2021年8月23日月曜日

【読書感想文】砂原 庸介『大阪 ~大都市は国家を超えるか~』

大阪

大都市は国家を超えるか

砂原 庸介

内容(e-honより)
停滞が続く日本。従来の「国土の均衡ある発展」は限界となり、経済成長の“エンジン”として大都市が注目を集めている。特に東京に比べ衰退著しい大阪は、橋下徹の登場、「大阪都構想」を中心に国政を巻き込んだ変革が行われ、脚光を浴びた。大都市は、日本の新たな成長の起爆剤になり得るのか―。本書は、近代以降、国家に抑圧された大阪の軌跡を追い、橋下と大阪維新の会が、なぜ強い支持を得るのかを探る。

 2012年刊行。
 橋下徹氏が大阪府知事を辞任して大阪市長選に出馬・当選した(2011)よりも少し後、1回目の大阪都構想の住民投票(2015年)より前に刊行された本。

 戦前からの大阪府・大阪市の行政、政治、都市計画、財政などの歴史と、橋下徹氏が府知事になって以降の「大阪都構想」について書かれた本。


 ぼくが結婚して大阪に住みはじめて十年ほどになる(生まれてから五歳までも大阪にいたが)。
 二度の都構想住民投票にも行った。どちらも反対票を投じたが、それは都構想そのものに反対というより「それ以前に維新の会の姿勢を信用できない」からのものだった。百かゼロかで語る人や、まちがいを認めない人のことは信用しないことにしてるので。
「都構想はこんなデメリットもあるけどこんなメリットもあるんですよ」と説明してくれたら聞こうという気になるけど、「なにからなにまでいいことずくめですよ!」は詐欺師の手口だから耳を貸す気になれないんだよね。

 住民投票では反対票を投じたものの、都構想そのものに反対しているわけではない。というよりよくわかんない。住民投票前にはいろんな文章を読んだけど、極端な賛成意見か極端な反対意見のどちらかで、両論併記しているものはほとんどない。
 というわけでこの本を読んでみた。




 大阪を東京都のような「都」にするという構想は最近橋下徹氏が言いだしたものではなく、六十年以上前からあったのだそうだ。

 大都市側の特別市実現に向けた反撃は、一九四八年(昭和二三)六月の大阪市議会による大阪市を特別市に指定する法律案提出案に関する意見書」に始まるとされる。地方制度調査会の答申では支障が少ないと見られていた大阪市の特別市実現は、大阪府から強く反対されていた。特別市実現には大阪市の市域再拡張が避けられず、その場合、特別市に入らない大阪府の残存区域が立ち行かなくなることを大阪府は強く懸念したからである。このような府県と市の対立は、他の大都市でもほぼ同様のものがあった。
 特別市に反対する大阪府が逆に提案したのは、東京都制を参考とした大阪都制案である。これは、大阪府域で都制を施行し、大阪市内に加えて市外にも漸進的に特別区制を実施していくという提案である。それによって、大阪府庁と大阪市役所の二重行政を解消し、区議会を設立して地域の意見をよりきめ細かく反映させることを主張するものであった。第Ⅳ章で述べていく二〇一〇年に提唱された「大阪都構想」とほぼ同型の構想である。

 ざっくりいうと、大阪市のような大都市は財政的には不利な立場に置かれている。

  • 近隣の都市から多くの人がやってくるが、彼らの住所は大阪市ではないので住民税は大阪市に入ってこない
  • だが人は多いのでインフラなどの整備をする必要がある
  • 大阪の場合、高級住宅地は近隣の市町村にあることが多いので、収入の多い人ほど市外に出ていく。逆に収入の低い人が増えれば市からの保護などが多く必要になる
  • 都市計画を整備しようにも周辺の市町村と利害が一致しなければなかなか進まない。たとえば市をまたいだ道路や鉄道を整備しようとすると「どちらが費用を負担するか」という問題になる

