2024年7月30日火曜日

【読書感想文】宮崎 伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 ~こうして私は職業的な「死」を迎えた~』 / 契約は大事

出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記

こうして私は職業的な「死」を迎えた

宮崎 伸治

内容(e-honより)
30代のころの私は、次から次へと執筆・翻訳の依頼が舞い込み、1年365日フル稼働が当たり前だった。その結果、30代の10年間で50冊ほどの単行本を出すに至った。が、そんな私もふと気がついてみれば、最後に本を出してから8年以上も経っていた。―なぜか? 私が出版業界から足を洗うまでの全軌跡をご紹介しよう。出版界の暗部に斬りこむ天国と地獄のドキュメント。

 出版翻訳家として数多くの洋書を翻訳してきた著者が、その翻訳家人生においてまきこまれた数多くのトラブル、訴訟、そしてなぜ翻訳家をやめて警備員の仕事に就くことになったのか、が書かれた半生記。



 読めば読むほど、ひどい編集者が多いな、とおもう。もちろんまともな編集者のことを書いてもおもしろくないのでひどい人のことしか書いてないわけだけど。

「で、この本、分厚い本だけど全部訳してもらえる? 訳文を見てから、いいところだけをこちらで抜粋させてもらうから」
 分厚い本を全部訳すというのは翻訳家にとっては重労働である。逆に訳す箇所が少なければ少ないほど翻訳家の負担は軽くなる。そこで私はアメリカ滞在歴4年だという彼女に恐る恐るこう提案してみた。
「英語の段階で抜粋してもらうってこと、できないでしょうか」
「それは無理。だって私、英語読めないもん。アメリカから帰ってから英語の勉強しなきゃって、やっと最近英語の勉強始めたってくらいだもん」
 彼女の半分しか英語圏に住んでいないのに英語が読めるだけでなく翻訳もできる私に多少なりともリスペクトは払ってくれているのかなぁ、なんて思いながらも私はこう提案した。
「じゃあ、どんな内容かがわかるようにラフな翻訳をしますので、ラフな翻訳の段階で抜粋してもらうってことできませんかね」
 私が翻訳するとき、まずは辞書も引かずにさささっとラフに翻訳する。これに費やすエネルギーは商品としての訳文に仕上げるまでの全エネルギーの3分の1である。その後ラフな訳文を4回から5回推敲して商品として仕上げる。内容だけがわかればよいのであれば、さささっと訳したラフな翻訳の段階で判断してもらえれば、私が費やす時間とエネルギーが3分の1で済むのだ。
 しかし彼女は無情にもこう返してきた。
「やっぱ、ラフな翻訳だったら、その作品の良さってわからないじゃない。ちゃんと全部訳してよ。いいでしょ」
 そう言われてしまっては反抗できない。駆け出しの翻訳家の私は反抗する術など持ち合わせてはいない。
「わかりました。全部きちんと訳します」

 こういうエピソードをもとに「翻訳家に対する扱いがひどい」と著者は書いているが、それはちがうぞと読んでいていいたくなる。翻訳家に対する扱いがひどいんじゃない、こういう編集者は他人に対する扱いがひどいのだ。

 たぶんこの編集者は、作家(大物を除く)に対しても、イラストレーターに対しても、印刷会社に対しても、部下に対してもこういう態度をとっている。他人の時間や労力を大事にしないやつというのは編集者にかぎらずどこの世界にもいる。「これやっといて」と言いながらできあがったものをチェックすらしないような人間が。

 それなりの期間社会人をやっていると必ずこういう人間に出会う。そして、ちょっとしゃべったらだいたいわかるようになる。あーこいつに対して誠実な仕事をしても無駄だな、と。だから自分の仕事や精神の安寧を守るために、この手の「他人の時間を屁とも思ってない人間」から依頼された仕事は、やっつけ仕事でまにあわせる、もっともらしい理由をつけて断る(こういうやつは権力に弱いからもっと偉い人の名前を出すとすんなり断れる)、とりあえず放置してみる(どうせ依頼したことすらおぼえてないことが多いんだから)、などの対応をするのが社会人の処世術だ。

 だから編集者も悪いんだけど、「わかりました。全部きちんと訳します」と言っちゃった著者のミスでもあるよな。


 ぼくも仕事でいろんな人と付き合ってきたけど、自分が言ったことを忘れてるやつ(または忘れたふりをしてるやつ)は、確実にその後も自分の言ったことを翻す。だからそういうやつに対して、重要なことを口約束で決めてはいけない。



