2022年11月21日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』『緊急入院!ズッコケ病院大事件』『ズッコケ家出大旅行』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十四弾。

 今回は40・41・42作目の感想。そろそろ終わりが見えてきた。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー』(1999年)

 自分史作りをはじめた三人。周囲の人の話から己の過去を探っていくうちに、あだ名の由来や自分の記憶の不確かさなどに気づく。そんな中、ハチベエの初恋の子の転校と、ハカセの母親が被害者となったひき逃げ事件に意外なつながりがあることがわかり……。


 まず、看板に偽りあり。過去にもいかないし、まして「未来に戻る」なんて内容は一切ない。『ズッコケ宇宙大旅行』みたいに多少盛る(日帰りだった)のはいいけど、これは大嘘タイトル。

 それはそうと、内容はわりとおもしろかった。後期作品にしてはよくできているほうだとおもう。まあ前半は既存ファン向けの内容だったけどね。ニックネーム誕生の秘密とか。

 後半は「ハカセの母親をひき逃げした男が、ハチベエの初恋の子・民ちゃんの父親だった」「民ちゃんの父親には強盗容疑もかかっていた」「民ちゃんの父親が強盗に入ったことを目撃したのはハチベエだった」と、意外な事実が明らかになってゆく。その後も、強盗は狂言強盗だったことが明らかになり「ではなぜハチベエは民ちゃんの父親が強盗だったと嘘の証言をしたのか?」というミステリーの連続で惹きつける。

 終盤には民ちゃんとの気まずい再会という展開も用意していて、派手さはないけどうまくまとまった作品だった。こういうのでいいんだよ、こういうので。神出鬼没で変幻自在の怪盗とか、閉ざされた空間での連続殺人事件とか、ズッコケにそういうの求めてないから。地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力なんだから。




緊急入院!ズッコケ病院大事件』(1999年)

 釣りに出かけた三人組、および同行した女の子たちが相次いで原因不明の熱病にかかる。40度を超える高熱、身体に現れる発疹、節々の痛み。チフスではないかと疑われるが、チフスの治療をしてもいっこうに熱が下がらず……。


 いきなり登場する謎の男、そしてこの男が凄腕の狙撃手(殺し屋)であることが明かされたかとおもったら、なんと彼が熱病にかかって病死してしまう。さっき「地に足の着いた小学生の冒険こそがシリーズの魅力」と書いたとたんにこれだよ……。

 さらにこの殺し屋の描写に使われるのが本文の四分の一。この間、三人組はほとんど登場しない。この男の描写にここまでページを割く必要があったのか……。

 最終的に「三人組が感染した病気の感染経路はこの殺し屋でしたー」と種明かしがされるのだが、そんなことは読者には十分わかっているので何の驚きもない。手品の種が丸見えなんですけど(『ズッコケ財宝調査隊』パターン)。

 そしてもうひとつの裏切り(?)が、「チフスかとおもったら実はデング熱でしたー」という展開なのだが、これまた何の驚きもない。だってチフスもデング熱もぜんぜん知らねえんだもん。大人のぼくですら「聞いたことある程度の病名」なんだから、読者である小学生からいたら心底「どっちでもええわ」だろう。


 とまあ、ツッコミ所の多い作品ではあるが、つまらなかったかというと決してそんなことはない。なんだろうな、著者が好きなことを書いているっていう感じが伝わってくるんだよな。

 長い釣りの説明とか(釣りの描写があるのは『探検隊』『株式会社』『海賊島』『海底大陸』に続いて五作目。ほんと釣り好きだよなあ)、詳しすぎる病気の説明とか、医師同士の会話のシーンとか、はっきりいって読者である子どものことを考えているとはおもえない。でも、そこがいいんだよ。ズッコケシリーズの魅力ってそこなんだよ。子どもにあわせるじゃなくて、「大人が本気でおもしろいとおもうものを書くから読みたいやつは読め!」みたいな感じ。初期の作品も、アメリカ大統領選挙の話とか、株式会社の制度とか、北京原人の骨だとかもうひとつの皇族とか、子ども受けなんて無視したかのように著者が好きなこと書いてたもんなあ。そういうのがおもしろいんだよな。藤子・F・不二雄の描いてた大長編ドラえもんと同じで。

 ズッコケシリーズ中期は怪談が流行ったら怪談を書いたり、推理漫画が流行ったら便乗したり、かなり「あわせにいって」いた。だがこの作品に関しては、久々に著者の筆が乗っているように感じた。子どもウケするかどうかはわからないが(うちの九歳の娘の感想は「ふつう」)、ぼくはなかなか好きな部類の作品だった。