 大きな都市だからやらなきゃならないことはたくさんある、なのに(経済規模のわりに)大阪市が使える金は少ない、国や県に比べて権限も小さい。
 大阪市の人口は269万人で鳥取県の人口の5倍近い。それでも権限は県より小さい。

 で、それを解消しようとするのが都構想。使える税も増え、権限も増える。

 なるほどなるほど。
 そうかあ、じゃあやっぱり都構想はいいことかもしれないなあ。ただし「良い為政者がいるならば」という条件付きではあるが

 使える税が増え、権限が増えるということは、いい政治がおこなわれるかぎりにおいてはプラスをより大きくする。ただし政治を執り行うのが「他者を攻撃ばかりするくせに己の失敗は認めようとしない政党」であれば、マイナスを大きくすることになる。

 ということで、ぼくはやっぱり「今の維新の会が推し進める都構想」には反対だな。
 少なくとも、失政は素直に認めて、専門家の話を聞いて、きちんと都構想のデメリットも示せるようになってからですかね。そんな日来るんですかね。




 個人的に〝政治家としての橋下徹〟は信用してない(タレントとしてはわりと好き。無責任にしゃべらせてる分にはおもしろい人なので)。
 でもこの本を読むかぎりでは橋下徹氏が府知事になったのは大阪にとっていいことだったんだろうなとおもう。もちろん悪い面もたくさんあるけど、トータルでは府政への登場はプラスだったんじゃないかな。

 市政の安定と継続は、市長のもとで大阪市の専門官僚制が高い自律性を保ち、長期的展望に基づいて事業を実施することを可能にした。しかしそれは、市長を継続的に支持する市議会を中心とした市政における多元的なチェック機能が麻痺することをともなう。第Ⅲ章で述べた大阪湾開発のように、他の行政機関と調整がなされないままに、大阪市のみに通じる論理で大規模な公共事業が実施され、見直しのきっかけを持たないままに破綻していくのは、その代償とも言える。

 橋下氏以前の大阪は財政・政治・行政あらゆる面で問題山積みだったし、与野党相乗りの知事による緊張感のない政治が続いていた。
 そういった状況の打破を掲げた候補者が当選した意義は大きい。いいか悪いかはべつにして、彼がいろいろ変えたのは間違いない。

 どんな組織でも波風がなければ淀んでいく。
 いつものメンバーでいつものやり方でやるのは「すべてが予定調和でスムーズに事が運ぶ」というメリットもあるけど、「悪しき慣習がずっと残される」というデメリットもある。たまには新しい風を入れたほうがいい。

「国政にパイプがある大政党だから」というアドバンテージにあぐらをかいた政治を地方でやってたら落選させられる、という現実を大政党の議員たちにつきつけただけでもプラスだった(ただし今や維新の会がその大政党に近づきつつあるけど)。

 本来地方と国って利益をめぐって対立することが多いわけじゃない。
 だから国政政党と地方議員って、喧嘩するとまではいかなくても、緊張感を持った関係でいるのが望ましい。少なくとも、地方議員が国会議員の票集めに協力するようなずぶずぶの関係だと、「国会議員は国のために、地方議員は地方のために」という行動ができなくなることは目に見えている。

 橋下府知事誕生以降、大都市では国政とは距離を置いた首長が多く誕生するようになっている。そのこと自体はいいことだとおもう(個々人の資質はべつにして)。


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2021年8月20日金曜日

いちぶんがく その8

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



研究者というのは常に、早急に何とかしなくてはならない問題、というものを抱えているからだ。

(東野 圭吾『天空の蜂』より)




けれども少女は人間であり、人形ではありません。

(新津 きよみ『星の見える家』より)




なぜなら「能力」とは、どうにでも解釈できる言葉だったからである。

(小熊 英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』より)




時に、ため息をつきながら食べていて、時々おいしいと感じるものがあると舌打ちをする。

(古泉 智浩『うちの子になりなよ』より)




