2024年1月10日水曜日

【読書感想文】レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』 / 孤立よりもいじめられていることに気づかないふりをするほうがマシ

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女の子どうしって、ややこしい!

レイチェル・シモンズ(著)  鈴木 淑美(訳)

内容(e-honより)
突然口をきかなくなる、うわさを流す、悪口を書いたメモをまわす、じろじろ見て笑う…。女の子のいじめは間接的で巧妙なので、外からはわかりにくい。だが、いじめられた経験が心の傷になっている女性は少なくない。なぜ女の子はこんなことをするのか?本書の著者は、女の子独特のいじめを「裏攻撃」と名づけ、その実態を初めて明らかにする。そして、いじめにあったとき、辛い日々をどう乗り越えていけばいいのか、親身にアドバイスしている。いじめられた経験のある女性、いままさにいじめで苦しんでいる女の子やその親、学校関係者必読の全米ベストセラー。

 小学四年生の娘が、人間関係のトラブルに巻き込まれた。

 同じクラスの女の子三人と仲良くなり、何をするにも四人一組だった。だがその中のSという子が「○○を無視しよう」などと言い出し、S以外の三人が順番に無視されるようになった。さらにSがある子の持ち物を隠してその子が泣いたことで、教師の知るところとなった。

 うちの子は積極的に加担していたわけではないようだが、Sに言われるまま無視に協力したりしていたので(娘が無視されることもあったようだ)、親が教師から学校に呼び出される事態となった。

 教師や娘からいろいろ話を聞くかぎり、Sはなかなかの問題児のようだ。他の子の持ち物を盗ったり、しょっちゅう嘘をついたり。さらにいじめが発覚して教師から怒られた後も、教師の前でだけ反省するふりをしているがまったく反省せず、懲りずにいじめていた相手にわざとぶつかったりしているらしい。

 さらにSの母親もなかなかアレな人で、いじめ発覚後に会って話す機会があったのだが、「なんか先生が言ってることおかしいとおもうんですよね。うちの子が嘘をついてると決めつけてて」などと言っていた。子どもなんて嘘をつく生き物だろう、自分の子の言うことを全面的に信じられるほうがおかしいだろ、とおもったのだが「はあ、そうですか」と適当に相づちを打っておいた。子が子なら親も親だ。


 ま、それはよくある話だ。どこにだっておかしなやつはいる。いじめがない学校なんてほとんどないだろう。

 ぼくが理解できないのが、そんなことがあっても娘がSとの付き合いを断ちたがらなかったことだった。聞くと、いじめ発覚後、いじめられた子はもちろん、他の子もSとは距離をとっているようだ。「親からSちゃんと遊ばないように言われたから」とはっきり宣言した子もいるという。

 そこまではしないにしても、ぼくも娘にはSと距離を置いてほしいとおもう。ものを盗んだり、いじめがばれてもすぐにくりかえすような子は、そう簡単に改心しないだろう。今後もトラブルを起こす可能性が高い。

 なのに娘は「みんなが離れていったらSちゃんがひとりになっちゃうから」などと変な優しさを見せていた。いじめや盗みをして孤立するのは自業自得じゃないか、そんなやつに優しくしてもつけあがることはあっても改心することはないぞ、とおもうのだけど。

 ぼくは昔から「嫌なやつがどんなにひどい目にあってもざまあみろとしかおもわない」薄情な人間なので、嫌な目に遭ってもつきあいを断とうとしない娘の気持ちが理解できない。




 ということで2002年にアメリカで刊行されて話題になったという『女の子どうしって、ややこしい!』を読んでみた。数々のインタビューをもとに、女の子同士のいじめのパターンを明らかにした本だ。

 掲載されているのはアメリカのケースばかりだけど、たぶん日本の場合も大きくは変わらないだろう。傾向として、女子のいじめは明らかに男子のそれとは異なる。


 男子のいじめが友だちの外のメンバーに対して向かうのに対し、女子のいじめは仲良しグループ内で起こる。

 男子のいじめは強者が弱者を虐げる構造なのに対し、女子はいじめる子といじめられる子が頻繁に入れ替わる。

 女子のいじめは教師や親の目につきにくく、暴力やはっきりとした暴言を伴わないことも多いので、なかなか明るみに出ない。

 かんたんにいえば、女子のいじめのほうが複雑で巧妙ということだ。ばれにくいし、誰が見ても悪い暴力や暴言ではなく「冷たくする」「仲間に入れない」「気づかなかったふりをする」「ときには優しくする」など、一筋縄ではいかない方法をとる。

