2022年7月28日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ発明狂時代』『ズッコケ愛の動物記』『ズッコケ三人組の神様体験』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十一弾。

 今回は31・32・33作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ発明狂時代』(1995年)

 夏休みの自由研究のために発明にチャレンジするハカセ。一獲千金を夢見てハチベエやモーちゃんも発明に夢中になるが、厳しい現実を知って諦めかける。そんな折、壊れたテレビと電卓をつないだ装置の付近に雷が落ち、それを機に「未来の番組が見られるテレビ」が誕生する。これで金儲けを試みる三人だったが、なんと三人組死亡のニュースが流れてきて……。


 テーマは決して悪くないのだが、これは前半と後半がまったくべつの話だよなあ……。『ズッコケ発明狂時代』といっていいのは前半までで、後半は『ズッコケ三人組と未来テレビ』だ。置いていたガラクタにたまたま雷が落ちて未来が見られるようになっただけで、まったく発明じゃない。机の引き出しから未来のロボットが出てきたのを発明という人はいないだろう。

 前半の「理論立てて考えるハカセよりも先に、適当な気持ちで手を出したハチベエやモーちゃんのほうが発明品を完成させる」あたりのハカセの心の動きの描写もいいし、後半の「自分たちの死亡を知らせるニュースを見てしまい、回避するために全力を尽くす」もおもしろい。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や乾くるみ『リピート』を彷彿とさせるサスペンス展開になっている。

 未来のニュースを見られるようにはなったが、バタフライ効果(とは作中で書かれてはいないが)により必ずしも実現するわけではない。未来テレビ通りの結果になることもあれば、そうでないこともある。なので三人組は助かるかもしれないし、助からないかもしれない……。この塩梅がいい。緊張感がある。

 当然ながら三人組が死亡してバッドエンドになることはないのだが、そこで終わらせずにラストに「未来テレビで観た競馬の結果」が実現するかどうかという展開を持たさているのもニクい。そしてその結末が作中で明かされず読者の想像にゆだねられるところも。

 改めて考えると、中期作品にしてはかなりの佳作といっていいだろう。それだけに、テーマである「発明」から離れてしまったのがかえすがえすも残念。



『ズッコケ愛の動物記』(1995年)

 捨て犬を拾ったモーちゃん。もらい手が見つからないので、工場の跡地で飼うことに。噂を聞きつけた子らが、飼えなくなったリスザルやニワトリやウサギやヘビなどを持ちこみ、それらもあわせて飼うことに。さらにハカセがイモリやトカゲを捕まえてきて飼育をはじめる。ところが土地の持ち主に見つかって動物たちを連れて出ていくように言われ……。


 今の子、都会の子はどうだか知らないけれど、数十年前に郊外で育った子どもなら「動物を拾って困る」は一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。

 ぼくは三度経験した。一度は学校に犬が迷いこんできて、学校で保護したとき(昔の学校ってそんなことまでしてたのだ)。その犬は結局我が家で飼うことになった。十数年生きた。

 二度目は、父親が仔犬が捨てられているのを発見して拾って帰ったとき。家族で八方手を尽くして、どうにか貰い手を見つけた。

 三度目は、ぼくが友人たちと遊んでいるときに捨て犬を発見した。それぞれの親に訊いたり、近所の家をまわって「犬飼いませんか」と訊いてまわったりしたが、結局貰い手は見つからず。泣く泣く、元の場所に戻した。翌日その場所を訪れると、「ここに犬を捨てた人へ。あなたの身勝手な行動によって一匹の犬が殺処分されることになりました。動物を飼うなら責任を持ってください」という怒りの貼り紙がしてあった。元々は別の人が捨てたのだが、あれこれ連れまわしたあげく結局元の場所に戻したぼくらは、自分が責められているような気になった。いまだに苦い思い出だ。


 また、我が家ではいろんな動物を飼っていた。犬に加え、文鳥、ハムスター、スズムシ、カメ、トカゲ、オタマジャクシ、カブトムシ、クワガタムシ、アリ、カマキリ、アリジゴク、カミキリムシ、カタツムリ……(後半は全部ぼくが捕まえてきたやつだ)。

 子どもにとって「動物を飼う」というのは身近にして大きなイベントだ。そして「最初はがんばって世話をするけどだんだん面倒になってしまう」のも共通する体験だろう。ぼくが捕まえた小動物たちも、ほとんどが天寿を全うする前に死んでしまった。


 前置きが長くなったが、『ズッコケ愛の動物記』はそんな動物を飼うことをテーマにした話だ。身近なテーマなので親しみやすいが、身近である分、はっきりいって退屈だった。まさに動物を飼いはじめた子どもと同じように、読んでいるほうも飽きてしまうのだ。子どもが親に隠れて動物を飼っても、その先は「死なせてしまう」「逃がす」「逃げられる」のどれかしかないわけで、いずれにしてもあまり楽しい未来は待っていない。さすがにそれではかわいそうとおもったのか、『ズッコケ愛の動物記』では「家で引き取る」という道も用意するのだが、それはちょっと反則じゃねえかという気がする。それができるんなら最初から家で飼えばいいじゃねえか。