「本を出版するので翻訳をしてくれ」と依頼してきたのに、いっこうに本を出さず、ついに出版をとりやめることにしたと通知してきた出版社に対して裁判を起こしたときの話。

 その後、慰謝料の額についての攻防が延々と続いたが、1年のやりとりを経てそれなりの金額を支払わせることができた。表紙も作り直させた上で慰謝料もそれなりに支払わせたのであるから、完全勝利といっていいだろう。原著者にお灸をすえた形で決着がついた。これでいいのだ。いや、こうでなくてはならないのだ。
 ただ経済的な側面を見てみれば、受け取った慰謝料よりも弁護士費用のほうが高くなり、トータルとしては持ち出しになってしまった。その額約70万円。でも後悔はなかった。世直しという「仕事」を完遂するには時に身銭を切ることも必要なのだ。これでこの原著者の被害にあう出版翻訳家がいなくなるのだったら高くはない。

 裁判では著者の言い分がほぼ認められ、勝利。それでも慰謝料から裁判費用を引くと70万円の赤字。これは金銭的な赤字だけなので、時間や労力やすり減らした精神を加えると損失はさらに大きくなる。

 これなら、ほとんどの翻訳者は少々の無茶を押しつけられても泣き寝入りするしかないよな……。だからこそ出版社も、翻訳後に「やっぱり印税率を下げてくれない?」なんて無理を押しつけようとしてくるんだろうけど。



 ただ。いろんなひどい出版社、ひどい著者の話を読んでいると
「これ著者のほうも悪いんじゃない?」と言いたくなる。

 著者自身も「あとがき」で書いているんだけど……。

 出版社と翻訳家でトラブルが生じる最大の原因は、仕事を開始する前に出版契約書を交わさないことと言えよう。鈴木主税氏もトラブルに関して「どうしてこんなことが起こるのか。それはどうやって防いだらいいのか。答は簡単だし、それは出版関係者の誰もが知っていることです。出版社という法人企業から依頼されて仕事をするとき、かならず契約書を交わすことが答です」(『職業としての翻訳』)と述べている。出版契約時にお互いがざっくばらんに思っていることを口に出し、それで合意できそうならその時点ですべてのことを盛り込んだ出版契約書を交わす。これを実践すればトラブルは激減するだろう。

 これに尽きるよね。

 書面で契約書を結ばずに仕事を引き受けて、後から不合理な条件を押しつけられて「ひどい目に遭った!」と騒いでいる。新人の頃ならまだしも、ある程度痛い目に遭った後なら契約書を締結しようとおもうのがふつうだろう。

 もちろん、慣例的に契約書をとりかわさないことが多い業界であれば言いづらいんだろうけどさ。でも契約書も交わさずなかったら、「契約書を結ばなかったんだから約束を破られてもしかたないよ」と言われてもしかたないのがビジネスをする上での常識だ。言いづらくても言わなくちゃいけない。

 ちゃんとした契約を結ばずに痛い目に遭ってはそのたびに傷ついている著者もピュアすぎるというか甘すぎるというか……。



 この本に出てくる出版社や編集者は仮名にしているが、読む人が読めばどこの誰かわかるだろう。出版翻訳家をやめることを決意した人にしか書けない内容だ。

 これを読むとずいぶんひどい業界だとおもうが、本は年々売れなくなっていて、自動翻訳のレベルが向上していることもあって、翻訳家の需要は今後さらに減っていくことだろう。

 ということはもっともっとひどい条件で働かされることになるのも十二分に予想されることで……。

 出版翻訳家なんてなるんじゃないかもね、やっぱり。なるんならフリーじゃなくて企業に属すほうがいいね。


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2024年7月29日月曜日

教科の大罪

  

図工:彫刻刀を人に向ける

家庭科:裁ちばさみで紙を切る

理科:沸騰石を入れない

音楽:リコーダーをおもいきり吹く

体育:柔軟体操をせずに全力疾走

国語:「みんなで声を出して読む」ときに周囲を待たずにすらすら読む

算数:0で割る


2024年7月25日木曜日

小ネタ21 (アンパンマンの出自 / 折りたたみ傘じゃない傘)

出自

 アンパンマンを毎週観ている人には常識だろうが、アンパンマンとカレーパンマンは同族ではない。というかあのアニメに出てくるキャラクターの中で、アンパンマンだけが他と違う。

