2022年5月18日水曜日

【読書感想文】『大当たりズッコケ占い百科』『ズッコケ山岳救助隊』『ズッコケTV本番中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第八弾。

 今回は20・21・22作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら、20・23・19の感想はこちら、28・23・19作目の感想はこちら


『大当たりズッコケ占い百科』(1989年)

 占いにハマったハチベエが、クラスメイトの市原弘子から〝レイコンさん〟なる占いを紹介される。死者の霊を呼びだすというその占いは驚異の的中率を見せ、すっかり〝レイコンさん〟に魅せられる三人組。
 ところがクラスの女子がなくしたペンダントが他の子の鞄にあることを〝レイコンさん〟が当てたことによりクラスメイトたちの関係が悪化する……。


 なかなかの問題作。オカルト、呪い、不登校、嫉妬など扱われている題材がとにかく陰湿だ。だが、個人的にはかなり好きな作品に入る。こういう〝ふつうの人の嫌な部分〟をちゃんと書いてくれる文学は信用できる。

 特に児童文学だと、悪い人が出てこなかったり、出てきたとしても〝頭の先から足の先までぜんぶが悪い単純な人物〟として描かれることが多い。
 でも現実はそうじゃない。誰しも優しい面もあれば意地悪な面もある。クラスの九割から好かれている人物が、残りの一割からものすごく憎まれていたりする。

 その点、ズッコケシリーズには根っからの悪人も出てくるが、ごくごくふつうの人の醜い姿や意地悪な面も書かれている。『ぼくらはズッコケ探偵団』の学級会のシーン、『花のズッコケ児童会長』で優等生がおこなったいじめ行為、『ズッコケ結婚相談所』の男子の恋心をもてあそぶ女子や、暴かれた母親の嫌な過去、『ズッコケ文化祭事件』での小説家の狭小な態度……。

 特にそれが顕著なのがこの『大当たりズッコケ占い百科』だ。占いを引き合いにクラスメイトをこばかにしたり、持ち物がなくなったときにクラスメイトを犯人だと決めつけたり、ターゲットにわかるように〝呪いのおまじない〟を実行したり、うわさ話を広めたり……。そういった行動をとるのは特定の悪い子ではない。ごくごくふつうの子である。主人公の三人組も加担している。

 学校でのいじめもだいたいそんなものだ。めちゃくちゃ悪いやつ、なんてのはそんなにいない。いじめの加害者がクラスの人気者で被害者のほうが問題行動の多い嫌われ者、なんてケースも多い( 奥田 英朗『沈黙の町で』もそんなリアルないじめを描いていた)。

 クラス内に疑心暗鬼が蔓延してギスギスしている様子なんか、挑戦的ですごくいい。しかも最終的に「悪いやつがやっつけられてめでたしめでたし」にならないのもいい。悪役もいるが、懲らしめられることもないし、悔い改めたりもしない。
 でもそれでいいとおもう。世の中、勧善懲悪ってわけにはいかないし、「クラスみんな仲良くしましょう」なんて欺瞞だ。そんなことを言っても弱い子は助からない。「嫌なやつもいるけどほどほどの距離をとってつきあっていきましょう」こそが教えなきゃいけないことだ。


 ちなみにこの本に、栄光塾という過激な塾が出てくる。毎月のテストで生徒を順位付けし、成績下位者は上位者のために靴をそろえてやらなければならない、というとんでもないやりかたをとっている。これ、人によっては「そんな塾ねーよ」とおもうかもしれないけど、今はどうだか知らないけど三十年前は野蛮な時代だったからこういう塾もあったんだよ。ぼくの友人が通っていた中学受験対策塾でも「まちがえた回数だけ物差しで叩かれる」って言ってたし。

 厳しいシステムをとりいれた結果、一生懸命勉強するよりも他の生徒に嫌がらせをして足を引っ張るようになる、というのが現実的でおもしろい。
 そうなんだよね。狭いコミュニティで競争させたら自分が向上するより他人を蹴落とすほうが楽なんだよね。こういう成果主義の弊害を1989年に書いていた、というのもすごいなあ。まだまだ「これからは欧米を見習って日本企業も成果主義だ!」って言われていた時代だもんなあ(そして国全体での凋落がはじまった時代でもある)。


『ズッコケ山岳救助隊』(1990年)

 子ども会の登山旅行に参加することになった三人。ところが悪天候やハプニングにより、三人組+同学年の有本真奈美だけがはぐれてしまう。霧、豪雨、土砂崩れ。最悪の状況でやっとたどりついた山小屋で出会ったのは、なんと誘拐されて監禁された少女。誘拐犯が戻ってくるかもしれないこの小屋で一夜を過ごすことになった子どもたち……。


