2022年7月20日水曜日

【読書感想文】吉田 修一『犯罪小説集』 / 善良な市民による凶悪犯罪

犯罪小説集

吉田 修一

内容(e-honより)
田園に続く一本道が分かれるY字路で、1人の少女が消息を絶った。犯人は不明のまま10年の時が過ぎ、少女の祖父の五郎や直前まで一緒にいた紡は罪悪感を抱えたままだった。だが、当初から疑われていた無職の男・豪士の存在が関係者たちを徐々に狂わせていく…。(「青田Y字路」)痴情、ギャンブル、過疎の閉鎖空間、豪奢な生活…幸せな生活を願う人々が陥穽にはまった瞬間の叫びとは?人間の真実を炙り出す小説集。

 犯罪に巻き込まれた(あるいは引き起こした)人たちを描いた短篇集。

 いやあ、こういう嫌な気持ちにさせる小説を書かせたら吉田修一氏の右に出る人はそうそういないね。『元職員』も『パレード』も『怒り』も、じんわりと嫌な気持ちにさせられた。

『犯罪小説集』は、どこにでもいるような我々の隣人が、ある瞬間に〝犯罪者〟側に足を踏み入れてしまう様子を丁寧に描いている。フィクションとはおもえないほどの生々しさだ。




 下校途中に行方不明になり、遺体で見つかった少女。その地域の数十年後を描く『青田Y字路』

 目立たなかったかつての同級生が殺人事件を起こしたことを知り、専業主婦が彼女の気持ちに近づいてゆく『曼珠姫午睡』 

 大企業の経営者の子息として生まれ育った男がカジノにはまり、身の破滅へと沈んでゆく『百家楽餓鬼』

 限界集落でのちょっとしたいきちがいから村八分にされてしまった男が連続殺人事件を引き起こす『万屋善次郎』

 かつてのスタープロ野球選手が派手な生活を改められず、借金をくりかえしてやがては殺人事件を引き起こす『白球白蛇伝』


 どれも、モデルとなった事件がありそうだ。大企業の御曹司がカジノで会社の金を溶かしてしまう事件とか、限界集落での連続殺人とか、元プロ野球選手の殺人事件とかは、明確に「ああ、あの事件をモデルにしてるんだな」とわかる。

 いろんな犯罪者が出てくるが、みんな根っからの悪人ではない。たとえば『百家楽餓鬼』の主人公は、カジノで散在する一方で、仕事には熱心に取り組み、休みの日には妻と難民キャンプに訪れてボランティア活動に勤しんでいる。そして心からボランティアに歓びを感じている。

『白球白蛇伝』で描かれる元プロ野球選手も決して悪い人間ではない。家族の期待に応えるためプロ野球選手になり、家族の期待に応えるために引退後も華やかな生活を続けている。友人や後輩との付き合いを大事にし、自分の財布が苦しくてもおごってやる。稼ぎさえ伴っていればいい先輩だ。それを「身のほど知らず」「見栄っ張り」と切り捨てることはたやすいが、誰の心にも彼と重なる部分があるだろう。

 彼は、知り合いの中小企業の社長に借金を断られて撲殺してしまう。冷静な犯罪者であればもっと金持ちを狙い、もっと計画的に殺すだろう。だが彼は「その人を殺してもどうにもならないだろ」と言いたくなる相手を殺す。いかに追い詰められていたか。


 この小説に登場する犯罪者たちとそうでない人を分けるのは決定的な資質の違いではない。ほんのわずかなボタンのかけちがいで、平穏な生活を続ける人も向こう側へ行ってしまう。

 河合 幹雄『日本の殺人』によると、殺人事件の多くは家族間で起きていて、さらに「虐げられている側が強い側を殺す」ことが多いそうだ。まあそうだよね。強い側には殺す理由がないもんね。

 大きなニュースになったりフィクションで描かれるのは「快楽殺人」「金銭目的の殺人」「復讐のための殺人」なんかだけど、じっさいはそんなのは圧倒的少数で、ほとんどは「追い詰められた人がその状況から逃れるために殺してしまう」なのだそうだ。でもそれだと「なんてひどい犯人だ! 死刑にしろ!」というエンタテインメントにならないので、ニュースで取り上げられるのはひどい犯人ばかりだ。

 ふつうの性格のふつうの生活を送っている善良な市民が、些細なきっかけで犯罪に手を染めてしまいます。状況が変われば、殺人犯になっていたのは私やあなただったかもしれません。そんな正しい話はみんな聞きたくないんだよね。




「犯罪者に襲われる恐怖」と「自分が犯罪者になる恐怖」ってどっちが強いだろうか?

