2025年6月23日月曜日

【読書感想文】中野 信子『脳の闇』 / 「好かれやすい」は防衛手段

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脳の闇

中野 信子

内容(e-honより)
ブレない人、正しい人と言われたい、他人に認められたい…集団の中で、人は常に承認欲求と無縁ではいられない。ともすれば無意識の情動に流され、あいまいで不安な状態を嫌う脳の仕組みは、深淵にして実にやっかいなのだ―自身の人生と脳科学の知見を通して、現代社会の病理と私たち人間の脳に備わる深い闇を鮮やかに解き明かす。五年にわたる思索のエッセンスを一冊に凝縮した、衝撃の人間論!

 脳科学者が人間の思考についてあれこれとつづった本。

 様々な知見が紹介されてはいるが、研究報告というよりエッセイに近い。

 この人、他の著書を調べると『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』とか『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』とか、どう考えてもまともな学者のものとはおもえないタイトルが並んでいたので、「これはたぶんヤベー学者だな……。だいたいメディアによく出る脳科学者ってろくなやついねえんだよな……」と眉にたっぷり唾をつけてから読んだのだが、エッセイとして読む分にはなかなかおもしろかった。


 ぼくが好感を持ったのは、文章がわかりにくいところだ。

 ぜんぜん論旨が明解でない。あれこれ読んだあげく、「で、結局何が言いたかったのかよくわからない」となることもある。

 でも誠実な文章というのはそういうものだ。断定をしない、判断を避けて結論を保留にする、主張をする場合でも反対側の可能性も残しておく。結果、わかりづらくなる。真実に対して誠実であろうとすればわかりづらくなるのは必然だ。

 声のでかい人が言う「〇〇は正しい! ××はダメだ!」とは真逆の態度だ。


 とても『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』を書いたのと同じ人とはおもえない。ほんと、なんであんな本出したんだ。読んでないけど。



 好かれやすい人、について。

 どんな世界のどんな人であっても、人間は自分に興味を持ち、自分の言葉を聞いてくれる人に好意を持つものだ。要するに、この性質を使えばよい、ということになる。
 タイプではなくても心惹かれてしまう人というのが誰しもいた(いる)だろうと思う。
 その人は、おそらく「ああ、この人は私のことを好きに違いない」というサインをどこかで出してきたはずだ。あるいは、それを自分から勘違いしてしまったか。
 そのサインは、あなたにだけは自分の話を打ち明ける、あなたの話だけは面白く聞くことができる、あなたとだけは自分の秘密を共有できるといった関係性を使った方法であったり、あなただけが優れた才能の持ち主、あなただけがこの世界の中にあって美しい、あなただけが本当にすばらしい、となにがしかの特別性を付与する語り掛けをするという方法によって提示されているだろう。
 提示する側は、自分の好意を示すことによって、相手の歓心を得ることができる。けれども、歓心以上のものは特に必要ない場合も多い。このときに、齟齬が起きる。
 相手から、適度な好意だけを得られるのなら、それはバランスがとれているといえる。けれども、本気にさせてしまったときには厄介だ。相手が本気になってしまったときに、それをうまくあしらうことをしないと、面倒なことになりかねない。

(中略)

 私が面白いと感じたのは、この方法をセキュリティとして用いている人間が少なからずいる点である。既存の倫理基準が変わりつつある遷移期、不確実性の時代と言われる現代にあって、法も社会も自分を守ってくれる保証がない。なんなら、自分は虐げられてきた側の人間である、という自覚のある人物にとっては、こういうセキュリティを行動様式として身に着けでもしなければ、本当に死んでしまうかもしれないのだ。
 社会に守られ、そのシステムを信頼して生きてきた人間とは、根本のアーキテクチャが違う。それを互いに、狂っている、あるいは、思慮が足りない、といって貶すのはたやすい。けれども、本当にこの先の世界で必要とされるのはどちらなのだろう。何千年も生きることができたなら、その顛末を見届けてみたいものだと思う。

