2023年2月15日水曜日

チョコハラ

 今年はついにバレンタインデーのチョコレートの受け取りを拒否した。


 ぼくの勤める会社には、まだ「女性社員数十人から男性社員数十人にチョコレートを贈る」という昭和の蛮習が残っている(平成にできた会社なのに)。

 数年前から、もらうついでに「こういうの、もういいですよ」「お互い無駄なんでやめましょうよ」「みんなからみんなに贈りあうってあほらしいでしょ。来年からはくれなくていいですよ」と迷惑であることを伝えていた。

 自分ではけっこうはっきりと伝えていたつもりなのに、本気だと伝わっていなかったのか、今年も女性社員からお菓子の包みを渡されたので覚悟を決めて「いらないです」と受け取りを拒否した。それでも冗談だとおもわれたらしく「いやいや~」みたいな感じで再度渡そうとしてきたので「これは女性みなさんでめしあがってください」と突き返した。


 一応言っておくと、ぼくは甘いものが好きだ。会社でもお菓子を食べるし、近くの席の人からお菓子をもらったり、あげたりもする。お菓子をもらったときは素直にうれしいし「ありがとうございます」と言って受け取る。ちょっとしたもののやりとりは、サルの毛づくろいといっしょで「私はあなたに敵意を持っていませんよ」という意思表示になる。人間関係を円滑にする上で必要なものだとおもっている。

 ただ、バレンタインデーのチョコレートの押し付け(あえて言おう、押し付けだと)に関してはもはやコミュニケーションとしての意味はない。どれだけうぬぼれの強い男であっても、会社で「女性社員一同から男性社員一同へ」のチョコレートを渡されて「おれは女性社員から好かれてるんだ!」とはおもわないだろう。


 バレンタインデーの「女性みんなから男性みんなへのチョコレート」のは、ただただ全員に負担を強いるだけのシステムだ。女性も、お返しをする男性も、みんな。

 労力を割いてお菓子を買いに行き、お金を払い、得られるのは「自分が選んだわけでもないお菓子」だ。どう考えたって割に合わない。自分のためにお菓子を買う方がずっといい。

 払った分よりずっと少ない額しか受け取れない年金。それがバレンタインデーとホワイトデーだ。


 もういいかげんこの悪習を断ち切らないといけないとおもい、今年はついに受け取りを拒否したのだ。

 当然ながら、拒否したときはかなり気まずい雰囲気が流れた。相手だってたぶん善意でやっているのだから、拒絶するのは心が痛む。善意とはたちの悪いものだ。しかしプレッシャーに負けて受け取ってしまうと来年からもバレンタインで嫌なおもいをすることになるので、心を鬼にして断った。はあ、疲れた。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないんだ。

 どう考えたって「いらないです」と言っている相手に贈りつける相手のほうが悪い。お返しがどうという問題ではない。

 逆で考えてみたらわかるだろう。女性社員が、会社で隣の男性から毎年毎年誕生日にバラの花束をプレゼントされる。「もういいです」と毎年言っても、ずっと贈られつづける。「お返しはいらないから」と言われるが、そういう問題じゃない。ただただ気持ち悪い。それといっしょだ。

 この「いらないと言っているのにバレンタインデーにチョコレートを贈られる」気持ちについて考えてみたのだが、そうか、セクハラをされる人ってこんな気持ちなんだろうなとおもった。


 セクハラにもいろいろあるが、「セクハラをする側はされる側に好意を持っている」ことが多いとおもう。上司が部下を執拗に口説くとか、上司が円満なコミュニケーションのつもりで性的な質問をぶつけるとか。

 そうすると、セクハラを受けた側はそれが好意にもとづいているがゆえに拒絶しにくい。「おい、一発なぐらせろ」は悪意から生じているから「嫌です」と断りやすいが、「今晩ふたりっきりで飲みに行かない?」は好意由来なので無下に断りづらい。たいていの人は断るにしても「嫌です」とは言わずに「今日は友だちと約束がありまして……」とか「明日早いので……」とかなんのかんのと理由をつけるだろう。