 ぼくは圧倒的に後者のほうだ(成人男性だかってのもあるだろうけど)。犯罪をして追われる夢もたまに見る。

 人によっては「自分は、犯罪被害に遭うことはあっても加害者にはぜったいにならない」と信じている人もいるとおもう。そう信じられる人は幸せだ。犯罪者に平気で石を投げつけられるだろう。

 でもぼくは犯罪をする側の気持ちもちょっとわかってしまう。ちょっとしたきっかけで自分もあっち側に行っていたかもしれない。彼らと自分がそんなに違う人間じゃないことも知っている。

 その自覚こそが、ぼくが(今のところ)犯罪者になっていない理由だ。


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2022年7月19日火曜日

【読書感想文】上原 善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』 / 攻撃的な変人

一投に賭ける

溝口和洋、最後の無頼派アスリート

上原 善広

内容(e-honより)
全身やり投げ男―1989年、当時の世界記録からたった6センチ足らずにまで迫り、WGPシリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位となった不世出のアスリート・溝口和洋。無頼な伝説にも事欠かず、まさにスターであった。しかし、人気も体力も絶頂期にあったはずにもかかわらず、90年からは国内外の試合にほぼ出なくなり、伝説だけが残った。18年以上の取材による執念が生んだ、異例の一人称ノンフィクション!ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作!(2016年度)。


 評伝かとおもって読みはじめたら「私が~」という文章が続くので戸惑ってしまった。なんだこれ、自伝なのか? だとしたら著者名と扱っている人物の名が異なるのはなぜだ?

 あとがきまで読んで、ようやくわかった。著者が二十年近く溝口和洋氏にインタビューしてその選手人生について書いたのだが、あえて一人称を使ったらしい。それならそれで最初に説明してくれよ。だいぶ戸惑ったぞ。




 ぼくは陸上競技にぜんぜん興味がないので、溝口和洋という人のことはまったく知らなかったのだが、いろんな意味ですごい人だ。

 まず、身長180cmという(世界で闘うやり投げ選手としては)小柄な肉体ながら、圧倒的に身体の大きい人が有利なやり投げで世界トップクラスの成績を残す。(再計測により無効となったが)世界新記録もたたき出している。彼の持つ87m60という日本記録は、30年以上たった今でも破られていない。若き日の室伏広治にハンマー投げの指導をした人物でもある。

 だが彼のすごさは、その記録よりもむしろ生き様にある。

 指導者はおらずほぼ独学のみで、尋常でないトレーニングを重ね、たった一人で世界の舞台で闘いつづけた。さらに、酒を飲み、本番前にもタバコを吸い、女遊びもする。他の選手や陸上協会に対しても堂々と批判し、マスコミ嫌いで気に入らない記事を書いた記者は捕まえて暴行をくわえる。引退後はパチプロとして生活をし、後に実家に帰って農家になる。

 まさに「無頼派」という言葉がぴったりだ。

 ぼくは小中学生のときに近藤唯之さんという人の本で昔(昭和)のプロ野球選手の逸話をよく読んだが、昭和のプロ野球選手の生活に近いかもしれない。昔のプロ野球選手にも「銀座のクラブで豪遊した」「夜通し飲んで、徹夜明けで出た試合でホームランを打った」なんて逸話が残っている。だが、彼らは無頼派とは異なる。そういう時代だったからやっていただけで、周囲が夜遊びをしていなければやらなかっただろう。

 だが溝口和洋は、あくまで我が道をゆく人だ。

 タバコも一日二箱は吸っていた。タバコはリラックスするために吸うので、「試合の前には必ず二、三本は吸っていた。
 代々木の国立競技場でも、できるだけ目立たないように外に出て限で吸っていたつもりだったが、見つかって「ミゾグチはタバコを吸っている」と非難されたこともある。これもまた、言いたい奴には勝手に言わせておけばいいと放っておいた。
 タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。
 また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。一生健康でいたいのなら、やり投げをやめた方がよほど健康的だ。練習中は集中が途切れるので吸わないが、試合前の一服は不可欠だ。
 陸上関係者やマスコミは、こうした私のことを「無頼」とか「規格外だ」とか言っていたが、やり投げ以外のことを、私の事情を知らない他人にとやかく「言われる筋合いはない。逆に「今に見てろ」と、闘争心をかきたてられた。

 タバコを吸うのはトレーニング……。すごい理屈だ。めちゃくちゃだが「どう考えてもやり投げの方が体に悪い」は笑った。はっはっは、たしかにその通りだ。そういえば大学時代の運動科学の先生も「体にいい運動は散歩程度で、あとは全部体に悪い」って言ってたなあ。

 そうだよなあ。趣味でやるレベルならともかく、部活やプロ選手がやるスポーツはほぼ例外なく不健康だよなあ。身体的にも精神的にも。苦しくなるまで身体を痛めつけるって、冷静に考えたらかなりの異常行動だ。ケガもするし。スポーツは体に良いとおもってしまいがちなので、気をつけねばならない。