 とまあ、これまでに様々な危険な目に遭ってきた三人組だが、その中でもかなりのピンチに陥る。にもかかわらずあまり緊迫感がない。

 山は怖い。が、その怖さはどうも伝わりにくい気がする。海で溺れるとか、高いところから落ちるかもとか、殺人犯に狙われるとか、そういう一刻一秒を争う危機に比べるとどうも「山での遭難」は人間の本能に訴えかけてくるものが小さい。だからこそ人々は山をなめ、遭難するのだろう。


 次から次にいろんなことが起こるので決してつまらないわけではないのだけれど、いまいち印象に残らない作品。ただ出来事が説明されるだけで、登場人物たちの心の動きが伝わってこない。終始三人組と行動をともにする真奈美という新キャラクターも、これといった活躍を見せるわけでもないし。

 唯一内面の苦しみが伝わってきたのが、引率役の有本さん。おもわぬアクシデントや一瞬の甘さのせいで子どもたちを遭難させてしまい、大いに苦しむ。もちろん自分の娘も心配だろうが、それ以上に心配なのはよその子。十分に監督しなければならない立場だったのに、ほんのわずか目を離してしまった隙にはぐれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれないにちがいない。さらには子どもたちが遭難して夜になっても見つからないことを保護者に連絡しなければならない状況、その心痛は想像するにあまりある。

 子どもの頃は引率する大人の気持ちなんてまったく考えなかったけど、自分が親になると痛いほどよくわかる。『となりのトトロ』でも、いちばん共感してしまうのはカンタのおばあちゃんだもん。面倒を見るといっていた四歳の子が迷子になる……、こんなおそろしいことはないぜ。もしものことがあったら、と考えると自分が死ぬよりも怖い。


 ぼくが小学校四年生のとき、担任の先生が「初日の出を見るツアーをする!」と言いだして、子どもたち(希望者だけ)を連れて大晦日の夜から山に登った。

 当時は夜中に友だちと出かけられる楽しさしか感じていなかったけど、今考えたら「担任たったひとりで小学生数十人を深夜の山登りに連れていく」ってめちゃくちゃリスキーなことやってたなあ(ご来光目的の登山客が多かったとはいえ)。おお、こわ。



『ズッコケTV本番中』(1990年)

 ひょんなことから放送委員になったモーちゃん。慣れないカメラ操作に悪戦苦闘していると、見かねたハカセやハチベエが練習につきあうことに。折しも町内で放火事件が相次いでいるので、放送委員の後輩である池本浩美もくわえて放火犯を追うドキュメンタリー映画をつくることになった。
 ところがハチベエの不用意な発言のせいで池本浩美が放送委員内で孤立。めずらしくモーちゃんがハチベエに対して怒りをぶつけ……。


 後半こそ放火犯をつきとめることになるが、中盤までは学校の委員活動などの描写が多く地味な作品。

 ……というのが小学生時代のこの作品に対する評価だったのだが。

 今読むとおもしろい。たしかに町内だけで完結するので派手さはないが、モーちゃんやハチベエの胸中の動きが丁寧に描かれていて引きこまれる。

 温厚なモーちゃんがハチベエに対して怒る展開がいい。
 自分のことではまず怒らないモーちゃんが、自分を慕ってくれる後輩の女の子が放送委員内で吊しあげを食らい、原因をつくったハチベエに対して堪忍袋の緒が切れる。これが熱い。

 モーちゃん VS ハチベエの喧嘩にいたるための流れも丁寧だ。モーちゃんが当初は苦手意識を感じていた放送委員の仕事にやりがいを感じるところ、いつもなら「モーちゃんがハチベエを誘おうとしてハカセが渋る」なのに今回はその逆「ハカセがハチベエを誘おうとしてモーちゃんが渋る」になっていること、ハチベエやハカセたち VS 放送委員 という対決構図になって両方に属するモーちゃんが板挟みになることなど、周到に喧嘩の伏線が組まれていく。

 また今作のキーパーソンである池本浩美の存在も重要だ。モーちゃんにはあまり主体性がないが、後輩から頼られることで責任感を持ちはじめるあたり説得力がある。恋をしても終始もじもじしていた『ズッコケ㊙大作戦』のときから比べると飛躍的な成長だ。