 また、ニワトリの処遇だけが最後まで決まらず、ニワトリをかわいがっていた田代信彦が行方不明になるところがクライマックスなのだが、その結末も「ニワトリが何羽がいる神社に置いてきた」というなんとも微妙な決着。「神様がニワトリを放す場所を用意してくれた」とむりやりいい話っぽくしているが、いやあ、勝手にニワトリ放してきちゃだめでしょ。

 たぶん小学生が読めばそこそこ楽しめるんだろうけど、あまりに展開が平凡すぎてぼくには退屈だったな。ズッコケシリーズ史上もっとも波風の立たない作品だったかもしれない。




『ズッコケ三人組の神様体験』(1996年)

 神社の秋祭りで手作りおみこしコンテストが開催され、三人組たちもおみこしを手作りして賞金十万円を狙う。また秋祭りでは数十年ぶりに稚児舞いが復活し、ハチベエが踊ることに。ところがこの稚児舞い、踊った子の頭がおかしくなるといういわくつきの舞いだった。実際に、ハチベエが徐々に変調をきたし……。


 これはなかなかおもしろかった。中期作品にしてはよくできている。地域のお祭りという日常生活の延長から、徐々に摩訶不思議な世界に引き込まれていく感じがいい。神や精霊と交信するシャーマニズムに踊りはつきものだし、神事としての舞いには子どもの脳に異常をきたすといわれても納得してしまう説得力がある。

 この作品が書かれた前の年である1995年には、地下鉄サリン事件を筆頭とする一連のオウム騒動がテレビをにぎわせていた。子どもの間でも「サティアン」だの「ポア」だの「グル」だのといったオウム用語がおもしろ半分に飛び交い、スピリチュアルなものの危うさが受け入れられる土壌もあった。

 超常現象を扱いながらも、不思議な体験が事実だったのかそれともハチベエの見た幻覚だったのかはわからない。これぐらいがいい。『ズッコケ妖怪大図鑑』や『ズッコケ三人組と学校の怪談』は、明確に超常現象を書いちゃってるからなあ。具体的に書くほうが嘘くさくなっちゃうんだよね。

 またオカルト一辺倒にならないように「手作りおみこしコンテスト」というもう一本の軸を用意しているところも重要だ。これにより三人のバランスもとれるし、また神がかりの異常さも際立つ。個人的にはズッコケシリーズの心霊系の作品はハズレが多かったんだけど、これはその中では一番かも。


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2022年7月27日水曜日

【読書感想文】スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい 差別の科学史』 / 先入観は避けられない

人間の測りまちがい

差別の科学史

スティーヴン・J・グールド(著)
鈴木 善次(訳) 森脇靖子(訳)

内容(e-honより)
人種、階級、性別などによる社会的差別を自然の反映とみなす「生物学的決定論」の論拠を、歴史的展望をふまえつつ全面的に批判したグールド渾身の力作にして主著。知能を数量として測ることで、個人や集団の価値を表すという主張はなぜ生まれたのか。差別の根源と科学のあり方を根底から問いかえすための必読の古典。

「人間の知能は、脳の大きさに比例する」と考えた人たちがいた。

 それ自体はすごく自然な考え方だ。ヒトの身体に対する脳の大きさはは、他の動物よりもずっと大きい。イルカのような例外はあるにせよ。

 そしてヒトは賢い。だから「脳が大きいほど賢いはず!」と考えるのはある意味当然のことだ。子どもでもそうおもう。

 しかし、種全体として「脳の大きなヒトが賢い」ことと、種の中で「脳の大きな人間は小さな人間より賢い」ことはまったくべつの話だ。


「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説は、今ではほとんど否定されているそうだ。

 たしかに実験をすると、脳が大きいほどテストの点数が伸びることがある。
 でもそれは
「子どもの場合は年齢が低いと脳が小さく、年齢が低いとテストの点数が低い。だから脳が小さいほどテストの点数が低い」
だったり、
「栄養状態が悪いと脳が小さく、栄養状態が悪いとテストの点数が低い」
だったり、
「ある種の病気では脳が委縮して、知能も低くなる。それが平均点を下げる」
だったりして、相関関係はあっても明確な因果関係は示せないようだ。


 ところが「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説を正しいと信じ、さらにはこれにもっともらしい裏付けを作り、「だから××はバカなのだ」と主張した科学者がいる。それもたくさん。