 病気に感染した後の三人の内面や行動の違いもおもしろかった。自分の病状を観察し、原因について研究するハカセ、入院することを怖がっていたくせにのんびりした入院生活を楽しむモーちゃん、調子に乗って病院内を歩きまわって症状を悪化させるハチベエ。入院生活も三者三様でおもしろい。

 また、安藤圭子だけが発症していないこと、安藤圭子だけ虫よけスプレーをしていて蚊に刺されなかったことがハカセが病名を突き止めることに一役買うという展開もおもしろい。

 入院までの流れも緊張感がある。ただ、コロナ禍の今読むと「子どもが原因不明の感染症で隔離病棟に入院しているのに、家族は検査すらされずに日常生活を送れる」という対応だけは嘘っぽく感じてしまうな。



『ズッコケ家出大旅行』(2000年)

 勝手に塾に入会する手続きをされてしまったハカセは、親への抗議のために家出を計画する。姉さんにお菓子を勝手に食べられてしまったモーちゃん、店の手伝いをさせられることに不満を持つハチベエも同行し、三人は荷物を持って大阪へ向かう。が、道中で数々のハプニングに見舞われ……。


 おもしろかった。ズッコケシリーズをずっと読んでいるが、読んでいてわくわくしたのは久しぶりだ。ぼくが大人になってからはじめて読んだ27作目以降の作品の中でははじめてかもしれない。

 まず家出決行までが期待を盛り上げてくれる。おもいついてすぐ家出、ではなく、持ち物を用意したり、ゲームソフトを売って資金を貯めたり、計画的な家出なのがハカセらしい。「旅行は準備しているときがいちばん楽しい」なんて言うが、家出もまた同じ。計画段階がいちばん楽しい(ぼくはやったことないけど)。那須正幹先生はよくわかっている。

 家出決行後も、人命救助、電車を乗りまちがえる、神社で野宿、ふとした出会いから車で送ってもらうことになる、などイベントてんこもり。それだけではあきたらず、スリに所持金の大半をスられてしまうという展開まで用意していて読んでいてハラハラドキドキが止まらない。

 ただ、後半はちょっと失速。三人同時に財布をなくすのがいかにも予定調和っぽい。三人組にホームレス体験をさせたかったのだろうが、一万円あったのだから「会ったばかりのホームレスに一万円渡して仲間に入れてもらう」ではなく「ミドリ市までは帰れなくてもできるかぎり近くまで帰る」あるいは「家に連絡する」という選択肢を選ぶだろ、ふつうは。数日家を空けただけで十分目的は達成できてるんだし。

 気に入らないのは、中期以降の作品ではすぐに女の子を登場させること。女子読者を意識してのことなのか知らないけど、とにかく安易なんだよね。ストーリー的に必要があって出すのならいいけど、この作品なんかはかなり不自然に女の子をねじこんできた、という感じだ。さすがに子ども、それも女の子がホームレス生活をしてたら警察や行政が黙ってないとおもうぜ。

 ホームレス生活のあたりはイマイチだったが、他は十分おもしろくて、久々におもしろいズッコケ作品を読んだ気がする。「ハチベエの涙」という貴重なシーンも効果的だった。

 家出ってあこがれるもんなあ。ぼくは一度も家出をしたことがないししたいとおもったこともないけど、ほのかな憧れだけはずっと持っていた。大人になってから読んでもわくわくしたんだから、小学生のときに読んでたらものすごく楽しかっただろうなあ。


 ところで『夢のズッコケ修学旅行』の感想にも書いたけど、地名を半端にフィクションにするのをやめてほしいなあ。

 三人組が住む町が稲穂県ミドリ市(モデルは広島県広島市)となっているのはまあいいとして、岡山県倉敷市が岡島県倉橋市などになっているのは読みづらくてしかたがない。そうかとおもうと、大阪、阿倍野、天王寺といった地名はそのまま使われている。何がしたいんだ。これまでにも東京とか愛媛とかの地名はふつうに出てきてたから、ズッコケの世界では中国地方だけが仮名なんだよね。へんなの。


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2022年11月18日金曜日

おしりぺんぺん

 おしりぺんぺんってさ、改めて考えるといい体罰だとおもうんだよね。

 あ、いや、体罰推奨派じゃないんだけど、極力体罰をなくしたほうがいいとおもうんだけど。

 でもさ、じっさい子どもを育ててみると、我が子ながらものすごく憎らしくなることもあるんだよね。平然と嘘をついたり、詭弁でごまかそうとしたり、小さい子にいじわるをしたり、おもわず手が出そうになることも一度や二度ではない。

 もう手が付けられなくなるぐらい怒って暴れることや、怒って他人にやつあたりしているときなどは、言葉で説得することなど不可能だ。怒りくるっている犬を相手にするようなものだ。そんなときにいくら「いい子だからおぎょうぎよくしようねー」なんて言ってもへのつっぱりにもならない。