わたくしは、そんなみみっちい悪ではなく、本当に自己弁解の余地のない動機のない悪をやってみよう。

(遠藤 周作『真昼の悪魔』より)




ひとは恐怖や苦痛と闘うことはできても、楽しさと闘うことはできない。

(柞刈 湯葉『人間たちの話』より)




ヒョウ柄のパンプスを履かせたい男と、ヒョウ柄のパンプスをそろそろ脱ぎたい女。

(吉田 修一『キャンセルされた街の案内』より)




マチアスはポネットがなぜ座薬を好きなのか考え続けていた。

(ジャック・ドワイヨン(著) 青林 霞・寺尾 次郎(訳) 『ポネット』より)




あなたはそれなりにがんばってるじゃないの。

(湊 かなえ『夜行観覧車』より)




「この社会をどんなにうまく生きてもツマラナイ」ということですね。

(宮台 真司『社会という荒野を生きる。』より)




 その他のいちぶんがく


2021年8月19日木曜日

親孝行代行サービス

 ぼくのふるい友人に、社交性のかたまりみたいなSという男がいる。

 誰とでもすぐに打ちとける。特に年上にかわいがられる。子どもの頃からそうだ。どの家に行っても、そこのお母さんから「Sちゃん、Sちゃん」とかわいがられる。
 ぼくの両親もSのことが大好きだ。母親から「そういやこないだSちゃんが遊びにきたよ」と言われることがある。ぼくがいないのに、ぼくの実家に行くのだ。そしてちゃっかり昼飯をごちそうになったりする。
 また、Sとぼくの父親とでゴルフに行ったこともあるらしい。ぼくは後から聞かされた(ぼくはゴルフをやらないので誘いもされなかった)。ぼくの代わりに親孝行をしてくれているのだ。
 すごい。ぼくにはぜったいできない芸当だ。

 懐に入るのが天才的にうまいのだが、だからといってなれなれしいわけではない。ちゃんと節度ある付き合いを心得ている。親しくはなるが、入ってはいけない領域まで立ち入らない。
「ここまでは踏みこんでいい」というギリギリまで入っていくのだ。だから付き合いは広いのに嫌われない。


 高校生のときのこと。
 ぼくの家に遊びにきたSは「腹へったー」と言いながら台所に入った。母親は不在だった。Sは冷蔵庫にあった卵を使って玉子焼きを作って食べた。
 そしてSはフライパンや食器をきれいに洗い、乾かしてから元あった場所にきちんと直した。
 その日の夜、母親は冷蔵庫を開けて首をかしげた。「あれ? あんた卵食べた?」とぼくに訊く。ぼくはSが卵を使ったことを知っているが、そしらぬ顔で「食べてない」と答えた。嘘はついてない。食べたのはぼくじゃない。
 母が「あれ。まだあったとおもったけどなー。ボケたかな」と首をひねっているので、ぼくは種明かしをした。「Sが玉子焼き作って食べたで」と。母は「さすがSちゃんやなー」と笑った。「洗い物まできれいにしてくれるなんてさすがやわ」と逆に称賛している。いやいや盗み食いされたんやで。

 この大胆さ。おそろしい。
 ちゃんと「このおばちゃんなら勝手に冷蔵庫の卵を使っても怒らない。むしろ笑ってくれる」ことを見抜いて、そのギリギリを攻めるのだ。
 そしてなによりぼくが脱帽するのは、Sが使った卵が「冷蔵庫にあった最後の一個」だということだ。
 十個あるうちの一個を使うのならまだわかる(それでも相当大胆だけど)。だがSは「よその家の最後の一個」にチャレンジするのだ。なんちゅう豪胆。


