2021年2月4日木曜日

シッダルタとタッタの友情

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 手塚治虫の『ブッダ』を知っているだろうか。釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の生涯を描いた不朽の名作だ。

 ぼくは小学三年生ぐらいではじめて『ブッダ』を読んだ。母親が買ってきたのだ。
 母はかつて漫画大好き少女だったので、ぼくにやたらと手塚治虫作品を読ませたがった。『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『プライム・ローズ』『奇子』『日本発狂』『紙の砦』『きりひと讃歌』『シュマリ』……。次々に買い与えられた。

 『奇子』『きりひと讃歌』『シュマリ』あたりは性描写もけっこうどぎついしテーマも難しいので小学生に読ませるようなものじゃないと今になっておもうのだが。
 しかしそのおかげでぼくは漫画のおもしろさと戦争の恐怖と大人の性の営みと人生の無常観と医療やアイヌの知識をすべて手塚治虫作品から学んだ。

 ぼくが熱心に読んだ作品のひとつが『ブッダ』だった。
 もちろん、仏教の思想を理解できたわけではない。だが手塚治虫『ブッダ』はそんなこと理解できなくてもただ単純にストーリーがおもしろいのだ。


『ブッダ』にはタッタというキャラクターが出てくる。手塚治虫が創作した完全架空のキャラクターだ。
『ブッダ』の主人公はもちろんブッダ(シッダルタ)だが、タッタは準主役級のキャラクター。裏の主人公といってもいい。
 なにしろ序盤ほとんどブッダは出てこない。全7部のうち第1部はブッダが生まれるまでの話なので、ブッダは胎児/乳児だ。序盤はチャプラというキャラクターとタッタが奮闘する話だ(序盤の主人公はチャプラだがチャプラは第1部のラストで死ぬ)。

 このタッタ、シッダルタとの関わりが深い。王子だったシッダルタを城から逃がすのもタッタだし、タッタがシッダルタの命を救ったこともある。シッダルタの親友といってもいい間柄だ。

 タッタはシッダルタに非常に近しい存在でありながら、他のキャラクターとは決定的に違う。それは、決してシッダルタの教えに染まらないことだ。
 シッダルタの教えに触れた人はみんな、最後はシッダルタの考えに教化される。敵国の王だったパセーナディやビドーダバやビンビサーラも、ビンビサーラを毒殺しようとしたアジャセ王子も、殺人鬼だったアナンダやアヒンサーも、執拗にシッダルタの命を狙ったダイバダッタも、みんな最後はシッダルタの教えに帰依している。もちろん、その他の登場人物もほとんどみんなシッダルタを師とあおいでいる。

 ところが皮肉なことに、シッダルタといちばん関わりが深いタッタだけは、最期までシッダルタの教えに感化されない。「シッダルタは立派なやつだ」と認めて一番弟子を自称しているものの、自分の考えは変えない。欲のままに生き、盟友・チャプラを殺したコーサラ国を憎み、復讐なんてやめろというシッダルタの忠告を無視して戦地に赴き、戦死する。最期までシッダルタの教えを理解することはなかった。


 ずっと近くにいながら最期までシッダルタの教えに染まらないタッタ。
 ぼくはそこに本物の友情を感じる。

 友だち関係には二種類ある。相手と似たファッションをして、相手の趣味をいっしょにやり、どこへ行くにもいっしょ。こういう付き合い。
 もうひとつは、それぞれ好きなことをして、それぞれ好きなところに行き、気が乗らなければ無理に相手に合わせることはない。気が向いたときだけ会い、会ったところでさしてテンションは上がらない。

 友人関係が長続きするのは後者のほうだ。
 前者はクラス替えや進学や就職のタイミングで疎遠になるが、お互い無理に相手に合わせることのない後者は何十年たっても同じ距離感を保ちつづける。

 シッダルタとタッタはずっと友人だ。年齢も離れているし、出自もちがうし(シッダルタは王子でタッタは乞食)、歩む道も思想もまったくちがう。だがどれほど立場が変わってもふたりの付き合いは続く。
 シッダルタは孤独だったのではないだろうか。なにしろ関わる人みんな自分の弟子になるのだ。周りは説法を求めてくる人ばかり。こんな孤独はないだろう。
 そんな中、タッタだけがずっと変わらない。シッダルタの教えに染まらない。「おまえもうコーサラへの復讐とかやめろや」と言っても「まあそれはええやんか」と耳を貸さない。きっとシッダルタはタッタと話しているときだけは、釈迦ではなくひとりの人間でいられたのではないだろうか。

 タッタが無謀な戦いに挑んで戦死したときにシッダルタは深く悲しみ、それ以降シッダルタはめっきり老けこむ。そりゃそうだろう。唯一対等に話せる友人を失ったのだから。
 タッタが死んだ日は、人間・シッダルタが死んだ日でもある。友人の死によって仏は仏となったのだ。


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