2025年2月25日火曜日

いかにも浮気してるやつのFacebook

 高校時代の友人たちと話していて、Tという男の話題になった。


「Tって最近どうしてんの?」

「いろいろ悪いことしてるみたいやで。女癖悪いから」

「結婚して子どももいるんやろ?」

「そう。Facebookにマメに投稿してるんやけど、やたらと家族の写真載せてるわ」

「うわー。いかにもやなー」

「そりゃあな。ほんまに家族円満やったらわざわざFacebookでアピールする必要ないからな」

「やましい気持ちがあるからSNSでいいパパアピールするんやろな」

「この前ちょっと大きい地震があってさ、そのときにTのFacebook見たら『地震があったから子どもを守った。俺がこいつらを守っていけないという思いを改めて強くした』とか書いてて」

「うわー。モテようとしてるやん」

「いやほんま。心の中でおもっといたらいいことを、なんで世界に向けて発信するねんってことよ」

「いかにも浮気してるやつのFacebookって感じやな」


 というわけで、Facebookでいいパパアピールしてる男はもれなく浮気してます。現場からは以上です。



2025年2月20日木曜日

【読書感想文】『知りたくなる韓国』 / 政治参加せざるをえない国

知りたくなる韓国

新城 道彦 浅羽 祐樹 金 香男 春木 育美

目次
第1部 歴史
 第1章 朝鮮王朝時代
 第2章 大韓帝国~日本統治時代
 第3章 米軍政~大韓民国時代
第2部 政治
 第4章 韓国という「国のかたち」
 第5章 韓国外交における日韓関係
 第6章 南北関係とコリア・ナショナリズム
第3部 社会
 第7章 変化する韓国社会
 第8章 韓国家族の「いま」
 第9章 韓国の教育と就職事情
第4部 文化
 第10章 再考される伝統
 第11章 交差する文化
 第12章 模索しつつある韓国

 韓国のことを知りたかったので手に取った。池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』と同時に読み進めていたので理解しやすかった。



 韓国といえば民主国家というイメージを持っていたけど、実態として民主国家と呼べるようになったのは1987年以降のことで、それまでの大統領は「権力を失えば命や財産を奪われる」状態が続いていた。

 政党間の政権交代は1987年の民主化以降、30年間ですでに3回を数えます。現在の与党「共に民主党」と最大野党の自由韓国党に連なる2大政党の間で初めて政権交代が起きたのは、3回目の大統領選挙を通じた98年のことでした。2008年と17年にも入れ替わったため、与野党それぞれの立場をどちらの側も2回ずつ経験したことになります。
 選挙を通じた政権交代が可能になると、「革命」を起こす必要はなくなりますし、大統領の側も所定の任期を守り自ら退くようになりました。文在寅大統領は朴槿恵大統領の弾劾・罷免を「ろうそく革命」と称していますが、弾劾罷免はあくまでも憲法の所定の手続きに則って行われましたし、文在寅は選挙で選ばれたからこそ大統領という公職を任せられているのです。
 このように選挙が「街で唯一のゲーム」となり、そのルールブックたる憲法がすべてのプレーヤーに受け入れられることが重要です。何より、多数決による政治的競争(選挙)における敗者(少数派)が結果を甘受し、競争や体制の正統性に同意することが欠かせません。

 もっとも、1987年以降に大統領についた人に関しても、盧泰愚、李明博、朴槿恵は収賄などで有罪判決を受けており、なかなかきなくさい状況に変わりはないのだけれど……。




