2026年3月5日木曜日

【読書感想文】香川 知晶『命は誰のものか』 / 臓器税を作ったらいいのに

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命は誰のものか

増補改訂版

香川 知晶

内容(e-honより)
現在、人間の生命をめぐって、どのような問題が生まれ、どのような議論があり、なにが問われているのか。問題は、さまざまな価値の大本にあるわたしたちの命にかかわっている。そこには、現在の社会が直面している課題が典型的に示されている。

 医療リソースが逼迫しているときのトリアージ(救う順番を決めること)、出生前診断、体外受精、尊厳死、臓器移植などの医療倫理についての歴史や議論を紹介する本。

 教科書のように浅く広く中立的に紹介しているので、あれこれ書いて結局何が言いたいねん、みたいな着地をしていることが多い。

 またあれこれ議論をめぐらさた挙句、現実離れした結論に至っていることもある。たとえばトリアージの項で、締めくくりが「そもそも医療リソースが逼迫しないようにすることが重要だ」的なことが書いてある。それって「お金がないから食費を削るか外出を控えるか娯楽費を削るか」って話をしてるときに「年収を倍にすれば解決するよ」って言ってるようなものじゃないか!



 関心を持ったのは、第三章『あなたは、生まれてきた子に重い障がいがあったとしたら、治療に同意しますか? そのまま死なせますか?───障がい新生児の治療停止』。

 ぼくも子どもが生まれるときはこのへんのことを心配したから、親の苦悩もわかる。

 ダウン症という異常は時代や地域にかかわらず一定の割合で起こる。当然、ジョンズ・ホプキンス・ケースと同じ問題は、日本でも起こることになる。そうした日本での事例を、ジャーナリストの斎藤茂男さんが一九八五年に『生命かがやく日のために』(共同通信社)にまとめて、報告している。
 話は、ある総合病院の看護師が、匿名で通信社にあてて書いた投書から始められている。投書は、その人が勤務している新生児室で誕生した赤ちゃんが、親の手術拒否で点滴だけで命を保っていることを告げていた。早産で生まれた新生児は、ダウン症で腸閉塞の合併症をもっていた。何とかして手術を受けさせ、命を救う手だてはないのだろうかと投書は訴えていた。

(中略)

 まず届いた反響の多くは、新生児の救命を願う立場からのものだった。そうした投書には、ダウン症児をもつ親たちが障がいをもつ子も人間として生きていることを心から実感しながら子育てをしている喜びが素直につづられていた。いずれも赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるようにと祈っていた。手術を求める署名簿が添えられた投書もあった。
 そうしたところに、通信社には、第三者がよけいな口をはさむな、他人に何がわかるのか、重度のダウン症の者を家族にもって何度死のうと思ったことかという手紙が舞い込む。この投書が届いたあたりから、反響の内容は大きく変化していく。
 決定的だったのは、「私はその赤ちゃんはひっそり抹殺したほうがいいとおもう」という「病気のためにチエ遅れ」になったという障がい者自身からの投書だった。こうして、投書には、最初のころとはまったく逆に、障がい者とその家族をとりまく残酷な現実を語り、親の手術拒否に賛成するものが増えることになる。いずれも、読むものの胸を突く、重い内容をもつものだ。

 ダウン症の赤ちゃんが生まれた。腸閉塞の症状を持っていた。治療すれば助かる可能性が高い。だが親は治療拒否(そのまま死なせる)道を選んだ。

 むずかしい問題だ。積極的に手を下す(殺す)のはもちろん犯罪だが、「手術をさせない」は犯罪ではない。法ではなく倫理の問題だ。

 正直、どっちの気持ちもわかる。自分が親の立場だったら悩むとおもう。そりゃあ道徳的には「赤ちゃんの命が一刻も早く助けられるように」がタダシイ意見だろう。でもそれは無関係な人の無責任な意見だ。「新生児の救命を願う」手紙を書いた人たちは、その子のために何もしてくれない。子育てを代わってくれるわけじゃない。「すべての命は等しく尊い」と言うのはタダだ。

「手術を拒否する」という決断をした親を、無責任な親だということはできない。深く悩んだ末に決断を下し、「子どもを見殺しにした」という十字架を背負って生きていく覚悟をしたのだ。そんな人を高い所から非難することはできない。