 それで引き下がってくれるならいいが、だったらいつならいいかと言われたり、毎週のように誘われたりすると、断るほうも神経をすり減らす。そういう相手にははっきり断らないと伝わらないが、その後も職場で顔を合わせることを考えると角が立つ断り方はしづらい。手ひどい断り方をして逆恨みされたり妙な評判を流されても困る。

 断りたい、けれど後々のことを考えると断りづらい……。セクハラはこうして生まれるわけだ。

 バレンタインデーも同じだ。おそらく「嫌だな」と感じながらも、断って人間関係にひびが入るのをおそれてしかたなく付き合っている男女も多いだろう。ぼくは「もらってもちっともうれしくないしお返しをするのは負担になるのでやめてほしい」と男性の立場から考えているが、「あげたくないけど周囲の圧力で半強制的に参加させられる」女性も多いようだ。

「チョコハラ」という言葉で検索してみたら、いくつもの記事が見つかった。同じように考えてる人がいっぱいいるのだ。

 セクハラで訴えられた人の多くは「よかれとおもってやった」「スキンシップのつもりだった」などと言うらしい。きっと本心だろう。よかれとおもってやっていることほど迷惑なものはない。バレンタインも同じだ。善意でやっているからこそたちが悪い。

 とある調査によれば半数以上の男女が職場のバレンタインデーの風習をやめたいと感じているらしい。


 ありがたいことに、世の中は少しずつ変わっている。無駄で、多くの人が嫌だと感じていることは徐々になくなってきている。

 昭和の会社員にとってはあたりまえだったお歳暮やお中元、年賀状も、今ではずいぶん滅びかけている。きっとバレンタインデーも同じような道をたどることだろう。


 まあやりたい人はやったらいいけど、半数以上が嫌がっているわけだから、せめて「やりたくない人が意思表示しなくちゃいけない」システムじゃなくて「やりたい人が意思表示する」システムになってほしいよね。

「チョコレートを贈りあう風習に参加したい人は二週間前からピンクのリボンをつけること」とかさ!




2023年2月14日火曜日

【読書感想文】岡崎 武志『読書の腕前』 / 精神がおじいちゃん

読書の腕前

岡崎 武志

内容(e-honより)
寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、トイレで読む、風呂で読む、目が覚めている間ずっと読む…。ベストセラーの読み方から、「ツン読」の効用、古本屋との付き合い方まで。“空気のように本を吸う男”が書いた体験的読書論。

 書評家による読書エッセイ。

「本好きによる本好きのための読書エッセイ」ってのはエッセイの定番ジャンルで、いろんな人が書いている。正直どれも似たりよったりの内容だが(この本もそう)本を書く人や読む人は当然読書好きが多いので、それなりに共感を得られてそれなりにおもしろがってもらえるのだろう。




 読書の効用はいろいろ挙げられるが、結局のところ「読みたい欲を満たしてくれる」ことに尽きる。あとはすべて副産物だ。おもしろいこともあるし、つまらないこともある。勉強になることもあるし、ならないこともある。人生を豊かにしてくれることもあるし、してくれないこともある。

 本にそれ以上のものを求めるのは、決まって本好きでない人たちだ。

 しかし世の中には、お金と時間を費やすんだったら、その分だけの見返りがないと事をはじめる気にならない、という人も多いだろう。たとえば、英会話教室へ通うなら、時候のあいさつや店員とのやりとりを英語でできるようになるとか、スポーツジムに通うなら、筋肉がついたりダイエットにもなる、といった具合である。そのような目に見えるメリットは期待できない。じつは、そこにこそ読書のおもしろさがあるのだが、そのことがわかるまでには、かなりの数の本を読む必要がある。

 そうなのよね。「読みたい欲を満たしてくれる」以上の価値は期待できない。何が得られるかは読んでみるまでわからない。それこそが本のおもしろいところなのに、あまり本を読まない人は本に実利を求める。