 暗殺やクーデター、大統領の暴走など(最近もあったね)いろいろ問題の多い韓国の政治ではあるけれど、それがポジティブな効果も生んでいるようだ。

 韓国人は政治や社会への関心が高く、とくに1980年代、学生の力で民主化を勝ち取った歴史には大きな意味があります。人権や言論の自由、より良い社会を作りたいという学生・市民の強い意志が直接的な行動を促しました。87年に韓国の民主化運動は頂点に達し、大学生と市民の力で軍事独裁政治に終止符を打ちました。その民主化の中枢にいたのが、「386世代」です。この言葉が生まれた90年代当時、「30歳代で、80年代に大学生活を送った60年代生まれ」の世代として、現在は50歳代で「586世代」とも呼ばれています。この民主化運動の時代を過ごした「386世代」は政治的団結ノムヒョン力が高く、盧武鉉大統領が当選するうえで大きく寄与したとされます。
 (中略)
 国全体が豊かになったなかで、格差社会が生んだ現象といえる就職難に直面している若者たちが、自ら「ろうそくデモ」を主導してきたことは大きな意味をもちます。市民団体の影響力が強い韓国では、ツイッター、フェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と連動した路上デモや、「認証ショット」のように「投票へ行きました」と投票場で写真を撮ってSNSに投稿するなど、若年層を中心とした積極的なネット選挙運動が、2017年の政権交代につながったといわれています。直接的な行動が、政治や社会を動かせると人々は思うし、SNSの普及は若者の政治参加を促しています。韓国の10代20代の若者には、自分たちの置かれた状況は自己責任だけではなく、社会構造上の問題であるという認識が広がり、大学授業料半額デモなどさまざまなかたちで声を上げています。

 韓国人は若者も含めて政治参加意識が高いという。そりゃあなあ。ちょっと気を抜くと大統領が戒厳令を出したりする国なんだから、市民がちゃんと見張ってないといつ己の命や財産が危険にさらされるかわからないもんね。

 中国、北朝鮮、ロシアみたいなあぶなっかしい国々との距離も日本よりずっと近いし、そもそも今も戦争中の国だし(朝鮮戦争は終戦したわけでなくあくまで“休戦”状態)、いやおうなく政治や国際情勢には敏感になるだろう。

 そう考えると、日本人は政治参加意識が低いとか、若者の投票率が低いとか、悪いことのように言われるけど、平和の裏返しでもあるんだろうなあ。「誰が選ばれたってどうせ一緒でしょ」ってのは幸せなだよな。


 そしてつくづくおもうのは、大統領制(アメリカや韓国のように強い権限を持つ大統領制)ってぜんぜんいいシステムじゃないってこと。意思決定が早いとかのメリットもあるんだろうけど、一人に強大な権力を持たせるのはやっぱり不安定すぎる。権力は暴走するのが常だし。尹錫悦大統領の非常戒厳宣言や、トランプ大統領のあれやこれやを見ていると、権力が分散していた方が国民にとってはいいとおもえる。

 あんな危なっかしい制度を抱えていて、よく国としてまとまっていられるなと感じる。




 韓国は日本以上に若者が暮らしにくい国のようだ。

 高齢化は進み、2023年の合計特殊出生率は0.72だそうだ(日本は1.26)。3組の男女がいて、平均2人ぐらいしか子どもが生まれないのだ。かつて産児制限政策をおこなっていたのでそもそも若者の数自体が少ないし。今後、日本よりすごいスピードで高齢化が進むかも。

 韓国では就職氷河期が始まった2010年頃から、恋愛・結婚・出産を放棄する若者を「3放世代」と呼んでいましたが、近年はさらに就職やマイホームだけでなく、人間関係や夢さえも望みが持てない「7放世代」を超えて、健康や外見など人生のすべてを放棄した「N放世代」という呼称まで登場しました。2015年頃からは人間としての希望を失い、将来に対する不安と韓国社会に対する不満から、地獄のような韓国という意味の新造語「ヘル(hell)朝鮮」という言葉も生まれました。また、「土のスプーン(生まれながらの貧富の差を意味)」など、若年層に存在する格差への認識からは新階級論的な言説も生み出されています。富裕層の子どもを意味する「金のスプーン」に対比される言葉で、自分が財産のない庶民層に生まれたことを自嘲する表現です。
 ハンギョレ経済社会研究院の、19~34歳の若年層1500人を対象にした「青年意識調査(2015年)」では、社会的な成功において「自分の努力よりも、親の経済的地位が重要だ」と答えた人は7割を超えました。同年に発表された東国大学の金洛年教授の論文「韓国における富と相続」によると、個人の財産に占める親からの相続(贈与を含む)の割合は、1980年代の27%から2000年代には42%へ増加しており、本人の努力や能力より親から受け継いだ資産や不動産によって、財産の規模が決定されることが明らかになりました。相続による富の格差がますます拡大している韓国では、本人が努力しても現状を打破できず、放棄・絶望・リセットという言葉が、今日を生きる若者のキーワードとなっています。

