予定地」が青色で大きく描かれている。その面積は明記されていないが、ざっと見たところ有明海の半分近くを陸にするような大規模な計画だったようだ。
 この計画図は出典に記されているように「有明海総合開発計画」によるものだ。干拓だけでなく、有明海の西に位置する島原半島の貝崎(現南島原市。島原市役所の約12㎞南)から熊本県側の宇土(三角)半島先端近くの狭い部分に「しめきり計画線,三角線」という赤い破線がまっすぐ描かれているように、これによって有明海を締め切って淡水化する計画であった。
 この大事業の当初の目的は食糧大増産で、八郎潟の干拓と同様に可能な限り農地を拡大して国民を飢餓から守るというものである。コメ余りで減反政策に転じた後の時代から見れば実感が湧きにくいが、国民を飢えに直面させるかもしれないという深刻な問題意識は国政を担う人たちにとって相当にリアルだったようだ。「飽食の時代」に育った世代にはなかなか想像できないけれど。ついでながら、現在では人口問題といえば言うまでもなく「少子化」だが、当時は爆発的に増えつつある人口をいかに抑えるかが急務とされた。
 (中略)
 この面積を足せば550㎢という途方もないもので、現在の琵琶湖の面積の82%にあたる。この締切堤防から奥側の有明海の面積を「地理院地図」でざっと測ってみると約1300㎢だから、4割以上を干拓するつもりだったようだ。この計画の一部にあたる諫早湾の干拓事業は当初計画では110㎢であったが、平成元年(1989)に着工された時には予算や農地の需要の関係もあって35㎢に縮小された。
 この事業に対しては地元をはじめ全国で賛否の意見が対立し、行政訴訟も行われている。農地は全国的に余り気味であったため、目的を公害や高潮などの水害防止にシフトさせたのも「現代風」だ。その後は海苔やタイラギ漁などの不振などもあり、また公共事業見直しの気運もあって干拓への逆風は続いている。締め切りが水質悪化に影響を及ぼしているかの議論は今も続いているが、それでも有明海の大規模な干拓事業は全体のわずか1割の干拓にとどまったことを思えば、当初の干拓計画がいかに壮大であったかがわかる。
 賛否はともかくとして、確実なのはいったん始動した大規模事業の見直しがきわめて難しいことだ。数十年の間に国の産業構造や国民の生活実態が激変しても身動きがとれない。どう頑張っても数十年間は大幅な人口減少が避けられない将来が約束された今、社会の「減築」―ダウンサイジングに向けた世界初の取り組みが、日本国民には求められている。

 今から50年前には、有明海の大部分を埋め立てて淡水化するという途方もない計画が立てられていた。人口がどんどん増えて、このままじゃ農地が足りないと心配されていた時代。海を埋め立てて農地を増やそうとしていたのだ。

 しかし地元漁師の反対や環境問題への懸念もあり、計画は難航。その間に日本の状況は大きく変わり、人口は減少へとシフトし、農地は足りないどころか余る状況になった。

 それでも計画は止まらない。農地拡大だった目的が、いつのまにか防災目的にすりかわっている。

 このへん、実に“らしい”話だ。大きな組織が動くと、いつのまにか手段が目的になってしまう。ひとつの「手段」だった干拓事業が「目的」になってしまい、とりまく状況が変わっても計画を止めることができず、後付けで理由をつけては無理やり続行する。

 オリンピックや万博と同じだ。経済振興とかの理由をつけて招致するのに、経済にプラスどころか大幅マイナスだとわかっても「開催」自体が目的になってしまっているので火の車となっても止められない。

 大規模プロジェクトって始めるよりもやめるほうがずっと難しいし知恵を要するよね。


【関連記事】

昭和18年の地図帳ってこんなんでした

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