2020年9月3日木曜日

ふざけんなクアッガ

クアッガという動物がいる。

いや、正確にはいない。もう絶滅したから。

クアッガを知らない人は、ぜひ一度その姿を見てほしい。
絶滅したのが19世紀なので、写真も含め、わりと正確な資料が残っているのだ。

クアッガ の検索結果


どうです。
驚いたでしょう。

ぼくもびっくりした。

うそでしょ。こんな冗談みたいな生き物いんのかよ(今はいないけど)。


上半身(四つ脚の場合は前半身っていうのか?)はシマウマ、下半身(後半身)はウマ。

キメラじゃん。
これが許されるなら、ケンタウロスや人魚だって余裕で実在しうるでしょ。


世の中にはいろんな動物がいる。

シマウマだってキリンだってゾウだって、見慣れているから驚かないだけで、大人になってからはじめて見たらきっと驚いただろう。

うそでしょ。こんなふざけた動物いんのかよって。

まったく知識のない状態で「めちゃくちゃ鼻が長くて、その鼻で食べ物をつかんで口に運ぶことができる、クマよりでかい動物がいる」って聞かされたらまちがいなく「うそつけ」って言ってる。

でもまあ、見たら一応わかるじゃん。
一見ふざけたように見えることにも、ちゃんと理由があるんだって。

ゾウだったら、身体がでかいから太い脚でしっかり身体を支えないといけない。
だから手足を上手に使えない。
その代わり鼻が発達したんだろうなって。
一応理にかなってるわけじゃない。

キリンの長い首だって意味がある。

シマウマはシマがあることで、蚊に刺されにくくなるらしい(ソースは『ダーウィンが来た!』。

みんなちゃんと意味があるわけ。
(まあパンダの模様は意味わかんねえけど)

クアッガの半分だけ縞模様は意味がわからない。

上半身だけ蚊に刺されにくくしてどうすんの?
その分下半身が刺されやすくなるだけじゃん。

クアッガの縞模様は発展途上だったんだろうか。
ゆくゆくはシマウマみたいに全身縞模様にするつもりだったんだろうか。
クアッガはシマウマになる途中だったんだろうか。

それにしても。

 はじめは薄い縞模様 → ちょっと濃い須磨模様 → シマウマ

みたいな経路をたどるんじゃないの? 進化って。

 はじめは頭だけ縞模様 → 半分ぐらい縞模様 → シマウマ

とはおもえないんだけど。


なんであんな変な模様なんだろう。

と考えていて、ぼくはついに「クアッガが前半身だけ縞模様になった理由」に関する有力な仮説を思いついた。

それは……

 クアッガはズボンと靴下を履いていたから!


2020年9月2日水曜日

【読書感想文】刺身はサラダなのだ / 玉村 豊男『料理の四面体』

料理の四面体

玉村 豊男

内容(e-honより)
英国式ローストビーフとアジの干物の共通点は?刺身もタコ酢もサラダである?アルジェリア式羊肉シチューからフランス料理を経て、豚肉のショウガ焼きに通ずる驚くべき調理法の秘密を解明する。火・水・空気・油の四要素から、全ての料理の基本を語り尽くした名著。オリジナル復刻版。

料理はむずかしい。

なんせやることが多い。
「動詞」が多いんだよね。

焼く、炒める、煮る、炊く、茹でる、湯がく、炊く、蒸す、揚げる、燻す、さっとくぐらす、チンする。
加熱する系の動詞だけでもこんなにある。

それにくわえて、捌く、和える、切る、割る、剥く、おろす、漬ける、浸す、研ぐ、砕く、こねる、冷ます、包む、混ぜる、調える、濾す、くわえる、絞る、かける、混ぜる、寝かす、発酵させる……。

もうやることが多すぎてわけがわからん。


『料理の四面体』では、そんな複雑きわまりない料理の工程を大胆に因数分解して、シンプルな構造に落としこむ試みをしている。

著者は、火、空気、水、油の四つを重要な要素と置き、あらゆる料理はその四つの関わりによって位置づけることができると説いている。

火に空気の働きが介在してできるのが「焼きもの」
火に水の働きが介在してできるのが「煮もの」
火に油の働きが介在してできるのが「揚げもの(炒めもの)」

である。
豆腐を例にとれば、火と空気を用いれば焼き豆腐、火と水をくわえれば湯豆腐、火と油を加えれば厚揚げ、火と油を加えたのちに火と水を与えれば揚げ出し豆腐、火を使わなければ冷奴……。