 明るく社交的で顔も悪くないので、Sはモテる。
 女好きだし女性に対してもどんどん懐に入りこむので、女友だちもたくさんいる。

 世渡りがいいやつとか女にもてるやつは反感を買いがちだけど、Sぐらいずば抜けた社交性だともうそれすらも超越してしまう。自分と次元が違いすぎて嫉妬すら感じない。




 そんなSも結婚して息子が生まれた。
 こないだSが三歳になった息子を連れてうちの実家に遊びにきた。
 Sジュニアは、はじめて来る家であるにもかかわらずずかずかと中に上がりこむ。あっという間に台所にまで入りこんであちこち物色している。
「台所はあぶないよ」と言われても、しょげるどころかにこっと笑う。子どもの満面の笑顔を見せられると許すしかない。
 さらにぼくの娘と姪(どちらも小学生)を気に入り、「おねえさーん!」と言いながら後を追いかける。

 たいていの子どもは人見知りをするものだが、Sジュニアはまったくの逆。知らない人がいるときのほうが上機嫌なのだという。

 あまり血統主義的なことはいいたくないが、Sジュニアの人たらしっぷりを見ていると「血は争えんなあ」とおもうばかり。
 こういうのって教えてどうこうなるもんじゃないもんね。


2021年8月18日水曜日

【読書感想文】川嶋 佳子(シソンヌじろう)『甘いお酒でうがい』

甘いお酒でうがい

川嶋 佳子(シソンヌじろう)

内容(e-honより)
シソンヌじろうが長年演じてきた「川嶋佳子」が綴る、40代後半独身女の517日。恋、亡き母、人生。シソンヌじろう初の日記小説!!

 以前、バカリズム氏が書いた『架空OL日記』という本を読んだ。OLになったふりをしてつづった日記である。
 そして『甘いお酒でうがい』もやはり、シソンヌじろう氏が40代独身OLの心で書いた日記である。
 センスある芸人は女のふりして日記を書きたがるものなのか。なんなんだ。

 しかし気持ちはちょっとわかる。
 ぼくもときどき「あたし」という一人称で文章を書く。最近あんまりやってないけど、いっときはよく書いていた。

ブランド品と九十九神

古今東西おすもうアンドロイド

ロボットフェンシングコンテスト

【エッセイ】犬と赤子に関しては勝手にさわってもよいものとする

【ふまじめな考察】なぜバーテンダーはシャカシャカやりすぎるのか

暗算こそが我が人生

【エッセイ】ミノムシって絶滅危惧種なんですってよ

【エッセイ】地球外生命体の焼き魚定食

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~チーズフォンデュ編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~

【エッセイ】こたつと政権交代

【エッセイ】バイクのブーン その1

【エッセイ】バイクのブーン その2

【エッセイ】バイクのブーン その3

【エッセイ】捨てなくてよかったアジスロマイシン

【エッセイ】あたしが超能力者を嫌いな3つの理由

手のひら、内出血すればいいのに

母親として、子どもに食べさせるものには気をつかいたい

大人の女が口笛を吹く理由

洞口さんとねずみの島

洞口さんじゃがいもをむく

 検索してみたらいっぱい書いてた。これでもごく一部だ。
 そして「あたし」が書いた文章はおもしろい。他人がどうおもうかわからないけど、ぼくはそうおもう。

 なぜなら、自由に書けるから。
 やっぱり「ぼく」が書いた文章ってかっこつけてるんだよね。
 ブログだから知人に読まれることはほとんどないんだけど、それでもついつい取りつくろってしまう。賢く見られたい。良識ある人間だとおもわれたい。論理的矛盾だとか前に書いたこととの整合性とかを気にしてしまう。
 ところが「あたし」の文章を書いているのはぼくじゃないから、自由に書ける。ばかなことも書ける。そのときによって「あたし」の人格は変わるから、整合性も気にしない。

 べつに女性である必然性はないんだけどね。
 お相撲さんでも軍人でもモデルでも政治家でも医師でも宇宙人でも、自分とちがう人の仮面をつけられるなら誰でもいい。
 ただ「あたし」はてっとりばやい。一人称を変えるだけでいいし、特定の職業に関する知識もいらない。
 力士のふりして文章書くと「そんなお相撲さんいねーよ」とツッコミがくる可能性があるが、「あたし」であれば「世界中さがせばひとりぐらいはこんな女性もいるかも」で許される(あくまで自分の中では、だが)。