 溝口氏がすごいのは、徹底的に考えたことだ。外国人選手に比べて小柄な身体というハンデを乗り越えるためにひたすら考え、疑った。

 まず「やり投げ」という競技について、一から根本的に考えてみた。
 これはそもそも「やり投げ」と考えるからよくないのではないか。「やり投げ」と考えるだけで、例えばこれまでのトップ選手のフォームが脳に焼きついてしまっているので、偏見から抜けきらない。「そこで私が考えたのは、「全長二・六m、重さ八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ということだ。
 こう考えれば、それまでの「やり投げ」という偏見を取り除くことができる。
 私がやるべきことは結局、「やり投げのフォーム」を極めることではない。「やり投げという競技」を極めることにあるのだ。
 具体的には「二・六m、八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ことができれば、世界記録を出し、オリンピックでも金メダルを狙えるところまでいけるのだ。そうして初めて「やり投げ」を極めることができる。

 言われてみれば当然のことのようにおもえるが、なかなかできることではない。スポーツの練習というのは基本的に形から入る。上手な人のフォームを真似るところから始まる。その時点ですでに先入観にとらわれている。

 溝口選手は、あらゆるものを疑い、フラットな状態から見つめなおした。

 こうした技術面での新発見に、コツというものがあるとしたら、これまでの常識を全て疑い、一からヒトの動作を考えることだ。
 短距離だったら、まずスタートから疑ってかかる。現在はオーソドックスとなっているクラウチング・スタートも、本当にそれが正しいのか、一から検証していくのだ。
 例えば、ヒトはなぜ「後ろ向きで走ると遅くなる」と思うのだろうか。わかっていても、その本当の理由を答えられる人は少ないだろう。もしかしたら、後ろ向きで走る方が速いかもしれないのに、誰も試そうとはしない。私は実際に、後ろ向きに走って確かめた。

 ここまで疑うのか……。

 たしかに「後ろ向きに走るよりも前向きに走ったほうが速いのはあたりまえ」とおもっているが、じっさいに確かめたことはない。障害物のない平地で、周囲に人がいない状況で、練習を重ねたら、ひょっとすると前向きで走るよりも速くなるかもしれない。やったことがないのだからぜったいにないとは言い切れない。

 走り高跳びがオリンピック種目になったのは1896年だが、アメリカのディック・フォスベリーが背面跳びを発明し、金メダルをとったのは1968年のメキシコオリンピックである。それまでの70年以上(オリンピック種目になる前も含めれば数百年にわたって)、誰も後ろ向きに跳ぶほうが高く跳べるなんて考えもしなかったのだ。

 常識にとらわれない発想をすることこそが、超一流選手とそれ以外を分ける点かもしれない。

とにかく他人の目など気にしないことが大事だ。
 しかし意外に、これが他の選手には難しいらしい。
 例えば学校の陸上コーチから「そんなフォームはやめろ」と言われれば、あなたならどうするだろうか。ここで自分を貫けば、コーチとの縁は切れてしまうかもしれない。しかし、やり投げの飛距離は伸びるかもしれない。
 実際に、世界レヴェルの選手で、記録ではなく恩師をとった日本人選手も少なくない。
 素質は世界レヴェルなのだから、本気で競技のために親兄弟をも捨て、本当の意味で命を賭ける覚悟があったなら、世界記録もオリンピックの金メダルも狙えただろう。しかし、それができる人の方が少ないのである。世界トップになるよりも、まず人であることを選んだのだ。
 それもまたいいだろう。人の生き方は、それぞれなのだから。べつに良いも悪いもない。
 だが、私は違う。
 やり投げで、世界トップに立とうと思った。
 だから肉親とか恩師とか女とか、そのような存在は無視すべきものであり、他人からどうこう言われようが、自分が一旦納得したら、それを貫き通した。素質のない私のような日本人が、やり投げで世界トップに立つためには、それくらいの覚悟が必要だった。もしかしたら、素質がなかったからこそ、馬鹿に徹し切れたのかもしれない。

 王、野茂、イチロー。いずれもそれまでの常識からすると常識外れの独特のフォームで活躍した選手だ。一本足打法、トルネード投法、振り子打法。多くの指導者が、そんなやりかたで成功するはずがないとおもっていただろう。だが彼らには理解ある指導者がいて、独自の道を貫いた結果大成功を収めた。

 溝口選手は理解ある指導者もなく、自分の思考だけで世界トップクラスで戦えるレベルまでたどりついた。とんでもない我の強さだ。

 ぜんぜん比べられるような話ではないが、ぼくも高校生のときに担任から「授業を聞かずに自分で教科書読み進めてええで」と言われてじっさいにその通りにしてから飛躍的に成績が伸びた。