 カレーパンマンも、しょくぱんまんも、天丼マンも、アンニンちゃんも、鉄火のマキちゃんも、自分の顔を人に食べさせたりしない。それぞれ自分の名前のついた料理をつくってふるまうだけだ。

 そしてもうひとつ異なる点は、しょくぱんまんはことあるごとに「しょくぱんのように美しい」と言い、てんどんまんとカツドンマンは天丼とかつ丼のどっちがおいしいかで喧嘩をしたりするのだが、アンパンマンが「アンパンがいちばんおいしいよ!」などと言っているのを聞いたことがない。アンパンマンはべつにアンパンに誇りを持っているわけではない。

 これは出自に由来する。アンパンマンはジャムおじさんがつくったアンパンに「いのちの星」が入ったことで誕生した。つまり、アンパンマンはアンパンそのものである。

 だが他のやつらはそうではない。あの世界において、しょくぱんまんは、食パンみたいな顔をした“人”である。天丼マンもアンニンちゃんも鉄火のマキちゃんも“人”だ。アンパンマンだけが食品なのだ。


 保育園で、娘のいる5~6歳児クラスが自画像を描いていた。20人ぐらいの絵を見たのだが、誰も鼻を描いていなかった。それぐらいの年齢の子は鼻を描かないのだろうか。だとしたら何歳から鼻を描くようになるのだろう。

 娘に「誰も鼻描いてないな」と言ったら「かいてるけどはだいろやからわかりにくいだけ!」と言われた。なるほど。


レトロニム

 新しい種類が誕生したことでもともとあった概念に新たにつけられた名前を「レトロニム」と呼ぶ。携帯電話ができたことでそれまで単に「電話」と呼ばれていたものが「固定電話」になったり、デジカメが誕生したことで「カメラ」が「フィルムカメラ」と呼ばれたりするようなものだ。

 ふと、「折りたたみ傘じゃない傘」を指すレトロニムがないな、と気づいた。

 日傘との区別をつけるためにそれまで「傘」だったものが「雨傘」と呼ばれるようになった。だが「折りたたみ傘じゃない傘」のことはなんと呼べばいいのだろう。「折りたたみ傘じゃない傘」と呼ぶしかない。

 さらにまぎらわしいのは「折りたたみ傘じゃない傘」もたためるということだ。折りこそしないが、たためてしまう。


 ……とここまで書いたところで調べてみると、「折りたたみ傘じゃない傘」を指す言葉はちゃんとあった。「長傘」というそうだ。聞いたことねえ!



2024年7月24日水曜日

【読書感想文】大前 粟生『おもろい以外いらんねん』 / 漫才は漫才でしか表現できない

おもろい以外いらんねん

大前 粟生

内容(e-honより)
お笑いコンビを組んだタッキーとユウキ、芸人にならなかった俺。おれらであることが楽しくて苦しい、3人組の10年間。時代の最先端を走る芸人青春小説の金字塔。


 常にクラスの中心でみんなを笑わせている滝場から、高校の文化祭でいっしょに漫才をしようと誘われた〝俺〟。ところが転校生のユウキも滝場と漫才をするという。〝俺〟と滝場、ユウキと滝場、二組のコンビが文化祭に向けて公園で漫才の練習をする。だが〝俺〟は漫才をやめると言ってしまい、この決断がその後の人生にも大きく影響を与える……。


 他人との関わりよりも笑いを優先させてしまうユウキ、周囲からの期待には応えるが自分自身の中にあるものは発信しようとしないからっぽの滝場、漫才をやめた後も複雑な想いで遠くからふたりの漫才を追いかけつづける俺、それぞれのやりかたで漫才に身を捧げる男たちの青春生活。



 題材はわりと好きだったんだけどな。漫才を好きだからこそ漫才ができないという悩みもわりと普遍的なものだし。

 ただ、いろんな点で読みづらい小説だった。


 まず、人称が定まらない。たぶんこれはあえてやっているのだろうが、一人称で書かれた小説なのに、書き手がシームレスに入れ替わる。ずっと〝俺〟(咲太)の視点で書かれていたのに、途中で急に〝ボク〟(ユウキ)視点になる。実験的にやっているのかもしれないが、小説の決まりを破っているのでとにかく気持ち悪い。筒井康隆みたいに約束事の破壊を狙ってやっているのならいいんだけど、それにしてはストーリーに重きが置かれている。人称の崩れがただただストーリーの進行を邪魔している。