 そんなときぼくは「羽交い絞めにする」「押し入れに入れる」という手段をとる。

 一部の人に言わせれば、これも許されない体罰になるのだろう。でも、だったらどうしたらいいのか教えてくれ。はさみを持ったまま怒りくるっていて、一切こちらの話を聞かない子どもをどうやってなだめるのかを。


 もちろん殴る蹴るなどの体罰はよくないとおもうし、できることならぼくだって手を上げたくはない。でも、力づくで抑えないとどうにもならない状況はある。暴力絶対反対っていってる人だって、子どもが犬に噛まれてたら力づくで止めるだろ? それと同じで。

 で、おしりぺんぺんだ。

 体罰の中ではおしりぺんぺんっていちばんマシなものじゃないかとおもう。


 最大のメリットは、けがをさせないこと。子どもの身体は弱いから、体罰によって口を切ったり骨が折れたりへたすると内臓や脳に損傷を与えたりするかもしれない。ふだん人を殴らない人ほどかげんがわからない。

 その点、おしりぺんぺんでけがをさせることはまずない。少々加減をあやまったって、せいぜいおしりが真っ赤になるぐらい。おしりは身体の中でもトップクラスに衝撃に強い部位だ。


 それから実行に移すまでに時間がかかること。

 たとえば頭にげんこつを食らわすとか、頬に平手打ちをお見舞いするとかだと、かっとなってやってしまうかもしれない。感情にまかせて行動してもろくなことはない。けがをさせたり、体罰を与えた側が後悔したりする。

 その点、おしりぺんぺんはとっさには実行に移せない。このやろうとおもい、子どもを抱え、膝の上にうつぶせにして、場合によってはズボンやパンツをおろして、それからぺんぺんすることになる。どんなに熟練したおしりぺんぺナーでもその間数秒はかかる。

 この間に頭を冷やせる。

 聞くところによると、人間の怒りのピークは六秒しか持続しないという。子どもをつかまえて、膝の上に乗せ、暴れる子のズボンやパンツを脱がせて腕をふりあげているうちに怒りのピークは過ぎ去っている。

 これにより「感情に任せてつい暴力を加えてしまう」ことが避けられる。「今度やったらおしりぺんぺんだよ」と解放してやるか、あるいは「ここは教育のためにぺんぺんしといたほうがいい」と教育的指導を加えるか、冷静に判断することができる。

 感情のままにぶんなぐるのと、冷静に判断した上で手を上げるのでは、まったくちがう。後者の体罰は、推奨するまではいかなくても、黙認ぐらいはされてもいいと個人的にはおもう。


 かように、おしりぺんぺんはよくできた体罰システムである。少なくとも殴ったり蹴ったりするよりは百倍いい。さすが昔の人はいいシステムを考えたものだ。昔の子どもは今より栄養状態も悪かったし、救急医療の体制もなかった。子どもに手を上げて、けがをさせてしまうことも今よりずっと多かったにちがいない。そこで生まれたのがおしりぺんぺんシステムなのだろう。

 これを家庭内教育だけでなく、学校教育にも活かせないものか。

 もちろん教師が生徒のおしりをぺんぺんやるわけにはいかないが、教師が生徒を殴りたくなったときは、細長い風船を膨らませて、そいつでおもいっきりぶんなぐってもいいことにするとか。

 もちろん風船で殴られたってけがをすることはないし、風船をふくらませるのには時間も体力も使うから、そこまでして殴りたいということは教師としてもよほどのことなのだろう。感情にまかせた体罰ではなく、教育的見地に基づく指導が期待できる。

 風船でなぐられたって痛くもかゆくもないから、風船をうんこの形にして精神的ダメージを与えてやるぐらいはしてもいいとおもう。


2022年11月17日木曜日

【読書感想文】大岡 玲ほか『いじめの時間』 / いじめの楽しさ

 

いじめの時間

江国 香織  大岡 玲  角田 光代  野中 柊
湯本 香樹実  柳 美里  稲葉 真弓

内容(e-honより)
「いじめられる子」と「いじめる子」。ふたりの間に横たわるのは、暗くて深い心の闇。でもいつのまにか両者が入れ替わったり、互いの傷を舐めあっていることもある。さまざまな「いじめ」に翻弄され、心が傷つき、魂が壊れることもあるけれど、勇気を出して乗り越えていく者もいる。希望の光が射し込むこともある―すべて「いじめ」をテーマに描かれた7人の作家による入魂の短篇集。

 いじめをテーマにしたオムニバス短篇集。


江国 香織『緑の猫』

 親友がノイローゼ気味になってしまって、周囲から距離をとられてしまうという話。「これもいじめとするのか?」という感想。いやあ、クラスメイトの様子がおかしくなってあることないこと言いだしたら、距離をとるのはふつうでしょ。

 これをいじめとするのはさすがに被害者意識が強すぎないか?