 ということで、異性のふりをして文章を書くのは楽しい。「自分から解放される」楽しさがある。ねえ、紀貫之さん。




 ただ、『甘いお酒でうがい』は「べつの人格を着て好きなことを書いている文章」かというと、それはちょっとちがう。
 川嶋佳子という仮面をつけてはいるが、その仮面は一時的なものではない。「いつでも脱げる」とおもってあることないこと書いているわけではない。「これからも川嶋佳子として生きていく」という覚悟のようなものが見える。だから川嶋佳子を壊すようなことは書いていない。徹頭徹尾、川嶋佳子はひとりの女性でありつづける。
 じろうという人間から解放されるために別の人格をかぶっているのではなく、じろうから解放されて川嶋佳子に囚われている。


 だから『甘いお酒でうがい』は、率直にいっておもしろくない。というよりおもしろいことが起こらない。
 バカリズム『架空OL日記』はもっとおもしろかった。起伏に富んでいた。あくまでフィクションだから、読者がおもしろがることを書いていたのだ。
 だが『甘いお酒でうがい』はほんとにただの日記である。他人をおもしろがらせるための文章ではない。
 もしも「シソンヌじろうが書いた」という背景を知らなかったら、ぼくは二ページぐらいでこの本を放りだしていただろう。
 これは「別人格を着てつまらない文章を書くシソンヌじろう」を楽しむ文章なのだ。


 書かれるのは、ほんとに些細な日常だ。

[7/19(木)] 帰りの電車に外人さんが沢山乗ってた。
外国人の観光客を見ると、私はあなたよりこの
国を知っている、という優越感に浸れる。
あなたの目に日本はどう映ってる?
あなたの目で今の日本が見てみたい。
[11/7(水)] なんとなく佇まいが男性っぽいシャンプーと、
女性っぽいコンディショナーを買って帰宅。
お風呂場で二人きりにさせてあげる。
[12/16(日)] なんだろう。
なんだか無性に、
重い掛け布団の中で寝たい。

 ここに書いたのは、まだ「何か起こっているほう」の日常だ。これでも。




 本文よりもあとがきのほうがおもしろかった。
 あとがきを読んではじめて、四十代女性のつまらない日記が立体的に立ちあがってくる気がした。

僕は芸人になって1年目の冬に最愛の母を失った。母は僕の芸人としての姿を一度も見たことがない。母を失ってから時間が経つにつれ、僕の作るネタはどんどん変わっていった。登場人物が非常によく死ぬし、愛すべきキャラクターほど、最後に死というオチをつけることが多くなった。
悲しみをいかに笑いに変えるか。気がつかないうちに、それが自分の作るネタのテーマになっていった。この日記に付き纏う物悲しさ。これはやはり母の死が原因なのだと思う。自分で読み返していても、湿地に腰まで浸かっているような気分になる。川嶋佳子はとにかくついていない。しかし彼女は自分の不運を客観的に見て、自分に舞い降りる不幸に意味を持たせることで日常を楽しんで生きている。その姿勢こそが僕がテーマに掲げていることであり、この日記に触れた方に伝えたいことなのである。

 〝川嶋佳子〟も、母親を失っている。そして折に触れて、亡きおかあさんのことを思いだしている。「おかあさんだったらどうしてたかな」と。

 『甘いお酒でうがい』は、シソンヌじろう氏による母への追悼文なのかもしれない。素直に「おかあさんがいなくなって寂しい」と言いたいけど言えない。その気持ちを、川嶋佳子という別人格を借りて表現していたのかもしれない。


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2021年8月17日火曜日

あこがれのトランシーバー

 娘の誕生日に、トランシーバーをプレゼントした。
 おもちゃではあるが、最大200メートル離れていても通信できるというもので、商品レビューを見ると「アウトドアで使っています」「家族でショッピングモールに行ったときに使っている」といった声も。
 四機セットで七千円近くする、おもちゃにしては立派な代物だ。