 そして、あたりまえなのだが、漫才を小説で読んでもまったくおもしろくない。この作品に限った話ではなく、ある芸能をべつの芸能でダイレクトに表現しようとすると失敗する。

 あたりまえだ。漫才を漫才よりもおもしろく表現できてしまったら、漫才は小説よりもはるかに下の二流の芸能ということになってしまう。それができないから漫才師は漫才で表現するのだ。

 だから小説で漫才を書くのはいいけど、ネタの中身は書かない方がいい。書いても読んでいる方は笑えないし、笑えなければ「ぜんぜんおもしろくない漫才に命を懸けている人たち」の話になってしまう。

 正直ぼくは、主人公たちが最初にやる漫才を読んだとき、あまりにつまらなかったので「あーこれははじめて書いたネタだからぜんぜんおもしろくないっていう話の流れね」とおもっていたら、登場人物たちが手応えを感じていたので「えっ、物語の中ではこれがおもしろいっていう扱いになるんかい」と肩透かしを食らった。

 又吉 直樹『火花』は漫才をテーマにした小説として成功したが、ネタの中身はほとんど書かれていない。やはり漫才は漫才でしか表現できないことを、プロの芸人は知っているのだ。

 漫才のおもしろさなんて小説で読んでも五パーセントも伝わらない。純情な感情はからまわり。伝わらないから漫才師は漫才をするんだよ。



 漫才そのものではなく、それに向き合う上での心情について書かれた箇所はおもしろかったけどね。

 勢いよくからだを起こし、髪を掻き上げながら滝場がいって、汗が俺の頬に飛び散った。ネタ合わせを続けていると、言葉が台本のものじゃなくて俺自身から出てきているように感じることがあった。そういうときは滝場も調子がよかった。呼吸が合うってこういうことなんかと思った。でもそれはやっぱり、ふだんの俺らと、ネタをしている俺らの関係の区別がついていない状態だった。その人間味がときにきつい。俺は練習をするほどに不安と楽しさを同時に感じていた。


 漫才の用語で人(ニン)という言葉がある。たぶん元は落語とかの言葉なんだろうけど。

 人柄、個性、というような意味だ。ただネタがおもしろいだけでなく、その人がやるからおもしろい、他の人がやってもだめだ、そういう漫才を「ニンが乗っている」と言ったりするらしい。

 じっさい、人柄が表れている漫才はおもしろい。テレビで観る漫才はたいてい有名な芸人がやっていて、ほとんどの人はその芸人の漫才以外の姿も知っている。天然ボケ、怒りっぽい、金に汚い、突拍子もないことをいう、育ちが悪い……。もちろんそれはあくまで人前に見せるキャラクターでしかないけど、とにかくそのキャラクターが投影されている漫才はおもしろい。すんなり漫才の世界に入れるし、意外性も表現しやすい。知らない人がやっている漫才よりもおなじみの人の漫才のほうが笑いやすい。

 ただ、ニンを乗せた漫才をやっていると並の人間なら精神に異常をきたしそうな気もする。自分自身を切り売りしているようなものだもんな。演じている自分と本当の自分がちがうのに、漫才での姿を常に求められ、そのうち自分自身がわからなくなってしまうんじゃないかという気もする。

 いや、べつに漫才にかぎった話ではないな。

 就職活動でも営業の仕事でもそうだが、仮面をかぶって別の自分を見せないといけない局面はある。それを難なくできる人もいれば、ものすごく疲れてしまう人もいる。ぼくは後者で、就活をしていた時期は人生においてつらかった時期のワースト3には入る。

 そんなわけだからもしぼくが中年デビューするとしたら漫才じゃなくてコントだな!


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2024年7月22日月曜日

【読書感想文】坪倉 優介『記憶喪失になったぼくが見た世界』 / 記憶は過去であり未来でもある

記憶喪失になったぼくが見た世界

坪倉 優介

内容(e-honより)
18歳の美大生が交通事故で記憶喪失になる。それは自身のことだけでなく、食べる、眠るなどの感覚さえ分からなくなるという状態だった―。そんな彼が徐々に周囲を理解し「新しい自分」を生き始め、草木染職人として独立するまでを綴った手記。感動のノンフィクション。


 バイク事故で記憶喪失になった美大生の手記。

 記憶喪失は漫画やドラマではわりと使われるものだが、漫画で描かれる「ここはどこ? 私は誰?」という固有名詞や出来事だけを失った記憶喪失とは違い、この人の場合はほとんどすべてを忘れている。