 モーちゃんの怒りもいいが、ハチベエの心中描写もリアリティがあって好きだ。
 うっすら見下していた相手から怒りをぶつけられ、とっさに逆ギレしてしまう。さらには相手の痛いところをつく攻撃的な言葉までぶつけてしまう。自分の落ち度にも気づいているので後悔するが素直に謝れず、そのくせ妙に下手に出てしまう。このへんの心の動きは実に現実的だ。ぼくも何度こんな失敗をしたことか。おもわぬ人から急に怒られるととっさに攻撃的になっちゃうんだよね。自分が悪くても。

 また、はっきりとした仲直りが描かれないのも好感が持てる。そうそう、友だちと喧嘩をした後って仲直りなんかしないんだよ。なんとなくうやむやになって、いつのまにか元の関係に戻っている。友だちってそんなもんだよね。謝罪しないと仲直りできない関係なんて友だちじゃないぜ。

 いやあ、よかった。かつては平均点ぐらいの作品だとおもっていたけど、今読むと『花のズッコケ児童会長』の次ぐらいに繊細な心の動きが描かれたいい作品だ。

「放火魔を捕まえる」が後半の見どころではあるが、正直いってこのくだりはなくてもいいぐらい。日常の枠内でも十分おもしろい作品になったとおもう。


 放送委員の連中がかなり痛々しいのもおもしろかった。

 委員以外の子を「素人さん」と呼び、自分たちを「プロ」と呼ぶ。バイトを始めていっぱしの社会人になった気分でイキがる大学生みたいだ。十代って妙に優劣をつけたがるもんね。どうでもいいことを鼻にかけて。

 大人になってみると、放送委員の仕事に慣れてることのなにがえらいんだって感じだけど、子どもにとってはこういうのがすごく誇らしいんだよなあ。


 あと、映像作品というものに対する意識の違いが今とずいぶん違うのも興味深かった。

 テレビカメラで撮影されると町の人たちが喜んでインタビューに答えてくれたり、自分たちが映っている映像を子どもだけじゃなく大人も熱心に眺めたり。

 今となっては忘れがちだけど、この頃って「自分が映像に記録される」ってめちゃくちゃ貴重な体験だったんだよなあ。ほとんどの人にとっては一生のうちに数えるほどしかない出来事だった。ぼくは大学生のときにビデオカメラを買ったけど、17万円した。で、それを向けられた友人たちは例外なくテンションが上がった。それぐらいビデオカメラというのはめずらしい存在だった。

 子どもでもスマホを持っていてあたりまえのように動画撮影をして、撮影どころか全世界に向けてかんたんに配信できる今じゃ考えられないことだけど。


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2022年5月17日火曜日

王女様マインド

 こんな話を聞いた。

「幼い子は、周囲の大人が自分の世話を焼いてくれるので、すべての人は自分のために動く存在だとおもっている。だが成長するにつれて世界が自分を中心に回っているわけではないことを学ぶ。その理想と現実の衝突により引き起こされるのがいわゆる〝イヤイヤ期〟だ」

 なるほど。ほんとかどうか知らないが、なかなか説得力のある話だ。


 そりゃあ親が24時間つきっきりで世話してくれて、おなかがすいたと泣けばおっぱいを与えられ、だっこを要求すれば眠るまでだっこしてくれ、うんこを出せばおしりを拭いてくれるんだもの。自分を王族かなにかと勘違いしてしまうのも無理はない。自分を天上天下唯我独尊だと勘違いしているのはお釈迦様だけでなく、すべての赤ちゃんがそうなのだ(ちなみにお釈迦さまはマジ王族だったけど)。

 だからだろう、うちの三歳児もご多分に漏れず自己肯定感が高い。両親からも祖父母からもおじやおばからも保育園の先生からもかわいがられるのだから、森羅万象から愛されて当然だとおもっている。


 そんな彼女にも天敵がいる。五歳上の姉だ。

 驚くべきことに、姉は自分の言うことを聞いてくれない。いや、赤ちゃんのときはかわいがってくれてすべてを許してくれたのに、最近の姉はどんどん生意気になってきて私に歯向かうようになった。私の指示に従わないばかりか、あろうことかこの私に口ごたえをしたり、さらには手を上げてきたりもする。なんたる不敬。