大岡 玲『亀をいじめる』

 これはよかった。

 主人公は教師。主人公はかつていじめに遭っていて、現在は娘のクラスでいじめが起こっていて、自身の勤務する学校でもいじめが起こっている。いじめられるつらさを知る主人公はいじめを止める……かというと、ぜんぜんそんなことはない。勤務先でのいじめには見てみぬふり。娘のクラスで起こっているいじめについては、被害者の親に対してあることないこと吹きこんで焚きつける。なんとも卑怯で小ずるい男なのだ。さらにこの男は自宅で亀に熱湯をかけていじめている。

 こういう男が教師であり父親であるということにぞっとするが、考えてみれば我々の多くはこのタイプなのだ。積極的にいじめに加担するわけではないが、かといっていじめられている他者を守るために身体を張るほどの正義感もない。そして「攻撃していい人」と認定した人間に対しては容赦ない残虐性を発揮する。学生だけでない。多くの大人だって、不倫した有名人や失言をした政治家はどれだけいじめてもいいとおもっている。

 主人公を筆頭に登場人物たちがみな保身と自己弁護ばかりでなかなか胸くそ悪くなる短篇だが、それがいい。いじめについて語る人ってみんな「いじめられていた人」か「いじめを心の底から嫌悪していて加担しない人」の立場をとるじゃない。そんなわけないのに。みんながいじめを大嫌いならいじめなんて起こるわけない。我々はいじめを好きなんだよ。ぼくもあなたも。それを認めないといじめ問題は永遠になくならない。

「私は状況によってはいじめる側の人間です」と声高らかに言う人がいないので(ぼくだってわざわざそんなことは言わない)、小説でその立場の人間を書くことは意義があるとおもう。


角田 光代『空のクロール』

 同級生からいじめに遭うようになった主人公。いじめの主犯は、同じ水泳部で泳ぎのフォームが美しい少女。

 これはストレートにいじめられる少女の苦悩を描いた小説。いじめをテーマに短篇を書いてくださいと言われたらこんな作品ができあがるだろうなあと予想する通りの小説。つまり、とりたてて新しい切り口は感じなかった。


野中 柊『ドロップ』

 白昼夢のような小説。これは……いじめ? ただ白昼夢を見ただけじゃねえのか。


湯本 香樹実『リターンマッチ』

 いじめを描いたっていうより友情を描いた青春小説だった。なんかずっとさわやかなんだよね。いじめすら〝さわやか〟を描くための、シンプルな材料になってる。


柳 美里『潮合い』

 転校生が来ていじめが起こり、とある出来事をきっかけにいじめられる側といじめる側が反転しそうになる……ってとこで終わる。漫画『聲の形』の一巻で終わっちゃった感じ。


稲葉 真弓『かかしの旅』

 いじめに遭って家出をした少年からの手紙という形式の小説。

 そもそもの話をしてしまうと、手紙形式の小説って嫌いなんだよね。ずるいっていうか。安易に心情を吐露しすぎなんだよね。遺書じゃないんだから、そんなになんでもかんでも書かないでしょ。

 だいたい手紙形式の小説って「あなたは××のときに△△で〇〇してくれましたよね」みたいなこと書くんだよね。書かねえよ。手紙でもメールでもLINEでもいいけど、そんな説明くさい文章書いたことある?



 まあ古い短篇集だからしょうがないんだけど、『亀をいじめる』以外はいじめの書き方が単純だなあ。ワイドショーの書き方なんだよね。非道で許しようのないいじめっ子と、一点の非もないのに悪い奴に目をつけられたがためにいじめられているかわいそうな子。

 わかりやすいけど。そうおもってたほうが楽だけど。

 だけどさ、そうじゃないわけでしょ。いじめは楽しいから、みんな大好きなわけじゃない。たいていのいじめは、いじめられる側にも非があるわけでしょ(だからいじめてもいいってわけじゃないよ)。だからこそいじめて楽しい。

 そのあたりの、いじめる楽しさを書いてほしかったな。正当化しろってことじゃないよ。きれいごとに終始していたようにおもう。

 ちょっと前に奥田 英朗『沈黙の町で』という、いじめを描いたすばらしい小説を読んだので、どうしてもそれと比べてものたりなさを感じてしまった。


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2022年11月16日水曜日

【読書感想文】上田 啓太『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』/ ひたすら己を眺める時間

人は2000連休を与えられるとどうなるのか?