 誕生日プレゼントなのでもちろん娘が欲しがったものだが、欲しがるように仕向けたのはぼくだ。
「トランシーバーとかどう? 遠くにいる人と話せるから、けいどろとか缶けりとかするときに使ったらめちゃくちゃおもしろそうじゃない? ○○ちゃんだったら家が近いからお互いの家にいても通話できるかもよ」
とそそのかして、まんまと娘に「誕生日はトランシーバーがほしい!」と言わせることに成功した。


 そう。多くの元少年と同じく、ぼくもトランシーバーにあこがれていた。
 トランシーバー、カメラ、ラジコン。これは昭和~平成初期の子どもの三大あこがれおもちゃだろう。いまやスマホがトランシーバーでありカメラであるわけだけど……。

 トランシーバーもカメラもラジコンも、なかなか買ってもらえる代物ではなかった。なにしろ高い。
 だが本体の値段だけなら、誕生日やクリスマスに買ってもらえたかもしれない。問題はランニングコストも決して安くなかったことだ。
 トランシーバーやラジコンは電池を、カメラはフィルムを消耗する(当時はデジカメなんてなかった)。
 数百円だが、小学生にとって数百円は大金だ。コンスタントに出せる金額ではない。

 また、ぼくが小学生のときにいとこがおもちゃのトランシーバーを持っていたが、当時のおもちゃのトランシーバーは本当にちゃちなものだった。同じ家の中にいても声が明瞭に聞こえない。トランシーバーを使うより大声を出したほうがよく聞こえるぐらい。
 トランシーバーにあこがれていたぼくでも「これを誕生日にもらうのは損だな……」とおもうぐらいだった。かといって本式のトランシーバーなんかとても買ってもらえない。

 ぼくも今ではそこそこお金を自由に使えるようになった。本式のトランシーバーでもやすやすと買える。
 が、今買ってもしょうがない。三十代のおっさんが趣味でトランシーバーを買って誰と通信するというのだ。おっさんと秘密基地ごっこやスパイごっこをしてくれる奇特な人はいない。
 そもそも携帯電話を持っているのだからトランシーバーは不要だ。

 そんなわけで「娘のプレゼント」を口実にして長年の夢をかなえたのだった。




 トランシーバーをプレゼントされた娘は大喜びだった。
 さっそく娘といっしょに公園に行ってトランシーバーを使ってみた。
 おお。姿が見えないぐらい遠く離れていてもちゃんと通話できる。音声も明瞭だ。今のトランシーバーはすごい。広めの公園でも問題なく使える。

 娘の友だちもみんなトランシーバーを見てテンションが上がっている。
 中にはキッズ携帯を持っている子もいるが、携帯は遊びで使わないように言われているので、トランシーバーを使って遊べるのは楽しいらしい。
 みんなトランシーバーを持って、連絡をとりながら走りまわっている。高学年の子らまでものめずらしそうに「ちょっと貸して」と集まってきた。
 やはり令和の時代になってもトランシーバーは子どもたちのあこがれなのだ。




 ところで、トランシーバーはチャンネルをいくつか選べる。同じチャンネル同士でしか通信できないのだ。
「こんなのチャンネルひとつでいいのにな。トランシーバーを使ってる人なんてほとんどいないから干渉しないだろ」とおもっていたのだが、公園で使ってみてわかった。トランシーバーを使っている人はけっこういる。

 公園の近くにはショッピングモールや公営のプールがあるのだが、店舗従業員やプール監視員や警備員がトランシーバーを使っているらしい。チャンネル1にしているとしょっちゅう知らない人の声が入ってくる(逆にいうとこっちが公園であほみたいにしゃべっている声も向こうに届いているのだろう)。

 チャンネルを切り替えたら干渉がなくなった。

 そうか、ぼくが知らないだけでトランシーバーはけっこう使われているんだな。