 このへんの閉塞感は日本に近い。というより韓国が日本の状況を先取りしたというか。

 韓国は日本より人口も少ないので内需が小さく、アジア通貨危機のときに多くの企業がつぶれて外資が入ってきたので、国内の企業がそう多くない。おまけに今でも財閥が幅を利かせていて政治と強く結びついているので、財閥以外の企業は不利な立場に置かれ、賃金も上がらない。

 久しく安定している韓国だけど、またクーデターが起こる日は遠くないかもしれない。


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2025年2月18日火曜日

【読書感想文】池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』 / 約束よりも感情が優先される国

そうだったのか!朝鮮半島

池上 彰

内容(e-honより)
今、日韓関係は「史上最悪」と言われる。両政府は激しく対立し、互いの国民感情の悪化も報じられるなど、多方面に影響が及んでいる。一方、北朝鮮は核開発を進め、日本を威嚇するかのようにミサイル発射実験を繰り返している。なぜ、日本と隣国の韓国や北朝鮮との間に問題が起きてしまうのか。朝鮮半島の歴史を辿り、そもそもの原因をジャーナリストの池上彰が解説。フェアな視点で学べる一冊!

 朝鮮半島の近代史を説明した本。2014年刊行なのでちょっと古いが、近代以降の韓国・北朝鮮の歴史がよくわかる。

 ただ歴史を学ぶだけでなく「なぜ北朝鮮はあんな国になったのか」「なぜ韓国は日本に対していつまでも賠償を求めてくるのか」といった思想背景もよくわかる。

 北朝鮮に関してはだいたい事前の印象通りだったが、この本を読んで見方が変わったのは韓国のほうだった。



 1945年の日本敗戦(ポツダム宣言受諾)により、それまで日本に併合されていた朝鮮半島は、日本から離脱。ただしすぐに独立国になったわけではなく、北部はソ連、南部はアメリカの占領下におかれ、3年後の1948年に朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国がそれぞれ独立している。

 このあたりの経緯がなんとも韓国、北朝鮮の立場をややこしくしている。

 もし韓国が日本と戦争をしていたなら話はかんたんだ。「我々は日本と戦い、勝った。そして独立を手にした」と誇ることができる。

 だが朝鮮は国として日本と戦ってはいないから戦勝国ではない。太平洋戦争中は日本の一部だったのだから、見方によっては敗戦国側ともいえる。「戦って勝ち取った独立」ではなく「棚ぼた的に転がりこんできた解放」だったのだ。

 被占領下で独立のために戦っていた人たちもいたが、その人たちは建国には関わっていない。むしろ、体制(日本)側についていた人たちがアメリカの後ろ盾を得て建国したのが韓国という国だ。だから「我々は日本から独立を勝ち取ったのだ」とは素直に言いづらい。


 その点、北朝鮮はもうちょっとわかりやすい。

 北朝鮮建国の祖である金日成は、抗日ゲリラ戦を指導していたことになっている(実際はソ連に逃れていたのでそんなに戦っていないそうなのだが)。だから「戦って独立を勝ち取った」という神話がまかり通る。

 ここに韓国のコンプレックスがある。

 北朝鮮の指導者ばかりが日本と戦っていたわけではない。韓国の指導者も、日本と戦って祖国を建国した。こういう「建国神話」を作るため、「大韓民国臨時政府」の名前に頼ったというのです。
 (中略)
 北朝鮮は、抗日武装闘争で日本の支配と戦ってきた抗日ゲリラの指導者・金日成によって建国されたと主張しています。これ自体、実は「神話」でしかないことは、次の章で触れますが、北朝鮮が反日闘争を実践してきたという「正統性」を主張すると、韓国の指導者には具合が悪かったのです。新政府の中枢にいたのは、日本の植民地支配に協力した人物たちでしたし、李承晩は、アメリカでの生活が長く、日本の支配と直接戦っていたわけではなかったからです。

 このへんの「日本の植民地支配に協力した人たちが建国した」という後ろめたさのせいで、余計に反日運動が盛んになるのだという。戦って勝ち取った独立という“史実”がないからこそ、日本は我々の敵だという“神話”に頼る必要があるのだろう。