上田 啓太

内容(e-honより)
仕事のない解放感を味わう。将来への不安を感じはじめる。昔を思い出して鬱になる。図書館に通って本を読む。行動を分単位で記録する。文字を読むことをやめてみる。人間のデータベースを作る。封印していた感情を書き出す。「自分」が薄れる。鏡に向かって「おまえは誰だ?」と言い続ける。自分にも他人にも現実感が持てなくなる…。累計1000万PVの奇才が放つ衝撃のドキュメント。


 ぼくはかつて無職だった。原因不明の高熱が続いたので新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、実家に帰った。はじめのうちは心配していた両親も、就職活動をするでもなく、アルバイトをするでもなく、インターネットで遊んだり友人と遊びに行ったりしている息子に対して冷たくなった。

 なにしろ、体調が悪いと言いつつ、近所を走ったり友人と飲みに出かけたりしているのだ。これでは心配してもらえない。

 ぼくのほうも両親の「はよ働け」プレッシャーを毎日受けているうちに居心地が悪くなり、一年後ついにアルバイトをはじめてしまった(その後正社員登用される)。


 ということで、乳幼児の時期を除けば、ぼくが経験した最大連休は360連休ぐらいだ。

 360連休でもなかなかきつかった。親からのプレッシャーもあるし、周囲からの「大丈夫?」という心配も胸が痛くなった(逆に親しい友人から「クズニート!」とかストレートに言われると安心した。心配されるほうがつらい)。なにより、このままじゃいけないということは自分がいちばんわかっている。

 決して勤勉というわけではないが、それでも終わりのない休みがずっと続くのはつらい。考える時間だけはたっぷりあるので、ついつい思考が悪いほうに向かってしまう。

 アルバイト、そして正社員として働くようになって感じたのは「無職でいるより働くほうがずっと楽」ということだ。

 雇用されていれば、「明日は何をしよう」「この先どうしたらいいのか」といったことに思い悩まなくてもいい。将来への不安がゼロになるわけではないが「まあなんとかなるだろ」とおもえる。仕事はつらいこともあるが、無職でいることに比べれば屁でもない。

 そんな経験があるので『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』というタイトルを見たときはぞっとした。2000連休ということは約6年。それだけ休んだ後にはたして〝こちら側〟に帰ってこられるのだろうか?



 著者の上田啓太氏は仕事をやめ、恋人の家に転がりこむ。一応最低限の生活費は入れていたらしいが、ほとんどヒモだ。

 まあヒモだろうとニートだろうと子ども部屋おじさんだろうと当人たちが納得しているのなら他人がとやかく言うことではないが、やっぱり大人が大人に依存しているのはお互い居心地のいいものではないだろう。

 連休が続いている。すでに四ヶ月ほど働いていない。さすがに不安を感じはじめた。まったく社会と関わっていない。通勤先がない。通学先もない。何の労働もしていない。毎日ひたすら家にいる。コンビニやスーパーには行くが、それだけだ。アルコールは現実逃避の意味合いを持ちはじめている。昼間から酒を飲んでいても、心の底から快活に笑えない。これまでの人生は何だったんだろう。今後の人生はどうなるんだろう。過去と未来のはさみうちにあっている。

 わかるなあ。ぼくも無職になった当初は楽しかったけど、やっぱり数か月たつと「何をしてもいい」という喜びは消え、将来への不安ばかりが強くなった。「酒に逃げたらもうおしまいだ」という意識があったために酒には手を出さなかったけど、もし酒好きだったら酒におぼれて再起不能になってしまっていたかもしれない。

 ぼくもそうだけど、内向的な人間ってヒマにならないほうがいいんだよね。思考が内に内に向かってゆく。内を見つめてもいいことなんて何もない。己の良さなんて他人に見出してもらうものであって、自分で発見するもんじゃない。


 大学に入ってしばらくしてからも同じような状況に陥った。大学生ってとにかく自由じゃない。あれもできるこれもできる、とおもうとかえって何もできなくなってしまう。

 時間だけはあるのであれこれ考える。答えのないことばかり考える。いま客観的に思いかえしたら「考えなくていいからバイトするなりどっか出かけるなりしろ!」と一喝したくなるけど、当時は「どうせあと数年したら仕事しなくちゃいけないんだから、今は今しかできないことをしよう」とおもっていた。数年後無職になるとも知らずに。