 著者はこれらの行動を、男子がよくやるあからさまないじめに対して「裏攻撃」と呼ぶ。

 いまや、もうひとつの沈黙に終止符を打つべきときだ。女の子たちの攻撃という隠れた文化では、いじめは独特で伝染しやすく、人をとことんまで傷つける。男の子の場合とちがい、身体や言葉を使った直接行動はとられない。私たちの社会では、女の子が公然といさかいを起こしてはいけないことになっているので、女の子の攻撃は間接的なかたちをとり、表面に出ない。陰口をきき、のけものにし、噂を流し、中傷する。あらゆる策を弄して、ターゲットに心理的な苦痛を与えるのだ。男の子の場合、いじめの対象は、それほど親しくない知りあいか外部の人間であることが多いが、女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっていると外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる。女の子たちは、攻撃に、拳やナイフでなく、しぐさや人間関係を用いる。ここでは友情が武器だ。相手に一日中沈黙されることにくらべれば、大声で怒鳴られることなどなんでもない。背を向けること以上に、人を打ちのめす反応があるだろうか。

 男子の暴力は、ある程度は許容されることが多い。「弱い者いじめはダメ」「無抵抗の相手を攻撃してはいけない」といったルールはあるが、「強くてまちがっている者に暴力で立ち向かう」「やられたからやりかえす」「誰かを守るために闘う」などはむしろ善しとされることも多い。「男の子はちょっとぐらいやんちゃなほうがいい」という価値観は今も根強く残っている。

 一方で女子の暴力や暴言は許されにくい。「女の子なんだからおしとやかにしなさい」と言う人は今では減ったが、それでも女子の暴力や暴言は男子のそれより厳しくとがめられる。

 その結果、抑圧された女子の攻撃は巧妙で間接的なものとなる。




 女の子のいじめ、親や教師が気づきにくいし、気づいたとしてもやめさせにくい。

 人間関係が武器になるなら、友情そのものも怒りをかきたてる道具となりうる。リッジウッドの六年生がこう説明する。「友だちがいたとしても、どこかに行ってほかの子と友だちになるんです。ただその二人にやきもちをやかせるためにね」。つきあいをやめたり、あるいはもうつきあわないわよと脅したりしなくても、ほのめかすだけでじゅうぶんだ。たとえばグループが一緒にいるとき、ひとりが、ある二人だけに、わざとらしく「ほんと、週末まで待ち遠しいわね!」という。あるいはグループからひとりをちょっと離れたところに連れだして、みなの目の前で内緒話をする。それから輪のなかに戻ってきて、「なんの話?」と訊かれると、決まって「べつに。あなたたちには関係ないことよ」。女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。

 こういういじめには、親や教師が介入しにくい。暴力をふるっていたら教師はすぐにやめさせるが、「あの子と仲良くしなさい!」と交友を強制することはできない(仮に強制したとしても仲間はずれにされていた子は救われないだろう)。友だちに対して秘密を持つな、とも言えない。


 ただ、こういう行動は男子もやる。ぼくもやったことがあるし、やられたこともある。友だちと、わざと別の子の前で「アレな」とか「ほら、例のやつ」などと言ったりするのだ。「教えてくれよ」などと言う子を見て楽しむのだ。底意地の悪い遊びだ。

 おそらく誰にでも経験があるだろう。大人でもやる。符丁をつくったり、自分たちの間だけに通じるあだ名をつけたりして、秘密を共有することで友情を深めることにもつながる。必ずしも悪いことではないのかもしれない。

 でも目の前でやられたほうはほんとに嫌な気になるんだよねえ。著者は「女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。」と書いているが、男の子も傷つく。ただ男子はやられたら「答えてくれるまでしつこく『なんのこと?』と訊きつづける」か「そのグループから離れる」のどちらかを選ぶケースが多いとおもうな。「自分がのけものにされていることを感じながらそのグループにいつづける」はあんまり選ばない気がする。