 この風潮は今でもずっと続いていて、韓国大統領は任期満了が近づいて人気・影響力が低迷しだすと、反日的な政策を打ち出して人気回復を図ることがくりかえされていると池上彰氏は指摘している。

 日本が韓国のことを考えている以上に韓国って日本のことを意識しているのかもしれないなあ。建国の経緯が経緯だけに。



  ずっと「北朝鮮は独裁国家、韓国は民主国家」というイメージがあったのだけれど、韓国が名実ともに民主国家になったのはおもっていたよりずっと最近なのだと知った。

 1980年代までは、大統領が自分の権力を強めるために憲法を改正したり、大統領の暗殺や軍事クーデターによって権力奪取がおこなわれたり、とても民主国家とはいえない状態が続いていた。

 全斗煥は、自分の後継者として、陸軍士官学校の同期で、常に自分と行動を共にしてきた盧泰愚を選びます。この盧泰愚が、大統領候補として、「国民大和合と偉大なる国家への前進のための特別宣言」を発表します。発表した日が六月二九日だったことから、この宣言は「六・二九民主化宣言」と呼ばれます。憲法を改正して、大統領は、議会による間接選挙ではなく、国民による直接選挙で選ばれるようにしたのです。
 また、言論の自由の保障や地方自治体での選挙を実施することも約束されました。

 この民主化宣言が1987年。ちょうど1988年のソウルオリンピックを境に、今のような民主国家になったのだそうだ。こういうのを見ると、今では「悪いやつらが金儲けする手段」になり下がってしまったオリンピック開催にも、ちゃんと意義があったんだなとおもえる。そういや日本も1964年東京五輪を機に街がきれいになったと言われてるしなあ。



 外国に対してはあまり悪い先入観を持たないように気を付けているのだが、それでも韓国といえば「昔のことをいつまでもいつまでもほじくりかえしてくる国」という印象が強い。


 1965年に締結された「日韓財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権協定)について。

 この条約により、日本は韓国に一〇年間にわたり計三億ドルを無償で供与すると共に、二億ドルを低金利で貸し出すことを決めました。それ以外に、日本の民間企業が計三億ドルの資金協力をすることになりました。
 問題は、この資金の意味です。「賠償」という言葉の代わりに、「経済協力」という言い方になりました。
 韓国は、これを自国向けに「賠償」と説明日本は「経済援助」あるいは「独立祝い金」と説明しました。
 両国の間の請求権に関しては、第二条に次のように記されています。
 「両締約国(著者注・日本と韓国のこと)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」
 この条約により、韓国の国民が日本政府や日本の企業に対して損害賠償などの請求権を持てないことが確定しました。日本は韓国に賠償代わりに経済協力資金を渡しているのだから、後は韓国国内の問題である。韓国の国民が損害賠償を請求したかったら、韓国政府に言うべきことだ。これが、この条約以後の日本の主張です。
 ですから、日本政府に言わせれば、最近の韓国で、戦時中に日本の企業が韓国人労働者に対して未払いだった賃金を要求する裁判が起こされたり、いわゆる「慰安婦」に対する補償を求めたりする動きなどは、この条約に反している、ということになります。

 両国の間で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という条約が結ばれた。日本から韓国に莫大な資金協力もおこなわれた(それがなければ韓国は今のような経済発展を遂げられたかどうか)。

 にもかかわらず、その後もずっと賠償を主張しつづけている。

 それも、個人が好き勝手に言ってるだけではない。政府や、裁判所までが、過去に結んだ条約を無視して「賠償をしろ」と主張している。

 この感覚はとうてい理解できない。

 感情的には納得のできないものもあるだろうが、「これで最終的に解決したものとする」という条約を一度締結したなら、以降はそれに縛られるというのがたいていの日本人の感覚だろう。