 彼らの多くは、差別のたえに事実をねじ曲げたつもりはなかった。本心から自分の説を信じていた。なぜ彼らは誤ったのか。

 ……ということにせまった本なのだが、とにかく読みづらい。部分的にはおもしろいことも書いてあるのだが、掲載されている例が個別的すぎる。

「■■という学者がいて、彼はこう主張した。だが彼は~という誤りを犯していた」
といった話がひたすらくりかえされるのだが、読む側の感想としては
「それって■■が間違えただけだよね?」
で終わってしまう。

「人間はこういう条件のときに誤りを犯すのです」といった一般的な話が出てこないんだよね。

 というわけで、後半はうんざりして読み飛ばしてしまった。




 様々な人種の頭蓋骨を調べて、「白人男性の脳が大きく、だからいちばん賢い」という結論を下した学者について。

 この修正値はなおも白色人種の平均値に比べて三立方インチ以上のへだたりがある。ところで、白色人種の平均を出したモートンのやり方を吟味してみると、おどろくべき矛盾があることがわかった。(中略)モートンは自分のサンプルから脳の小さいインド人を故意に除外して白色人種の高い数値を導き出している。彼はこう記している(中略)。「とはいえ、インド人のものが全数の中にわずか三個体しか含まれていないことにふれることは当を得ている。それは、これらの人々の頭蓋骨が現存する他の民族のそれよりも小さいからである。たとえば、インド人の一七個の頭蓋骨の大きさは平均七五立方インチしかなく、表の中に含めた三個体もその平均値を示している。」このように、モートンは小さな脳をもつ人々のサンプルを多くしてインディアンの平均値を低め、同じようにして、小さな頭蓋骨をもつ白色人種の多数を除外して、自分たちのグループの平均値を高めた。モートンは自分の行なったことをおおっぴらに語っているので、自分のやり方が適切でないとは思っていなかったと仮定せざるをえない。しかし、白色人種の平均値がより高いのだという前提をもたないとしたら、他にどのような理論的根拠で彼はインカの頭蓋骨は含め、インド人のそれを除外したのだろうか。というのは、インド人のサンプルを変則的なものだとして捨て去り、インカ人のサンプル(ついでに言えば、インド人のものと同じ平均値をもつ)を不利な立場の大きなグループの正常値の最低のものとして取り入れることが可能だからである。

 結論ありきで調査が進んでいることがよくわかる。

「これは例外的に小さいからサンプルから除外しよう」「これは大きすぎるから除外しよう」
とサンプルを取捨選択して、その中で比較をしたのだ。そりゃあ仮定通りの結果になるに決まっている。


 様々な職業の人に知能テストをおこなった学者について。

 ターマンは職業別IQを調査し、知能による不完全な割当がすでに自然に生じていたと満足げに結論した。彼はやっかいな例外をうまく言いぬけた。例えば、運送会社の従業員四七人を調べた。彼らはきまりきった繰返し作業の中で、「工夫したり個人的判断を発揮する機会すら非常に限られている」(一九一九年、二七五ページ)。しかし、彼らのIQ中央値は九五であり、二五パーセントがIQ一〇四以上であった。したがって、知能ランクそのものはずっと上位にあることになる。ターマンは困惑し、彼らがこのように地位の低い仕事についたことは「何らかの情緒的、道徳的、または好ましい性質」が欠けているからであると考えた。しかも、彼らがより必要とされる仕事への準備ができる前に、「経済圧」によって退学せざるを得なかったのかもしれないとも考えた(一九一九年、二七五ページ)。別の研究でターマンは、パロ・アルトの「ルンペン宿」から二五六人の浮浪者や失職者のサンプルを集めた。彼らの平均IQは一覧表の最下位にくるだろうという期待があった。それにもかかわらず、浮浪者の平均は八九であった。非常に優れた素質とは言えないが、運転手や女店員、消防夫や警察官より上位に位置していた。このやっかいな例を、ターマンは、自分の表を操作することによって巧妙に解決した。浮浪者の平均は異常に高い。しかし、浮浪者もまた他のグループより以上に変異が大きいが、むしろ低い値の人々が大勢含まれている。そこでターマンはそれぞれのグループで得点の最も低い二五パーセントのものの数値によって一覧表を再配列し、浮浪者を最下位に位置づけた。

「ブルーカラーの平均知能は低いに違いない」という仮説を立てて実験をしたところ、予想に反して運送会社の従業員のIQ平均が高くなってしまった。

 すると「彼らは他の事情があって今の仕事をやっているだけで、本当はもっと高い知能を要求される仕事につけたはずだ」と結論付けた。

 また「浮浪者のIQが予想していたほど低くない」ことがわかると、「IQの高い人」をサンプルから排除し、予想通りの結果になるよう調整した。


 いやあ、ひどい実験だ。「この人はほんとはもっと別の仕事につくはずだった人間だ」なんて言いだしたら、職種別の知能の傾向を調べるなんて実験自体が成り立たなくなるのに。