 すべてというのはほんとにすべてで、おなかがすいたらご飯を食べるとか、おなかがいっぱいになったら食べるのをやめるとか、お風呂に入るとか、お風呂が熱すぎたらぬるくするなり早めに出るなりするとか、そういう「生きていく上での最低限の知識」すら失われているのだ。赤ちゃんに戻ったようなものだ。

 周囲の人からすると、たいへんなんてもんじゃない。すべてがリセットされているのだから。韓国ドラマでよくある(韓国ドラマ観たことないけど聞くかぎりでは)、記憶をなくした素敵な異性とめぐりあって恋に落ちて……なんて美しい展開になるわけがない。だって中身は赤ちゃんなんだもん。



 ぼくが高校生のとき、クラスメイトのKが記憶喪失になった。Kはラグビー部で、試合中に頭をぶつけて記憶をなくしてしまったらしい。しばらく学校に来ず、ひさしぶりに登校する日には担任が「Kは記憶がないが無理に思いださせようとすると負担になるので、記憶を刺激するようなことは言わないように」と言った。

 Kが登校してきても、ほとんど誰も話しかけられなかった。そりゃそうだ。だって記憶を刺激せずに会話をすることなんてどうやってできるのだ? (デリカシーのないやつだけは話しかけていたが)

 Kはあまり学校に来なくなってしまった(一応卒業はした)。ぼくはKとほとんど話さなかったのでわからなかったが、彼は記憶を取り戻せたのだろうか? それとも一部を損失したまま生きていたのだろうか?



『記憶喪失になったぼくが見た世界』で書かれる手記は、読んでいて言葉を失いそうになる。

 いままで見たこともない人が、家にきて、事故まえのぼくのことを話して、かえっていく。どうしてあの人たちは、ぼくのことを知っているのだろう。
 いつも家の中にいる人にきくと「それは友だちだから」と言った。それに、友だちでも、とくべつなかがいい人のことを、親友と言うこともおしえてくれた。だとしたら、この人たちも、いつもやさしくしてくれるから親友なのだろうか。そうきくと笑って、「アルバムをもってきてやれ」と言った。
 目のまえにおかれた物の中には、うすっぺらな人がいる。動かないし、なにも話さない。
 ひとりの人がアルバムを見ながら「これが赤ちゃんだったころのゆうすけよ」と言う。でも、赤ちゃんと言われても、わからない。
 かあさんが、ぼくのまえになにかをおいた。けむりが、もやもやと出てくるの見て、すぐに中をのぞく。すると光るつぶつぶがいっぱい入っている。きれい。でもこんなきれいな物を、どうすればいいのだろう。
 じっと見ていると、かあさんが、こうしてたべるのよとおしえてくれる。なにか、すごいことがおこるような気がしてきた。だから、かあさんと同じように、ぴかぴか光るつぶつぶを、口の中へ入れた。それが舌にあたるといたい。なんだ、いったい。こんな物をどうするんだ。
 かあさんを見ると笑いながら、こうしてかみなさいと言って、口を動かす。だからぼくもまた、同じように口を動かした。動かせば動かすほど、口の中の小さなつぶつぶも動き出す。そしたら急に、口の中で「じわり」と感じるものがあった。それはすぐに、ひろがる。これはなに。

 最初は文字も書けなかったそうなので、この手記はだいぶ後になってから書いたものだろう(そのため写真というものを知らないのに「アルバム」という言葉を使いこなすような妙な記述がある)。

 なのでリアルな感覚とはちょっと違うかもしれない。数年の間に記憶が書き換わっている可能性は高い。

 でも、赤ちゃんがぼんやりとおもっているのってこういうことなんだろうな、という気もする。少なくとも大人の思考よりは赤ちゃんの感覚に近そうだ。もしも赤ちゃんの思考を言語化することができたらこういう形になるんだろう。

 白飯を食べる前に「すごいことがおこるような気がし」て、食べた後は「舌にあたるといたい」と表現し、「こんな物をどうするんだ」と感じる。きっと誰しもが経験した感覚なんだろう。

 そういえばうちの子がはじめてイチゴを食べたとき「なんだこれ」って顔をしながら口に入れ「すっぱ!」という驚きを見せ、少し遅れて「あれでもこれ甘くておいしいな」という表情に変わり、「これをもっと渡せ!」と手振りで要求してきたなあ。あのときの子どももこんな気持ちだったんだろう。