程度の差こそあれ、いずれも「火、空気、水、油」との関わりによって説明できるとしている。

ふうむ。
なるほど。そんなふうに料理をとらえたことがなかった。

 実は名前や由緒にこだわらなければ、基本の手順をひとつ知っているだけで、素人にも二〇や三〇のソースの種類はたちどころにつくりわけることができるのだ。いや二、三〇ではきかない、一〇〇、それどころか一〇〇〇種類といっても言い過ぎではないかもしれぬ。これは冗談でも誇張でもない、本当の話である。 
 肉を炒めたあとのフライパンに〝汁〟を入れて油脂・肉汁をこそげ落し混ぜ合わせることをフランス料理の言葉で、〝デグラッセ(霜とり)〟と称するが、デグラッセする〝汁〟のほうはワインでも生クリームでもブイヨン(出し汁)でもなんでもよい。つまりこの〝汁〟を変えることだけでさまざまの種類のソースができることになる。
 ワインでデグラッセすればワインソース。
 生クリームでデグラッセすればクリームソース。

 刺身はサラダである。
 本当だ。
 マグロの刺身というものは、マグロの刺身だ、と思って眺めると、マグロの刺身としか思えない。
 しかしマグロの刺身を、これはサラダなのだ、と思って眺めると、だんだんサラダに見えてくるから不思議である。
 いま眼前に、美しい皿にかたちよく盛られたマグロの刺身があるとしよう。
 皿の手前に、赤い部分と、ピンク色に脂肪ののった部分のほどよく混じりあった、しっとりした肌をなまめかしく輝かせているマグロの切り身が数片並んでいる。
 そのマグロの身をうしろから支えるように、大根の千六本がこんもりと敷かれ、その横にミョウガのセン切りが少し置かれ、背後にはシソの大葉がピンと立てられていて、わきにレモンの輪切りが一枚飾られていて、端にワサビがある。
 その皿の手前に、小さな皿があって、その中には醤油が入っている。
 どうだろう。まったくサラダではないか。
 これがサラダであることがまだ認識できないならば、ハシをとって、皿の上にあるものをすべてぐちゃらぐちゃらに撹拌してみればよろしい。マグロの身もツマの野菜もすべて渾然とミックスして、その上から小皿の醤油を注ぎ、もう一度かきまわす。
 どうだろう。ミックス・サラダではないか。
 材料はマグロと大根とミョウガとシソ葉。
 ドレッシングはレモンから出た汁と醤油。スパイスはワサビである。
 しばらく置くとマグロの身の脂肪分がいくらか溶け出してドレッシング液に油滴が光りはじめ、ますます一般的概念の〝サラダ〟に近い姿になって行く。
 つまり刺身はサラダなのだ。

こんな感じで、大胆に料理をくくっていく。

たしかに、刺身とサラダの明確な境界線なんてないよなあ。
刺身はふつう野菜といっしょに出されるし、サラダにツナとかタコとかサーモンが入っていることはめずらしくない。

刺身はサラダ。たしかになあ。
おもいもよらなかったけど、言われてみればそのとおりだ。

けっきょく刺身と海鮮サラダの間に明確な差異があるわけではなく、認識の違いでしかないんだよね。

「天丼の主役は当然エビ天でしょ」という人もいれば、
「いやいやエビ天がなくても天丼になるが、ご飯がなくては天丼とはいえない。やはり天丼の主役はほかほかのごはんだ」という人もいるし、
「天丼の主役はタレに決まってるだろ。私はタレを食べるために天丼を食べている」という人だっているだろう。

魚を主役とおもえば刺身、野菜を中心としてとらえればサラダ。それだけ。



ってな感じで各料理を「火、空気、水、油」との関わりでくくっていけば、世の中にごまんとある料理もじつはいくつかのパターンの組み合わせでしかないことに気づく。

……というのが『料理の四面体』の内容だが、はっきりいってこれに気づいたところで何の役にも立たない。

料理が上手になるわけでもないし、出された料理がおいしく感じられるわけでもない。

ただ「料理って意外と単純かも」とおもえるだけだ。
料理はややこしいとおもっている人からすると、ちょっとだけ苦手意識が薄れるかもしれない。

でもまあ、それでいいんじゃないかな。
役に立つようで立たない、理屈のような屁理屈のような話を読むのはただ単純におもしろかったから。

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2020年9月1日火曜日

【読書感想文】おまえはアイドルか / 池上 彰『伝える力』

「話す」「書く」「聞く」能力が仕事を変える!

