2025年2月18日火曜日

【読書感想文】池上 彰『そうだったのか!朝鮮半島』 / 約束よりも感情が優先される国

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そうだったのか!朝鮮半島

池上 彰

内容(e-honより)
今、日韓関係は「史上最悪」と言われる。両政府は激しく対立し、互いの国民感情の悪化も報じられるなど、多方面に影響が及んでいる。一方、北朝鮮は核開発を進め、日本を威嚇するかのようにミサイル発射実験を繰り返している。なぜ、日本と隣国の韓国や北朝鮮との間に問題が起きてしまうのか。朝鮮半島の歴史を辿り、そもそもの原因をジャーナリストの池上彰が解説。フェアな視点で学べる一冊!

 朝鮮半島の近代史を説明した本。2014年刊行なのでちょっと古いが、近代以降の韓国・北朝鮮の歴史がよくわかる。

 ただ歴史を学ぶだけでなく「なぜ北朝鮮はあんな国になったのか」「なぜ韓国は日本に対していつまでも賠償を求めてくるのか」といった思想背景もよくわかる。

 北朝鮮に関してはだいたい事前の印象通りだったが、この本を読んで見方が変わったのは韓国のほうだった。



 1945年の日本敗戦(ポツダム宣言受諾)により、それまで日本に併合されていた朝鮮半島は、日本から離脱。ただしすぐに独立国になったわけではなく、北部はソ連、南部はアメリカの占領下におかれ、3年後の1948年に朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国がそれぞれ独立している。

 このあたりの経緯がなんとも韓国、北朝鮮の立場をややこしくしている。

 もし韓国が日本と戦争をしていたなら話はかんたんだ。「我々は日本と戦い、勝った。そして独立を手にした」と誇ることができる。

 だが朝鮮は国として日本と戦ってはいないから戦勝国ではない。太平洋戦争中は日本の一部だったのだから、見方によっては敗戦国側ともいえる。「戦って勝ち取った独立」ではなく「棚ぼた的に転がりこんできた解放」だったのだ。

 被占領下で独立のために戦っていた人たちもいたが、その人たちは建国には関わっていない。むしろ、体制(日本)側についていた人たちがアメリカの後ろ盾を得て建国したのが韓国という国だ。だから「我々は日本から独立を勝ち取ったのだ」とは素直に言いづらい。


 その点、北朝鮮はもうちょっとわかりやすい。

 北朝鮮建国の祖である金日成は、抗日ゲリラ戦を指導していたことになっている(実際はソ連に逃れていたのでそんなに戦っていないそうなのだが)。だから「戦って独立を勝ち取った」という神話がまかり通る。

 ここに韓国のコンプレックスがある。

 北朝鮮の指導者ばかりが日本と戦っていたわけではない。韓国の指導者も、日本と戦って祖国を建国した。こういう「建国神話」を作るため、「大韓民国臨時政府」の名前に頼ったというのです。
 (中略)
 北朝鮮は、抗日武装闘争で日本の支配と戦ってきた抗日ゲリラの指導者・金日成によって建国されたと主張しています。これ自体、実は「神話」でしかないことは、次の章で触れますが、北朝鮮が反日闘争を実践してきたという「正統性」を主張すると、韓国の指導者には具合が悪かったのです。新政府の中枢にいたのは、日本の植民地支配に協力した人物たちでしたし、李承晩は、アメリカでの生活が長く、日本の支配と直接戦っていたわけではなかったからです。

 このへんの「日本の植民地支配に協力した人たちが建国した」という後ろめたさのせいで、余計に反日運動が盛んになるのだという。戦って勝ち取った独立という“史実”がないからこそ、日本は我々の敵だという“神話”に頼る必要があるのだろう。

 この風潮は今でもずっと続いていて、韓国大統領は任期満了が近づいて人気・影響力が低迷しだすと、反日的な政策を打ち出して人気回復を図ることがくりかえされていると池上彰氏は指摘している。

 日本が韓国のことを考えている以上に韓国って日本のことを意識しているのかもしれないなあ。建国の経緯が経緯だけに。



  ずっと「北朝鮮は独裁国家、韓国は民主国家」というイメージがあったのだけれど、韓国が名実ともに民主国家になったのはおもっていたよりずっと最近なのだと知った。

 1980年代までは、大統領が自分の権力を強めるために憲法を改正したり、大統領の暗殺や軍事クーデターによって権力奪取がおこなわれたり、とても民主国家とはいえない状態が続いていた。

 全斗煥は、自分の後継者として、陸軍士官学校の同期で、常に自分と行動を共にしてきた盧泰愚を選びます。この盧泰愚が、大統領候補として、「国民大和合と偉大なる国家への前進のための特別宣言」を発表します。発表した日が六月二九日だったことから、この宣言は「六・二九民主化宣言」と呼ばれます。憲法を改正して、大統領は、議会による間接選挙ではなく、国民による直接選挙で選ばれるようにしたのです。
 また、言論の自由の保障や地方自治体での選挙を実施することも約束されました。

 この民主化宣言が1987年。ちょうど1988年のソウルオリンピックを境に、今のような民主国家になったのだそうだ。こういうのを見ると、今では「悪いやつらが金儲けする手段」になり下がってしまったオリンピック開催にも、ちゃんと意義があったんだなとおもえる。そういや日本も1964年東京五輪を機に街がきれいになったと言われてるしなあ。