 ところが韓国社会では、どうもこのへんの感覚がちがうようだ。


 日本に対してだけではない。国内の問題でも同じようなことをしている。

 盧泰愚前大統領は、在任中、武器購入や電力事業など、国家的な事業で手数料を取る一方、財界から裏献金を受けていました。両方の合計額は五〇〇〇億ウォン(当時のレートで約五二七億円)。
 あまりの巨額に言葉を失います。
 盧泰愚前大統領の罪状は、それに留まりません。軍政時代、光州事件で弾圧に手を染めた責任を追及されます。
 そうなると、責任があるのは盧泰愚前大統領だけではありません。さらに前任の全斗煥元大統領の責任も追及されることになります。盧泰愚前大統領は収賄容疑で、全斗煥元大統領は、大統領在任中のクーデターの首謀者の容疑で逮捕されました。
 しかし、当時の世論が要求した内乱罪は時効で適用できませんでした。
 時効で過去の罪を追及できないときには、どうするか。当時のことを追及できる法律を後から作り、過去を裁く。これが韓国流の法運用です。二人を逮捕した後で特別法を制定し、大統領在任中の時効を停止したのです。議会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件や軍事反乱などに対する権力犯罪の時効を停止しました。この特別法を根拠に、一九九七年四月、大法院(最高裁判所)は、全斗煥元大統領に無期懲役、追徴金二二〇五億ウォン(当時のレートで約二三二億円)、盧泰愚前大統領に懲役一七年、追徴金二六二八億ウォンの判決を言い渡しました。

 元大統領の過去の罪が明らかになる。なんとかして罰を受けさせてやりたい。だが法律ではもう時効なので裁けない。

 だったら過去にさかのぼって法律を変えて、昔の罪で裁けるようにしよう。

 これは一般に「法令不遡及の原則」に反するといって禁止されている行為である。どんなに今の感覚でひどいこととおもっても、それを裁く法律がなかった時代の罪は裁けない。日本国憲法第三十九条でも「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と定められている。


 だが韓国ではその原則よりも「許せないから罰したい!」という感覚のほうが優先されるようだ(これが韓国の法体制が「国民情緒法」と揶揄されるゆえんである)。

 うーん、文化の違いといえばそれまでなんだけどさ。

 まあ日本でも、こういう感覚の人は多い。有名人の何十年も前の発言を引っ張り出してきて「あいつはかつてあんなことを言ってたぞ!」と糾弾する人間が。今の基準で昔の言動を裁くのは卑怯だとおもうんだけど(今の基準に照らしたら歴史上の偉人なんかみんな何かしらの人権侵害に加担してるわけだし)。

 とはいえ「許せないから罰したい!」タイプの人は、市井の人々やテレビ関係者には大勢いても、さすがに日本政府や裁判所はそこまで直情的じゃない。感情は感情として、でも法律や約束のほうが大事だよ、という姿勢を崩さない。

 個人的には理解しがたいけど、まあ文化に正解はないから、そういう隣人だとおもって付き合っていくしかないよね。


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2025年2月13日木曜日

【読書感想文】小川 哲『君のクイズ』 / 長い数学の証明のような小説

君のクイズ

小川 哲

内容(e-honより)
生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか? 真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになり――。読めば、クイズプレーヤーの思考と世界がまるごと体験できる。人生のある瞬間が鮮やかによみがえる。そして読後、あなたの「知る」は更新される! 「不可能犯罪」を解く一気読み必至の卓抜したミステリーにして、エモーショナルなのに知的興奮に満ちた超エンターテインメント!

 生放送のクイズ大会の決勝で、「一文字も問題が読まれないのに早押しボタンを押して正解」したプレイヤーが優勝した。

 多くの人が不正があったのではないかと考えたが、番組側も、優勝者も、「不正はなかった」以外は一切語らない。

 はたして不正はあったのか。もし不正がなかったのだとしたら、なぜ一文字も読まれていないクイズの問題に正解することができたのか――。この“難問”に決勝戦で敗れたクイズプレイヤーが挑む。



 おもしろかった。

 小説というより、長い数学の証明を読んだような気分だ。長い数学の証明を読んだことないけど。

 実際、ほとんど数学の証明のようだ。「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題がはじめに提示され、その問題に主人公が挑む。

 最初は『スラムドッグ・ミリオネア』みたいだな、とおもった。インドのクイズ番組出演したある無学な男が、難しい問題に次々に正解する。なぜ彼は難問に答えることができたのか? というストーリーの映画だ。