 スポーツにかぎらず、初心者のうちは「他人のアドバイスに従う能力」が求められるが、ある程度のレベルまで達すれば逆に「他人の意見を聞かない能力」のほうが大事になるのかもしれない。他人から教えられたことと、自分で考えて試したことでは、定着力がぜんぜんちがうもの。




 溝口選手は、飲む・打つ・買うに代表されるその破天荒なスタイルに目が行ってしまうが、同時に誰よりもトレーニングをした選手でもあった。

 とはいえ懸垂も、もちろんMAXでおこなう。トレーニングは常にMAX、つまり限界になるまでやらなければ意味がない。
 何が限界なのかは、もちろん人によって違う。わかりやすくたとえると、他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。
 懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を一五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
 この懸垂ができなくなって初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
 ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
 しかしここで止めては、一〇〇%とはいえない。
 そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生たちは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。

 よくこれで身体を壊さなかったな……。

 ふつうの人の考える「いちばん厳しいトレーニング」は、できなくなるまで懸垂を続けることだろう。溝口選手は、懸垂ができなくなれば斜め懸垂、斜め懸垂ができなくなれば手を鉄棒にくくりつけてさらに懸垂……。よくもまあここまで自分を追い込めるものだ。

 ここまで努力していることを公言はしていなかったそうだから、周囲からしたら
「あいつは酒もタバコもやって、素質だけでやり投げをやってちょっと結果が出ているものだから調子に乗ってるやつだ」
ってなふうに見えていたんだろうね。


 ついつい「あいつはたいした努力もせずに〇〇できていてずるい!」とおもってしまいがちだけど、他人の努力なんて見えやしないんだから勝手に推し量っちゃいけないね。




 やっぱり変な人の話を読むのはおもしろい。現実にはお近づきになりたくないようなタイプの人(つまり攻撃的な変人)であるほど、本で読むのはおもしろい。

 やり投げをやったことも今後やる可能性もないぼくにとっては役に立つ情報はまったくなかったけど、そんなことはどうでもよくなるぐらいおもしろかった。


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2022年7月16日土曜日

【映画感想】『バズ・ライトイヤー』

『バズ・ライトイヤー』

内容(映画.comより)
有能なスペース・レンジャーのバズは、自分の力を過信したために、 1200人もの乗組員と共に危険な惑星に不時着してしまう。 彼に残された唯一の道は、全員を地球に帰還させること。 猫型の友だちロボットのソックスと共に、不可能なミッションに挑むバズ。 その行く手には、孤独だった彼の人生を変える“かけがえのない絆”と、 思いもよらぬ“敵”が待ち受けていた…

『トイ・ストーリー』シリーズの準主役であるバズ・ライトイヤーを主人公にした映画。続編ではなく、『1』の前日譚。前日譚といっても単純に『1』より昔の話というわけではなく、この『バズ・ライトイヤー』を観たアンディがバズ・ライトイヤーを好きになり、『1』の冒頭で誕生日にプレゼントされたという設定。つまり物語内物語になっているという……ややこしいね。まあ『トイ・ストーリー』を観た人ならわかるでしょう。

 ということで、『トイ・ストーリー』のスピンオフではあるけれど、『トイ・ストーリー』とはまったく別次元(というより低い次元)の話なので、『トイ・ストーリー』シリーズを観ていない人でも楽しめるはず。

 低い次元というとレベルが低いように聞こえるかもしれないけどそんなことなくて、むしろ技術が上がっている分だけ『トイ・ストーリー』よりもずっと精度の高い3D技術が使われている。高度な3Dなのに物語の次元は低い(ことになっている)という……ややこしいね。まあいいや。




 まず書いておかないといけないのは、ぼくは『トイ・ストーリー』ファンなのだが、ぼくの中では『トイ・ストーリー4』はなかったことになっている。記憶から消した。否、まだ消えていないが消したいと願っている。それぐらい『4』は嫌いだ。

 つまらなかったというわけではない。おもしろかったが『1』~『3』の世界観をぶち壊しにしてくれたから大嫌いなだけだ。まあこの話は書くと長くなるのでもうやめておく。前にも書いたし。

 そんなわけで、ぼくの中で『トイ・ストーリー』は『3』できれいに完結しているので、続編ではなく前日譚を書くという試みには諸手を挙げて賛成したい。ウッディが仲間を思う気持ち、ウッディの子どもへの愛、そして子どもからおもちゃへの愛。そういったものを『4』がすべて破壊しつくしてしまったので(書かないといいつつつい書いてしまう)、それより後の話はもう描きようがない。ウッディは「最後の最後で子どもを捨てたやつ」になってしまったので、今さらウッディを主人公にした話をつくっても白々しいだけだ。