 好かれすぎる人、というのはいる。こちらが好きではない(どちらかといえば嫌いな)人から行為を向けられやすいタイプ、極端なことを言えばストーカーにつきまとわれやすいタイプだ。

 個人的な印象でいえば女性に多いようにおもう。

 ただ単にすっごい美人、という場合もあるだろうが、「誰にでも愛想がいい」「男性との距離が近い」など、「思わせぶりな態度をとりがちな人」であることも多い。

 だからだろう、ストーカー被害に遭った女性が「気を持たせるような態度をとったあなたも悪いんじゃないの?」と責められる、なんて話も聞く。


 でも、「その気もない相手に対して気を持たせるような態度をとる女性」も、決して相手をなぶって遊んでいるわけではなく、自分を守る手段として「思わせぶりな態度」をとっているのかもしれない。

 周囲(特に異性)から敵意、攻撃性を向けられやすい環境にいた場合、「私はあなたを好きですよ。だから攻撃しないでくださいね。守ってくださいね」というメッセージを発していないと身の安全を保てなかったのかもしれない。

 赤ちゃんがにこにこするのは「私を守ってください」というメッセージを(結果的に)発しているからだ、という話もある。

「気のない人に対して思わせぶりな態度をとる人」が女性に多い(ような気がする)のも、女性のほうが弱い立場に置かれやすく、誰かの庇護を求めることで身を守る必要があるとおもえばうなずける。

 そうだとすると、身を守ろうとする行動がストーカーを招き寄せてしまうこともあるわけで、なんとも皮肉なことだ。



 信用されやすい人、について。

 人間が何かを信じる際、現状では、明確な根拠は必要とされていないように見える。
 ほとんどの人はそこまで解像度よく対象を吟味してはいないし、論理的に判断を下してもいない。一つの判断にそんなに時間をかけていられないのである。
 人は、「大きな体の人」が「大きな声」で「自信たっぷりに話す」ことで、いとも簡単にその人の話を信用してしまうことがわかっている。実際に、心理学の実験で、グループのメンバーにリーダーを選ばせるという実験をしてみると、論理的に話す人ではなく、声が大きくて身体が大きく、確信を持って話す人が選ばれるという結果が出ている。逆に、とりわけ顔が見えるグループの中では、根拠を持って論理的に話す人は、むろ煙たがられる傾向がある。人間は、かくもあいまいで騙されやすい存在なのだ。

 さっきの「わかりづらい文章」の話にも通じるものがある。

 論理的に、科学的に、謙虚にものを語ろうとすれば、どうしても不明瞭な物言いになってしまう。「Aである可能性が高いがBを主張する人もいるしCも完全に否定されたわけではない」のように。

 だがメディアでは「絶対A! それ以外を信じるやつはバカ!」みたいな語り方をする人間のほうが重宝される。どっちが賢いかは考えたらすぐわかるとおもうのだが、それでも人は自信たっぷりの人間の言うことを信じてしまうのだ。