 こんな不届き者はいつか懲らしめてやらねばならぬが、甚だ憎らしいことにこいつは力が強い。武力で対峙するのは得策ではない。


……とまあこんなふうに考えるのだろう、次女は姉に悪口を言われると、

「もう、ねえねとあそんであげへん!」

と高らかに宣言する。

 あっぱれ。王女様の気品。もうあなたには笑いかけてあげないわ。せいぜい後悔しなさい。


 彼女にとっては「あそんであげへん」が最大の罰なのだ。なんと高貴なお方だろう。




 とまあ三歳児のほほえましいエピソードを紹介したわけだが、そんな高貴な精神の持ち主は三歳児にかぎらない。いい歳した大人でもこういう高慢さ 品格を持った人は少なからずいる。

 たとえばTwitterで有名人が波風の立つ発言をする。すると、こんなコメントがつく。

「そんな人とは思いませんでした。あなたの出ている番組はもう見ません」

「失望しました。あなたの書いた本はもう読みません」


 このマインド、まさしく三歳児の「もうあそんであげへん!」のそれだ。

 このわたくしに嫌われたのよ、このわたくしから見向きもされなくなったのよ、さぞつらいでしょうね。泣いて悔しがってももう遅いわよ!


2022年5月16日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・イブ』 / 月夜はおよしよ素直になりすぎる

マスカレード・イブ

東野 圭吾

内容(e-honより)
ホテル・コルテシア大阪で働く山岸尚美は、ある客たちの仮面に気づく。一方、東京で発生した殺人事件の捜査に当たる新田浩介は、一人の男に目をつけた。事件の夜、男は大阪にいたと主張するが、なぜかホテル名を言わない。殺人の疑いをかけられてでも守りたい秘密とは何なのか。お客さまの仮面を守り抜くのが彼女の仕事なら、犯人の仮面を暴くのが彼の職務。二人が出会う前の、それぞれの物語。「マスカレード」シリーズ第2弾。


『マスカレード・ホテル』の前日譚的短篇集。『マスカレード・ホテル』で出会う前の、ホテルマン・山岸と刑事・新田の若き日の物語。


 うん、悪くはない。悪くはないが、『マスカレード・ホテル』の完成度が高すぎたのでやや期待外れ。いやおもしろいんだけどね。短篇だけど、事件発生→推理→解決という単純な構図ではなく、二転三転するし。

 どれも一定以上のクオリティを保った佳作ミステリといっていいとおもう。

 ただ、『マスカレード・ホテル』で「刑事がホテルに潜入するという設定のおもしろさ」や「あまりにさりげない周到な伏線」といった一級品の技術を見せられた後だけに、どうも物足りなさを感じてしまう。

 高級ディナーコースの最後にハーゲンダッツを出されたような気持というか。そりゃもちろんハーゲンダッツはおいしいんだけど今ここで求めているのはそれじゃないんだよ。




 ということで、『マスカレード・ホテル』ファン向けスピンオフという感じだったが、ラストに収録されている書下ろし作品『マスカレード・イブ』はおもしろかった。

 トリックも本格的で、謎解きも丁寧。新田とコンビを組む穂積という女性警察官もいいキャラクターだし、話の流れもちゃんと『マスカレード・ホテル』につながる内容になっている。『マスカレード・ホテル』の前日譚として完璧な作品だった。

 ここで新田が女性警察官である穂積のことを下に見ているところも、『マスカレード・ホテル』の心境の変化へのお膳立てになっているしね。ニクいぜ。




 ところで、『ルーキー登場』にも『マスカレード・イブ』にも悪女が出てくる。男をたぶらかせて悪の道にひきずりこむ魔性の女。

 東野圭吾氏は悪女が好きだよね。『夜明けの街で』『聖女の救済』など、怖い女が出てくる作品は挙げればきりがない。

 個人的によほど苦い記憶でもあるのかね。


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2022年5月13日金曜日

「天才ヘルメット」と「技術手袋」に支配される日

 ドラえもんの映画『のび太の宇宙小戦争』に「天才ヘルメット」と「技術手袋」という道具が出てくる。
 ヘルメットがラジコンの改造内容を考えてくれて、手袋が勝手に手を動かしてくれる、というものだ。


 この道具の説明を聞いたとき、ぼくは「人間いらんやん」とおもった。

 思考も動作も道具がやってくれるのなら人間が装着する必要などない。


……だがじっくり考えるうちに、ふと人間が装着する理由に思い至った。

 そうか、あの道具は人間を動力源としているのだ。だから人間が装着しないといけないのだ。人間のエネルギーを借用することで「天才ヘルメット」は考え、「技術手袋」は動くことができるのだ。