どの職業にもそういう事情があるからこそ平均を比べるのに、一部の職種だけで「この人たちには特別な事情があったに違いない」というのは明らかにフェアじゃない。


 なにもこの研究者たちだけが特別だったわけではない。誰も彼もが、都合の良いようにデータを見てしまうのだ。

 たとえば部活の是非について話すと、部活を好きな人は部活をやることのメリットについては大きく評価するが、デメリットについては過小評価する。部活によるいじめだとか深刻なけがだとかの話をされても「そりゃあ中にはそんなこともあるけど、ごく一部の例外だよ」と言う。逆に部活を通して大成功を収めたケースについては〝ごく一部の例外〟扱いはせず、だから部活はすばらしいんだと持論を強化する材料に使う。

 逆に、部活を嫌いな人はその逆で、部活がもたらす恩恵については〝ごく一部の例外〟とみなしてデメリットに重きを置くだろう。


 この本に出てくる研究者はついつい誤った道を選んでしまうけど、ぼくが研究者でもきっと同じようなことをしてしまうだろう。

 仮説を立てて、その仮説が正しいことを検証するために何年も研究して、出てきた結論が「あんたの仮説は大間違いだし、新しい発見は何もないよ」だったとしたら……。素直に受け入れられるだろうか。せっかく集めたデータから何かしらの結論を引き出そうとがんばってしまわないだろうか。そのために都合の悪いデータは見なかったことにしてしまわないだろうか。

 まったく自信がない。




 まあ間違えるだけならまだいいんだけど、「知能が高いのはどういう人々なのか」という研究は、往々にして人種や性別や職業差別と結びついてきた。

「××は知能が低い。だから××が低い階層に置かれているのは合理的な理由によるものなのだ」と、差別を正当化することに使われてきた。

 中には、こんな主張も。

 ロンブロージの主な敵対者である「古典」派は、刑罰は犯罪の性質に応じてきびしく科せられるべきであり、すべての人は自分の行動に責任を負うべきであると論じ、従前の刑の与え方のきまぐれさと戦ってきた。ロンブローゾは生物学を援用して刑罰は犯罪者に合わせるべきで、ギルバートの「ミカド」にも書かれているように、犯罪に合わせるべきではないと論じた。正常な人間も嫉妬に燃えた瞬間には殺人者になるかも知れない。しかし、この人を処刑したり、刑務所に入れておいて何の役に立つのだろうか。彼は更生する必要はないのだ。なぜなら、彼の性質は善良なのだから。社会は彼から防護する必要はない。彼が再び罪を犯すことはないだろうからである。生まれつきの犯罪者が軽い犯罪で被告席につくかも知れない。短期間の刑は何の役に立つだろうか。彼は更生されえないのだから、短期間の刑はつぎの、多分もっと重い違反までの時間を減らすにすぎないのである。

 この人は正常な人間だから犯罪をしても軽い刑罰でいい、こいつは悪いやつだから軽い犯罪でも重い刑罰にするべきだ。

 ひどい。むちゃくちゃだ。

 でも、こういう考え方をする人は決してめずらしくない。それどころか、ほとんどの人がこういう思考をする。ぼくも含めて。

 支持している政党の不祥事は「まあ事情があったんだろう」「そんなこと気にしてたら政治なんてできないよ」と擁護し、対立する政党がやらかしたときは鬼の首を取ったように大騒ぎ。よくある光景だ。

 政治にかぎらず、誰でもひいきをしてしまうものだ。よほど特別な訓練を積んだ人でないと、「行為だけを客観的に評価する」ことは不可能だろう。


「人間は、どれほど自分の見たいようにものを見てしまうか」がよくわかる本だった。気をつけなくちゃ。


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2022年7月25日月曜日

「若い子に言いたい」人たち

 SNSを見ていると、「若い子に言いたい」とか「若い人にアドバイスしたい」と書いてる人がよくいる。もちろんSNSだけでなく、オフラインでもこういうことを言う人はたくさんいる。


 それを見るたびにぼくは自分に言い聞かせる。「若い子に言いたい」年寄りになったらオシマイだぞ、と。


 誰かに何かを言うことはいい。誰しもなにかしら言いたい。言うだけでなく、できることなら自分の言葉に耳を傾けてもらい、参考になりましたと言ってもらいたい。人間ってそういう生き物だ。

 でもなあ。それを「若い子」に向けて言うようになったらオシマイだ。


 「若い子に言いたい」人は、自分でもわかっているのだ。自分は不勉強で思慮が足りなくて他者と比べてこれといって秀でたところがないことを。

 でも、えらそうにしたい。バカだけど賢いとおもってもらいたい

 だから若い子に言う。なるべく己のバカがばれなさそうな相手に言う。

 同年代には言えないから。同年代には、自分より賢くてたくさんものを知っていて深い洞察をできる人がいっぱいいるから。そんな人に言っても、余計にばかにされるだけだとわかっているから。

