2022年3月21日月曜日

インデックス型記憶と映像型記憶

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 多くの読書好きと同様、ぼくも小説を書いてみたことがある。

 そして多くの人と同様、すぐに挫折した。


 書けない理由はいろいろあるけど、特にだめなのが風景描写だった。

 考えてみれば、自分が小説を読むときも風景や事物の描写はほとんど読み飛ばしている。車がどんな色でどんなデザイン、登場人物が何を身につけているか、まるで興味がないのだ。

 そりゃあ「貧乏人なのに高級車に乗っている」とか「現代人なのにちょんまげをしている」なら目を止める。それらはきっとストーリー展開に影響を及ぼす情報だからだ。
 ただ、金持ちが高級そうなスーツを着ているとか、成功者が瀟洒な邸宅に住んでいるとか、探偵がよれよれのトレンチコートに身を包んでいるとかはどうでもいい。


 もちろん、そういった描写が小説を奥行きのあるものにしていることはわかる。「金持ちの男」と書くよりも、乗っている車や身に着けているものを描写することで裕福さを伝えるほうが、ずっとリアリティのあるものになることも理解できる。

 ただ、ぼくが個人的に興味があるのが〝情報〟なのだ。

 5W(いつ、どこで、誰が、誰に、何を)には興味があるが、1H(どんなふうに)にはあまり関心がないのだ。

 関心がない。だから書けない。


 小説にかぎった話ではない。

 誰かの話を五分聞いた後に
「どんな話をしていたか、かいつまんで説明してください」
と言われたら、難なくできる。

 でも、
「今の人がどんな服を着ていたか説明してください」とか
「さっきの人はどんな声でしたか」
と訊かれたら、まるで答えられないだろう。それらはぼくにとってまったく興味のない情報だからだ。


 ところが、世の中には逆の人もいる。たとえばぼくの妻がそうだ。

 いっしょに映画を観たりすると、ディティールを驚くほどよくおぼえている。誰がどんな服を着ていたとか、どんな音が聞こえていたかとか、ディティールをよくおぼえている。台詞を一字一句正確に再現できたりもする。

 しかし彼女は要約が苦手だ。
 彼女が観た映画のストーリーを説明してくれることがあるが、すごくわかりづらい。本筋と関係のない些細な情報が多いのだ。「黄色い服を着た人が……」なんて言うので「この情報が後で何かにつながるのだな」とおもって聞いていたら、ぜんぜん関係なかったりする。


 おもうに、情報の整理のしかたが異なるのだろう。

 ぼくは、情報を加工しながら記憶する。得た情報のうち、自分にとって重要だとおもったものだけをインデックス(目録)化して脳に入れる。だから関心のないことはまったく記憶にない。その代わり、はじめから情報を整理しているので要約はすんなりできる。

 妻はというと、見たり聞いたりした情報をそのまま脳に格納しているのだろう。録画型だ。だから細部までおぼえている。その代わり索引をつくっていないので「かいつまんで説明する」が苦手だ。

 世の中の人の記憶のしかたは、だいたいこの「インデックス型」と「録画型」に分かれるんじゃないだろうか。ま、中には「そのまんま記憶するけど整理もできる人」や「どっちもできない人(断片的にぐちゃぐちゃにしか記憶できない人)」もいるんだろうけど。


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