伝える力

池上 彰

内容(e-honより)
仕事のさまざまな場面でコミュニケーション能力は求められる。基本であるにもかかわらず、意外と難しい。相づちを打ったり、返事をしたり、目をジッと見たり、あるいは反対に目をそらしたり…。「伝える」には、「話す」「書く」そして「聞く」能力が必須。それらによって、業績が左右されることも往々にしてある。現代のビジネスパーソンに不可欠な能力といえる「伝える力」をどうやって磨き、高めていったらよいのか。その極意を紹介する。

浅い。
とにかく浅い。

池上彰さんって専門がなくまんべんなくやってたことが強みなんだろうけど、専門のなさの悪いところが存分に出た本。

たかだか二、三人の子どもを育てただけで教育を語っちゃう人っているじゃない。
「うちの子はみんな東大に入りましたから私、教育の専門家ですわ」
みたいな顔して。

それと同レベル。
たしかに池上彰さんの「わかりやすく伝える技術」はすごいけどさ。
ぼくも『そうだったのか!』シリーズにはずいぶんお世話になったけど。

だけど池上さんは「わかりやすく伝える技術」をわかりやすく伝えることには慣れてないんだろうね。
とおりいっぺんの浅~いことしか言ってない。


ちょっとクレーム処理やったことあるだけで「クレームに対応するにはこうしたらいいですよ」って語ってたりとか。

ビジネス文書の書き方で、「先輩の書き方をひたすら真似しろ」とか。
たしかにそれで得られるものも大きいかもしれないけど、「先輩のやりかたを真似しろ」って教えることを放棄してるだけじゃん。
「見て盗め」って教え下手な自分と向き合いたくないだけの逃げ口上でしょ。


池上さんがふだん使ってる手帳や筆記用具について語ったり。
誰が興味あんねん。アイドルかよ。

「一会社員、ビジネスを語る」ぐらいの内容でしかない。


なるほどなあ、とおもったのはここぐらい。

 主語を入れ替えて話すだけで、相手が受ける印象はかなり変わります。  次の例を考えてみてください。キャスターがテレビでニュースを読んでいるところを想定しています。

 A.〇×鉄道会社は運賃を値上げすることになりました。
 B.皆さん、○×鉄道会社の運賃が値上がりしますよ。

いかがですか? 伝えている内容はまったく同じですが、受ける印象はだいぶ違いませんか?

NHK記者、キャスターをやっていた人ならではの説明。
こういうのだけを読みたいんだけど。
池上彰が語るクレーム対処法とか手帳術とかじゃなくて。

とにかく内容はすっかすかだった。



ひどかったのはこれ。

 結果は一対三で逆転負け。応援していた日本人の口元から深いため息が漏れたことでしょう。日本の多くのファンは眠い目をこすりながら、テレビに釘付けになっていたからです。
後日私は、「負けたのに淡々と話す選手に、なんとなく腹が立った」という声を何人かから聞きました。
「『応援してくれていた日本の皆さん、すみませんでした。初戦は負けてしまいました。でも、次はもっとしっかりやります』くらい言ってほしかったな」と言う人すらいました。

(中略)

 日本チームは、その後の試合もふるわず、結局、決勝トーナメントに進むことはできませんでした。
 もちろん、というべきか、選手たちから、謝罪の言葉は聞かれませんでした。悪いことをしたわけではないのですから、当然といえば当然です。
 けれども、「期待に応えられなくて、すみませんでした」のひと言を言ってほしかった。と、多くの日本人は思ったことでしょう。
 理屈を考えれば謝る必要はないけれど、ひと言「ごめんなさい」と言うことで、事がスムーズに進む場面は日常的にあるはずです。
 そう考えると、「ごめんなさい」「すみません」のひと言をこだわりなく言うのも、人生では大切なことです。

いろいろ言い訳してるけど、結局池上さんが言いたいのは「長いものには巻かれろ」「悪くなくても頭を下げてその場が収まるなら謝ったほうがいい」ってことでしょ。

処世術としてはわからんでもないけど……。

だっせえなあ。こういうこと言う人って。

「セクハラをされたのは気の毒だけど君がこらえてくれたら丸くおさまるんだよ」ってのと変わらない。

なんで試合に負けたからってファンに謝らなくちゃいけないんだよ。
いちばん悔しいのは当人なのに、どうしてにわかサッカーファンに頭を下げなくちゃいけないんだよ。


そういうこと言うんだったらさあ。

池上さんの番組もいろいろやらかしてんじゃん。

外国人のコメントにぜんぜん意味の違う字幕をつけたり。

あれだってやらかしたのはスタッフだろうけど、番組の顔である池上さんが詫びるべきなんじゃないの?
「あなたは悪くないし私は何の実害も被ってませんけど気持ちを害したので謝ってください」って言ってくる人に対して謝ったほうがいいんでしょ?