 また永江は、「すでに知られている本ほど売れやすい」というベストセラーの法則を提示する。芸能人をはじめとする有名人が書いた本、テレビ関連の本はその顕著な例。「無名作家のすぐれた小説よりも有名作家の駄作のほうがたくさん売れる」のも同様で、「クズ本をつかまされて、カネと時間を無駄にする可能性もある。だったら名前を知っている作家の新作を選ぼうと考える。消費者はリスクを回避する」というのだ。
 二〇〇四年は七年連続して書籍の売上げが前年割れした年だった。二〇〇五年に少し上向きになるのは、先に挙げたメガヒットや「ハリー・ポッター」シリーズ(静山社)の新作邦訳が出たためだ(が、その後は二〇一三年まで順調に下がり続けている)。人々は本に割くお金を年々削るようになっている。趣味や娯楽、食事、あるいは携帯電話の使用料など、使うべき場所はほかにいっぱいある。本は、ごくたまに買うもの、失敗するのはイヤ。永江の表現で言えば、「消費者はリスクを回避する」。結果、「すでに知られている本」を買うわけだ。
 しかし、それは本を買うというより、「話題」を買うというほうが近い。ベストセラーはもともとそういうものだ、と言えばそれまでだが、『バカの壁』など最盛期は一日に二回増刷していたなどという話も聞く。売れ方も部数もいささか異常で、ちょっと無気味な気さえする。それを指して「底が抜けた」と言ったわけだ。

「みんなが読んでいる本ばかりが売れる」のも同じ現象だ。要するに、失敗を避けたいのだ。

 年間何百冊も読む人は、一冊や二冊の失敗なんて屁でもない。たくさん読めばたくさんハズレを引くことを知っている。でも、年に数冊しか読まない人は失敗をしたくない。

 毎日行く食堂で変わったメニューがあれば、興味本位で頼んでみるかもしれない。まずくてもいいや、と。でも自分の結婚式の料理は間違いのないものを選びたい。一生に一度だから。そんな感覚だ。

 ま、これは読書に限らず、どんな分野でもあることだけどね。

 ぼくも、読書に関しては「十冊やニ十冊のハズレがなんぼのもんじゃい」という感覚だが、旅行に行くのは年に一回ぐらいだから入念に下調べをして、口コミなんかも参考にして、多くの人がそこそこ高評価なものを選ぶ。「行ってみてダメだったらそのときだ」とはおもえない。




 前半はそこそこ読めたが、中盤からは自慢話が多くてうんざりした。99%の自慢話がそうであるように、当然ながらまったくおもしろくない。

 新聞社から児童書の書評を頼まれたので、「小学生の娘が書いた」という形をとってわざと拙い文章で書評を書いた、という昔の話を書いた後で。

  悪ふざけギリギリで、ひょっとしたら担当者からクレームがつくかとも思ったが、無事、そのまま掲載された。これはおもしろがってくれた人が多く、「手帳に貼って、何度も読みかえし、そのたびに笑っております」と、わざわざ手紙をくれた友人もいた。してやったり、という感じだ。

 こんな話が続く。

 ああ嫌だ嫌だ、なんで年寄りの自慢話をわざわざ読まなくちゃいけないんだよ。

 とおもっていたら、あとがきで著者がこの本を書いたのは四十代だったと知って驚く。

 おじいちゃんだとおもってたよ。精神が完全に年寄り。昔とった杵柄の自慢と、回顧録がひたすら続くんだもん。誰からも褒めてもらえなくなったおじいちゃんが過去の栄光(と自分ではおもっているもの)を自画自賛してるのかとおもったわ。

 こういう四十代にはならないようにしないとなあ。いい反面教師になりました。


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【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

【読書感想文】本を双眼鏡で探す家 / 磯田 和一『書斎曼荼羅 1 本と闘う人々』



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2023年2月10日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組の地底王国』『ズッコケ魔の異郷伝説』『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十六弾。