 だから、バズを主人公に据えて、しかも『トイ・ストーリー』とは別世界の物語をつくることにしたのは大英断だ。そしてその試みは成功している。





【ここからネタバレあり】


 観終わった後の感想としては「あーおもしろかった」。ほんとにそれだけ。感動したとかためになったとか考えさせられたとかはほとんどなくて、ただただおもしろかった。これは悪口じゃなくて褒め言葉ね。

 だからストーリーについてあれこれ書く気になれない。だってただおもしろいだけなんだもん。ストーリーなんか知らずにとにかく観たほうがぜったいにおもしろいんだもん。


 いやあ、これぞエンタテインメントって映画だった。ピクサー映画も、ディズニー映画全般もそうだけど、ここ最近の作品ってやたら説教くさいものが多い。「こんなふうに生きなさい」「こういう生き方を認めなさい」という制作者のメッセージがいちいち感じとれる。そりゃあ創作物だから多少なりともメッセージ性があるのは当然だけど、ストレートすぎるんだよね。そういうのって観た人が思い思いに感じればいいものであって、「制作者のメッセージ」が前面に出てくるとうっとうしい。

『バズ・ライトイヤー』にはお説教くささがぜんぜんなくて、ただ単純におもしろいことを目指した映画だった。もちろん多少なりともメッセージ性はあったし、ぼくも何かしらは感じとったけど、それについてはあえて書かない。人によって受け取るメッセージはちがうのに、ぼくが答えのひとつを提示してしまったらつまらないもの。

 もちろん、メッセージ性が強くて、あれこれ考えさせられる映画もいい。ぼくだって純文学を読むこともあるし。ただ、ディズニー映画、ピクサー映画にはそういうのは求めていない。LGBTQやSDGsや多様性やポリコレを考えるきっかけにならなくていい(ちなみに『バズ・ライトイヤー』は同性愛者が出てくるけど、そこにも説教くささが一切なくて「そうだよ。それがどうした?」って描き方なのがいい)。

『バズ・ライトイヤー』の構造はとにかくシンプルだ。強くて正義感あふれる主人公がいて、主人公がわかりやすい目標に向かって努力して、けれど様々な障害や葛藤があり、強大な敵が現れ、頼りないながらも支え合える仲間が現れ、仲間との協力を通して主人公が自分に足りなかったものに気づき、それぞれが弱さを克服して成長し、最後は力を合わせて敵をやっつける。『オズの魔法使い』や『西遊記』など、昔からあるパターンだ。

 そんな、これまでに何度も目にした王道ストーリーでありながら『バズ・ライトイヤー』はちゃんと新鮮でおもしろい。シンプルな物語の強さ。さすがはピクサー。


 この、単純な骨子なのにおもしろいストーリーは『トイ・ストーリー』1作目に通じるものがある。ぼくがはじめて『トイ・ストーリー』を観たのはもう二十年以上前になるが、そのときの衝撃はまだおぼえている。

 当時ぼくは高校生。林間学校の帰りのバスの中で観た。多くの生徒が「高校生にもなってディズニーかよ……」という感じで、半ばこばかにしながら観ていた。だが、途中からはおしゃべりをする者もいなくなり、後半はぼくも含めみんな固唾を飲んで観ていた。笑いが起こり、手に汗握るシーンでは静まり返り、終わったときにはほーっと息を吐く音が聞こえたものだ。それほどまでにおもしろかった。

『トイ・ストーリー』も、いたってシンプルな物語だ。主人公にライバルが現れ、はじめは反目しあっていたのだが共通の目的のために一時的に手を組むことになり、数々の困難を乗り越えるうちに信頼関係が芽生え、それぞれが弱さを克服して成長し、悪い敵をやっつけ、最後はすべてが丸く収まるハッピーエンド。いわゆる「バディもの」の典型的なストーリーだ。子どもから大人までみんなわかる。

 当時新しかった3D技術以外に凝った仕掛けはない。それでも、映像、音楽、息もつかせぬスリリングな展開、普遍的な感情によって名作にしている。

『トイ・ストーリー』シリーズでぼくがいちばん好きなセリフは、『1』のラストでバズが口にする「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。かっこつけてな」 だ。いや、全映画中でナンバーワンかもしれない。あんなに見事に伏線回収をし、強く、そして弱く、美しいセリフがあるだろうか。あの短いやりとりに、物語を通してのウッディとバズの成長が凝縮されている。それぞれが己の弱さを認め、相手の良さを認め、そして相手の存在を必要に感じていることがわかる。