池上さんの番組で気分を害した人はたくさんいるはずなのに、池上さんがそういう人に頭を下げたと聞いたことがない。

言うのはかんたん。でもやるのはむずかしいんだね


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2020年8月31日月曜日

【読書感想文】登場人物全員警戒心ゼロ / 矢口敦子『償い』

償い

矢口 敦子

内容(e-honより)
36歳の医師・日高は子供の病死と妻の自殺で絶望し、ホームレスになった。流れ着いた郊外の街で、社会的弱者を狙った連続殺人事件が起き、日高はある刑事の依頼で「探偵」となる。やがて彼は、かつて自分が命を救った15歳の少年が犯人ではないかと疑い始めるが…。絶望を抱えて生きる二人の魂が救われることはあるのか?感動の長篇ミステリ。

何がイヤって、「初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべるミステリ」ほどイヤなものはない。

ストーリーを進めなくちゃいけないのはわかるが、だからってどいつもこいつもべらべらべらべらしゃべりすぎだ。

刑事がホームレスに捜査中の事件を相談し、中学生がホームレスに哲学的議論をふっかけ、主婦が名刺も持たない自称フリーライター(実態はホームレス)にご近所のうわさ話をし、夫が逮捕された妻が「夫と留置所で一緒だった」と名乗るホームレスを家に入れてコーヒーをふるまう。

どうなってんの。
登場人物全員自制心も警戒心もゼロなの。みんな泥酔してんの。だからおしゃべりを止められないの。
百歩譲って中学生や主婦は「百人に一人ぐらいはそんな人もいるかも」と許しても、捜査情報を漏らす刑事は懲戒処分待ったなしでしょ。



小説だから偶然や奇跡が発生するのはしかたがない。
ミステリなんて基本的に「めったに起こらないことが起こった場面」を切り取ったものだから、ある程度のご都合主義はあってもいいとおもう。

とはいえ。
『償い』はひどい。

小さな街で立て続けに不審死が発生する……ってのはいいよ。
そういう設定だからね。
大きなほらはおもしろい小説に必要不可欠だ。

ただ、ちっちゃい嘘(あまりに都合のいい偶然)が多いんだよね。

犬も歩けば棒に当たる的な。
主人公がちょっと歩けばすぐに事件の関係者に出くわす。

たまたま会った人が被害者の親戚だった、たまたま入った店の向かい側に容疑者の妻が入っていくのが見えた、たまたま昔の自分を知っている人だった、たまたま会った中学生がかつて自分が命を救った子だった……。

一度や二度なら「まあフィクションに目くじらを立てるのもな」と看過できても、それが五度も六度も起こると「もういいかげんにしろよ……」とうんざりする。

もはや謎解きはどうでもいい。
「はい次はどんな“たまたま”を起こしてくれるんですか」としかおもえなくなってくる。


『ジョジョの奇妙な冒険』の偉大な発明のひとつは、スタンド(幽波紋)という視覚化された超能力だが、なによりすばらしいのは「スタンド使いはひかれあう」という設定をつけくわえたことだ(後付けっぽい感じもあるが)。

この設定があるだけで、“たまたま”が頻発しても「スタンド使いはひかれあうからね」で済ませることができる。

『償い』もこういう設定を最初につけておけばよかったのにね。
過去に心の傷を負った人たち同士がひかれあう世界の物語です、って。


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2020年8月28日金曜日

見ず知らずの子に本を買ってあげたくなった話


本屋に行ったら、四歳ぐらいの子どもが絵本を手にして「これ買って」と言っていて、一緒にいたおとうさんが「あかんあかん、どうせ読まへんやろ」と言っていた。

まったく見ず知らずの親子だったけど、
「おっちゃんが買ってあげるよ」
と言いたくなった。

本の一冊ぐらい買ってあげればいいじゃない。
せっかく子どもが読む気になってるのに。
本を読む習慣をつけておいて悪いことはあんまりないぜ。
お金がないならぼくが出してあげるからさあ。
だから本を読みたがっている子どもの希望をへしおらないであげてくれよ。

と言いたかったのをぐっとこらえた。

直後、そのおとうさんが
「そんな絵本みたいなんじゃなくて、もっと字の多い本読めよ」
と言うのを聞いたときは、
「おまえがその芽をつぶしてるんやろが!」
とぶん殴りたくなった。じっさいぶん殴って気を失ったところを本棚の下のストッカーの中に押し込んだ。めでたしめでたし。