 油断すると部屋にこもるような人間は、たいてい言語能力が発達している。肉体の運動神経のかわりに、言語やイメージの反射神経を鍛えているようなものだからだろう。少しの刺激からさまざまに思考を展開させるくせがある。これ自体はただの特徴だし、うまく転がれば、想像力が豊かだと評されたり、よくもまあ変なことを考えるもんだと言われたりする。しかしマイナス方向に振れた場合、誰かの些細なひとことから原稿用紙百枚分の被害妄想を展開させてしまったりもする。
 人は汗だくで苦悩できるのか。反復横とびしながら悩んでいられるのか。シャトルランのあとで悩みを維持できるのか。運動不足や不摂生の産物を、観念的な悩みと取り違えているのではないか。

 忙しく仕事をしていたら「人生の意味とは」とか「より善く生きるには」とか考えないんだよね。そんなこと考えなくていいんだけど、ヒマな人間からすると、考えてない人間が愚かに見えてしまうんだよね。「彼らは何も考えていない」とおもってしまう。じっさいは「自分が考えていることを考えていない」だけなのにね。



  時間があるからだろう、上田さんはひたすら自分自身を見つめている。

 SNSを見ている自分を観察した文章。

 タイムラインに関しては、読むというよりはスキャンしている。つまり、視界に入ったものの大半を無視して、興味を引いた文だけを読み、リンクをクリックしている。リンク先を見終えればタブを閉じる。最後まで見ずに閉じることもある。そしてスキャンを再開する。眼球の動きは速く、瞬時に膨大な情報を処理している。指先の動きも異様に速く、トラックパッドをこすり、ショートカットキーを多用している。椅子に座って、身体を固定したまま、眼球と指先だけがものすごい速度で動き続けている。指先と目玉の化け物がここにいる。
 結果、二時間ほどネットを見るだけでも、大量の断片を消費して、何を見ていたのか、うまく思い出せずに首をかしげる。本を読む場合、基本的には冒頭から順に読んでいく。特定の内容を探してスキャンするようにページをめくることもあるが、それでも書物自体が一定の統一感を与えられたものだし、それぞれにまったく無関係なものが雑多に集まっているネット空間とはちがっている。ネットに慣れた状態で分厚い本を読もうとすると、やはり数分で集中が切れてしまう。集中のリズムが非常に細かくなっている。本というものは、ネットに比べるとゆったりとしたリズムで書かれているから、ネットのリズムのまま読もうとすると、うまくいかないのだろう。

 たしかになあ。考えたこともないけど、ネットサーフィンをしているときの自分ってこんな感じだ。改めて突きつけられると恥ずかしい。


 上田さんは「今後の自分」について考える時期を乗り越え「過去の自分」を掘りかえす日々を迎える。

 今までに見聞きした漫画、映画、CD、テレビ番組などのコンテンツをデータベース化し、それだけでは飽きたらず、これまでに出会った人たちすべてを思いだせるかぎりデータベース化する。そして子どもの頃のちょっとした思い出なども思いだせるかぎり書いてゆく。

 おお。ここまでいくともう発狂一歩手前、って感じがする。過去に囚われて現在が見えなくなってしまいそうだ。

 現在の問いをひとことであらわせばこうなる。
「この意識は、明らかに上田啓太とは別の何かだが、だとしたらこれは何だろう?」
 今さらの話だが、私のフルネームは上田啓太という。いや、そのように素朴に言ってしまうと正確ではない。この感覚を維持したまま無理やりに自己紹介をするならば、
「私は人々から長いこと上田啓太と呼ばれてきましたので、習慣的に自分のことを上田啓太という名前だと考えておりますが、それはひとつの約束事に過ぎません。しかし、約束事の世界に参加するためにも、今はこの名前を使っておきます。よろしくお願いします。上田啓太です」
 もしも飲み会でこんな自己紹介をはじめる人間がいれば、できるだけ遠くの席に移動することになるだろうが、これが正直な感覚である。「上田啓太」という言葉が壊れている。言葉が壊れるというのも奇妙な表現だが、言葉を支えていたリアリティがボロボロと崩れ落ちて、ほとんどナンセンスなものになっていると言えばいいだろうか。
 私は、上田啓太ではないと思う。

 ほらほら。もういけない。まちがいではないかもしれないけど、こんなことを考えている人は社会ではやっていけない。正しいかどうかはさておき、多数派でないことはまちがいない。


 終盤は哲学の本を読んでいるようでぼくにはほとんど理解できなかった。興味があったのは「2000連休がどんなふうに終わって一般の社会に戻るのか」だったのだけど、これといった出来事が起こるわけでもなく、なんとなく連休が終わる。

 まあ現実だから仕方ないけど、ストーリー的にはものたりなかったな。


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2022年11月14日月曜日

【感想】まほうのレシピ(Just Add Magic)

まほうのレシピ(Just Add Magic)

内容(Amazon Prime より)
ケリーと彼女の親友2人は不思議な料理本を見つけ、その中のレシピには魔法がかけられていることを知る。ケリーのおばあちゃんにかけられた呪いを解くために3人は次々と料理を作っていく。そして魔法の料理を作る者はその効果の代わりに特別なことが起きることを知る。過去に起きた事件と料理本に隠されたナゾが明かされるとき、さらなる大きな秘密が暴かれる!