 なにしろ、若い子にはえらそうにできるから。

 もちろん、若くても自分より賢い子はいっぱいいる。でも、論の甘さをつっこまれたとしても若い人相手であれば「若いうちはわからないだろうけど」「君もこの歳になればわかるさ」という必殺の逃げ道がある。『生きてきた歳月の長さ』という生きているかぎりぜったいに追い越されることのないアドバンテージを手にしているのだから。それが唯一の武器なのだ。

「若い子に言いたい」コレクション。
特に最後のやつは、ぜひとも若い子じゃなくて今の自分自身に言ってあげてほしい。



 ほら。子どものとき、いたでしょ。小さい子とばかり遊ぶ五、六年生のおにいちゃん。

 最初は「小さい子と遊んでくれるなんて優しい人だ」とおもっていたら、だんだんえらそうにしだして、みんなから「この人なんかイヤだな」っておもわれて、よく見たらこいつ同級生からはばかにされてるし、なーんだ単に同級生から相手されないから自分がえらそうにできる小さい子集めていばりちらしてるだけじゃんっていうおにいちゃん。そうやって年下からも疎まれるようになるおにいちゃん。

 大人になっておもうと「あの子はあの子でつらかったんだなあ」と同情的にもなるけど、子どものときはただただ嫌いだったでしょ。

 あれだよあれ。「若い子に言いたい」人っていうのはあのおにいちゃんだよ。


 SNSで「若い子に言いたいんだけど……」というコメントを見るたびに、「こうならないように気をつけねば」とおもう。ともすればぼくも、若い子に言いたくなるから。

「小さい子の前でだけえらそうにふるまって、同級生からはばかにされ、年下からは煙たがられるおにいちゃん」にはなりたくないから。


 言いたいことがあるなら、若い人にじゃなくて年上の人に向かって言えばいいよね。自然と謙虚になれるから。

 ってことを、年をとった子らに言いたい。


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かー坊のこと

2022年7月22日金曜日

【読書感想文】久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』 / 求む、ドクター・キリコ

日本人の死に時

そんなに長生きしたいですか

久坂部 羊

内容(e-honより)
何歳まで生きれば“ほどほどに”生きたことになるのか?長寿をもてはやし抗加齢に踊る一方で、日本人は平均で男6.1年、女7.6年間の寝たきり生活を送る。多くの人にとって長生きは苦しい。人の寿命は不公平である。だが「寿命を大切に生きる」ことは単なる長寿とはちがうはずだ。どうすれば満足な死を得られるか。元気なうちにさがしておく「死ぬのにうってつけの時」とは何か。数々の老人の死を看取ってきた現役医師による“死に時”のすすめ。


 ぼくが子どもの頃(1990年代)は、まだまだ長寿はめでたいことだった。百歳の双子・きんさんぎんさんが国民的スターとなってテレビでもてはやされていて、百歳は素直に「いいねえ」と言われることだった。

 当時にも介護などの問題はあった。有吉佐和子の『恍惚の人』が刊行されて認知症が話題になったのが1972年のことである(ちなみに2004年に「認知症」という名称がつけられるまでは「痴呆症」あるいは「ボケ」と呼ばれていた。ぜんぜん悪意なく使っていたのだが、今考えるととんでもない呼び方だよなあ)。とはいえ介護はおおむね家庭の問題であった。「このままじゃ老人が増えて働き手が減って社会が立ちいかなくなるぞ」とは言われていたが、切迫した問題として真剣に憂慮している人は多数派ではなかった。

 その後、日本は1994年に65歳以上の人口が14%を超える高齢社会となり、2007年には21%を超える超高齢社会となった。低成長、国際的競争力の低下、増える税金や社会保険料、国家財政の悪化。多くの問題は「高齢者が多いこと」に起因している。




 祖父母の話。

 ぼくの祖父母は仲が良かった。経済的に余裕もあったので、半年に一度ふたりで海外旅行に出かけていた。

 やがて祖父が亡くなった。享年八十四歳。具合が悪くなって病院に行き、がんが見つかって通院。それでもプールに通ったりするほど元気だった。症状が悪化したので入院して、二週間ほどで息を引き取った。年齢も年齢だし、そう悪い最期ではなかったとおもう。親戚だけで葬儀をおこなったが、残された子や孫たちも「まあ天寿をまっとうできたんだから幸せな人生だったよね」という感じでしんみりしていないお葬式だった。

 だが祖母にとってはショックだったらしい。その後ずいぶん落ち込み、娘に対して「私も一緒に逝きたい」などと漏らすようになった。そして半年後、認知症を発症した。夫を亡くして気落ちしたことや、ひとり暮らしになって会話が減ったことなども原因かもしれない。