 だが『君のクイズ』は『スラムドッグ・ミリオネア』とはちがう。『スラムドッグ・ミリオネア』は決して少なくない偶然が起きていた。“奇跡の話”だ。

 だが『君のクイズ』は奇跡の話ではない。少しの偶然はあるが、きわめて論理的に「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題の正解にたどりつくまでの話だ。




『君のクイズ』は、クイズという競技の奥深さを紹介する本でもある。

 ぼくはクイズを知っているとおもっていた。テレビのクイズ番組はけっこう好きだし、なんならかなり得意なほうだ。高校のときにクラスでやったクイズ大会で優勝したし。

 だが、ぼくは本当のクイズを知らなかった。将棋でいうと「ルールと駒の動かし方を知っているだけ」の状態。入口に立っただけの素人だった。

 「誰も知らない問題に、たった一人で正解する──たしかに気持ちいい。最高の気分だ。でも、それだけじゃ勝てない。みんなが知ってる問題でも押し勝って取らなきゃいけない」「それはわかってるつもりなんですけど」
「リスクを負うことも必要だ。展開によっては、まだ五分五分でも他より先に押さなきゃいけない。『恥ずかしい』という感情はクイズに勝つためには余計だ。そんな感情は捨てた方がいい。笑われたって、後ろ指さされたっていいじゃないか。勝てば名前が残る」

「たくさん知識があればクイズに勝てるんでしょ」とぼくはおもっていた。

 でもそんなことはない。筆記テストをやって合計点を競うのであれば、知識量がものを言う。でもクイズ(特に早押しクイズ)は筆記テストとは違う。答える速さ、対戦相手に関する情報、駆け引き、度胸、そういったものが必要となる。

 自分がわかる問題は他のプレイヤーもわかる。だったら誰よりも早く回答ボタンを押さないと勝てない。答えがわかってからボタンを押してからじゃ遅い。「答えがわかりそう」という段階で押さないといけない。

「しゃ──」と聞こえる。そして本庄絆がボタンを押す。正解を口にして優勝が決まる。他の出演者たちが「まだ一文字しか読まれていないのに!」と驚く。
 数回目でわかったことがある。よく聞くと実際には問い読みのアナウンサーは「しゃくに──」と口にしていた。急に解答ランプが点いて慌てて口を閉じたようで、漏れるように小さな声で「くに」まで発音している。
 もちろん「しゃくに」と聞こえたからと言って、答えがわかるわけがない。だが、この問題が、番組の最終回に最終問題として出されたことを考慮に入れると、本庄絆の「一文字押し」が魔法でもヤラセでもなかった可能性が生じてくる。
 本庄絆は「『終わりよければすべてよし』」と答えた。『終わりよければすべてよし』はシェイクスピアの戯曲だ。『尺には尺を』『トロイラスとクレシダ』の三作をまとめて、シェイクスピアの「問題劇」と呼ぶことがある。「しゃくに」という言葉から「『尺には尺を』」を導きだした本庄絆は、答えが問題劇のうちのひとつ、『終わりよければすべてよし』ではないかと考えた。なぜなら、それが番組を締めくくる問題だったからだ。最終回の最終問題の答えが「終わりよければすべてよし」というのはなかなか洒落ている。だから一応、論理的な推理で答えにたどり着く可能性があったわけだ。クイズプレイヤーが、問題外の情報を考慮すること自体は珍しくない。クイズは学力テストではない。出題者と解答者と観客がいて、ストーリーがある。ストーリーに気づく能力もまた、クイズプレイヤーとしての資質の一部だ。

「しゃ」と聞こえた段階でボタンを押す。出題者が発した「しゃくに」という言葉を手掛かりに、またクイズ番組の最終回の最終問題であることを鍵に、「『尺には尺を』の中で用いられたことで知られる、結末が良ければストーリーのすべてが良いことを表す言葉とは?」的な問題が出されることを予想し、『終わりよければすべてよし』と答える。

 トップクイズプレイヤーはこういう戦いをしているのだそうだ。ひゃあ。

 