 つまり、あのヘルメットと手袋をつけている間、人間はエネルギーを供給するだけの「電池」に過ぎないのだ。


『のび太の宇宙小戦争』には、スネ夫が「天才ヘルメット」と「技術手袋」をつけて夜遅くまでがんばって戦闘機を改造するシーンが出てくる。

 映画を観ているときは「思考も実行も道具がやってくれるのに、何をがんばってる感じ出しとんねん」とおもっていたが、その考えは浅はかだった。じっさいスネ夫はがんばっていたのだ。なにしろ道具にエネルギーを吸い取られるのだ。きっとひどく疲れるだろう。


 コンピュータが日常のものになり、AIの精度もどんどん上がっている。「このままだとAIに仕事をとられて、人間の仕事はなくなるぞ!」なんて言う人もいる。

 その予想は見事に当たっている。22世紀では、人間は頭脳労働も肉体労働もとられ、人間は電池としての仕事しかさせてもらえないのだ。

「天才ヘルメット」と「技術手袋」は、人間が電池になる未来を示唆している道具なのだ。




……という話を友人にしたところ、「映画『マトリックス』がそんな話だよ」と言われた。

 ぼくは観たことがなかったので「グラサン男がエビ反りをするだけの映画」の認識だったのだが、「仮想現実の中で生きながらコンピュータの動力源として培養されるだけの存在である人間を解放するために、キアヌ・リーヴスが戦う物語」なんだそうだ。

 がんばれキアヌ・リーヴス! コンピュータに支配されたスネ夫少年を助け出すために!


2022年5月12日木曜日

死に向かう生き物


 公園で三歳の次女と遊んでいたら、次女の保育園の友だち・Tくんに会った。

 次女が補助輪つきの自転車に乗っていたので、「後ろ乗る?」と誘ってTくんを荷台に乗せてやる。転ぶといけないので、ぼくが自転車を持ったままついていく。
 なにしろぼくは三十数年前、姉の運転する自転車に二人乗りして転んで左腕の骨を折ったことがあるのだ。自転車二人乗りのおそろしさはよく知っている。

 Tくんを後ろに乗せて次女が運転したり(といってもぼくがずっと支えているのだけれど)、交代してTくんが前に座って次女を後ろに乗せたり。
 二十分ほど遊んだろうか。次女は「かくれんぼしよう」と言って自転車から降りた。ところがTくんはまだまだ自転車に乗りたかったらしい。勝手に次女の自転車にまたがる。


 やめてほしい。
 べつに自転車を貸すことはいいのだが、こけてケガでもされたら困る。なにしろTくんはペダルも満足にこげないし、ハンドル操作もあぶなっかしい。バランスをくずしたときに立て直す力もない(ぼくが支えてやらねば転んでいた、ということが何度かあった)。

「あっちであそぼっか」「かくれんぼしよ」と誘っても、Tくんはかたくなに自転車に乗ろうとする。すべり台に連れていっても、ちょっと目を離すとすぐに自転車に手をかけてまたがろうとしている。おまけに「あっちにいく!」と、下り坂を指さす。

 おいおいおい。ハンドル操作もできず、もちろんブレーキもかけられない三歳児が自転車で下り坂につっこんだらどうなるか。火を見るより明らかだ。なのに彼は果敢にチャレンジしようとする。どこからくるんだ、その自信は。




 男女平等だなんだといっても、生まれもった性差というのは確実にある。「死に向かう子」は圧倒的に男の子のほうが多い。

 高いところには登ってみる、登った後は飛び降りてみる、よくわからないものは触ってみる、よくわからない場所には入ってみる。もちろん個体差もあるが、総じて男子の生態だ。

 ぼくもそうだった。大きなけがはあまりしなかったが、崖やため池や川や立ち入り禁止の屋上など、一歩間違えれば命を落としかねない場所でよく遊んでいたから、今生きているのは単に運が良かったからだ。


 その点、うちの娘はふたりとも慎重すぎるぐらい慎重だ。目を離しても親から離れない。ずっとついてくる。二十センチぐらいの段差でも飛び降りない。「て!」と言って手をつなぐことを要求する。こっちが「ジャンプしてみ」と言っても首を横に振る。危険なことには一切手を出さない。

 そんな慎重女子に慣れているので、たまに男の子と遊ぶとその大胆さがおそろしくなる。ちょっと目を離すと高いところに上ってたりするんだもの。

 こないだも、坂道の上にスケボーを置いてその上に腹ばいになっている男子小学生を見つけて、ぜんぜん知らない子だったけどおもわず「やめときや」と注意した。スケボーに乗って頭から坂道を降りていったら99%ケガする。残りの1%は死だ。
 でも男子はわからないんだよなあ。ぼくも似たようなことやってたからよくわかる。


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