 Amazon Prime にて鑑賞。

 おもしろかった。Amazon Prime では「キッズ」カテゴリに入っているが、大人でも楽しめる。というか、子どもにはこの複雑なストーリーを理解するのはなかなかむずかしいとおもうぜ。

 シーズン1からシーズン3までを家族で観た。ドラマをはじめて観る長女(9歳)もおもしろがって、1話観るたびに「もういっこ観よう!」と言っていた。毎回気になるところで終わるんだよなあ。


 主人公は仲良し三人組の女の子、ケリー・ハンナ・ダービー。中一ぐらい。

 あるときから、ケリーのおばあちゃんが会話をできなくなる。おばあちゃんを大好きなケリーは心配するが、どうすることもできない。

 そんなとき、三人の前に奇妙のレシピが載った本が現れる。本に載っていた「おだまりケーキ」をつくったところ、食べた者が口を聞けなくなり、その副作用でつくった者のおしゃべりが止まらなくなる。なんと本は魔法の本だったのだ。

 しっかり者だが融通の利かないケリー、良くも悪くも慎重派のハンナ、だらしないが他人にも寛容なダービーと性格の異なる三人が、ときに助け合い、ときに喧嘩をしながら様々な問題を解決する物語。


 ということで、以下感想。ネタバレがんがん含みます



■シーズン1

「はいはい、女の子たちが魔法の料理を使っていろんな問題を解決する1話完結のお話ね」とおもって観はじめたのだが、そんな単純なものではなかった。

 たしかに基本は1話完結で、
問題発生 → 魔法の料理を作る → 魔法の失敗、魔法が効きすぎる、魔法の副作用などで新たな問題発生 → 試行錯誤して解決
という流れが多い。だが、すべての問題が解決するわけではない。

 あれこれ魔法の料理を作っても、おばあちゃんの具合はいっこうに良くならない。魔法は悩みを解決してくれるが、ひとつ解決するたびに新たな悩みが生まれる。

 さらにはシルバーズさん、ママPという謎を秘めたキャラクターたちも魔法について何かを知っている様子。はたして彼女たちは何を知っているのか、そしておばあちゃんに何が起こったのか……。

 このシーズン1を観ると、もう止まらなくなる。

 特におもしろかったのが登場人物に対する評価が二転三転するところ。

「あ、ママPって意外といい人なんだ」「シルバーズさんは怖い人と見せかけて意外といい人、と見せかけて何か企んでいる?」「ママPもシルバーズさんも呪いをかけあっていたのなら、もしかしておばあちゃんも?」
と、あれこれ推理しながら楽しめた。

 終盤、ママPがサフランフォールズのみんなに毒づくシーンは最高。ママP役俳優の怪演が光る。よくこんな嫌いな町で客商売やってたな。逆に感心する。

 主人公だし、しっかり者だとおもっていたケリーが暴走してしまう展開もおもしろい。いちばんヤベーやつじゃねえか。逆に、だらしないケリーにいちばん好感が持てる。友だちにするならだんぜんケリーだな。まあいちばんいい奴なのはジェイクなんだけど。優しいし、勤勉だし、向上心も強いし、料理はうまいし、なんでジェイクがモテないのかがわからん!


■シーズン2-1

 シーズン1で一応おばあちゃん問題は解決したが、新たな問題が発生。それが過去から来た少年・チャック。

 どうやらチャックは悪いやつらしいが、彼がどこから来たのか、何を狙っているのかは不明。主人公たちのそばをうろついて、何やら機をうかがっている様子なのがいかにも不気味。

 このシーズンでは、チャック問題に加えて、ケリーの母親の市長選出馬、ダービーの父親の再婚、ハンナの転校といったサイドストーリーも充実。

 意外とかわいいシルバーズさん、相変わらず口は悪いけどジェイクの前では意外と素直なママPなど、主人公たちに加え、OC(おばあちゃんたち)のキャラも光ってくる。

 終わりが唐突な印象だったのが残念。あわてて風呂敷を畳んだような。チャックの心情があまり見えないまま過去に帰っちゃったもんね(また後で出てくるけど)。もう少し心境の変化が語られてもよかったのに。結局、旅人が誰だったのか最後までわからないままだったし(シーズン3まで観てもよくわかんない)。

 ぼくがいちばん好きだったシーンは、ここでもやっぱりママP。OCたちがチャックに呪いをかけてラベンダーハイツに閉じこめるんだけど、そのときのママPのうれしそうな顔! 自分に何十年もかけられてた呪いを他人にかけるのがうれしくてたまらないという顔をしている。

 ところで、テリー(ケリーの母親)もそうだけど、サフランフォールズの住人はラベンダーハイツを嫌いすぎじゃない? 何があったんだ?