 競技かるたにも似ているよね。あれも、上の句をすべて聞いてから札を探していたら遅すぎる。はじめの何文字かを聞いて、これまでに読まれた札も考慮して、残っている札の中からたった一枚に確定する札を取らないといけない。「百人一首の内容を覚えている」なんてのは最低限のレベルで、やっとスタートラインに立っただけだ。

 競技クイズもそれと同じで、知識があることは最低限の条件。まだまだ競技クイズの登山口に立っただけなのだ。

 さらに言えば、テレビのクイズ番組によく出るクイズプレイヤーには、「知識が豊富」「競技としてのクイズに強い」に加え、「視聴者が楽しめる立ち居振る舞いや気の利いたコメント」も求められるわけで、とことんクイズの世界は奥が深い。




『君のクイズ』は競技クイズの説明とストーリーがうまくからんでいる。

 最後に明かされる、あまりすっきりしない真相も個人的には好き。小説にはほろ苦い味わいがあったほうがいい。文学的であることを意識せず、論理に徹したような文章もけっこう好み。

 クイズとかパズルが好きな人には刺さる本だとおもうよ。


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2025年2月6日木曜日

【読書感想文】本岡 類『住宅展示場の魔女』 / 技巧がきらりと光る短篇集

住宅展示場の魔女

本岡 類

内容(e-honより)
「ハマってしまう」ってどういうことなのだろうか。「ハマって」しまったらどうなってしまうのだろう。何かに依存しないと安心感や安定感が得られない人たちを巡って起こるさまざまな事件をユーモラスに描く。「通販」に「ペット」、「懸賞応募」に「渓流釣り」、そして「住宅展示場見学」…。草原の落とし穴みたいに、日常生活の中にも口を開けて罠が待っている。

 2004年刊行の短篇ミステリ集。

 なかなか良かった。こういう短篇ミステリって最近あまり見ないなあ。ぼくが出会ってないだけかなあ。

 井上 夢人氏(元・岡嶋二人)が「短篇は長篇に比べて割に合わない」と書いていた。短篇でも長篇でも、アイデアをひねり出す苦労は大して変わらない。ミステリはアイデアの出来でほとんど決まるので。だが原稿料は枚数あたりで決まるし、ページ数がないと単行本にもできない。だから短篇は損だ、と。ショートショートの神様・星新一氏も似たことを書いていたし、ただでさえ本が売れない今、短篇ミステリは厳しい状況に置かれているのかもしれない。

 短篇を載せる雑誌も減っているだろうし。


 さて『住宅展示場の魔女』について。

 最初の、通販好きの取り立て屋が登場する『通販天国』、懸賞マニアの主婦が殺される『当日消印有効』を読んで、なるほど、軽い味のブラックコメディミステリね、とおもっていた。『女子高教師の生活と意見』にいたってはドタバタSFのような味わいだし。

 ところが四篇目『束の間の、ベルボトム』を読んで、評価をちょっと改めた。

 これは、なかなかいい小説だぞ。ミステリとしては新鮮さはないが、「若い頃のファッションを楽しみたい」とおもう中年の心境をうまくからめたことで、ほろ苦い味わいの短篇になっている。小説巧者だな。

 コメディ作品の『メリーに首ったけ』を挟み、次はコギャルの厚底ブーツという旬(だった)アイテムをミステリにつなげた『気持はわかる』。これもよくできている。軽妙ながら、ミステリとして隙がない。ちょっとしたアイデアなのだが、趣向を凝らして上質な短篇に仕上げている。

 これはなかなかの腕だぞ。調べたところ、1984年デビューらしい。つまり『住宅展示場の魔女』を書いた時点でデビュー20年。道理で技術が高いはずだ。脂ののっていた頃の阿刀田高氏のようなうまさがある。


 渓流釣りと殺人事件を融合させた『山女の復讐』も短篇ながら本格の味わい。釣りのエッセンスも織り交ぜられ、お得感がある。

 住宅展示場めぐりを趣味とする女に芽生えた悪意を描いた『住宅展示場の魔女』はミステリというよりサスペンス。

 ミステリに加えて、コメディ、SF、サスペンス、ペーソスなどいろんな要素がふんだんに散りばめられている。

 決して派手さはないが良作ぞろい。ベテランの技巧がきらりと光る短篇集だった。


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