戦争は女の顔をしていない
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(著) 三浦 みどり(訳)
歴史上、ひとつの戦争で最も多くの死者を出した国をご存じだろうか?
第二次世界大戦でのソ連である。
1941年、ナチス政権化のドイツ軍はソ連に侵攻した。ソ連は連邦国だったため一枚岩ではなく、ソ連に反感を持っていた地域や、共産主義に反対していた者たちも、ソ連を裏切ってドイツ軍側についた(最も彼らもナチズムでは劣等民族として考えられていたため決してドイツからいい扱いは受けなかったようだが)。
当初敗北続きだったソ連はモスクワまで攻め込まれるも、パルチザンと呼ばれる市民軍の抵抗や英米の支援を受けて盛り返し、最終的にはベルリンを陥落させドイツ軍を破った。辛くも勝利したもののその被害は大きく、ソ連の死者数は2000万とも3000万とも言われる。戦勝国であるソ連がこれだけ多くの死者を出したのだから、世界大戦の規模の大きさがうかがいしれる。
この独ソ戦には、男だけでなく、女も多く戦闘に参加していた。看護婦や医師としてだけではない。運転手、工兵、そして戦闘員、将校として多数の女も参戦していたのだ。
他の国の軍事情はあんまり知らないけど、こういう例はかなりめずらしいのではないだろうか。
そんな、戦争に参加していた(それも最前線で)元兵士の女たちへのインタビューを集めた本。戦争体験談はよく目にするが、インタビュイーが女ばかり、というのはかなりめずらしい。
ほんとにバラバラの話をただ集めただけなので、一冊の本として読むとかなり散漫な印象だ。それが逆にリアルでもあるのだが。
まず驚かされるのが、多くの女性たちが決して嫌々ではなく、喜んで戦いに志願していたこと。
ついつい現代の価値観を当てはめて「女も戦闘に参加させられるなんて悲惨な状況だったんだな」と考えてしまうが、実に多くの女性が自主的に入隊している。「家族や、軍の男たちには反対されたのに、反対をふりきって参加した」という声も多い。むしろ男たちのほうが保守的で「女は銃後を守ってくれればいい」という考えだったようだ。
そういえば斎藤美奈子『モダンガール論』でも、戦争はそれまで家庭に閉じこめられていた女性が社会進出するチャンスだったので多くの女性が戦争に賛成した、と書いてあった。
「女の仕事は結婚して子どもを産んで育てること」だった時代では、戦争は女性にとってチャンスだったのだ。このあたりのことは覚えておきたい。朝ドラに歴史改竄されないために。
ニュースでテロリストや少年兵を見ると、あいつらは異常者だとおもってしまう。自分たちとはべつの人間だと。けど、教育次第で誰でもかんたんにああなってしまうのだ。「祖国のために戦うのが人間の生きる道だ」と教えられれば、あっさりとその考えに染まってしまう。愛国心は、平和を望む心よりずっと強い。
少し前に、とある学者がこんなツイートをしているのを見た。
「左翼連中は、軍備増強に賛成する連中のことをまるで戦争好きみたいに言う。でも誰だって戦争になんか行きたくないんだ。戦争に行きたくないから、防衛を強化するんだ」
「戦争に行きたくないから防衛を強化する」の是非についてはここでは触れないが、少なくとも「誰だって戦争になんか行きたくないんだ」の部分に関しては「それはちがうぞ」とおもった。
人間は、けっこう戦争が好きなのだ。戦争に行きたい人間はいっぱいいるのだ。人間は生まれながらにして「死にたくない」という本能を持っているが、それはいついかなるときも揺るがないほど強いものじゃない。「お国のため」という理由があれば、かんたんに抑えられてしまうものだ。
「誰だって戦争になんか行きたくないんだ」とおもっている人にかぎって、いざ戦争になったら「なぜ戦争に行かないのか!」って言いだすんだろうな。だって己の価値観が普遍的に正しいものだと信じて疑ってないんだもん。
人間の理性はかんたんに壊れる。多くの歴史がそれを証明している。
だからこそ制度で戦争を抑えなきゃいけない(やりたくてもできない状況にする)のに、理性で抑えられると信じている人のなんと多いことか。人間はみんなバカなんだよ! バカだから戦争好きなんだよ!
当然ながら、かなりむごたらしい話も多い。戦争だからね。
特に独ソ戦においては、単なる ドイツ軍 VS ソ連軍の対立だけではなく、ソ連の人たちがドイツ側についたこともあって、裏切り、密告、疑心暗鬼などが生まれ、戦闘以外で深く傷ついた人も多かったようだ。
絶句……。
これまで読んだ数多くの戦争体験談もたしかにひどかった。が、それらはみんな「味方と敵」に分かれていた。
敵に捕まった母親や妹に向かって銃を向けなくてはならない。撃たなければ自分が裏切り者として処刑される。こんな残酷なシーン、フィクションでもなかなかお目にかかれない。
人間ってどこまでも残酷になれるんだな……。
残酷な話も強い印象を与えるのだが、ぼくの胸にせまるのは、逆に、戦時中の楽しそうな話だ。
たとえばこんな話。
冗談を言って女兵士をからかったり、からかったことがばれて叱られたり、滑稽なまちがいをしてしまったり、小枝をビンに刺したり、ワンピースやイヤリングを見て心躍らせたり……。なんとも楽しそうだ。もしもこの時代にSNSがあったら、おもしろい話、美しい写真として投稿してみんなを楽しませていたのだろう。つまり、ぼくらと何ら変わらない人たちなのだ。
しかし、そんな人たちが、明日には手足バラバラの死体になっているかもしれない。もしくは、敵兵の喉に銃剣を刺して殺しているのかもしれない。戦場だから。
以前、テレビでシリア内戦の兵士たちの映像を見た。銃弾が飛び交い、次々に人が殺される内戦の最前線で、兵士たちは冗談を言ってげらげら笑いながら食事をしていた。「おい見とけよ」とへらへらしながら手榴弾を投げ、投げそこなって味方の陣地を攻撃してしまって、あわてて逃げる兵士たち。その後で「おまえ何やってんだよ!」「今のあぶなかったなー!」と笑いあう兵士たち。まるで、そのへんの大学生みたいなのんきさだった。ぼくが大学生のときも、友人の車に乗せてもらって「おまえ何やってんだよ!」「今のあぶなかったなー!」と笑いあっていた。あれといっしょだ。
人間はどんな環境にも慣れる。朝いっしょに飯を食った仲間が、夕方には死体になっている。そんな環境にも慣れるし、そんな状況でも冗談を言ったり笑ったりできる。
捕虜を弾よけに使うドイツ兵も、そんなドイツ兵の命を狙うソ連兵も、ぼくらとぜんぜん変わらない人たちだ。だから、ほんの少し周囲の状況がちがえば、ぼくらだって殺し合いに参加するのだろう。
ぜんぜんたいした話じゃないんだけど、なぜか印象に残ったエピソード。
なんとなくわかる……。
もちろん戦争に参加したことなんかないので想像することすらできないのだけれど、終戦の日に動物園に行きたくなる気持ちはなんとなく理解できる。
喜ぶでもなく、悲しむでもなく、ぜんぜんちがうことを考えたい。映画でも小説でも音楽でもなく。一切戦争を連想させない場所。動物園や水族館は、それにうってつけの場所だとおもう。
もしぼくが戦争に巻き込まれて無事に生き延びることができたら、終戦の日は動物園に行こう。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