  正しい人、について。

 
 ニューヨーク市立大学バルーク校の研究グループが面白い実験を行っている。
 実験の場としては、マクドナルドの模擬店舗が使われた。研究グループは2種類のメニューリストを用意した。一方にはサラダなど、健康を連想させるメニューが載っている。もう一方には載っていない。客として現れた被験者には、その2種類のメニューリストのうちのいずれかが渡される。
 その結果、サラダが掲載されたメニューリストを受け取った客は、掲載されていないメニューリストを受け取った客よりも、明らかに、最も太りそうなメニュー――ビッグマックを選ぶ人が増加し、その割合は約10%だったものが約50%にもなったという。
 つまり、一緒にサラダを買ったり食べたりするわけでもないのに、ヘルシーさを演出する食べ物の名称がリストに載っていただけで、無意識に最もカロリーの高いメニューを購入してしまった、という人が相当数いたことになる。
 これがどういうことか、わかるだろうか。
 「健康」という、「倫理的に正しい」何かを想像すると、それがなぜか免罪符のような効果を発揮して、人間はより「倫理的に正しくない」行動を取ってしまいやすくなるということ。そして、倫理的に正しい何かというのは、健康だけとは限らないということ。「正義」や「平和」などの概念も同様に、倫理的に正しいと脳が判断する可能性が高く、同じ効果を持ってしまう可能性がある。
 要するに、正義! 平和! 人道! などと連呼する人ほど、怖ろしいともいえる。善意の発露として、残虐な行為を行いかねない。そういう「倫理的に正しい」人は、たくさんの免罪符が貼られた脳を持っているわけで、非人道的な行為を犯すことに微塵もためらいがないのではないかと、私などは真っ先に警戒してしまう。もし戦争が起きたら、善意の身内から殺されてしまう人も少なからず出ることだろう。

 いやほんと、正しい人ほどおそろしいものはないよ。

 ぼくは、駅前で通路をふさぎながら「盲導犬に募金を!」と呼びかけている団体を見たことがある。他方、たとえば路上ミュージシャンなどは通行の邪魔にならないようにしている。通路いっぱいに広がりながら演奏しているミュージシャンなんて見たことない。

 商品の宣伝などをしている車などはそんなに大きな音を出していない(昔はうるさいやつもいたがたぶん規制されたのだろう)。だが選挙カーや政党の街宣車なんかはとんでもなくうるさい音を出している。

「自分は正しいことをやっている」とおもうと、「正しい目的のためなんだからみんなも少しぐらいの不便は我慢しろ」という傲慢な発想になってしまうのだろう。おそろしい。




 うつ傾向について。

  この結果を受け、抑うつ気分は、複雑なタスクを遂行する場合や困難な状況下では、より良い決定を下すのに役立つのではないか、という主張をする研究者もいる。実際に、要求度の高いタスクでより適切な戦略を考えられるのは、こうした被験者だというのだ。例えば、オーストラリアの研究チームの報告では、死とがんについての短編映画を見せられて憂鬱な気分に陥った被験者のほうが、噂話の正確さを判断したり、過去の出来事を思い出したりする課題の成績が良かったという。さらに重要なのは、見ず知らずの人をステレオタイプ的に分類する傾向が大幅に低かったということである。
 つまり、外集団バイアスに対して自覚的であり、それを自省しながら抑えることに成功していた、ということになる。
 うつなどの気分障害は、人生における諸問題を効果的に分析し、対処可能にするという目的のために生まれた、脳に備え付けられた仕組みの一つなのかもしれない。たしかに気分は良くないものだ。けれど、抑うつ状態が存在せず、ストレスもトラウマもなく、自身の問題について深く長く反芻的に思考するという習慣がなければ、人間は、ひとたび自分が困難な状況に置かれたとき、その苦境を脱することが難しくなってしまうのではないだろうか。私たちの現在の繁栄は、ネガティブな抑うつ的反芻によってもたらされたものかもしれないのだ。

 なぜ人間はうつになるのか。うつになると行動力が落ちたり、ひどい場合には自殺をしたりするので、生存・繁殖にとっては不利になる。だったら「うつになりやすい遺伝子」は淘汰されて、常にハッピーな人間ばかりになりそうな気がする。

 だが、抑うつ傾向にもメリットはあるのだ。情報を正確に判断したり、問題の解消方法を考えたりするのには抑うつ状態は有利なのだという。有利な面もあるからこそ、人はうつになる。

 うつ病という言葉もあるが、うつは病気というよりは症状に近いのかもしれない。風邪(病気)と発熱(症状)の関係のようなものだ。身体が熱を出して細菌をやっつけて風邪を治そうとするのと同じように、うつ状態になることによって問題に対処しようとするわけだ。

 うつというと防衛的なイメージがついているが、実は戦闘状態なのかも。


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