 祖母は、遠く離れた長男(つまりぼくの伯父)のところで暮らすことになった。それはもう大変だったらしい。介護をしている長男夫婦をなじったり、暴れたり。ものをなくし、長男夫婦に盗まれたとふれまわる。身体は元気だったので徘徊して迷子になる。ぼくにもよく電話がかかってきた。自分からかけてきたのに「誰?」などと言っていた。孫のことも忘れかけていた。

 それから十数年。祖母はまだ存命だ。九十八歳。孫のことはおろか、子どものことも忘れているらしい。こないだ倒れて意識を失ったが、病院で手当てを受けて一命をとりとめたらしい。

 その話を聞いてぼくはおもった。「死なせてやればよかったのに」と。

 ことわっておくが、ぼくはおばあちゃんが好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。祖母がぼくのことを記憶から失った時点で、ぼくにとっても祖母は過去の人になった。孫や子の存在を忘れ、周囲の人を泥棒呼ばわりする人はぼくの好きだったおばあちゃんではない。


 祖父母の死は対照的だ。まだ元気に動きまわれるときに癌になり、あっという間に亡くなった祖父。認知症になり、家族の記憶も優しい心も忘れた状態で二十年近く生きている祖母。長生きしているのは祖母のほうだが、どっちが幸せな晩年かといわれたら比べるまでもない。

 ぼくもすっかりおっさんになって、認知症も他人事ではなくなった。友人からも、認知症の祖母の介護に苦しんだという話を聞く。

 そうした話を聞くたびに、つくづくおもう。長生きなんてするもんじゃない、と。




『日本人の死に時』では、医師として終末医療に携わっている著者が見た残酷な現実が書かれている。

 脳梗塞で意識を失った八十代の患者。入院後、胃ろう(チューブで直接胃に栄養を送りこむ措置)をつけられたが意識は失ったまま。娘たちが自宅で介護をしたものの褥瘡ができ、手足の関節も曲がったまま固まり、髪の毛も抜け落ち、意識が戻らないまま八ヶ月が経ち、亡くなった。

 かけがえのない母親ですから、必死で看病するのは当然でしょう。しかし、私は診察に通いながら、痛ましい気持でいっぱいでした。胃ろうなどつけなかったら、もっと早く楽に逝けたのに……。でも、もちろんそんなことは口には出せません。
 むかしはものが食べられなくなれば、自然に静かに死んでいました。今は鼻からチューブを入れたり、胃ろうを作ったりしてさまざまな栄養剤を与えます。消化吸収ができなくなれば、点滴や高カロリー輸液で補います。
 食事だけではありません。呼吸も、循環も、排泄も、あらゆる生理機能が人工的に補助されるようになって、人間はなかなか自然に死ねないようになってしまいました。長生きへの欲望を無批判に肯定したため、命を延ばす手だてだけが飛躍的に増えてしまったのです。命はただ延ばせばいいというものではありません。どんなふうに延ばすかが問題なのに、医学はその視点をあまり重視してこなかった。

 結果論ではあるけれど、意識が戻らないまま八ヶ月看病を続けてそのまま亡くなるのであれば、「あのとき胃ろう処置をせずに逝かせてあげればよかったのでは」とおもうのではないだろうか。意識不明状態で八ヶ月活かされた当人も、意識のない人の介護を続けた娘たちも、どちらにとっても不幸な延命処置だとしかおもえない。


 著者は、多くの高齢者が「早く死にたい」とこぼすのを聞いている。身体の不調で痛く苦しい日々を送り、今後悪くなることはあっても良くなる見込みはない。けれど自ら命を絶つことはしたくない。

 本人は長く生きたくない。親身に看護・介護をしている家族も口には出さなくても「早く解放されたい」と願う。寝たきり生活がなくなれば医療費も抑えられる。長生きしないことは三方良しにおもえるが、たいてい口を挟むのは無関係な人だ。

 病院嫌いで本人が入院を望んでいなかったのに、半ば無理やり入院させられてしまった男性の話。

「病院へ行くと、すぐレントゲンを撮って、血の検査やら点滴やらがはじまりました。わたしは主人の苦しみを取ってほしいだけだったのに、こちらの希望は聞いてもらえませんでした。人工呼吸器だけはつけずにしてもらいましたが、酸素マスクはさせられました。主人はそれをいやがり、何度も自分で取るんですが、先生に叱られるのでわたしが無理やりつけなおして……」
 入院したかぎりは、病院側も治療をせざるを得ないのでしょう。苦しみだけ取って、あとは何もしないでというわがままは通してもらえないのです。良成さんはステロイドや抗生物質を投与され、強心剤の点滴もされて、死ぬに死ねない状態で二週間を過ごしたのでした。
 途中で意識がはっきりしたとき、良成さんは「帰る」と叫んで暴れたそうです。奥さんは連れて帰りたかったのですが、親戚が反対した。死にかけているのに、家に帰るなんて無謀だ、どうして最後まで治療をしないんだ。親戚に強くそう言われると、奥さんひとりではどうしようもなかったそうです。ふだん病気から遠いところにいて、現実を知らない人の善意は、なんと怖いものでしょう。