 障害を持った子を育てるのはそうでない子を育てるのより負担が大きいことはまぎれもない事実で、その現実に目をつぶって「すべての命は等しく尊い」ときれいごとを言うのはあまりにも無責任だ。


「障害を持って生まれたけど生まれてきて良かった」と思う人もいるし、「こんな苦しい人生なら生まれてこなきゃ良かった」と思う人もいるだろう。

「この子を育てる代わりにもう新たに子どもを産むのをあきらめる」も「この子は見殺しにするがまた子どもをつくる」も、一人の命を救って一人の命をなかったことにするという点では同じじゃないかとおもうんだけどね。


 ところで、うちの子が生まれる前に病院から「出生前診断をすることができます。それによりダウン症などの疾患を抱えているかどうかが(100%の精度ではないが)わかります。どうしますか?」と訊かれた。

 でもさ、それを訊かれたときってもう中絶できる期間を過ぎていたんだよね。つまり「ダウン症の可能性が高い」とわかったところでどうすることもできないわけ。

 夫婦で話し合って「どっちみち中絶できるわけじゃないし精度も100%じゃないし、診断を受けたって心配の種を増やすだけだよね」ということで診断は受けなかった。

 あの制度、何のためにあるんだろう。




 ちょいちょい著者の主張らしきものも顔を出すんだけど、どうもそれがぼくの思想と相いれないんだよね……。

 たとえば死後に臓器移植のために身体を提供することについて。

 医療技術の進歩は人体をきわめて有用な資源として開発してきた。臓器移植はその典型である。人間がそうした資源として生まれてくることを認めなければ、本性的な自己決定は成り立たない。
 人間は死んでも資源として役立つとすれば、望ましいという考え方は十分ありうるだろう。しかし、自分がひとつの資源であると正面切って認めよと迫られると、奇妙な感じがするはずだ。

 いや、まったく奇妙な感じがしないんだけど……。死んだ後の肉体なんて資源かごみのどっちかでしかないだろ。どう考えたってごみになるよりは資源のほうがよくない?

 ぼくは死後に身体がどうなろうとぜんぜんかまわない。臓器移植に使ってもらえるならありがたいし実験のために切り刻まれたってかまわない(さすがに娯楽目的でもてあそばれるのはイヤだけど、声を大にして反対するほどでもない。だって死んでて関知できないんだもん)。

 死んだら強制的に死体は国家が没収して有効利用する、でぜんぜんかまわないけどな。 ぼくが信仰心ゼロだからかな。

 だってさ、既に「死んだら財産の一部または全部は国家のものになる」っていうルールがまかりとおってるわけじゃない。相続税という名のルールが。相続税は認めて臓器提供は許さないのは理解できない(ぼくからすると死体よりも死者が残した財産のほうがずっと価値がある)。

「死後にオレの身体を勝手に使うな! どうするかはすべて俺が決める!」って「オレの金はすべてオレのもの! 税金なんて一銭も払わんぞ!」ってのと一緒じゃない? 税を認めないラディカルなアナーキストなの? 徴税や徴兵は認めて、国家による死後の身体理由を認めないのがよくわからん。

 『臓器税』を作って現物徴収したらいいのに。死後にどうしても臓器を納めたくない人は代わりに金銭で納める、ぐらいの自由は認めてもいいとおもうけど。




 臓器移植に限らず、なんかウェットすぎるようにおもうんだよな。生まれる前の胎児とか死んだ後の身体に重きを置きすぎというか。

「障害を理由に中絶することに反対」ってのはいいとして、だったら現在母体保護法第十四条で「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」を理由に中絶が認められていることにも反対しないと筋が通らなくない?

 なんで障害を理由とする中絶はダメで経済的理由ならいいの? まったく理解できない(一部の宗教信者のように中絶はすべて認めない、のほうがまだ理解できる)。

 なんか合理的な理由なんかなくて、「今の慣行にあってないから賛成しない」みたいな論調が多いんだよな。それはそれで偽らざる心情だろうから個人的見解ならぜんぜんかまわないんだけど、倫理学としてそのスタンスはどうなのよ。


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