■シーズン2-2

 2-1から出ていたRJやノエル・ジャスパーといった新キャラが活躍。「間の者たち」との新旧「本を守る者」の対決構図。

 昔の恋人に嫌がらせをしていたRJはともかく、魔法を使って店を繁盛させていたノエル・ジャスパーはそんなに悪いやつか? なんかすごい悪者みたいに描かれてたけど、主人公たちだって序盤はけっこう私利私欲のために魔法を使ってたじゃん!


 主要な登場人物たちが次々に魔法に関する記憶を失ってゆく。はたして記憶を奪っているのは誰なのか、そしてその人物の目的は……。

「姿の見えない敵」ということで、最もサスペンス色の強いシリーズかもしれない。次々に敵が現れては、消されてゆく。まるで『ジョジョの奇妙な冒険』のようなスリリングな展開だった。

 ぼくはずっとモリス先生が怪しいとおもっていたので「ほら!予想通り!」と喜んでいたのだが、まさかモリス先生じゃなかったとは……。

 個人的には、このシーズンの黒幕であるジルの思想には共感する。「この世から魔法を消す」ってのがジルの望みだったけど、いやほんと、魔法の記憶を失った方が幸せだよ。魔法は災いをもたらしてばっかりだもん。ケリーたちがやってることって全部魔法のしりぬぐいだし。魔法を使っているというより魔法に使われている。この後のシーズン3の展開を考えても、ジルの思い通りになっていたほうが幸せだったんじゃないの?

 それにしてもジルは学生時代と現在で性格変わりすぎじゃない? だらしなくて怠惰なキャラだったのに、選挙の参謀になれる?


■シーズン3

 ママPの店、シルバーズさんの庭、ケリーのトレーラーから魔法のスパイスが盗まれる。まったく犯人の目的が見えない中で三人は魔法を使って対抗しようとするが、三人の間に亀裂が生じ……。

 ここまでさんざん「意外な犯人」にだまされてきたのでもうだまされないぞと警戒しながら観ていたのだが、やっぱりだまされた。まさかあの人とは……。最も意外な黒幕かもしれない。

 最後の料理がジェイクリトー(ジェイクのオリジナルレシピ)だというのが胸が熱くなる。

 ストーリー自体は相変わらずおもしろいが、元々は自分たちの蒔いた種だということで、観ていて徒労感が強い。ほら、やっぱりジルの言う通り魔法の記憶をなくしといたほうがよかったじゃん、とおもっちゃうんだよね。無駄にトラブルを引き起こして、がんばってマイナスをゼロにしただけだもんな。

 最終話で未来の三人組が出てくるのもわくわくする。あまりに似ていたから、あれはCGなのかな?

 ママPとジェイクがつかずはなれずのラブコメみたいな関係になっていたことや、ママPとシルバーズさんが一緒にニューヨークに行くことに不安しかない(喧嘩しないわけがない)のとか、丸く収まりながらお余白を残した終わり方もおしゃれ。


■総括

 おもしろかった。子ども向けとはおもえない重厚なストーリー。ただ、後半はやや蛇足感もある。いや後半は後半でおもしろかったんだけど。でもシーズン2-1か2-2ぐらいで終わっててもよかったともおもう。

 美人やイケメンが出てくるわけでなく、登場人物たちがみんなふつうの見た目の人たちなのもいい。日本でもこういうドラマや映画をつくってほしいなあ。隙あらば美男美女をねじこんでくるからなあ。

 アメリカの文化が垣間見えるのもおもしろかった。向こうの学校の昼休みはこんな感じなんだ、授業は高度なことやってるなあ、陰湿ないじめはどこにもあるんだなあ、スマホを使いこなしているのはさすが現代っ子だなあ、と本筋とは関係のないところでもいろいろ得るものがあった。


 さて、次の〝本を守る者〟であるゾーイたちに本を引き渡して、続編である『まほうのレシピ ~ミステリー・シティ~』に続くわけだけど、そっちも観ているが今のところは1作目のほうが好き。まあたいてい続編は劣るものだけど。

『まほうのレシピ』の魅力は、主人公三人組よりも、OCやジェイク、パパやママといった魅力的なわき役たちにあったのだが、続編『ミステリー・シティ』のほうは主人公たちと適役以外の出番が少ない。

 漫画でも小説でも、脇役が魅力的なのがいいドラマだよね。