2020年7月27日月曜日

【読書感想文】最上級の敬称 / 俵 万智『言葉の虫めがね』

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言葉の虫めがね

俵 万智

内容(e-honより)
たとえば万葉集をひもとけば、千年以上前の言葉が、そこにはある。私が口ずさめ、千年の時空を越えて、鮮度を落とすことなく言葉は蘇る。言葉は、永遠なのだ。けれどたとえば、今日私が恋人に言った「好き」という言葉は、今日の二人のあいだで成立している、たった一度きりのもの。言葉は一瞬のものでもあるのだ―。読むこと、詠むこと、口ずさむこと。言葉を観察し、発見するエッセイ集。

読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。

しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。

後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。

列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。

ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。



パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かってあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。

「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。

ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。

いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。

でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。

会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。

だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。


ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。

でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。

いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。



自作短歌の舞台裏。
 そういえば教師になりたてのころ、こんな短歌を作ったことがあった。

  万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 自分のような未熟者を、「先生」として見てくれる生徒たちへの、責任感や緊張感を詠んだ歌だ。が、現実はというと、

  先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 である。下校のときなど、自転車の二人乗りをした生徒らが(二人乗りは禁止されている)校門のところで私を追い越しながら、「万智ちゃーん、バイバーイ」なんて言って手をふって遠ざかっていく。別に私をバカにしているわけではなく、それが彼らの親愛の情の表現なのだ。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。

ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。

「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。

教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。

だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。


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