2025年5月13日火曜日

【読書感想文】村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 / とりとめのない話をとりとめもないままに

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回転木馬のデッド・ヒート

村上春樹

内容(e-honより)
現代の奇妙な空間―都会。そこで暮らす人々の人生をたとえるなら、それはメリー・ゴーラウンド。人はメリー・ゴーラウンドに乗って、日々デッド・ヒートを繰りひろげる。人生に疲れた人、何かに立ち向かっている人…、さまざまな人間群像を描いたスケッチ・ブックの中に、あなたに似た人はいませんか。

「著者が体験した、または知人から聞いた、小説にするほどでもないとりとめのない話」をつづった短篇集。

 うん、たしかに「とりとめのない」という言葉がしっくりくる。スリリングな展開も鮮やかなオチもストーリーから導かれる教訓もない。

 それでも読めるのは村上春樹氏ならではだよな。なんてことのない文章なのに、読んでいて退屈しない。というか村上春樹作品ってだいたいそんな感じだし。『回転木馬のデッド・ヒート』よりは起伏があるけど、山場というよりは丘といった程度。



 前書きがあまりに「村上春樹っぽい」文章で、おもわず笑っちゃった。

 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことであ我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考えている。

 うーん、村上春樹だなあ。いい意味でも悪い意味でも。

 このまどろっこしさよ。個人的には嫌いじゃないぜ。ビジネスの場で部下がこんな文章を書いてきたら「ふざけんな」と言うけど。




 八篇の「とりとめのない話」が収録されているが、ずっと退屈なわけではない。

 望遠レンズを使って好きな女の子の部屋をのぞいたり、毎日毎日嘔吐をくりかえしたり、両親が離婚したり、金をもらって行きずりの男と寝たり。

 めずらしい出来事が語られる。でも、ただそれだけなのだ。

「Aが起こったのはBが原因だったのです」とか「Aの結果、Cになってしまいました。Aをすべきではなかったのです」とかいったオチが用意されているわけではない。「Aが起こりました。おしまい」なのだ。

 起承転結の結がない。起・承・転・承みたいな感じでぬるっと終わる。


 これって逆にむずかしいんじゃないだろうか。

 人間って、物語が好きなんだよね。歴史的事実やスポーツニュースや政治を語るときでも、ついついそこに“物語”を求めてしまう。

 あの政治家がこんなことをしたのは〇年前に苦い思いをさせられたことの意趣返しだ、とか。苦節〇年のベテラン選手が期待のルーキー相手にプロの洗礼を浴びせた、とか。地震で誰かが命を落としたといったニュースにも、なぜ死ななきゃならなかったのかとか、死んだ人には幼い子どもがいて……みたいなストーリーを求める。「地震があった。死んだ」だけでは納得せず「〇〇だから死んだ」「〇〇なのに死んだ」といったお話を付与したがる。

 ストーリー仕立てにしたほうが記憶が定着しやすいとかのメリットもあるけど、物語は事実をゆがめてしまう原因にもなる。


『回転木馬のデッド・ヒート』は、見聞きしたとりとめのない話を、とりとめもないままに小説にしている。

 これって、かんたんなようで実はけっこうむずかしいことをやっているのかもしれない。

 

 ただ読んだ人の印象には残らないけどね。ぼくは数日前に読み終わったけど、もうどんな話だったか忘れかけてるもの。


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