 外国に対してはあまり悪い先入観を持たないように気を付けているのだが、それでも韓国といえば「昔のことをいつまでもいつまでもほじくりかえしてくる国」という印象が強い。


 1965年に締結された「日韓財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権協定)について。

 この条約により、日本は韓国に一〇年間にわたり計三億ドルを無償で供与すると共に、二億ドルを低金利で貸し出すことを決めました。それ以外に、日本の民間企業が計三億ドルの資金協力をすることになりました。
 問題は、この資金の意味です。「賠償」という言葉の代わりに、「経済協力」という言い方になりました。
 韓国は、これを自国向けに「賠償」と説明日本は「経済援助」あるいは「独立祝い金」と説明しました。
 両国の間の請求権に関しては、第二条に次のように記されています。
 「両締約国(著者注・日本と韓国のこと)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(中略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」
 この条約により、韓国の国民が日本政府や日本の企業に対して損害賠償などの請求権を持てないことが確定しました。日本は韓国に賠償代わりに経済協力資金を渡しているのだから、後は韓国国内の問題である。韓国の国民が損害賠償を請求したかったら、韓国政府に言うべきことだ。これが、この条約以後の日本の主張です。
 ですから、日本政府に言わせれば、最近の韓国で、戦時中に日本の企業が韓国人労働者に対して未払いだった賃金を要求する裁判が起こされたり、いわゆる「慰安婦」に対する補償を求めたりする動きなどは、この条約に反している、ということになります。

 両国の間で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」という条約が結ばれた。日本から韓国に莫大な資金協力もおこなわれた(それがなければ韓国は今のような経済発展を遂げられたかどうか)。

 にもかかわらず、その後もずっと賠償を主張しつづけている。

 それも、個人が好き勝手に言ってるだけではない。政府や、裁判所までが、過去に結んだ条約を無視して「賠償をしろ」と主張している。

 この感覚はとうてい理解できない。

 感情的には納得のできないものもあるだろうが、「これで最終的に解決したものとする」という条約を一度締結したなら、以降はそれに縛られるというのがたいていの日本人の感覚だろう。

 ところが韓国社会では、どうもこのへんの感覚がちがうようだ。


 日本に対してだけではない。国内の問題でも同じようなことをしている。

 盧泰愚前大統領は、在任中、武器購入や電力事業など、国家的な事業で手数料を取る一方、財界から裏献金を受けていました。両方の合計額は五〇〇〇億ウォン(当時のレートで約五二七億円)。
 あまりの巨額に言葉を失います。
 盧泰愚前大統領の罪状は、それに留まりません。軍政時代、光州事件で弾圧に手を染めた責任を追及されます。
 そうなると、責任があるのは盧泰愚前大統領だけではありません。さらに前任の全斗煥元大統領の責任も追及されることになります。盧泰愚前大統領は収賄容疑で、全斗煥元大統領は、大統領在任中のクーデターの首謀者の容疑で逮捕されました。
 しかし、当時の世論が要求した内乱罪は時効で適用できませんでした。
 時効で過去の罪を追及できないときには、どうするか。当時のことを追及できる法律を後から作り、過去を裁く。これが韓国流の法運用です。二人を逮捕した後で特別法を制定し、大統領在任中の時効を停止したのです。議会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件や軍事反乱などに対する権力犯罪の時効を停止しました。この特別法を根拠に、一九九七年四月、大法院(最高裁判所)は、全斗煥元大統領に無期懲役、追徴金二二〇五億ウォン(当時のレートで約二三二億円)、盧泰愚前大統領に懲役一七年、追徴金二六二八億ウォンの判決を言い渡しました。

 元大統領の過去の罪が明らかになる。なんとかして罰を受けさせてやりたい。だが法律ではもう時効なので裁けない。

 だったら過去にさかのぼって法律を変えて、昔の罪で裁けるようにしよう。

 これは一般に「法令不遡及の原則」に反するといって禁止されている行為である。どんなに今の感覚でひどいこととおもっても、それを裁く法律がなかった時代の罪は裁けない。日本国憲法第三十九条でも「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。」と定められている。


 だが韓国ではその原則よりも「許せないから罰したい!」という感覚のほうが優先されるようだ(これが韓国の法体制が「国民情緒法」と揶揄されるゆえんである)。

 うーん、文化の違いといえばそれまでなんだけどさ。

 まあ日本でも、こういう感覚の人は多い。有名人の何十年も前の発言を引っ張り出してきて「あいつはかつてあんなことを言ってたぞ!」と糾弾する人間が。今の基準で昔の言動を裁くのは卑怯だとおもうんだけど(今の基準に照らしたら歴史上の偉人なんかみんな何かしらの人権侵害に加担してるわけだし)。

 とはいえ「許せないから罰したい!」タイプの人は、市井の人々やテレビ関係者には大勢いても、さすがに日本政府や裁判所はそこまで直情的じゃない。感情は感情として、でも法律や約束のほうが大事だよ、という姿勢を崩さない。

 個人的には理解しがたいけど、まあ文化に正解はないから、そういう隣人だとおもって付き合っていくしかないよね。


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