「ひとりっきりになるぐらいなら、いじめっ子グループに入っていじめられていることに気づいていないフリをするほうがマシ」と考えるのは女子のほうが多そうだ。




 この本を読んでいると、女の子は幼い頃から高度なコミュニケーションをとりかわしているんだなとおもう。いい面もあり、悪い面もあるが。

 暗号のなかには、複数の意味をもつものもある。「私、太ってるの」というよく聞かれる嘆きは、少なくとも三通りに訳せる。ある研究によれば、「私は太っている」という女の子で本当に太っている子はめったにいないそうだ。
 第一に、「私、太ってる」という言葉は、相手を出しぬくための間接的な道具となる。「女子は、たがいに太っているかどうか確認しあいますが、これは一種の競争なんです」と、ある八年生が説明した。「もしやせてる子が自分は太ってるといったら、私はどうなります? それは、相手はやせていない、と遠まわしにいうやり方なんです」。先の研究によれば、やせている子は、そのことをまるで「欠点か何かのように」非難される、ともいう。
 また、「私、太ってる」は、仲間からの肯定的な励ましを求める遠まわしな方法でもある。十三歳のニコルによれば、「ほめてもらいたくて、いうんです」。研究者たちは、「女の子たちが『私は太っている」というのは、他人が自分についてどう思っているかを推しはかるためだ。彼女たちは非常に競争心が強いが、そう見えないようにする」と述べている。
 第三に、「私、太っているから」といえば、「カンペキな子」といわれないですむ。自分のことを「太っていると思っている」という意思表示をしないと、「自分はダイエットをする必要がない、自分に満足している」という意味になってしまう。「いい女の子」は自分を卑下するものだから、相手にいってほしいほめ言葉をからめ手から引きだすのである。

「私、太ってるの」が攻撃にも自慢にも謙遜にも防衛にもなる。それらをいっぺんにおこなう高度なコミュニケーションだ。

 当然ながら、「私、太ってるの」と言われたほうも、「めんどくせえな」とおもっていることはおくびにも出さずにさもびっくりしたような顔で「えっ、ぜんぜんそんなことないじゃん!」と言わなければならないのだ。たいへんだ。

 男が「おれ太ってるんだよね」と言ったら文字通りの意味か冗談かのどっちかしかないし、言われたほうもハッキリと「そやな」か「『そんなことないよ』って言ってほしいんか」と言うだけだ。シンプルというか単純というか。ヒトとサルぐらいの違いがある。ぼくはサルでよかった。




『女の子どうしって、ややこしい!』では、様々な例を挙げて女の子同士の“裏攻撃”が日常茶飯事であることを示した上で、親の対応についても書いている。

 ほかの親たちを怒らせることを恐れるあまり、彼女はホープをじゅうぶんに守ることができず、ホープの苦しみを正当化することになってしまった。私が話を聞いたほとんどの母親たちは、ほかの親の反応を恐れて、行動を起こすのを躊躇していた。子育ての不文律の第一は、育て方について他人にとやかくいわれたくない、ということであり、第二は、他人の子を批判するのは危険、ということだ。子どもの行動を批判されると、親は往々にして自分の育て方が暗に攻撃されたと解釈して、自己防衛に走る。ときには不合理なまでに。

 子どもがいじめられていると知ったとき、特に裏攻撃を受けているとき、親が子どものためにできることはそんなに多くない。

 子どもに「そんな子とは友だちでいるのをやめてください」とか「嫌なことははっきり嫌と言いなさい」なんて言うのは無駄だ。子どもが望んでいることは関係の修復であって決別ではない。いつかは「あの人と離れてよかった」とおもう日が来るがそれは今ではないし、親に言われて気づくものでもない。

 学校やいじめている子の親に言いにいくのも良い結果につながらないことが多い。言って関係が改善することはまずないし、いじめられている子自身がそれを望んでいないことが大半だ。親への信頼をなくすだけ。

 ではどうしたらいいのか。著者は、親が直接できることはほとんどないと主張する。子どもの話をじっくり聞く、自分の体験談を話す(ただし押し付けない)、何かやってほしいことはあれば言ってほしいと伝える、それぐらいだ。しかしそれが大事なのだと著者は説く。

 基本的には子ども自身で立ち向かわなくてはならない。いじめには明確な理由がないことも多いので「いじめている子らがいじめに飽きて他のことに興味を移す」「進級や進学で環境が変わる」ぐらいしか解決方法がなかったりもする。

 それでも、何も知識がなくこんなひどい目に遭っているのは世界中で自分だけとおもうよりも、世の中はこういうもので自分に原因があるわけではないと知っているほうが、ほんのちょっとは生きやすくなるだろう。

 ニュースなどで語られるいじめは暴力やあからさまな嫌がらせのような“わかりやすいいじめ”ばかりだからこそ、見えにくいけどよくある“裏攻撃”について多くの事例を挙げているこの本は力になる。


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