 当事者でない人は「かわいそうじゃないか」「まだ生きられる人を見捨てる気か」と口にする。言うだけならタダだから。金を出し、時間を割き、二十四時間体制で介護をするのは自分じゃないから。

 長く入院してもらえれば病院は儲かる。寝たきりで後は死ぬのを待つばかりの患者なんて、病院からしたらいいお客さんだろう。チューブにつないでおくだけで治療らしい治療はしなくていいし、もともと死ぬ間際なのだから死んだからといって病院が責められることもない。国からがっぽがっぽお金が入ってくる。

 多くの高齢者が、長生きをしているというより「長く生かされている」状況だ。




 もちろん、健康で楽しく長生きできるのであればすばらしい。だが現実には多くの長生きが幸福に結びついていない。

 現在、日本の健康寿命は、男性が七二・三歳、女性が七七・七歳。平均寿命は、男性が七八・四歳、女性が八五・三歳です(「世界保健報告」二○○三年)。その差、すなわち男性で六・一年、女性で七・六年が、介護を要する期間となります。-平均寿命と健康寿命の差を短くすれば、介護の需要は減るわけです。そのためにはどうすればいいか。
 平均寿命が延びたのは、医療のおかげであるのはまちがいないでしょう。しかし、医療は健康寿命は延ばしません。健康な人は病院へは行かないのですから。
 病院へ行って、無理に命を延ばすから、平均寿命が延びる。だから健康寿命との差が広がり、介護の需要が高まる。医療が延ばす命は、点滴やチューブ栄養、人工呼吸やさまざまな薬剤によるものです。そうやって延ばされた命は、決してよいものではありません(私が言っているのは、健康な時間を十分に過ごしたあと、老いて身体が弱った人の話です。若くして事故や難病に倒れ、医療の支えで生きている人はもちろん別です)。
 老いて身体の不具合が出てから、無理やり命を延ばされても、本人も苦しいだけでしょう。そこで私は、ある年齢以上の人には病院へ行かないという選択肢を、提案しようと思います。

 こういう提案を医師が提案するのは、たいへん勇気がいるとおもう。世の中には「医者は患者を少しでも長生きさせるものだ」とおもっている人がいる。きっと非難も浴びただろう(この本の刊行は2007年)。それでも、きれいごとでお茶を濁さずに長生きの悪い面をきちんと書いたことを称えたい。

 著者は「現代人は生きすぎなんじゃないか」と言う。ぼくもそうおもう。同じようにおもっている人は多いだろう。寝たきり老人が増えて得をするのは病院や介護施設の経営者ぐらいだろう。でもみんな「もっと早く死んだほうがいい」とは大っぴらには言わない。「高齢者にも安心して暮らせる国づくりを」ときれいごとを口にするばかりだ。

 死にたいのに死ねない人も、その家族も、介護をする人もみんな困っているのに外野が無責任に「尊い命を見捨ててはいけない」と言うせいで事態は改善しない。夫婦別姓や同性婚の問題と同じだ。困っている当事者がなんとかしてほしいと願っていても、まったく無関係な人間の「昔からのやり方を変えたくない」で潰されてしまう。




 延命治療はしたっていいけど、保険適用外にしたらいいのにね。やりたい人は自腹でやればいい。家族も「だったらやめます」と言いやすくなるし、病院だって無理な延命を勧めなくなるだろう。

 出産費用が保険適用外なのに、百歳の延命治療が保険適用なのは意味わからない。今は高齢者ほど自己負担比率が低いけど、逆にすべきだとおもうんだよね。若い人ほど負担を減らしてあげなきゃだめでしょうよ。

 医者の仕事は「健康にすること」であって「不健康な状態を長引かせること」じゃないとおもうんだけどね。


 漫画『ブラック・ジャック』にドクター・キリコという医師が出てくる。 「死神の化身」と呼ばれ、患者の求めに応じて安楽死させる悪役として描かれる。ぼくも子どもの頃は悪い奴だとおもっていたけど、今にしておもうとなんてすばらしい医者なんだろうとおもう。

 ドクター・キリコはむやみに殺すわけではない。治る見込みがなく、苦しんでいる患者で、かつ当人や家族の依頼を受けた場合だけだ。若い自殺志願者の安楽死は拒否するし、誤って毒を飲んでしまった人は緊急手術をおこなって助ける。助けた後は「命が助かるにこしたことはないさ」とつぶやく。彼は情がないから安楽死をさせるのではなく、逆に苦しむ患者を救うために安楽死という手段をとるのだ。その証拠に実父が難病に冒されたときにもやはり安楽死させようとするし、さらには自らが謎の菌に感染した際には菌の拡散を防ぐために無人島に己を隔離して安楽死しようとする。