 ちょっと気になったのが、この人の文章からは異性に対する関心がまったく読み取れないこと。若い男だったらたいてい持っているであろう性欲がまったく感じられない。記憶をなくす前に友人だった女性と再会するシーンでも、まったく関心がなさそうだ(もちろんほんとは強い関心を持っていたけどとりつくろって書いてないだけ、という可能性もあるけど)。

 幼児の感覚に戻っているので性欲も消えていたのだろうか。それよりもっと世界について知りたいから女どころじゃない、という感じなのかもしれない。

 そういや以前、断食をしていた人の話を聞いたことがあるが「腹が減っていたときはずっと食べ物のことを考えていて目の前をいい女が通ってもなんともおもわなかった。飯を食ったとたんにエロい気持ちが湧いてきた」と語っていた。もっと強い欲求の前では恋だの性だのは後回しにされるんだろうな。



 この人の手記は、現実離れしすぎていていまいち共感できない。

 すごくたいへんなんだろうな、とはおもうけれど、どんなに想像してもこの人の気持ちを理解することなんてできやしないだろうなともおもう。記憶なんてあるのがあたりまえだもん。「もし小学生に戻ったら」と想像することはあっても「もし0歳児に戻ったら」とはおもわない。だってそれってもう別人になるようなものじゃないか。

 本人にはあまり共感できないが、間に差し込まれるお母さんの手記を読むと胸が痛くなる。

 息子が事故で助かったと安心したのもつかぬま、赤ちゃんに戻っているんだもの。

 記憶を失くすということは、単に過去を忘れて今を生きるということではないのです。過去を失った人間は、こんなにもろいものかと、優介を見てつくづく思いました。

とお母さんは書いている。その胸の内、想像すらできないほどつらかっただろうなあ。


 このお母さん(とお父さん)、息子が記憶がなくして、文字も書けないのに、大学に通わせたり、またバイクに乗ることを許可したりしている。

 傍から見ると「それはどう考えても早すぎるだろ」とおもってしまう。文字が書けないのに大学に行ってもつらいだけだろ、と。

 でも「なんとかして元の姿に戻ってほしい」という強い焦りがそうさせたんだろう。言ってみれば、愛する人が一度死んで、「よみがえるかもしれない」とおもえばなんだってやるような気持ちだろう。藁にでもすがりたいだろう。

 それに大学に行ったことで、記憶はそんなに戻らなかったけど新たな生きる道を見つけられたわけだから、復学させたのは結果的には正解だったんだろうな。まあ記憶喪失の人に対して何をさせるのが正解かなんて、専門の医者ですらわからないんだろうけど。

 また心は赤ちゃんに戻っても、社会的には十八歳の青年で、ずっと世話をしてやるわけにはいかないわけだもんな。心配であっても本人の自立をうながすのもまた親心かもしれない。

 自分が親になったので、自分の子が記憶喪失になったら……とあれこれ考えてしまう。


 

 記憶がないことでいろいろな不自由を強いられ、一日も早く記憶を取り戻そうともがく著者。断片的に記憶は戻るものの、事故以前の自分には戻れない。

 だが記憶を失ったものとして大学に通い、日々を過ごすうちに新たな人間関係ができ、新たな生活ができるようになってくる。そして訪れる心境の変化。

 何年か前までは、昔の自分に戻りたくて仕方がなかった。どうしたら記憶が戻るのだろうと考え、高校時代と同じ髪型にしたり、事故の前に読んだ本やマンガを読み返したりした。
 今のぼくには失くしたくないものがいっぱい増えて、過去の十八年の記憶よりも、はるかに大切なものになった。楽しかったことや、辛かったこと、笑ったことや、泣いたこと。それらすべてを含めて、あたらしい過去が愛おしい。
 今いちばん怖いのは、事故の前の記憶が戻ること。そうなった瞬間に、今いる自分が失くなってしまうのが、ぼくにはいちばん怖い。ぼくは今、この十二年間に手に入れた、あたらしい過去に励まされながら生きている。

 

 記憶をなくして困るが、記憶がよみがえってもまた困る。

 この人の場合は、性格もぜんぜん別のものになったそうだ(と周囲の人たちから言われている)。性格も記憶によってつくられているんだな。認知症になったら性格が変わるというのも聞くし。

 ということは記憶というのはほとんど自分そのものなんだよな。過去であり、それと同時に未来をつくるものでもある。


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記憶喪失に浮かれていた



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