 今回は46・47・48作目の感想。いよいよ次がラスト。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ三人組の地底王国』(2002年)

 遠足で近所の山に登った際に迷子になってしまった三人。謎のストーンサークルに足を踏み入れたところ、なんと身体が小さくなってしまった。さらに地底にある小人族の国に連れていかれ、悪竜を退治してくれる伝説の勇者として扱われ……。


 ここにきて突然の正統派ファンタジー冒険もの。そういやこれが46作目だけど、ファンタジーはひさしぶり。初期は『時間漂流記』『宇宙大旅行』『驚異のズッコケ大時震』などSF作品もあったけど、中盤以降はほぼなくなった。『海底大陸の秘密』ぐらいか。

 突然伝説の勇者として悪竜退治を命じられる、強大な敵を知恵と勇気でやっつける、お姫様から感謝される……と、昔のRPGゲームやドラえもん大長編のようなシンプルなストーリー。ベタではあるが、それでもけっこうおもしろい。やはり王道は強い。

 ただ、ゲームならいいんだけど、小説としてはやっぱりストーリーの粗さが目立つ。

 最初から伝説の勇者として扱われる(なぜか三人の名前まで昔から小人の国に言い伝えられている。最後までその謎が明かされることはない)、警察官が迷子の捜索に拳銃を持ってくる、さらには警官が拳銃を放置する、小人になっているのに拳銃を撃っても無事(反動えげつないだろ)など、あまりにも都合が良すぎる。拳銃を使わずに知恵と勇気で解決してほしかった。せめて言い伝えの謎は解き明かしてくれよ。

 あと、ハチベエが父親を「とうちゃん」ではなく「おやじ」と呼んだり、モーちゃんが母親を「かあさん」ではなく「かあちゃん」と呼んだり、シリーズ全体との齟齬もちらほら。どうした? これを書いたときは体調でも悪かったのか? あと〝悪竜〟って呼んでるのに、表紙を見たら正体丸わかりじゃない?

 つまらなくはないけど、凡作って感じだな。小さくなると時間の経過が遅く感じる、って設定はおもしろかったけどね。




『ズッコケ魔の異郷伝説』(2003年)

 学校の行事で縄文時代の暮らしを体験することになった六年一組。古代人の暮らしを楽しんでいたが、突如荒井陽子が奇妙な言動をするようになる。そして合宿最後の夜、日本では絶滅したはずのオオカミたちが現れる。あわてて逃げた一行がたどり着いた先は、縄文時代の村だった……。


 ズッコケシリーズの中でもかなり異色な作品ではないだろうか。異世界に迷いこんでしまう作品はこれまでにもあった。だが『ズッコケ魔の異郷伝説』がとりわけ異色なのは、「最後までよくわからない」ことだ。縄文時代の暮らしをしていたらオオカミに襲われた、走って逃げたら縄文時代の村だった、そこで儀式に参加した、現代に戻ってこられた、戻ってきたのはオオカミに襲われる数時間前だった、オオカミはもう襲ってこなくなった。奇妙なことがいろいろ起こるのだが、はっきりとした説明はつけられない。一応ハカセが考察をしてそれっぽい説明をつけるが、ほとんど根拠のない、ただの妄想だ。

 奇妙な出来事が起こって、奇妙な世界に迷いこんで、奇妙な体験をして、奇妙なことに元の世界に戻ったら解決してた。なんなんだこれは。しかも「何かにとりつかれた荒井陽子に従って行動するだけ」で、知恵を働かせる場面も勇気を振りしぼる場面もない。ハチベエが縄文人といっしょに酒を呑むだけ。ただ巻きこまれただけ。

 ズッコケシリーズにはたまにこういう〝ただ巻きこまれただけ〟回があって、一様につまらないんだよね。『驚異のズッコケ大時震』『ズッコケ三人組のミステリーツアー』『ズッコケ三人組と死神人形』など。いずれも退屈だった。