『バズ・ライトイヤー』を観て、ぼくはあのシーンをおもいだした。これはまだウッディと出会う前のバズだが(そしておもちゃのバズとは別人格だが)、彼もまた物語を通して、己の弱さを認め、仲間の良さを認め、仲間の存在を必要だと感じるようになったのだ。




『バズ・ライトイヤー』にはザーグという敵が出てくる。『トイ・ストーリー2』にもおもちゃのザーグが出てきて、バズの父親という設定になっているが(『スター・ウォーズ』のパロディ)、『バズ・ライトイヤー』に出てくるザーグはバズの父親ではない。そこだけが『トイ・ストーリー』シリーズとは矛盾しているが、そこ以外は『トイ・ストーリー』の世界観をまったく壊すことなく、新しい物語を構築している。すばらしい。これだよ、これ。おい、わかってるか『4』のクソ監督!(つい言ってしまう)


 八方丸く収まるのだが、気になったのが「エンドロール後に宇宙空間を漂うザーグが映る」シーンと、ザーグがタイムスリップなどの技術を誰から手に入れたのかが濁されていたところ。これはもしや、続編『ザーグの逆襲』につながる布石なのか……?


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2022年7月15日金曜日

ABCお笑いグランプリ(2022年)の感想

 第43回 ABCお笑いグランプリ 感想


 感想。関西に住んでいるのでいろんなお笑いのコンテストを見るが、昔からABCお笑いグランプリがいちばん好き。しっかりネタも見せてくれるし、合間の司会者と審査員のやりとりもおもしろく、バラエティとしても見ごたえがある。

 数年前の藤井隆司会、審査員にハイヒールリンゴやフジモンがいた頃がいちばんおもしろかった。でも決勝進出者のネタよりも審査員のほうがおもしろかったりしたので、さすがにそれはよくない。


■ ゲスト漫才

オズワルド
コウテイ
ミルクボーイ

 オズワルド。「車デートの車は車エビでもいいのか」と、シュールなネタにしてはベタよりなテーマ。相変わらずフレーズはおもしろいけど、まだ細かい無駄がある気がする。間とか。M-1グランプリに向けてこれから改良していくことでもっともっと良くなっていくんだろうな。

 コウテイのネタはあんまり好きじゃないんだけど、今回の「奈良時代に備中鍬で畑耕してる女やれや!」のネタはおもしろかったな。でも備中ぐわが広まったのは江戸時代だって小学生の時に習ったよ。名前に「備中」って入ってるんだから江戸以降に決まってるじゃん。

 ミルクボーイは貫禄を感じる。ABCお笑いグランプリのチャンピオンじゃないのに。ラジオ体操の「これ」のネタ。ついに物や場所ではなく動きまでを題材にしはじめた。ミルクボーイのネタって初期からすでに完成されていたように見えたけど、まだまだ伸びる余地があったのか……。



■ Aブロック

ドーナツ・ピーナツ(クラス分け)
こたけ正義感(変な法律)
青色1号(ノリツッコミ)
かが屋(喫茶店)

 ドーナツ・ピーナツはいい設定ではあるが、笑いどころが「変な校長先生」と「変な生徒」に分散されるのがちょっと見づらかったような。少年院上がりの生徒や留学生をハズレ扱いするのは、今の時代にはそぐわないかな。しかし粗さが目立つ分、今後まだまだおもしろくなりそうな二人。

 こたけ正義感は、現役弁護士という属性を活かしたネタ。「変な法律にツッコミを入れる」という着眼点は新しくもなんともない(『VOW』でも変な校則を扱ったりしてた)が、弁護士がやるだけで説得力が増してふしぎとおもしろくなる。たしかにおもしろいが、芸として見たらどうなんだろうという気もする。活字で見てもそこそこおもしろいだろうし。

 青色1号は、後半の「こいつがヤバいやつだったのか」が判明するあたりからどんどんおもしろくなるし、店長の「怖すぎて指摘できなかった」のも妙にリアルでよかった。ただいかんせん前半が退屈だった。「バイトでのウザいノリ」を見せるためにわざとおもしろくないことをしているのは理解できるが、演技がうますぎるのかほんとにつまらなかったんだよなあ。

 かが屋はコントというよりコメディ。台詞でも動作でもなく、カチャカチャカチャカチャッという音のみで笑いをとりにいく勇気がすごい。先輩バイトが震えている、という一点突破ネタだが、「弱気なやつが後輩バイトを守るために勇気を振り絞って面倒な客に立ち向かい震えている」では愛おしいだけで笑いものにする気にはなれない。「イキっていた客のほうも実はびびって震えていた」みたいな展開なら笑えるが、そっちに持っていかずに胸キュンストーリーに話を運ぶのがかが屋らしい。

