2024年7月30日火曜日

【読書感想文】宮崎 伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 ~こうして私は職業的な「死」を迎えた~』 / 契約は大事

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出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記

こうして私は職業的な「死」を迎えた

宮崎 伸治

内容(e-honより)
30代のころの私は、次から次へと執筆・翻訳の依頼が舞い込み、1年365日フル稼働が当たり前だった。その結果、30代の10年間で50冊ほどの単行本を出すに至った。が、そんな私もふと気がついてみれば、最後に本を出してから8年以上も経っていた。―なぜか? 私が出版業界から足を洗うまでの全軌跡をご紹介しよう。出版界の暗部に斬りこむ天国と地獄のドキュメント。

 出版翻訳家として数多くの洋書を翻訳してきた著者が、その翻訳家人生においてまきこまれた数多くのトラブル、訴訟、そしてなぜ翻訳家をやめて警備員の仕事に就くことになったのか、が書かれた半生記。



 読めば読むほど、ひどい編集者が多いな、とおもう。もちろんまともな編集者のことを書いてもおもしろくないのでひどい人のことしか書いてないわけだけど。

「で、この本、分厚い本だけど全部訳してもらえる? 訳文を見てから、いいところだけをこちらで抜粋させてもらうから」
 分厚い本を全部訳すというのは翻訳家にとっては重労働である。逆に訳す箇所が少なければ少ないほど翻訳家の負担は軽くなる。そこで私はアメリカ滞在歴4年だという彼女に恐る恐るこう提案してみた。
「英語の段階で抜粋してもらうってこと、できないでしょうか」
「それは無理。だって私、英語読めないもん。アメリカから帰ってから英語の勉強しなきゃって、やっと最近英語の勉強始めたってくらいだもん」
 彼女の半分しか英語圏に住んでいないのに英語が読めるだけでなく翻訳もできる私に多少なりともリスペクトは払ってくれているのかなぁ、なんて思いながらも私はこう提案した。
「じゃあ、どんな内容かがわかるようにラフな翻訳をしますので、ラフな翻訳の段階で抜粋してもらうってことできませんかね」
 私が翻訳するとき、まずは辞書も引かずにさささっとラフに翻訳する。これに費やすエネルギーは商品としての訳文に仕上げるまでの全エネルギーの3分の1である。その後ラフな訳文を4回から5回推敲して商品として仕上げる。内容だけがわかればよいのであれば、さささっと訳したラフな翻訳の段階で判断してもらえれば、私が費やす時間とエネルギーが3分の1で済むのだ。
 しかし彼女は無情にもこう返してきた。
「やっぱ、ラフな翻訳だったら、その作品の良さってわからないじゃない。ちゃんと全部訳してよ。いいでしょ」
 そう言われてしまっては反抗できない。駆け出しの翻訳家の私は反抗する術など持ち合わせてはいない。
「わかりました。全部きちんと訳します」

 こういうエピソードをもとに「翻訳家に対する扱いがひどい」と著者は書いているが、それはちがうぞと読んでいていいたくなる。翻訳家に対する扱いがひどいんじゃない、こういう編集者は他人に対する扱いがひどいのだ。

 たぶんこの編集者は、作家(大物を除く)に対しても、イラストレーターに対しても、印刷会社に対しても、部下に対してもこういう態度をとっている。他人の時間や労力を大事にしないやつというのは編集者にかぎらずどこの世界にもいる。「これやっといて」と言いながらできあがったものをチェックすらしないような人間が。

 それなりの期間社会人をやっていると必ずこういう人間に出会う。そして、ちょっとしゃべったらだいたいわかるようになる。あーこいつに対して誠実な仕事をしても無駄だな、と。だから自分の仕事や精神の安寧を守るために、この手の「他人の時間を屁とも思ってない人間」から依頼された仕事は、やっつけ仕事でまにあわせる、もっともらしい理由をつけて断る(こういうやつは権力に弱いからもっと偉い人の名前を出すとすんなり断れる)、とりあえず放置してみる(どうせ依頼したことすらおぼえてないことが多いんだから)、などの対応をするのが社会人の処世術だ。