 いやほんと、すばらしい医者だよ。金さえもらえればどんなやつでも(たとえその後死刑になることがほぼ確定している犯罪者でも)助けるブラック・ジャックよりよっぽど人道的だとおもう。

 今の時代に必要なのは、ドクター・キリコのような医者かもしれない。




 早いうちに自分の寿命を決めたらいいと著者は提唱する。七十九歳の人が「八十まで生きたら生にしがみつくのはやめよう」とおもってもむずかしいだろう。だが六十歳の人なら心の準備ができる。四十歳ならもっと。

 だからぼくも、自分の終わりを七十歳ぐらいに決めたいとおもう。それぐらいになったら孫もそこそこ大きくなっているだろう(順調にいけば)。孫に「近しい人の死」を身をもって教えるのが最期の大仕事だとおもっている。

 もっとも七十歳になってしまったら自殺するということではない。内臓の検査や治療をやめて、人生の店じまいの準備をすすめていきたいと考えている。

 まあじっさいその年齢になったら意地汚く生きることにしがみついてしまうのかもしれないけど。


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2022年7月21日木曜日

書かないことのむずかしさ

 このブログには特にテーマを決めず、書きたいことを好きに書くようにしているのだけれど、なるべく書かないようにしていることもある。

 それは、時事ネタ、特にいわゆる〝炎上案件〟だ。


 このブログの最優先読者は、まぎれもなく自分だ。自分が後日読んだときにおもしろいとおもってもらうために書いている。

 そのとき旬なテーマは後になると意味がわかりにくくなるし、特に炎上案件のように爆発的に注目度の上がったネタは冷めて忘れられるのも早いから後日読んでもつまらない。


 それよりなにより「炎上案件に首をつっこむのはみっともない」という意識がある。

 といっても今まで何度か首をつっこんだことはあるが、それは一応自分も当事者の端くれであったり、あるいはこの分野に関しては他人より深い前提知識を持っているはずという自負があったりする場合にかぎっている。

 やっぱりほら、みっともないじゃん。〝野次馬根性〟ってめちゃくちゃ醜悪じゃない。

 たとえば誰かが危険運転をしたときに、被害者自身とか、加害者を以前から知る人物だとか、道交法の研究者とかがあれこれ語るのはまあわかる。でも、YouTubeにアップされたドラレコの映像を見て「これは許せん!」とおもっただけの人は、不純物ゼロ、美しいほどの野次馬じゃない。

 いや、わかるのよ。野次馬が石を投げたくなる気持ちも。ぼくだって本心はそうだし。人間は社会的動物だから不正をはたらいて社会のメンバーに迷惑をかけるやつは迫害したくなる。そうやって攻撃的なやつやずるいやつを追いだして、社会秩序を維持してきた。だから炎上案件に首をつっこんで遠くから石を投げたくなるのは本能的なものなんだとおもう。

 でも、だからこそみっともないわけで。

 飯をがっついているところやセックスをしているところやウンコをきばったり惰眠をむさぼったりしている姿が本能に忠実であればあるほどみっともないのと同じで。そこを開陳してしまったら、もうえらそうな顔をできないじゃない。べつにえらそうにしなくたっていいんだけど。


 ま、これはあくまでぼくの個人的美学だ。

 首をつっこみたい人はつっこめばいいし、ただぼくは首をつっこみたくないというだけだ。

 だからこの問題についてひとこと言いたい、とおもったとしても自らブレーキをかけて書かないことにしている。


 問題は「書くのをやめたこと」は他人に伝わらないことだ。

 書いたことは他人に伝わるが、書かなかったことは他人には伝わらない。

 炎上案件についておもうところはあるし、それを文章化することもできるんだけど、あえて書かない。そこは伝わらない。

 ぼくとしては、人並みあるいは人一倍承認欲求があるわけだから「まあこの人は野次馬たちが集まっている下品な話題に首をつっこまないのね。やはりそのへんの凡百な連中とはちがうわ。なんて分別のある人なの」とおもってもらいたい。あわよくば賞賛されたい。

 でも、書かないから伝わらない。「私はこの問題について書きたいことがあるんだけど半端な知識でいっちょかみするのは下品なので、あえて首をつっこみませんでした」と書いてしまったら、それはもう首をつっこんだことになってしまうから、書けない。野次馬にはなりたくないが、野次馬でなければ他人から認識されない。野次馬のジレンマだ。


 こういうのはどうだろう。ぼくがある問題について書くのをやめ、ぼくが自作自演した別アカウントが「犬犬工作所はこの問題については沈黙を貫いている。なんと立派な姿勢だろう」と賞賛する。

 うむ、これがいちばんみっともないな!