 決勝進出はこたけ正義感。たしかにおもしろかったが、二本目を見たいという気にはならなかったのでちょっと意外。



■ Bブロック

令和ロマン(秋元康)
ハノーバー(彼女の両親に挨拶)
ダウ90000(独白)
天才ピアニスト(防犯訓練)

 令和ロマン。「AKBの歌を考えているのは秋元康だぞ」というこれまで何十回も聞いたベタすぎる導入ながら、美空ひばりにまで持っていくパワフルな展開。どさくさにまぎれて、後半はAKBの曲を「変な曲」と言ったり、「こんな才能があるのに」と褒めているようでディスっていたり、相当な失礼をぶちこんでいるのにさらっと流すところがニクい。秋元康をイメージできない人にはちんぷんかんぷんなネタだっただろうが。

 ハノーバーは、ひとつめの「お父さんとお母さん、どっちだ?」がすべてで、それを超える展開はなかった。妹もそっくりというオチも、事前に妹の存在を示していることで全員が読めただろうし。はじめの一分がピークだった。

 ダウ90000は、演劇のお約束である「観客に向かっての独白」を逆手にとるというメタなコント。ちょっと挑戦的すぎた。「八人組ってどんなコントをするんだろう?」とおもっていた観客の期待を悪い意味で裏切ってしまった。例えていうなら、ニメートル超の長身ピッチャーが出てきたとおもったら、アンダースローで初球にスクリューを投げてきたかのような。裏切りはほしいが、そこまで裏切られるともうついていけない。何球か剛速球が続いた後のスクリューだったら「してやられた」感もあるが。序盤に「ふつうの独白」をフリとして一、二回見せるべきだったのでは。

 天才ピアニストは、滑稽な校長に教師がつっこむのではなく、「滑稽な校長に生徒がつっこみ、それを教師がたしなめる」という構成にしているのがニクい。これにより二人の周囲が鮮明に見えてきて、立体的なコントになっている。校長につっこみを入れたらリアリティがないもんね。そして、さんざん「笑うな」と言っておいてからの「ここ笑わんと」という緩急のつけ方。最高。徐々に引きこまれて、ほんとに生徒たちの姿が見えた。惜しむらくは「全校集会で生徒たちを叱りつける教師」をやるには竹内さんに貫録がなさすぎること。あと二十年歳をとってからやったら完璧かもしれない。

 決勝進出は令和ロマン。完全に天才ピアニストだろうとおもっていたので、結果を見たとき「えっ」と声が出た。この後の審査もそうだが、漫才のほうが評価高い気がする。



■ Cブロック

 フランスピアノ(ここだけの話)
 ヨネダ2000(おみこしをかつぐプロ)
 Gパンパンダ(飲みの誘い)
 カベポスター(話がそれる)

 フランスピアノ「ここだけの話」が本当にこの地点に紐づいているという設定だが、種明かしがややあっけなかった。ここが最初のピークなのだからもっと引っ張ってもよかったのでは。ブラックなオチは嫌いでないが、この短時間だと「ほら伏線回収見事でしょ」という感じが伝わってしまい、素直に感心できず。

 ヨネダ2000は、好きにしてくださいという感じで特に言いたいことはなし。終わった後に、審査員がみんな「声がよかった」などとネタの内容ではなく表層的な部分だけを褒めていたのがおもしろかった。まあアドバイスするようなネタじゃないしなあ。

 Gパンパンダは「飲み会を断る新人」と「パワハラにならないように気を付けながら飲みに誘う上司」というきわめて現代的な設定のコント。前半の「本心がわかりづらい後輩」は嫌悪感をもったが、後半で後輩が本音を吐露するあたりからは一気に好感が持てた。つまり、まんまと芝居に引きこまれたわけだ。途中、上司役のほうが本気で笑ってたように見えたがあれは芝居なのか? 芝居自体は誇張されているが、登場人物の行動原理はとてもリアルでよかった。

 カベポスター。話が関係ない方向にそれるのだが、それた話のほうがおもしろくて気になってしまうという漫才。漫才って「ボケのおもしろさをツッコミがさらに引き立てる」が多いが、カベポスターの漫才は「ボケ単体ではまったくおもしろくないけどツッコミがいることでおもしろくなる」構成になっていることが多い。このネタなんかまさにそう。ふつうなら見逃してしまうおもしろさに、絶妙にスポットライトを当てて照らしてくれる。さらに、クイズがおもしろい→答えもおもしろい→「ですが」→クオリティ落ちた→クオリティ落ちたかとおもったら高かった、と照明の色がめまぐるしく変わるので飽きさせない。間の取り方も絶妙。いやあ、綿密に計算されたネタだ。

 決勝進出はカベポスター。個人的に好きだったのはGパンパンダだが、あれだけ高い完成度を見せられたらカベポスターの通過も納得。



■ 最終決戦

 カベポスター(大声大会)
 令和ロマン(トイ・ストーリー)
 こたけ正義感(法律用語をわかりやすく)