 だから編集者も悪いんだけど、「わかりました。全部きちんと訳します」と言っちゃった著者のミスでもあるよな。


 ぼくも仕事でいろんな人と付き合ってきたけど、自分が言ったことを忘れてるやつ(または忘れたふりをしてるやつ)は、確実にその後も自分の言ったことを翻す。だからそういうやつに対して、重要なことを口約束で決めてはいけない。



「本を出版するので翻訳をしてくれ」と依頼してきたのに、いっこうに本を出さず、ついに出版をとりやめることにしたと通知してきた出版社に対して裁判を起こしたときの話。

 その後、慰謝料の額についての攻防が延々と続いたが、1年のやりとりを経てそれなりの金額を支払わせることができた。表紙も作り直させた上で慰謝料もそれなりに支払わせたのであるから、完全勝利といっていいだろう。原著者にお灸をすえた形で決着がついた。これでいいのだ。いや、こうでなくてはならないのだ。
 ただ経済的な側面を見てみれば、受け取った慰謝料よりも弁護士費用のほうが高くなり、トータルとしては持ち出しになってしまった。その額約70万円。でも後悔はなかった。世直しという「仕事」を完遂するには時に身銭を切ることも必要なのだ。これでこの原著者の被害にあう出版翻訳家がいなくなるのだったら高くはない。

 裁判では著者の言い分がほぼ認められ、勝利。それでも慰謝料から裁判費用を引くと70万円の赤字。これは金銭的な赤字だけなので、時間や労力やすり減らした精神を加えると損失はさらに大きくなる。

 これなら、ほとんどの翻訳者は少々の無茶を押しつけられても泣き寝入りするしかないよな……。だからこそ出版社も、翻訳後に「やっぱり印税率を下げてくれない?」なんて無理を押しつけようとしてくるんだろうけど。



 ただ。いろんなひどい出版社、ひどい著者の話を読んでいると
「これ著者のほうも悪いんじゃない?」と言いたくなる。

 著者自身も「あとがき」で書いているんだけど……。

 出版社と翻訳家でトラブルが生じる最大の原因は、仕事を開始する前に出版契約書を交わさないことと言えよう。鈴木主税氏もトラブルに関して「どうしてこんなことが起こるのか。それはどうやって防いだらいいのか。答は簡単だし、それは出版関係者の誰もが知っていることです。出版社という法人企業から依頼されて仕事をするとき、かならず契約書を交わすことが答です」(『職業としての翻訳』)と述べている。出版契約時にお互いがざっくばらんに思っていることを口に出し、それで合意できそうならその時点ですべてのことを盛り込んだ出版契約書を交わす。これを実践すればトラブルは激減するだろう。

 これに尽きるよね。

 書面で契約書を結ばずに仕事を引き受けて、後から不合理な条件を押しつけられて「ひどい目に遭った!」と騒いでいる。新人の頃ならまだしも、ある程度痛い目に遭った後なら契約書を締結しようとおもうのがふつうだろう。

 もちろん、慣例的に契約書をとりかわさないことが多い業界であれば言いづらいんだろうけどさ。でも契約書も交わさずなかったら、「契約書を結ばなかったんだから約束を破られてもしかたないよ」と言われてもしかたないのがビジネスをする上での常識だ。言いづらくても言わなくちゃいけない。

 ちゃんとした契約を結ばずに痛い目に遭ってはそのたびに傷ついている著者もピュアすぎるというか甘すぎるというか……。



 この本に出てくる出版社や編集者は仮名にしているが、読む人が読めばどこの誰かわかるだろう。出版翻訳家をやめることを決意した人にしか書けない内容だ。

 これを読むとずいぶんひどい業界だとおもうが、本は年々売れなくなっていて、自動翻訳のレベルが向上していることもあって、翻訳家の需要は今後さらに減っていくことだろう。

 ということはもっともっとひどい条件で働かされることになるのも十二分に予想されることで……。

 出版翻訳家なんてなるんじゃないかもね、やっぱり。なるんならフリーじゃなくて企業に属すほうがいいね。


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