 前半の縄文時代体験はけっこうおもしろかったから期待したんだけどなあ。自分も縄文体験やってみたい、とおもったし。ずっと縄文時代の生活でもよかったのになあ。著者が書きたいことを書いている、って感じが伝わってきて。

「三人組がただ事件に巻きこまれて傍観するだけ」「必然性もなくクラスの美少女三人組と行動を共にする」と、ズッコケ中期以降の悪いところが存分に出てしまった作品。



『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』(2003年)

 近くの山道が「暗闇坂」と呼ばれ、そこに幽霊が出るために交通事故が起こるという噂を耳にした三人。噂を確かめるために現地調査をして、幽霊の謎を解き明かしたかに見えた。が、隣のクラスの生徒が暗闇坂で交通事故に遭ったというニュースが入ってきた。はたして幽霊は存在するのか……?


 タイトルが「幽霊の正体」なので、「ああこれは『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の話だな」とわかってしまう。で、あれこれ推理をめぐらして最後に幽霊の正体が判明するわけだが、その正体もさほど意外なものではない。

 つまらなくはないけど、とりたてて目新しいところもないな……とおもって読んでいたのだが、はたと気づいた。そうか、これは「インターネットを使って幽霊の謎を解く」というスタイルが(2003年当時としては)新しかったのか。

 幽霊の情報がインターネット上で広まっていることを知り、インターネットの掲示板で情報を仕入れる。幽霊とインターネットという異色なものが結びつくのが斬新だったのだろう、当時は。

 しかし今となってはインターネットで情報収集をするなんてのは(小学生にとっても)あたりまえすぎて、まるで新しさを感じない。そもそもホームページの開設者がたまたまモーちゃんの母さんの知り合いの娘さんだった……なんてあまりに展開に無理がありすぎる。だいたい「うちの娘が○○っていうホームページを開設しててね」なんて話しないだろう。

 このへんからも、那須正幹先生が時代についていけてなかったことがうかがえる。

 ズッコケシリーズも残り二作。まあ潮時だったんだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2023年2月9日木曜日

ツイートまとめ 2022年8月



夏の甲子園

メンツ

比喩表現

小切手

アジア丼

チェ

メンコ

大喜利

蛮勇

第二子で長男

ミャクミャク

24時間テレビ

伊勢志摩

爆裂

二線級



2023年2月8日水曜日

ブラジャーはトイレットペーパー

 やっぱりエッチな写真や映像を見ると心躍る。

 何をエッチとおもうか、何に心ときめくかは人それぞれだとおもうが、まあたいていの男性は、女性の裸や下着姿に胸躍らせる。ぼくも同じだ。もっともぼくが好きなのは〝下着姿〟であって〝下着〟ではない。下着ドロボーの気持ちはまったくわからない。

 また、ぼくの場合、パンツ姿にはときめくがブラジャー姿にはまったく心ときめかない。


 自分でもなぜかはよくわからない。おっぱいは好きなのに。ブラジャー姿の女性を見ても「そのじゃまな布切れを早くどけてよ」とおもうだけだ。〝その後の展開〟を想像して昂奮はするが、ブラジャー姿自体にはまるで昂らない。

 だったらブラジャーがこの世からなくなったらいいかと願うかといえば、そんなことはない。もしドラゴンボールを七つ集めてシェンロンが出てきても、ブラジャー消滅は願わない。

 なぜならブラジャーは女性のおっぱいを美しい形に保つために必要なものだから。だから存続してほしい。でも、特に見たいとはおもわない。


 つまり、ぼくにとって女性のブラジャーはトイレットペーパーと同じものだ。どちらも、女性が美しくあるためには必要なものだ。だが、それ自体に美しさは感じない。

 美しい尻を保つためにトイレットペーパーは必要だけど、トイレットペーパーを鑑賞したいとはおもわない。そういうことだ。どういうことだ?