 カベポスターは相変わらずよくできたネタ。ハートフルな展開になるコントはよくあるけど、漫才ではめずらしい。「開催側がテコ入れ」など、終始やさしい漫才。カベポスターのネタはいつも平和だなあ。漫才もさることながら、永見さんは劇作家の才能があふれてる。

 令和ロマン。「子どもの泣き方の2番」は、個人的に今大会ナンバーワンのフレーズ。しかしこのネタは松井ケムリが延々泣きつづけるため、それは同時に持ち味である巧みなつっこみを封じるということである。漫才はつっこみで笑いをとるものなのに、それを封じてしまったらそりゃ勝てないわなあ。でも個人的には一本目より好きだった。

 こたけ正義感は法律用語を別の言葉に言い替えるというピンネタの定番のようなネタだったが、フレーズがことごとく観ている側の予想を下回っていた。たとえば裁判官⇒「おかあさん」の言い替え。なるほどと感心するほどしっくりくる言い換えでもないし、かといって「ぜんぜんちがうやん」という笑いになるほど遠くもない。絶妙に笑えないラインだったな……。


 優勝はカベポスター。納得。ずっとあと一歩だったのでもう優勝させてやりたい、という審査員の期待に応える見事なネタでした。

 個人的なベスト3は、天才ピアニスト、カベポスター(一本目)、Gパンパンダでした。


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2022年7月12日火曜日

問題はいい店すぎたこと

 何年か前の話。

 高校の同級生M(女・独身)から連絡があり、ぼくの仕事に関係して相談したいことがあるから会えないか、とのことだった。

 平日夜しか都合がつけられなかったので夕食でもいっしょにどうかとおもったが、こちらは既婚者。男女ふたりでディナーとなるとつまらぬ誤解を招くかもしれない。そこで共通の友人T(男)を誘って三人で食事をすることになった。

 Mが「わたしいいお店知ってるから予約しとくね!」と言うので店選びは任せた。ここまではいい。


 当日。駅でMとTと待ち合わせをして、Mの予約した店まで歩いた。到着して驚いた。「えっ、ここ……」

 悪い店ではない。いや、むしろいい店だった。問題は、いい店すぎたことだ。


 夫婦でやっているらしい小さなフレンチのお店。インテリアやメニューなど細部までこだわりが見える。

 メニューを開くと、はたしていちばん安いコースでも七千円する。ビール一杯八百円以上だ。

 Mはうれしそうに「この店のご主人と知り合いで、すっごくおいしいから」と語る。

 ぼくは内心「そりゃあおいしいでしょうね。七千円もするんですから……」と困惑していた。ちらりと隣のTを見ると、やはり困惑しきった顔をこちらに向けてきた。

「なんでこんな高い店……」彼の眼がそう語っていた。


 結局、なんやかんやでひとり一万円近い会計になった。

 店を出た後、帰る方向が別だったMと別れ、ぼくとTは「高かったな……」「ああ……」とつぶやきながら歩いた。


 そりゃあぼくだってフレンチの店ぐらいは行ったことがある。ひとり一万円を超えるコースを頼んだことだって(数えるほどだけど)ある。

 でもそれは、交際している彼女の誕生日とか、妻との結婚記念日とか、両親の銀婚式祝いとか、いってみれば特別な日の食事だった。

 ぼくとTが仕事の後に飲みに行くとしたら、ビール一杯三百円の店しか選ばない。

 しゃれたフレンチの店に行けばおいしい料理を食べられる。そんなことはわかっている。でもそれは友人と仕事帰りに行く店ではない。

 そりゃあMは独身だし、実家暮らしだから金に余裕はあるのだろう。とはいえふつうの会社員。ぼくらと桁がちがうほどの差はないはずだ。


 聞くところによると、女性は女同士の食事でもけっこう値の張るものを食べにいくものらしい。

 考えられない。男同士で古い友人と食事に行くとなったら、昼飯(ランチじゃなくて昼飯)で千円まで、晩飯と酒を入れてもせいぜい五千円ぐらいにおさめる。べつにおさめるつもりはなくても、自然とおさまる。だってそんなに高い店に行かないんだから。

 男女の食事に対する金銭感覚の差をまざまざと見せつけられた。高校の同級生(恋愛に発展しようがない相手)との食事で一万円出せるのか。

 ときどき「デートでファミレスはありかなしか」なんてテーマがネット上で話題になるが、友人との食事に一万円出す人からすると、そりゃあデートでファミレスに連れていかれたら別れるだろうな。


「女ってこわいな……」

 ぼくとTは駅までの道を歩きながらがっくりと肩を落としたのだった。